第3章(完)
■第三章 再び、二〇〇五年六月
「前田さん、おはようございます、前田さん」
遠くから聞き覚えのある声が、前田を呼んでいた。
「まだ寝てるんじゃないですか」
「いや、もう大丈夫なはずだ」
前田は、深い海からゆっくり浮上するような朦朧とした気分のなかで、その会話を聞いていた。体がだるい。疲れきっているというか、自分の意思では自由に動かせないような気がする。
ピシャピシャッ。
薄くて柔らかい板のようなものが、前田の頬をたたいた。少し濡れていて、潮の香りがする。この香りは以前、嗅いだ記憶がある。
「お疲れさまでした、前田さん。帰ってきたんですよ。二〇〇五年です」
前田の視界がうっすらと晴れてきた。目の前に黒と白の大きなものがある。ペンギンが長いクチバシを突き出して、前田の顔を覗き込んでいた。
「ううっ」
前田はうめき声を漏らした。その瞬間、まず耳に入る自分の声がこの一週間とは違うことに気がついた。懐かしくて、嬉しくて、前田の意識は急速に回復してきた。
「あぁっ、目を開けましたね。前田さん、僕ですよ、塚本です。分かりますか」
「おぉっ」
一週間前、ビルのリビングで会ったままのスーツを着た塚本が前田の目に映った。そうか、元の時代のあのビルに、帰ってきたんだな。
「大丈夫なようですね。あっと塚本君、ジュースジュース」
ペンギンが言うと塚本が、これまた見覚えのあるストローのささったオレンジジュースを差し出した。前田はゆっくりと上半身を起こしながら受け取って、口を付ける。冷たい感覚がのどを通り抜けると、ようやく元の体に戻ったことを実感でき始めた。
前田が落ち着くのを待って、ペンギンが聞いた。
「どうでした?一週間の井村体験は」
そうだ、一週間、井村だったんだ、と前田は頭の中を整理した。右手の甲を見ると、「ズボンに手紙」の文字は影も形も無かった。青い血管が浮かびゴツゴツとした井村の手ではなく、白くて貧弱だが三十二年間慣れ親しんだ前田自身の手だった。
「井村、井村さんですよね。エェ」
前田は口に出して確認した。どうでした、と言われてもすぐに答が出ないが、思いつくままに前田は続けた。
「いや、いい勉強になりました。色々と、分からないことも多かったですけど」
前田の言葉を最後まで聞かずにペンギンはクルリとユーターンし、リビングの隅へヒョコヒョコと歩いていった。自分で質問しながら最後まで聞かないとは、相変わらず失礼な奴だな、と前田は苦笑した。ペンギンらしいといえばペンギンらしいが。
そんな前田の視線を背中に浴びながらペンギンは、隅っこに置かれたタンスまでたどり着くと、クチバシを使って器用に上から二番目の引き出しを開け、中から小さな茶色の紙をくわえた。そのまま、クルリと向き直り、またヒョコヒョコと左右に揺れながら戻ってくる。前田には茶色の紙が、郵便の封筒のように見えた。
前田の目の前まで来るとペンギンはクチバシを開き、その茶色の紙をポトンと落とした。やはり封筒で、表には名前が書かれていた。
「あっ」
前田は小さく叫んだ。「井村英彦様」と書かれていたのだ。しかもそれは間違いなく、前田の字だった。何がどうなっているのか見当もつかないが、紛れもなく、ついさっきまで、前田がポケットに入れていた手紙だった。
「こ、これは・・」
言葉が続かなかい。封筒は少し色が薄くなり、字も色あせていたが、それ以外はさっきのままだった。ポケットに入れるため、二つに折った跡もわずかだが残っている。前田は恐る恐る手を伸ばし、手に取った。さっきと比べ、紙の質感が薄くペラペラになったような気がする。加えて封筒のあちこちに、こげ茶色の染みが出来ていることが、時間の経過を感じさせた。ということは、この手紙は前田と一緒に戻ってきたのではなく、独自に二十年の時間を経てここにあるということなのか。
ペンギンは何も言わずにじっと前田の様子を見下ろしている。前田は手紙を手にしたまま、少しよろけながら立ち上がりペンギンの前に差し出した。立ってもまだ、ペンギンのほうが十センチほど背が高い。
「これは、ついさっき、僕が書いた手紙だ」
「知っています」
ペンギンは相変わらず落ち着いている。
「な、なぜ、ここに」
ペンギンは、前田の目をまっすぐ見て答えた。
「それは、私が井村だからでしょうね」
「は?」
声にならない空気が口から漏れた。ペンギンは確認するように繰り返した。
「私は井村英彦です。見た目はペンギンですが、中身は井村なんです。その手紙は私が偶然、この部屋で見つけた、あるいは再会したものなんですが、なぜ再会できたかというと、それはたぶん私が井村だからでしょうね」
再会云々の意味はもちろん分からなかったが、まず面食らったのはペンギンが井村だという告白だった。ということは前田が井村に乗り移ってたように、今、目の前では井村がペンギンに乗り移っているのだろうか。前田は一つずつ聞くことにした。
「まず、ですね、それは、乗り移っている、ということですか」
ペンギンは微妙にうなずいた。
「まぁ、そう表現することもできます」
「井村さんが、ペンギンに」
「簡単に言うと、そうかな」
「それなら、本体の、井村さんは、今、どこに、いや、井村は、自殺しているんじゃないですか?」
一言一言、空気中の酸素を吸入しないと言葉を継ぐことができない。前田の質問に、ペンギンはうつむいた。元気で生意気なはずのペンギンが急にしょんぼりしてしまったことは、前田をひどく不安にさせた。
「若干、長くなりますので、まぁ突っ立ったままなのもなんですし、座ってください」
ペンギンはそう言って、両腕でリビングの隅にあるちゃぶ台を指した。起きたばかりで足にうまく力が入らない前田は、促されるまま腰を下ろした。
ペンギンはしばらく落ち着かない様子を見せた。天井を見上げかと思うと、せわしなく両腕をばたつかせ、一方でキョロキョロと左右を見回したりした。
前田は、ちゃぶ台に置いた手紙に時々目をやりながら、黙ってペンギンが話し始めるのを待った。
