第41話「絶望の果てに」
風は吹き荒れ、無数の旋風が巻き起こる。その勢いは先程のものの比ではない。
だが、その風の中、魔犬は涼しげな顔で佇んでいる。それはそよ風に吹かれ、気持ちよさげしている様子のようにさえ見える。
「さすがね……いいわ、あなたが神話に出てくるケルベロスだって信じてあげる。けど――」
私は風を纏い、魔犬へと向かっていく。
「――だからって、私は諦めたりしない!」
先程と同じように風で魔犬の動きを封じた後、私は無数の風の刃を放つ。
「■■■■■■■■■■■■――――!」
左右の頭がそれぞれの方向に咆哮する。それにより、魔犬の周りを包み込んでいた風が吹き飛ぶ。残るは正面の無数の刃のみ。咆哮後の硬直はない。最初の時と同じように前足の爪で蹴散らしてくるのは確実だ。
刃が目前まで迫った時、奴はその前足を振り上げ――。
「散!」
その言葉と共に、無数の刃を操り、四方へと散らばせる。魔犬が振るった前足は空を切り、一つの刃すらかき消せず空振りに終わる。
思った通りだ。いくら神話に出てくる化け物であったとしても、獣の類にしかすぎない。大した知能もない動物と同じだ。直線的な攻撃では防がれるが、多角的な攻めであれば、その対応も遅れるはずだ。
風の刃を魔犬の周りを取り囲むように散らばせた後、。奴に向かって一斉に放った。
無数の数、しかも四方からの同時攻撃。避けることはできない。対処法は一つだけ。三つの頭全てを使い、大咆哮を放つ事で全ての刃をかき消すしかない。
だが、それをすれば奴は完全に無防備なる。その瞬間、今度こそ奴の最後になる。
「さぁ、どうする気!」
既に猶予などない。無数の刃は魔犬の目前へと迫っている。だが、如何なる行動を取ろうとも、結末は決まっている。
魔犬はそれでも足掻きを見せる。咆哮が全ての範囲を網羅できるように、三つの頭をそれぞれ違う咆哮へと向ける。
「■■■■■■■■■■■■――――!」
三つ頭から発せられる大咆哮。その咆哮が四方から迫る刃全てをかき消していく。
だが、その瞬く間の一時に、私は次の行動を起こしていた。風を纏い、上空へと舞い上がっていた。位置的に魔犬の頭上。咆哮の影響がもっとも少ない位置だ。風を纏っていることで、その影響も無いに等しい。
「これで――終わりよ!!」
咆哮の余波が完全に消えた瞬間、私は纏っていた風を右手に集める。そして、集めた風を圧縮させる。その圧縮した風は右手の周りで小さな乱気流のようになった。
それこそが、風の力の本来の姿。圧縮した風を自らの体の一部に纏わせ、それ自体を最大の武具に変える。圧縮した風は何よりも強靭な盾にもなり、最強の刃にもなりえるのだ。
私はその風を纏わせた右手を手套にすると、その手套を突き出して、魔犬を目掛けて一直線に落下する。もちろん、風を利用して、その落下速度も通常の倍にして。
その速度はいくら魔犬であったとしても対応などできない。それ以前に咆哮の直後で魔犬は硬直している。避けることなど到底無理な話なのだ。
私は手套の刃を三つの頭が胴体と繋がっている箇所、丁度人間でいう首根っこに突き入れた。
「グギャアアアアアア!」
魔犬の三つの頭が同時に悲痛の雄たけびを上げる。
思った通りだ。手套を突き入れた箇所は三つの頭が胴体に繋がっているところだ。その場所を刺されたのだ。どの頭にとっても耐え難い苦痛になっているはずだ。
その証拠に、魔犬は雄たけびを上げながら、私を振り落とそうと暴れまわる。
「くぅ! この! 大人しくしなさい!!」
暴れまわる魔犬に振り落とされそうになり、さらに手套を首の付け根の奥へと突き入れる。
「■■■■■■■■■■■■――――!」
堪らず咆哮を放つ魔犬。本来ならば、体の上に乗っている私にはその咆哮は届かない。それでも、咆哮が直接届かなくとも、その余波は私には届く。体にビリビリとその衝撃が伝わる。余波だけでも私にとっては十分なダメージになるのだ。
