第38話「きっかけ」
路地の奥には膝を抱えてうずくまる人間がいた。
路地には明かりが一切ない。暗闇に眼が馴れてはいるが、それでもその姿をぼんやりとしか見えなかった。
「ここからじゃ、はっきり見えないな……」
「一人だけだし、側まで行ってみるか?」
俺は海翔の提案に頷く。
この状況で、こんな路地にいる人間が俺達を襲ってきた連中と同じ状態でないとは言い切れない。だが、俺達のように路地に逃げてきて、身を潜めているとも考えられる。ともすれば、このまま放っておくことなどできない。
俺達は足音を立てないようにゆっくりとうずくまる人の側まで寄っていった。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
恐る恐る声をかける。その途端、その人はビクリと身を震わせた。
そして、その人はこちらをゆっくりと見上げた。
「き、君は――」
顔を見た瞬間、それが見覚えのある人物であることに気がついた。髪は金髪に染められており、いかにもチャラチャラしてそうな風貌の男、確か名前は――。
「エンドーじゃねぇかぁ!!」
海翔が驚いたようにその人物の名前を叫ぶ。
そう――この男の名前はエンドウだ。一昨日、噂の調査途中で出会した、海翔の元バイト先の後輩だ。
「え……か、海翔……先……輩?」
エンドウは海翔の姿を見て、戸惑った表情をしている。
「どうしたんだよ、お前? こんな所で何してんだ?」
「あ……オ……レ……」
海翔の質問に対してエンドウから返ってくる言葉が拙い。よく見ると、エンドウは小刻みに震えていた。
「おい! 何とか言えよ!」
「ちょっと待て、海翔。何か様子がおかしい。ちょっと代われ」
「あ? あ、ああ……」
海翔は腑に落ちない顔をしていたが、渋々俺と入れ替わった。
「エンドウ君、俺のこと覚えているかい? 真藤だ」
「しん……どう? あ……海翔……先輩の……」
「そうだ。覚えていてくれて嬉しいよ。ところで、君はどうしてこんな所にいるんだい?」
「え……こんな…所?」
エンドウはゆっくりと周りを見渡した。
「お、オレ……どうして……こんな所に?」
「覚えて……ないのかい? 一体、何があったんだい?」
「何……が? 分からない……分からないっすよ! オレには何が何だか分からないっすよ!!」
エンドウは突然声を張り上げてそう叫びだした。俺のした質問にひどく取り乱したようだった。
「お、落ち着くんだ、エンドウ君!」
「落ち着く? ははは……そんなの無理に決まってるじゃないっすか! あんなものを見せられて――そうだ……あいつら……あいつらは……」
「あいつら? あいつらって誰のことだい?」
「あいつらはあいつらっすよ! オレと一緒に……ち、違う……オレじゃない……オレはあんな事になるなんて知らなかった!!」
この子――何か知ってる。錯乱しているせいで言っていることは支離滅裂で意味不明だが、何かに怯えているのは分かる。それは何かを見たからだ。それが何なのか分からない。けれど、今のこの状況に関係があることだ。そして、おそらくは俺達が遭遇した生ける屍の群以上の恐怖を味わったのではないか。
「君――一体、何を見たんだい? いや、何かを知っているね?」
「え……? ち、違う! オレは……オレは知らないっす!! 何も知らなかったんっすよ!!」
ダメだ。落ち着いて話せば、会話ぐらいはできると思っていたが、完全に錯乱して何かを聞き出せる状態じゃない。お手上げだ。
「どけ、一輝」
「え?」
突然、海翔が俺を押し退けてエンドウの前に立つ。そして――。
「しっかりしろ! この――バカが!!」
叫ぶと同時に海翔は右拳をエンドウの脳天に降りろした。
「ギャッ!!」
突然の衝撃にエンドウは悲鳴にも似た呻き声を上げる。
「お、おい、海翔!」
「いーんだよ、これぐらい! ちっとは目が覚めたろ?」
無茶苦茶な言い分だ。どうしたら、おもっきり頭を殴っておいて目が覚めるなんて事になるのか理解できない。海翔の力なら、下手したら気絶してしまいかねない。
その証拠に、エンドウは頭を押さえ悶絶するようにうずくまって、小刻みに震え――あれ? それはつまり意識があるということか?