やがてペンギンは前田の顔を正面から見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「すいません、どこから話せばいいものか、迷いまして。でも、やはり最初から話すのが一番いいようです。忘れもしない一九八五年六月のあの日、私は一週間、意識を失って、気づいたら勤め先近くの公園でした。夢遊病者になったようで気分が悪く、しかも手には知らない字で『ズボンに手紙』と書かれていました。読みましたよ、手紙を。あの時の気持ちといったら、本当に何と言えばいいのか、まさに狐につままれた気分でした。だって知らない誰かが自分に乗り移ってたなんて、そんな、SF映画じゃあるまいし」
ペンギンはいったん、言葉を切った。前田は無言で話の先を待った。塚本も床に座って黙りこくっている。
ペンギンは首を左右に振りながら、話を先に進めた。
「でも、今はもちろんその経緯も事情もよく分かっているんですけどね。それで結論から言うと、前田さんには大変言いにくいんですけど、私は自殺するんです。手紙をもらってから八年三ヶ月後、九三年の九月です。そして気づいたら二〇〇五年で、この部屋でペンギンになっていた、というわけです。ペンギンになった私は、この家を出ることができません。だから暇つぶしにタンスや戸棚をあけてまわっていたら、さっきの場所からその手紙が出てきたんですよ。私も驚きました。なんでこんなところにあるんだ、ってね。だから、誰がなんのために置いたのかまでは、私にもさっぱり分からないんです。手紙が勝手に歩いてきたのかもしれません」
ペンギンはそこで再び言葉を切った。前田は、話の全容をつかむことが出来ず、ただ戸惑うばかりだった。目の前の出来事があまりに予想外で巨大だと、たぶん誰もがこんな感覚に陥るだろう。例えば二〇〇一年九月一一日に、アメリカのニューヨークに居て、世界貿易センタービルに旅客機が突っ込む同時多発テロを偶然目撃したら、少なからず同じ感覚を味わったに違いない。何がなんだか分からない、目の前で起きていることが現実なのか夢なのか。何なんだ、これは、そんな感覚。
ペンギンの話は、悲惨さも巻き込まれる人の数も、同時多発テロに比べればケタ違いに小さかったが、しかし前田自身が受ける衝撃と戸惑いはひけをとらなかった。
途方にくれる前田のそばで、真空状態のようなリビングの空気を破ったのは塚本だった。
「井村さん、なんで自殺を?」
そうだ、まずそれが聞きたい。前田は塚本の質問にうなずいた。手紙を読んだにも関わらず、なぜ自殺をしたのか。困難を乗り越えれば必ずそれまで以上に安定した日々を送れる、と前田は書き残したはずだった。それなのに、なぜ。
ペンギンは、またせわしなく腕をばたつかせたかと思うと、フーッとわざとらしくため息をついた。
そして、沈黙する前田と塚本に促されるように、重い口調で話し始めた。
「今となっては、自分でもなぜ踏み切ってしまったのか、よく分からないところもあります。でも、そのときは真剣だったんです。もちろん手紙のことも思い出しましたよ。でもダメですね、人間って、一度決めちゃうと妙に意地になっちゃうところがありまして」
前田はペンギンの言葉に井村の姿を重ね合わせ、思った。そうか、井村はこういう話し方をするのか。なんだよ、一週間、井村役を演じた自分と全然違うじゃないか、と少し恥ずかしくなった。
ペンギンの告白は続く。
「世間一般には過労自殺ということで通ってるみたいですけど、ちょっと事実とは異なるんです。実際、仕事は忙しくて、残業も遅くまでやってたんですけど、まぁそれは以前から変わらないことですし。ただ、自殺する一ヶ月ほど前に私、ちょっと考えられないようなミスをして、会社に大損失を与えてしまったんです。それを取り返そうと、必死になってた部分はあります」
前田は納得できず、割って入った。
「自殺するほど、ですか」
ペンギンはまたうつむいて、少し言いよどんでから、打ち明けた。
「自殺するほど、じゃないですね。自殺の原因の理由、というか理由の一つ、というのは本当に人として最低のことですし、自分からこのことをほかの誰かに言うのは初めてなので、できれば言いたくないんですけれど、まぁあの手紙をいただいた前田さんだということもありますし、自分がペンギンになってしまったというのもありますし」
自殺以外に一体何があるのか、もったいつけるペンギンに前田はイライラしたが、なるべく表に出さないようにした。
ペンギンは一呼吸、置いてから続けた。
「当時、私は社内で不倫をしていたんです。私自身、全く予期せぬことだったんですけど、二〇代のその女性行員になぜかとても気に入られてしまいまして。救いようのない関係が一年ほど続いていました。何度も断ち切ろうと思ったんですけど、そのたびに安易なほうへ流れてしまって、誰にもバレてないだろうし、まぁいいか、とダラダラした関係が続いていました。会社でミスをして、取り戻そうと一ヶ月間、死にもの狂いで頑張っているとき、毎日、深夜に仕事が終わるとクタクタになるんです。でもどういうわけか、疲れきっているときに限って、足が自宅ではなくて彼女のもとに向かってしまうんです。そんな自分に対する嫌悪感が、どうしようもなく積もり積もってしまって」
前田はたまらず口を挟んだ。
「ふ、ふ、不倫?涼子さんは。涼子さんは気づいていたんですか」
前田の胸には井村への怒りが渦巻いていた。涼子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「たぶん、気づき始めていた頃だと思います」
なめらかに言葉をつなぐペンギンに、前田は声を荒げた。
「アホ、涼子さんが気づかないはずないだろうが。あんな素敵な人を、不倫だとこの野郎」
前田は思わず立ち上がると、両手でペンギンの両肩を思いっ切り突き飛ばした。ペンギンは二、三歩、後ろによろけたかと思うとツルッと足を滑らして転び、グテンと仰向けになった。
「ふざけんなよテメェ。不倫なんか。テメェ、涼子さんの気持ちを考えたことあんのかよ」
「すいません、本当にすいません」
ペンギンは腕をばたつかせながら起き上がり、今度は自ら前に倒れて腹ばいになり、首を何度も上下に動かした。土下座しているつもりだろうが、前田にはそのまま氷の上を滑って、頭から海にドボンと突っ込もうとしているようにしか見えない。
「前田さん」
気がつくと駆け寄ってきただろう塚本が心配そうな顔をして、前田のすぐ隣にいた。前田はペンギンの横っ腹を思いっきり蹴り上げてやろうかと思ったが、塚本の声で少し冷静になった。