「うぅ! こ、この……い、いい加減にしろって……言ってんのよ!!」
このまま長引かせることはできない。何よりもそれでは私の体がもたない。風を纏わせているのは右手のみだ。他は生身と変わらない。そんな状態で、咆哮の余波を何度も受ければ、いつか限界が来る。一気に終わらせるしかない。
「さっさと――倒れなさいよ!!」
右手をさらに押し込む。既に手套は肉を裂き、骨へと達している。ここまで行けば、後はやることは一つだ。骨を断ち、首から上を切断する。しかも三つ同時に。
「あ、あああああ、ああああ!!」
雄たけびにも似た声を発しながら私は最後の攻撃に移った。
左手を右腕に添えてしっかりと補強すると、肉と骨を切り裂くように、右腕を真横に振り払った。
「グギャアアアアアアァァァァァ」
引き裂かれた魔犬は断末魔を上げる。当たり前だ。胴体から頭を切り離されたのだから。
だが――ここで私にとって思いもよらない誤算があった。切り裂いたと思っていた首が一本残っていたのだ。
「そんな――切り損なうなんて!?」
想像以上の抵抗に焦りすぎたか……まだ、差し込みが浅すぎた。
私は慌てて、最後の一本を切り裂こうと手套を振るおうと――。
「ぐっ!!」
その瞬間、右腕に激痛が走った。
「くっ! 右腕が……しくじったわね……」
折れてはいない。だが、おそらくは右腕の骨にひびでも入ってしまっているのだろう。動かそうとすると激痛が走る。
その痛みのせいで集中が切れ、右手に圧縮していた風が拡散してしまっていた。
まずい。これでは、最後の首を切り落とすどころか、すぐに振り落とされて――。
「キャ!」
思ったのも束の間だった。案の定、魔犬は痛みからのたうち回るようにして私を振り落とした。
「ぐっ!」
振り落とされながらも、何とか態勢を整え、着地しようとしたが、その瞬間右腕にまた激痛が走り、不自然な態勢で着地してしまった。
痛みでその場にうずくまる。右腕の痛みではない。左足の痛みにだ。どうやら、着地に失敗して、左足首を捻ってしまったらしい。
「くぅ! 次から次へと……」
怪我には慣れているつもりだったが、それでもキツイ。何よりもまだ戦いは終わっていない。弱音を吐いていられる状況ですらない。
私は痛みに堪えながら立ち上がり、風の力を借りて、右足だけで跳躍し、魔犬から距離を取る。
右足で着地すると同時に跪く。既に体はボロボロだった。
それでもすぐに視線を魔犬へと向ける。奴は夥しい血を流しながらも、残った一つの頭の眼でこちらを睨んでいた。
さすがは魔犬。三つある頭の内、二つも失ってもまだ動けるようだ。
それでも――脅威は既に去っている。一つの頭なら、以前の化け物と同じだ。ダメージがある分、今の方が弱っている思っていいだろう。こちらも怪我を負っているが、風の力を以てすれば補える。こちらが優位にあることには変わらない。
「はぁはぁ……今度こそ……終わりね。次で……決めるわ!」
気力を振り絞って立ち上がり、態勢を整える。風を発生させ、最後の攻撃の準備に入る。
そうして、先程と同じように風の刃を放とうした時だった。魔犬に異変が起きた。
「な、なに? 何か……様子が……」
明らかに様子がおかしかった。奴は一切動き出そうしない。事実、一歩も動いていない。にも関わらず、蠢いている。何かが、もぞもぞとと。それは奴の体全体を這うような動きだった。まるで、ミミズか蛇のように、気持ち悪い動きだ。
一体何が起きているのか――。
そう考えていた時だった。それは突然、切り落とされた頭の切断面に集まり、ボコボコと蠢きだした。
「そ、そんな……まさか……」
その気味の悪い様子に私の脳裏には昨日の出来事が過っていた。そう――切り刻んだはずの大神が復活した時を。