「あぁ、スマン。大丈夫だ」
前田は肩を上下に揺らしながら、塚本に答えた。ペンギンはなおも腹ばいになって、首をうなだれている。
前田は徐々に冷静さを取り戻すなか、初めてペンギンに名前で呼びかけた。
「すいません、井村さん。いいですよ、もう。ただ、涼子さんは本当に楽しくていい人だったから、思わずカッとなっちゃって」
前田は、かがんでペンギンを抱き起こそうとした。
「あぁっ、すいません。自分で起きれます」
そう言うとペンギンは腕でバランスをとりながら、ピョコンと跳ね上がるように立ち上がった。そしてまた、すまなそうに首をうなだれた。
「前田さんが涼子のことを高く評価してくれたのは、うれしい限りです。本当にすいません」
前田は大きく息を吐いてから言った。
「いいですよ、僕に謝らなくても。涼子さんに言ってくださいよ、せめて」
そして、頭のなかを少し整理して補足した。
「でもまぁ要するに、仕事の過労と不倫の自己嫌悪で自殺したって訳ですね」
ペンギンは小さな声で答えた。
「はい」
「情けないですよ、そんなの。ダサすぎる。くだらない。なんで自殺したんだろうって、僕はさっきの時代で、散々考えてたんですよ。一体、何があったんだろう、って。それが、まさか、不倫なんて。井村さん、自分のことしか考えていないじゃないっすか。小学生レベルですよ」
前田は込み上げる気持ちをそのまま口にした。ペンギンが小さな声で言った。
「本当に、今振り返ると何も自殺しなくても、って思います。家族にも会社にも迷惑かけて。でも、あの時は心に余裕が全然なくて。自分を追い込み始めると、どうにもできなくなってしまったんです」
「迷惑をかけて、って。そういうレベルの問題じゃないでしょう。待ち合わせ時間に遅れてゴメン、みたいな言い方しないで下さい」
「はぁ。いや実は本当に最後まで迷ってたんです。私の場合は、首吊りでね。会社の屋上にセッティングしたんです、その、ロープを。ちょっと雨よけの屋根のあるエリアで、三メートルほど上空に一本ガッと横に通ってる柱に、ロープをかけました。でも、その時点ではまだ躊躇してまして、脚立に上ってしばらく輪っかに首を突っ込んだり抜いたりしていたらね、晴れた夜だったんですけど急に突風が吹きまして。一瞬バランスを崩したら脚立が倒れちゃったんです。そのとき、たまたま首を輪っかに突っ込んでたもんだから万事休す」
「アホ過ぎる話、しないでもらえますか」
「はぁ、すいません」
前田はペンギンの言い訳を聞くうちに、投げやりな気分になってきた。いくら責めたところで、もう井村が自殺してしまった現実は同じだし、九三年ということは数えてみると十二年も前の話だ。目の前にいるのがスーツ姿の井村ならまだしも、どこから見ても大きなペンギンだし、見ているとだんだん怒るのが馬鹿らしくなってきた。
「分かりましたよ、井村さん。もうどうにもできないし。また僕がタイムスリップできるのなら別ですけど」
ペンギンは首を振った。
「それは無理です。理由は私にもよく分かりませんが、もう二度とタイムスリップはできないんです」
「じゃ、仕方ないですね」
リビングは静かになり、黙り込む三人を重苦しい雰囲気が包んだ。前田は、これからどうなるのだろう、と考えた。あまりにも疲れた。そろそろ本当の自分の家に帰って眠りたい。
「前田さん」
静けさを破ったのは、またしても塚本だった。
「あぁ」
「西川課長はどうでした?」
「あっ、そっか」
前田は西川のことをすっかり忘れていた。そもそも西川を変えるために、今回のタイムスリップをしたのだった。井村の自殺防止のためではない。
「そうだよ、そうだった。塚本、西川はいい奴だったよ。びっくりした。今の課長と全然違う。お前みたいだったよ」
「えぇっ、西川課長が?やめてくださいよ、そんな」
顔をしかめる塚本に、前田は言った。
「いや、それが本当なんだ」
「それじゃあ、長いこと働いているうちに、人が変わっちゃったんですかねぇ」
「たぶん、そうなんだろうな」
「それは、なんというか、残念ですね。で、前田さんは何やってきたんですか」
前田は一瞬、考え込み、顔を塚本からペンギンの方へ向けなおして答えた。
「何やってきたんだろうな、俺は。一応、西川が自分の良心を捨てかけたときに、慌てて注意してはやったつもりだけれど。それ以外は、これといって何もできなかった。面倒なことは、その後の井村さんに託してきちゃったし」
前田の視線と言葉を受けて、ペンギンが話し始めた。
「定期預金の件ですよね。西川君はあのご遺族に関しては、非常に丁寧に接しましてね、二ヶ月を待たずに、全額獲得できましたよ。私からあれこれ指示はしてないんですけど、その後もこまめに顔を出していたようで、由美ちゃんの一周忌には準備を手伝えるほどの間柄になったんです」
「そうなんですか」
前田は思わず顔をほころばせた。怖い杉田と直談判をした甲斐があったというものだ。
「ですがね」
ペンギンが言いにくそうに言葉を継いだ。
「由美ちゃんのご家族は事故から二年後に引っ越してしまったんです。西川君、それでも手紙のやり取りを続けていたみたいですけど、やっぱり時間とともにその間隔がどんどん開いていって、私が自殺する前はもうすっかり忘れてしまったような感じでした。なんの連絡もとっていなかったと思います」
「忘れてしまった・・・」
前田が恐れていた展開だった。
「えぇ、たぶん。だけど西川君一人を責めるわけにはいきません。私も、そんな彼と同じ会社にいながら、なんら有効な手立てを打つことができなかったわけですから。自分のことで手一杯なうえ、異動で違う部署になってしまったから、などと言い訳をしようと思えばできますけれど、やっぱり今から考えると通じません。悲惨な交通事故だって五年も十年もたてば過去の話になっちゃいますが、私さえきちんとしていたら何とかなったんじゃないか、と前田さんに申し訳なく思います」
ペンギンはまた前田に頭を下げた。前田は右手を左右に振りながらペンギンをかばった。
「いいですよ、そんな。人間、完璧になんてできないもんです。私だって、例えばずっと井村さんに乗り移っていたとして、後々のケアまでちゃんと出来たかどうか。結局は西川が自分で考えて行動する話ですから。西川の問題ですよ」
前田自身も、限られた一週間を西川にとって最高の過ごし方ができたか、と問われると多いに疑問だった。もっとできたことがあったかもしれない、と思い始めるとキリがない。
ペンギンは顔を上げ、前田を見て言った。
「西川君もその後、会社に評価されたりされなかったり、と山あり谷ありでしてね。ずっと低評価なら開き直ってあきらめもつくんですけど、もうちょっと頑張れば出世できるかもしれない。そう考えて頑張る方向が、ちょっとサラリーマン的だったというか、まぁあとは前田さんもよくご存知の通りです」
「うーん」
前田は苦し紛れにうなってから、思い出したように確認した。
「そうだ、タイムスリップする前、井村さんは私の行動しだいで現在も変わると言いましたよね」
ペンギンは黙ってうなずいた。
「ならば、由美ちゃんの一件は今の西川の記憶に残っている訳ですよね」
ペンギンはまたうなずいた。前田は咳き込むように聞いた。
「だとしてですね、じゃあ、私が二〇〇五年の現代で接してきた西川課長には、その記憶は組み込まれていたんですか?」
ペンギンは、今度はゆっくりと首を横に振って説明した。
「組み込まれていません。だから前田さん、あなたは現在を変えましたよ。大きくじゃないかもしれませんが、少なくとも西川君にはこれまで無かった経験と記憶が追加されています。公園でブランコに乗ったり支店長に直談判したり、私ならそんなことできていませんでしたから」
「はぁ」
頭を整理しようとする前田にペンギンが言った。
「ですから、これをもって『組織が人間を変えるメカニズムに関する実地研修』を終了します。成功といえるんじゃないでしょうか。あとは考えさえすれば、答は自然と見つかるはずです」
前田はペンギンの言葉を頭で繰り返した。すると、また一つ、疑問が浮かんだ。
「じゃあ井村さんのなかでは、この経験はどういう風に処理されてるんですか。私が初めてこの部屋に入ったときも、もちろんペンギンの中身は井村さんだった訳ですよね。でも西川をめぐる、例えば公園の記憶とかは無かったんですか」
「フフフッ」
ペンギンは、こらえきれないように笑って言った。
「まぁ前田さん、こんなおかしな空間にいて、そんなに何でもかんでも理詰めの回答を求めないでくださいよ。私にだって分からないことがたくさんあるんです。前田さんに初めて会ったときにその記憶があったか無かったかなんて、もう忘れちゃいましたよ。いや、私のことなんてどうでもいいんです。大切なのは前田さんと西川さん。今、生きている人たちのことですから」
そう言うとペンギンは、リビングに置いてある前田のビジネス鞄を拾った。そういえばこのリビングで初めて塚本に会ったとき、あまりに驚いて手から落としてしまってそのままだった。ペンギンは薄い腕で器用につかんだ鞄を前田に差し出しながら言った。
「お疲れさまでした。現実の時間ではそんなにたっていないので、まだ終電に間に合います。会えて良かった。ありがとうございました」
終わった、ついに終わったのか。前田は鞄を受け取って、塚本に目をやった。塚本は涙の代わりに笑顔を見せて、明るく言った。
「前田さん、僕も会えて良かったです。ありがとうございました。もし会う機会があったら、僕の両親と妹、弟に、ありがとうって伝えてください。何不自由なく育ててくれて、感謝している、一緒に過ごせて良かった、と。千夏にも、本当に楽しかった、って。僕の分まで幸せになってくれ、と。そうだな、夢に出てきた塚本が言ってた、とでも言ってください」
前田はうなずいて、右手を差し出した。塚本はしっかりと握り返した。固い握手をして、二人は抱き合った。
「絶対伝える」
「すいません、ありがとうございます」
「一生、忘れないからな、塚本のこと」
塚本の肩が小さく震えた。前田は言い添えた。
「無駄にもしないから」
塚本は前田の肩に顔をうずめて、コクリと小さくうなずいた。
時間が止まった気がした。
どれくらい抱き合っていただろう。
前田はゆっくりと二回、塚本の肩をたたいてから体を離した。塚本の目には少し涙が残っていたが、表情はなんだか充実したような引き締まった笑顔だった。
やがて、黙って二人を見守っていたペンギンが、玄関へ向かって歩き出した。前田が鞄を持って続き、塚本も後から続いた。玄関に着くと、ペンギンは振り返って言った。
「前田さん、最後に大切なことを言います」
「えっ」
前田は緊張した。ペンギンの言葉には驚かされっぱなしだからだ。まったく、突然、何を言い出すか分からない。
「塚本君に会ったことはもちろん、今回の現象については一切、誰にも言ってはいけません。このビル、ペンギンになった井村、新聞広告、タイムスリップ、妙に生々しい猫の人形、など全部です。ごくごく一部のラッキーな人が亡くなった人に会えるという現象はね、実は人間の歴史とともに何千年も続いている超常現象なんです。ただ、この現象は経験した人が他の誰かにちょっとでも言えばその瞬間に消滅します。そういうルールになっているんです。今回、前田さんが塚本君に会えたのも、これまでの経験者全てが一切、誰にも言ってないからです。いわば経験者の秘密保持によって脈々と受け継がれてきた現象なんです。一体、なぜそんなことになったのかは分かりませんがね」
ペンギンはそこで言葉を区切った。
前田はペンギンの言葉を頭にゆっくりと染み込ませ、しっかりと理解してからうなずいた。たしかにこんな現象があると広まれば、世間の常識は一変するだろう。
ペンギンは前田の目を見て言った。
「だから、前田さんが誰かに言えば、もう前田さんが塚本君に会えたような予想外の幸運を味わえる人はこの先、いなくなってしまうんです」
「分かりました。決して誰にも言いません」
「よろしくお願いします。私としてもぜひこの現象は残していくべきだと思っていますので。まぁ経験者は皆、いかに大切かということを理解してくれているので、大丈夫だと思いますけど」
「そうですね。絶対に途切れさせませんよ。墓の中まで持っていきます」
「ありがとうございます」
ペンギンは満足そうにそう言うと、体を横にして前田が玄関へ抜けるスペースをつくった。前田はペンギンの脇を通り、靴を履いた。
「あとね」
ペンギンが前田の背中に声をかけた。