その記憶が鮮明に思い出された瞬間、嫌な記憶と想像は現実のものになった。
蠢いていた切断面から黒い触手のようなものが飛び出し、切り落とされた頭を掴む。そして、そのまま頭を胴体に引き寄せ――頭と胴体は繋がった。
「そ、そんな……そんな事って……」
愕然と、茫然と眺めているしかなかった。その光景は私を絶望へと誘うには十分だった。そこに希望はなく、私は――絶望していた。
失念していた。この化け物は大神が生体錬成によって生み出した生物であることを。あの魔術で生み出した物ならば、再生することだって考えられたはずなのに。
「はは……なんて、なんて馬鹿なの私って」
自分の愚かさに嫌気が指す。この場所に張られている不可思議な結界こそが、この化け物の力の根源になっているという事ぐらい想像できて当たり前だったはずなのに。聖羅の事で頭が一杯で、冷静さを失っていたとしか言えない。
「まいったわね……どうしたらいいのよ」
もう、私には戦う力など残されていない。いや、戦おうと思えば、無理にでも体を動かすことはできる。だが、復活した魔犬を前にしてその気力はない。もはや、今の私の状態ではあの化け物を倒すことは敵わない。
魔犬は何事も無かったかのように元通りになっている。その三つの頭に付いているすべての眼でこちらを見ていた。
その眼と視線が交錯する。瞬間、三つの顔がニタリと笑ったように見えた。
やばい――殺る気だ。奴はもう私に戦う力が残されていない事を知っている。
その証拠に奴はすぐには襲いかかってこなかった。一歩ずつゆっくりとこちらに近づいてくる。
逃げなくては――けど、逃げて何になる? たとえ、風の力を使って逃げたとしても、この体ではきっとすぐに追いつかれる。もはや、なす術などないのだ。
既に心は折れていた。戦う事に疲れ果てていた。
私はなんてダメで愚かな人間なんだ。聖羅を救い出すと誓っていながら、あの子の気持ちすらも分かってやれず、罵倒され、その揚句、こんな化け物の前にひれ伏している。
初めから無理だったのだ。あの子の気持ちを分かってあげることも、救い出すことも。何時か命に言われた通りだ。私は人間としても、能力者として半端ものだ。
魔犬は私の目の前にやってきた。六つの眼をで私を見下ろしている。
結局、一歩も動けずにいた。心は完全に折れ、諦めている。戦うことに、生きることに。
魔犬はそんな私をあざ笑うかのように、ゆっくりと前足を振り上げる。私はその行為から目を背けることなく最後の時を待った――。
前足が振り下ろされる。けれど、その速度は、まるでスローモーションのようにゆっくりだった。決して、魔犬がゆっくり振り下ろしているわけではない。これは私の体感によるものだ。死を覚悟した私が最後にみる映像として、脳がそれを焼きつけようしているのだ。
もう――私は死ぬ。あっけなく、切り裂かれて。
当然の報いだ。今まで私のしてきた事を考えれば。己が命の為に親友から全てを奪い、己が勝手なエゴで大切な人たちを傷つけた、私への報い。
一瞬の間のはずなのに、色々なことが脳裏を過る。思い出されるのはここ数年の記憶。命の事、齊燈の事、間島の事、お祖父様の事、お父様の事、貴志の事、聖羅の事。そして――一輝の事。
最後に思い浮かんだのが彼の顔だなんて、おかしな話だ。彼と過ごした時間は他の誰よりも短いはずなのに。
知らない内に、私の中で彼が占める割合は大きくなっていた。最後の最後に、彼ともう一度会いたい、彼と話したいと思ってしまった。
分かっていた事だ。自覚も出来ていた。けれど、私みたいな人間がそんな事望めるわけがない。それでも私は彼を――。
一輝――私は貴方に救われていた。私は貴方と共に生きたい。
いやだ――。
自らの本音を、心の内を知った時、私の中に別の感情が溢れてきた。
いやだ、嫌だ、嫌だ! 私はまだ――死にたくない!