「はい」
「まったく蛇足なんですけれど、なぜ私がペンギンなのかって気になりませんか。犬や蛙じゃなくてペンギンなのか」
前田は思わずプッと噴き出した。
「ハハッ、いやそりゃ気になりますよ。でもそんなのに理由なんてあるんですか」
「エェまぁ。動物ってそれぞれ個性があるでしょう。面倒くさがりや、臆病者、群れてないとダメな種類、求愛のためにわざわざダンスをするやつとか挙げたらキリがないんですけど。で、私の生き様がたぶん、ペンギンに最もよく合ってたんでしょうな」
「ウッソだぁ、だってペンギンって可愛いじゃないですか」
「いえいえ、だから今の私を見てください。こんなにデッカクて愛想もなくて可愛いですか?」
「そう言われると、全然」
「でしょう。だからたぶん可愛いところじゃなくて、ほかの部分が似てたんですよ。ハハハッ」
「ふーん」
前田は次の休日にペンギンの習性や性格などを調べに、図書館でも行こうかと思った。ペンギンが言った。
「いや最後につまらないことを言ってしまいましたけど、お元気で。体に気をつけて。くれぐれも我々の仲間入りをしないよう、充実した人生を送ってくださいね。死ぬときに、あぁよく生きた、遣り残したことは何もない、と思って死ねるように。結局、それが一番、大切なことなんです。そのために毎日、考えながら生きてください。私のような失敗例が言っても、説得力ないかもしれませんが」
「いえいえ、逆に十分ありますよ。頑張ります。塚本もありがとうな」
塚本がペンギンの脇から顔を出して、小さく手を振った。
「はい、前田さん、ありがとうございます」
前田も小さく手を振り返してから、体をドアの方へ向けた。ノブを握る。
最後に顔だけ二人の方へ向けて、言い残した。
「じゃ」
二人の返事を待たずに、前田は勢いよくドアを開けた。
夜の闇と月の光が廊下の窓から差し込んでいる。前田は振り返らずにズンズン歩いた。奇妙な坂の廊下を下ると、すでにエレベーターが扉を開けて待っていた。もう驚かない。乗り込むと、行き先ランプにはすでに一階が点灯していた。前田は間髪いれずに「閉まる」ボタンを押した。銀色のドアが滑らかに視界を遮る。来るとき廊下に貼られていた講演会場への案内表示は、もう無くなっていた。
ビルから出て腕時計を見ると、午後十一時を指していた。念のため、ポケットに入れた携帯電話を取り出して確認した。間違いない。午後十一時ちょうどだ。あのとき、ビルに入った時刻は午後十時前だったから、一時間ほどしか経っていないということになる。
「一時間か」
前田は時刻を示す携帯のデジタル数字を見つめながら、つぶやいた。
「たった一時間、されど一時間」
前田はもう一度、口に出してみた。前田としては実質的に一週間と数時間を経たわけだが、その中身はあまりに濃密で、一年経ったような気分といっても大げさではなかった。少なくとも驚く量でいえば、一年分をはるかに上回っている自信があった。
駅へ向かおうと歩き出して、前田がふと、来るときに窓からぬいぐるみの見えた邸宅を見上げると、二階の一室の灯りはすでに消えて真っ暗だった。三体のぬいぐるみは置かれているのだろうか。前田は目を凝らしてみたが、すでに無くなっているようだった。たぶんあの三匹は、自分で歩いてあの窓際からどこかに消えたんだろうな、と前田は直感ながら確信した。
◇
忘れられない奇妙な体験をしてから、一週間がたった。前田は元の通り、銀行で営業をするなかで一つの決意を固めていった。会社を辞める。そして新しいことを始める。このまま定年まで今の銀行に勤めたら死ぬときに後悔する、という感覚が、ペンギンと別れて以降、日が経つほどに確信へと変わっていった。
「このままでいいのだろうか」という漠然とした不安は、塚本が事故を起こす前からあった。もちろん辞めようと思ったことは何度もある。だが、そのたびに前田は自ら打ち消してきた。辞めるほどのものなのか、辞めてどうするんだ、と。
しかし、辞めるほどのものなのだ。ペンギンが最後に放った「死ぬときに、あぁ遣り残したことは何も無いと思える人生」という言葉に、今の自分を当てはめれば、答えは明らかだった。漠然とした不安が、今ははっきりと説明できる不安になっているのだ。辞めてどうする?新しいことを始めるんだ。なぜこんな簡単な決断ができなかったのか。前田は過去の自分を叱りつけたい気分だった。
辞めるときはどうすればいいのだろう。辞表を書かなくてはならないのだろうか。文房具屋に行けば、辞表は売っているのかな、などと前田は考えながらも、あれはテレビのなかだけの話であって実際は必要ないだろう、と勝手に結論づけた。まず大切なのは、決意を上司に言うことだ。ペンギンの部屋から帰って一週間ほどたった月曜日、前田は直属の上司である課長の西川へ言おうと、決意を固めて出勤した。
いつもどおり出勤すると、西川は課長席に座って新聞を広げていた。小さな数字がびっしりと並ぶ株価の欄を眺めながら、難しい顔をしている。
「西川課長、おはようございます」
前田は少し禿げ上がった西川の頭を見下ろしながら声をかけた。この一週間というもの、前田は毎回、呼び捨てにしないよう注意している。
「おぉ、おはよう」
西川は面倒くさそうに顔を上げ、必要最小限の言葉を返すとまた株価に目を落とした。
「今日、ちょっとお話したいことがあるんですけれど、時間つくっていただけますか」
「へ、話?」
西川は驚いたように、さっきの倍ほどのスピードで顔を上げた。怪訝そうな表情で言葉をつなぐ。
「なんの話だよ」
「いや、ちょっと」
「ここでは言えないことか」
「えぇ、できれば」
部屋の中には五人ほどの社員がいたが、前田らの会話に気づいている様子はなかった。
「ったく、何だよ」
西川はブツブツ言いながら手帳を開き、スケジュールを確認する。一体そんなにたくさん何の予定があるのだろう、と感心するほど大きな手帳だ。ハードカバーの新刊本ほどあり、西川は両手で読むようにページをめくっている。
「あぁっ、ダメだな、今日は。けっこう色々あんな」
西川は手帳から目を離さずに言うと、思い出したように顔を上げた。
「まぁしかし、今すぐならなんとかなりそうだな。隣の会議室、確か十時から使用だったからまだ空いているはずだ」
壁時計を見るとまだ九時前だ。前田は迷わずうなずいた。
「ありがとうございます。お願いします」
「はぁ、朝っぱらからなぁ」
西川は面倒くさそうに立ち上がり、椅子の背もたれにかけた上着を手に持つと、前田の方を振り向きもせず、体を丸めて部屋から出て行った。前田も少し距離を置いて続く。数人の社員が物珍しそうにチラリとこちらを見たが、前田が目を向けるとすぐに視線をそらした。千夏はまだいなかった。
誰もいない会議室には中央に楕円形の大きなテーブルがあり、二十人分ほどの椅子がぐるりと外周に沿って並べられている。西川はその一つを両手でズリズリと後ろに引いて座ると、隣の椅子を指差して前田に勧めた。
「で、何なんだ話って」
前田は促されるままに座ると、一瞬だけわざと頭の中を真っ白にして、反射的に打ち明けた。
「大変申し訳ないんですが、会社を辞める決意をしたので、よろしくお願いします」
「へ」
「会社を辞めます」
「辞める?」
「はい」
「本気で言ってるのか」
「はい」
西川はうつむいて黙った。一方、前田の心には、ついに言ってしまったという緊張感と充実感が渦巻いていた。心臓の鼓動が早くなるが、気持ちは心地よく高ぶっていく。もう後戻りはできない。人生という船の舵を大きくきった瞬間だ。初めて客の前で舞台に立った新人役者は、こんな気分なんじゃないだろうか。心臓が口から飛び出そうだけれど、自分に酔ってしまったような、不思議な心地よさだった。
「前田君、簡単に言うけど大変なことなんだぞ、それは。分かっているんだろうな」
「分かっています」
「また簡単に言う。じゃあ、理由はなんなんだよ、理由は」
西川は何かに追い立てられるように早口で言った。
「理由はですね」
前田は思わせぶりに言葉をきった。本当のことを言うか、その場しのぎで体裁のいい嘘をつくか。少し迷ったが、すぐ決めた。舞台に立った人間に、怖いものは何もない。胸のうちにあるものを、そのまま直球でぶつけるのだ。西川は待ちきれないように少し声を荒げた。
「なんなんだよ?」
「この会社にいては自分が自分で無くなってしまう、と確信したからです。銀行員である前に人間の心を失いたくない。そう思ったので辞めます」
西川は驚いたように一瞬、黙ってから、吐き捨てた。
「なんだ、それは。前田君、ずいぶん格好いいこと言うじゃないか。でもな、そんな甘いことを言ってる奴が、ほかの会社に行って通じるとでも思っているのか。人間の心を失いたくないって、馬鹿馬鹿しい。ウチの会社が今、そんな非人道的なことをしてるっていうのか。たとえ百歩譲ってそうだとしても、そんなことは自分さえ注意してれば大丈夫なはずだ。みんな努力して頑張っているんだよ。なんでもかんでも会社のせいにするのはよくないよ」
二十年前、父親に言われたことと同じことを言っているな、と前田は情けないながらもおかしく感じながら答えた。
「いや、注意しても組織の中では限界があります」
「限界?十年も勤めていない若い君に、組織の一体何が分かるというんだい。君にとっちゃ不満かもしれないがな、一昔前なんて今の比じゃなかったんだぞ。部下の人間性を破壊させるようなことが、日常的に行われていたんだ。でもな、辞めなかったぞ、みんな。会社の中で頑張ったんだ。じゃあ聞くが、具体的に君はウチの会社のどこにそんな人間の心を失わせるような部分を感じたというんだい。そりゃ確かに色々あるだろうし、僕自身、これまで上司に対して何も感じてこなかったわけじゃない。しかし、僕は君に対して、そんなムチャクチャな指示を強要した覚えはないぞ」
前田はうなずいた。たしかに西川は二十年前の杉田支店長に比べると、はるかにマシな上司だった。上の顔色ばかり伺っているが、部下をむやみに怒鳴りつけるような理不尽さはない。しかし、どこに人間としての心の劣化をみるかと聞かれれば、それはやはり前田にとってまさしく今、目の前にいる西川そのものだった。前田は落ち着いて言った。
「じゃあおうかがいしますが、課長は例えば二十年前でも、職場の仲間が亡くなったときに、先日のような態度をとりましたか」
「塚本のことか」
「そうです。ご遺族に嘘をつくことを自分で納得し、部下の私にも指示する。葬式の翌日に塚本の机を取り除こうとする。課長は元来、そういう人間だったんですか」
前田は西川の目を直視した。西川は思わず目をそらし、うつむいた。考え込んでいるようだ。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「君に一体、僕の何が分かるというんだ」
「分かりますよ、分からないはずないだろうが、西川」
気づいたら前田は課長の西川を呼び捨てにしていた。思わず、というのか無意識のうちに、というのか。自分のなかで何かがパチッと弾けたようだ。自分が自分でないような、本当に舞台で演技する役者になった気がする。
西川は目を見開き、呆然として前田を見つめていた。一体なぜ前田に呼び捨てされるのか、訳が分からず混乱しているようだ。とはいうものの段々、怒りで表情が硬直してくる。
前田は、その怒りを根こそぎ刈り取ってしまうように追い討ちをかけた。
「由美ちゃんのことは忘れたのか。サザンが好きな由美ちゃんを。ご両親から学んだものを無にしたのか」
そして一呼吸置いて、静かに続けた。
「忘れるな、と言ったはずだ」
西川の動きが止まる。表情も、手や足も、すべてが彫刻のように固まった。西川の周りだけ、時間が止まったようだ。前田は西川の目を見続けた。逃がさない。忘れてしまった西川に対する怒りを、視線に込めた。
何秒経過しただろう。やがて西川は、ローラーのついた自分の椅子をズルズルと後ろに下げ、よろよろと立ち上がった。なおも二、三歩下がるとふらっと倒れそうになり、あわてて近くの椅子の背もたれに手をついた。
「な、なぜ君がそれを。井村さん・・・」
前田も立ち上がり、震える声の西川へ近づいた。落ち着き無く泳いでいる西川の目を強く見つめて、前田は静かに気持ちを爆発させた。
「由美ちゃんのご遺族の気持ちをないがしろにして定期獲得に走ることと、塚本のご遺族にこそこそ隠し事をして会社のメンツを保つことは、同じじゃないのか。人の気持ちよりも、会社の論理を優先させるのか。ろくに考えもせずに。西川、お前、いつからそんな人間になったんだ、え」