それは生への渇望――私が夢見た未来への執着だった。
その感情が溢れた時、私は叫んでいた。
「いやあああああああああ!」
叫びが木霊する中、魔犬の鉤爪は私の目前に迫っていた。
どんなに叫んだところで、どんなに拒絶したところで、何も変わりはしない。私は引き裂かれて死ぬ――はずだった。
「え――」
それは唐突に、何が起きたの分からない程、衝撃的な展開へと転がる。
私の目の前まで迫っていた前足が突然消えたのだ。いや、消えたというのは正しくない。切り落とされたと言っていいだろう。足首から先が鋭利な刃物で切り取られたように切断され、宙を舞っていた。
「な……に……?」
理解の追いつかない事態に疑問の声をあげようとした時、自分が上手く声を出せない事に気が付いた。
なんで――一体何が起きているって言うの?
その疑問に答えが出ぬまま、自分の周りで起きていることが目に入る。
強烈な風が渦巻いていた。私の周りから空気を奪う程に。それも刃を伴って。無論、自分が能力を使っている自覚などない。だが――風は明らかに私の周りから発生している
「な……ん、で?」
こんな事はありえない。自覚なしに能力を使うなど。それもこんな強大な力を。こんなこと――。
ふっと、三年前にお祖父様から聞いた話を思い出す。生まれた直後の赤子は、能力を制御できずに暴走させる、と。
これは、まさか――能力の暴走?
「そ、んな、の、ダメ…とま……て」
止まって――そう思っても願っても、風の勢いは止まらない。それどころか、さらに勢い増していく。
「■■■■■■■■■■■■――――!」
魔犬の咆哮が聞こえる。だが、風は消えない。消えず、勢いが増し、そこから数えきれない刃が生まれる。
そして、その無数の刃は無差別に飛び交い、魔犬を切り刻んでいった。
肉も骨も切断される。瞬く間に魔犬は肉片のと変わっていく。
飛び散る肉片と血しぶき。だが、一片も、一滴も私に届くことはない。風が全てを吹き飛ばしていく。
気づけば、魔犬ケルベロスだったものは、どこにも存在しなくなっていた。まるで初めから存在していなかったように、跡形もなく消え去っていた。
魔犬を倒した。だが、それでも風は止まず、嵐のように風の刃が飛び交う。
その範囲は徐々に広がり始め、校舎の方へと向かっていく。
そっちはダメだ。そっちには――校舎の中には聖羅がいる。何としても止めなくては――。
「おね……がい……とま……てぇぇぇええええええ!」
絶叫――それは懇願でもあった。暴走した能力を止める術など私は知らない。だから、願うしかなかった。そんな事をしても意味がないと知りながらも。
だが、その願いは聞き届けられることとなる。
絶叫した次の瞬間、風は突然の消え去ったのだ。
「え……どうして?」
唖然としていた。何が起こったのかも分からず、茫然と立ち尽くすしかなかった。私が何かをしたわけではない。私はただ願うしかできなかった。それがどうして――。
辺りを見渡してみたが、私以外の姿はない。やはり自然に暴走が治まっただけなのだろうか。
何にしても助かった。
「……よかった」
安堵し、全身の力が抜けて崩れ落ち、その場に座り込んでしまった。
もはや、肉体も精神も限界が近い。本来なら歩くことすらきつい。けれど、それでも私は行かなくてはいけない。あの子ともう一度向き合うために。
「待ってて……聖羅。すぐに行くわ」
私は気力を振り絞り立ち上がった。そして、足を引きずりながら歩き、校舎の中へと入った。
如月学園の中は広い。多くの部屋があり、そのどこに聖羅と大神がいるのか、それを探し当てるには時間がかかり過ぎる。だが、校舎のどこに聖羅がいるか、それは彼女自身が教えてくれている。
『お姉様とって思い出深い場所で、首を長くして待ってるから』
あの言葉の意味。考えるまでもない。あの場所だ。どうして聖羅がそれを知っているのかは分からない。だが、あの場所だと直感した。
私は上を目指し、階段を上る。そして、その先にある扉を押し開いた。
「やっと来たのね……お姉様」
「……聖羅」
聖羅は立っていた。丁度あの時の命と同じ場所に。
銀色に鈍く光る刃を手に、聖羅は屋上のその場所に佇んでいた。