西川はへなへなと腰が抜けるようにしゃがみこんだ。前田は西川を見下ろして、止めを刺した。
「お前もあのとき、辞めりゃ良かったのかもしれないな。公園で打ち明けられたとき、止めなけりゃよかった。そうしたら心を無くさずにすんだだろうに」
前田はそう言い放つと、くるっとユーターンして会議室から出て行った。振り向かずに丁寧に扉をあけ、後ろ手で閉める。扉を閉まりきる寸前に一瞬、すきまから中をのぞくと、西川は魂が抜けたように床にへたりこんでいた。
◇
「それにしても辞めることないじゃないですかぁ」
千夏がすねた声を出した。西川に辞意を伝えた週の土曜、前田は千夏を誘って近くの動物園に来ていた。千夏には自分の口から辞めることを伝えたかった。退社をすることが千夏の耳に、外の誰かから伝わることは避けたい。
「まぁそう言わずにさ。前向きな行動なんだから」
前田はきょう何度も聞いた千夏の不平に笑顔で答えた。目の前ではたくさんのフラミンゴが鮮やかなピンクの体を見せつけている。
「それにしてもなんで動物園なんですかねぇ」
これもきょう何回聞いたか分からない。なぜ動物園かと聞かれたら、ペンギンが見たいからだった。会いたい、というほうが正しいかもしれない。でも、前田はペンギンとは口に出さずに、シンプルに答えた。
「好きなんだよ、動物園が」
「そりゃあたしも好きですけどね、動物園は」
千夏はフラミンゴの柵に両手をかけながら言った。
「じゃ、いいじゃん。でも泉さん、さっきから『それにしても』ばっかり言ってるね」
「前田さんの行動が不審だからですよ。でも、それにしてものそれ、ってなんなんでしょうね。今、急に思ったんですけど」
「それ、ねぇ。確かになんだろ」
前田は少しだけまじめに考えてみた。千夏は柵にかけていた手を離してポンと叩いた。
「分かった」
「なに?」
「前田さんはいい人なのに、ってことじゃないですか?」
「そっかなぁ。でも、センキュー」
「いい人なのに、辞めることないじゃないですか」
「なるほど」
「いい人なのにぃ、動物園に行くことないじゃないですか」
「そりゃちょっと変だな」
「フフフッ」
千夏はおかしそうに笑って言い添えた。
「確かに変ですねぇ。でも前田さんって動物園に行くんならビックカメラでパソコンとか見てそうですもん。動物園ってイメージないですよ」
「そっかぁ。でもなんとなく分かるな」
前田も笑った。確かに電器店は見るだけで楽しいし、井村のペンギンに会わなければ、動物園に行こうなどとは思いもしなかったに違いない。千夏はフラミンゴ舎から離れて歩き出した。前田は千夏の後ろ姿を少しだけ見つめてから、ゆっくりと続いた。
「あっ、そうだ」
千夏がクルッと振り向いた。
「西川課長なんですけどね、あたし、ちょっと見直したんですよ」
「見直した?」
前田は今週月曜に辞意を伝えて以降、西川とは一度も話していない。西川が避けているのか、会うこと自体があまり無いのだ。辞める手続きには入ってくれているのか心配な面もあったが、なにせ西川にとっては気味の悪い経験をしたあとだろうから、しばらく平穏にしてやって、来週になって何の動きも無いようなら、もう一度声をかけてみるつもりだった。
「泉さんが見直すようなこと、あったの?」
前田は気になって聞いた。
「ありましたとも」
「へー。そりゃ是非知りたいな」
「あ、ラクダ」
千夏が指差す方を見ると、確かに森の仙人のような顔をしたラクダが、こちらをボンヤリ眺めていた。
「いやラクダもいいんだけどさ」
「ヒヒッ」
千夏はいたずらっ子のように目を細めた。
「すいません、課長ですよね。いやね、塚本さんの事故のあと、お葬式を別にしたら、課長、一度しかご遺族のところに行ってなかったんですよ。それも部長とか取締役とか会社の偉い人たちと一緒に、ちょろっと顔を出しただけ」
「ほう」
前田は千夏の口から塚本の名前が出て、少し緊張した。あの経験については、決して言ってはならない。でも塚本から預かった千夏宛てのメッセージを、それとなく伝えなければならない。
千夏はそんな前田の気持ちをよそに、表情をキリリと引き締めた。
「それがね、なんと今週半ば、思い出したように突然、家に来たんですって」
「へぇ、詳しいね」
「だって、私は塚本さんの実家に何度か行ってますから。塚本さんのお母さん、私が行くと、とても喜んでくれるから嬉しくて」
「そうなんだ」
前田は自分が一度も行っていないことに罪悪感を感じ、頭が下がる思いだった。思い出したように、とはいえ西川でさえ一人で訪れたというのに。来週早々にもご遺族に会いに行かなければ、と前田は心に刻んだ。
「でね、昨日、わざわざ携帯に連絡あって教えてくれたんですよ。私も驚いたけどお母さんはもっと驚いたみたい」
「そっか。課長、そんなに突然行って何話したんだろうな」
「なんか仕切りに頭を下げてたんですって。こんなことになってしまって申し訳ありません、みたいな。別に課長が運転していた訳でもないのにね。でも、管理職なんだから謝るのは当然とも思うけど。とにかくまた来ますから、って引き上げたんですって」
「ふーん、そっか」
前田のすえたお灸が効いているのは明らかだろう。しかし、月曜に井村の言葉を聞いて数日で塚本の実家に行く行動力は、前田にとって意外だった。その感度のよさに、前田は二十年前の気持ちが西川のなかにまだ生きていることを感じ、少し嬉しかった。そして、前田はふと事故当日のことを思い出した。
「そうだ、俺、この前、病院でコソコソしちゃって。泉さんがいるのに。ほら、事故があった日に、廊下の端で部長と二人で話し込んでたじゃない。というか部長が一方的に話してたんだけど」
「あぁ、ハイハイ。会社組織ってやつは胸くそが悪い、って前田さんがこぼしていた」
「そうそう。あれね、いや情けない話なんだけど、実は俺、塚本が睡眠時無呼吸症候群だってこと、知ってたんだ。病名まで知らなかったんだけど、症状は本人から聞いてた。病院に行くよう勧めたんだけど、アイツ、なかなか行かなくてさ。なんか宙ぶらりんな形になってたらいつの間にかこんなことになってしまって」
「そうなんですか」
千夏は手を後ろにまわしながら前田を見つめた。前田は気まずくて思わず視線をそらした。千夏の後ろではキリンがのんびりと歩いている。クルリと前田に背を向けた千夏も、目の前のキリンを眺めた。
「前田さん、あたしよりキリン見てる」
「いや、まさか」
「いいんです。どうせあたしよりキリンの方が背も高いしスラッとしてるし」
「え、そりゃ、背は高いよ。だって、キリンだからね」
二人は同時に噴き出した。前田が笑いながら聞いた。
「泉さん、今、ギャグで言ったの?背も高いって」
「別に。なんだか言っちゃったんです、気づいたら」
「泉さんがキリンより大きかったら大変だよ、これは。会社に入れないし、電車にも乗れないし」
「分かってます。ギャグで言ったんですよ、ギャグで。あーよかった、気づいてくれて」
千夏も目に涙を浮かべるほど笑いながら答えた。キリンは二人にまったく気をむけず、ムシャムシャと自分だけが食べられる高さの木の葉をほおばり始めた。
「えっと、どこまで話したんでしたっけ」
ようやく笑い終えた千夏が前田に聞いた。
「塚本の症状を、俺が知ってたってとこだよ。部長と病院でコソコソ話していたのはそのことで、要は誰にも言わないよう口止めされていたのさ」
「あぁ、そうだ。いやあたしもね、そんなことじゃないかと思ってたんですよ。ホントに。課長も知ってたんじゃないですか」
「そのとおり。知ってたのは俺と課長の二人。塚本の事故を防げたのも俺と課長の二人。なぜ口止めされたかといえば、会社にとってマイナスになるから。知りながら放置したっていうね。組織の論理、会社のメンツ」
「なるほど、大体あたしの予想どおりです。でも隠す必要ないのにね。隠すから変なことになるんですよ、会社というのは、アホですね」
「うん、そうだな」
たしか塚本も同じようなことを言ってたな、と前田は思い出した。塚本の実家を訪れたら、事前に症状を把握していたことを正直に打ち明けよう、と前田は心に決めた。それが普通の感覚だ。でもひょっとしたら、すでに西川が打ち明けているかもしれない。
「あっ、ここ入ったらペンギンですって。前田さん、ペンギン見ましょう、ペンギン」
千夏が明るい声を出した。
ペンギン舎は屋内だった。中に入るとガラス越しに大小二十頭ほどの可愛いペンギンがヨチヨチと歩いたりプールの中を勢いよくくぐり抜けたりしていた。展示スペースは前田の腰あたりから上にあるため、ペンギンたちは小さいながら前田と同じ目の高さにいる。
「で、前田さん、辞めたら何をするんですか」
ペンギンを見ながら隣の千夏が聞いた。
「あぁ、辞めたらね。小さなバーを開こうと思ってる」
「バ、バー?」
千夏は目を丸くすると、おもむろに両手をあわせ、上下にシェーカーを振るマネをしながら言った。
「バーってこのバーですか。バーテンダー?」
「そう。バーテンダー。でもね、泉さんのイメージするような高級バーじゃなくて、ずっと安くて気楽なとこだよ。そうだなぁ、ビール一杯六百円で好きな曲かけて、頑張って常連さんをつかまえて」
「えっ、えーっ。意外。前田さんってそういう人だったんですか」
「そういう人って、なんだよ。失礼な」
「だってバーテンってイメージないですよ。だったらビックカメラで・・」
「パソコンだろ。いや、泉さんはバーテンのイメージを固定しすぎてるよ。先入観持ちすぎ。蝶ネクタイしてスーツ着て、髪の毛バッチリ、セットしてって感じでしょ」
「違うんですか」
「違います。Tシャツとジーパンでバーテン出来る店もいくらでもあんの」
「そんな、安っぽい」
「それはそれでいいんだよ。落ち着いて」
「へぇ、前田さん、よく行くんですか、そういう店」
「行くよ。たまにだけれどね。今度連れて行ってあげようか」
「嬉しい。是非」
「しょうがないなぁ。世間知らずはこれだから」
「そんなに夜遊びしないんですー、良い子だから」
「はいはい」
前田は、もう会社勤めをしたくなかった。一人で切り盛りできる小さなバーなら今ある貯金で開店することができる。実は学生時代からの夢だったのだ。頼りになるのは自分一人。組織に頼らず、前田独自の落ち着いて楽しい空間をつくりたかった。
「ねぇ、じゃああたしも働かせてくださいよ、前田さんの店で」
「えーっ、無理だよ。小さいもん」
「ちょっと広めのとこ借りて、ね」
「泉さんには会社があるでしょ」
「あたしも辞めたい。塚本さんも前田さんもいなくなったら、つまんないですよ。決めた、辞める。辞めるったら辞める。ねっ、けっこう本気のお願い。しっかり働きますから。あたし結構、男性客に人気出ると思いますよ。愛想いいから」
「自分で言いなさんな」
気がつくといつの間にか、一匹のペンギンがガラス越しに前田の目の前に立っていた。前田が気づくと、プイと横をむいてヒョコヒョコとプールへ向かい、勢いよく飛び込む。スイスイと気持ちよさそうに水のなかを二、三周すると、すぐにプールから出て体をブルブルッと震わせた。
千夏がつぶやいた。
「なんだかペンギンって、陸と水中とじゃ別の生き物みたいですよね。水を得た魚って言うけど、水を得たペンギンってほうが良くないですか」
「確かにね、魚だと水が無ければ死んじゃうけれどペンギンは一応生きられる。だけど鈍臭い」
そこまで言って、前田は突然、一つの結論を導き出した。ペンギンの部屋を出るとき井村が最後に言った「私とペンギンに、どこか似た部分があったんじゃないですかねぇ」という声が頭に甦る。ひょっとして井村は水のありかを見つけられなかったんじゃないだろうか。自分が存分に能力を発揮できる海に気づかずに、ずっと陸地で生きていた。だから失敗した、という解釈はできそうな気がする。しかしそもそも、井村は自分にとっての海を探していたのだろうか。探さなければ見つかるはずがない。
自分の身に置き換えてみると、前田にとってバーテンという職業は、海に成り得るのだろうか。銀行という組織は、走ることも餌をとることもおぼつかない陸地だったのだろうか。
考え込む前田はガラス越しに視線を感じ、顔をプールの向こう側に向けた。すると、おそらくさっきのペンギンが、小刻みに体を動かしながらじっとこちらを見ている。そしてほんの数秒、目をあわせたかと思うと、とたんにまたザブンとプールに飛び込んだ。
気のせいかもしれないが、その直前にペンギンが一瞬、ニヤリと笑ったように、前田は感じた。
了