「い、痛いですよぉ……か、海翔せんぱ~い」
エンドウは頭を押さえたまま、情けない声を出しながら顔を上げた。
「情けねぇ声だしてんじゃねぇよ! それよりどうだ? 少しは落ち着いたかよ?」
「え……あ、はい……おかげさまで……」
マジか……アレで錯乱状態から戻るとか普通は思えないのだが……流石は海翔の友人と言うべきか。
「で、どうすんだ、一輝? 聞きたい事があるんだろ?」
「へ? あ、ああ……そうだな。エンドウ君、聞いても大丈夫かな?」
「はい……大丈夫だと思うっす。さっきはスイマセンでした」
大丈夫そうだ。さっきより落ち着いているし、まともな言葉が返ってきている。何時また錯乱し始めるか分からない状態ではあるが、それでも聞いた事には答えてくれそうだ。
「よかった。それじゃあ、聞くね? 君はどうしてこんな所にいたんだい?」
「……よく……覚えてないっす。気づいたら海翔先輩達がいて……」
「そうか……それじゃあ、ここに来る前の事はどうだい? 何か覚えているかい?」
「そ、それは……」
エンドウは俯き、ぶるりと体を振るわせた。
やはりそうだ。エンドウは何かを知っている。
「大丈夫かい?」
「あ……はい……大丈夫っす。ここに来る前の事っすよね? 話すっす。オレ、今日は色々あってムシャクシャしてたんすよ。だから、午後から数人のダチと一緒にゲーセンで遊んだりして、街を練り歩いていたっす。けど……今から二時間程前だと思うっす。結局、いくら遊んでもムシャクシャは消えなかったっす。そんな時にサラリーマン風の中年のおっさんと肩がぶつかって……」
何やら、話の雲行きが怪しくなってきた。どうやら、ここからが本題のようだ。
「それで……オレ、思わずそのおっさんを殴っちゃって……」
「おいおい……」
「そ、その時のオレどうかしてたんすよ! 普段はそんなことじゃ人を殴ったりなんかしないっすから!」
「……どうかしてたって言うと?」
言いながら、チラリと海翔に視線を向ける。視線に気づいた海翔は無言で頷いた。どうやら勢いで人を殴る奴ではないというのは本当らしい。
「こ、声が……聞こえたんです」
「声?」
「はい……そのおっさんとぶつかってイラってきた瞬間に声が聞こえたんすよ」
「それは――」
本当か、と言いそうになって言葉を呑み込んだ。エンドウが嘘を言っているようには見えなかったし、そこまで錯乱しているようでもなかった。今、こいつは本当のことを話しているのだ。
「――どんな声だった?」
「お、男の声だったっす。頭の中に直接語りかけられているみたいだったっす」
「内容は?」
「『お前の願いを叶えてやる。本能のまま暴れさせてやる』って……それが聞こえた途端、おっさんを殴りたい衝動が抑えられなくなっちゃって……」
それで殴ったということか。普通に聞いていれば、キレやすい人間の言い訳なのだが……。
願い、本能――なんだ? 何か、引っかかる。
「……それからどうなったんだ?」
「え、えっと……そ、それは……」
エンドウは狼狽え始めた。それ以上先は言いたくないのか、突然口を閉ざした。つまりは、口に出せる内容ではないということか。こいつ――。
「……話すんだ」
「ひっ!」
エンドウは小さな悲鳴を上げて、怯えたように身を縮めた。
「おいおい……どうしたんだよ、一輝? エンドウが怯えてるだろ。何そんな恐い顔してんだ?」
「え……」
海翔に指摘されて自分がそんな顔していたことに驚いた。別に怒っているつもりはなかったが、エンドウへの嫌悪感や現状への焦りが顔に出てしまっていたのかもしれない。
「わ、悪い……ちょっと考えが纏まらなくて焦ってた……」
「ったく! お前らしくない。落ち着けよ。落ち着かなきゃ、纏まるものも纏まらねぇぞ」
「あ、ああ……そう……だな」
まさか、海翔にこんなことを言われると思わなかった。反省だ。
「お前もお前だ、エンドウ! この期に及んで口を閉ざすなんざ、漢らしくねぇぞ! それとも何か? オレに漢とは何たるか教え込まれたいか?」
「と、ととととんでもないっす! そんな畏れ多いっすよ! は、話します! 洗いざらい、話しますから、勘弁してくださいよ!!」
流石は海翔。ちょっとした脅しですぐに素直になった。効果抜群だ。
「んじゃ、話しておくんなまし」
「……はい、わかりました。オレ、声を聞いておっさんをなぐってから、暴力的な衝動が抑えられなくなって、ダチに向かって言っちゃったんですよ。やっちまえって……」
「そりゃあまた、お前らしくねぇな……」
「そぉっすよね……オレもそう思います。でも、その時は止められなかったんですよ。その衝動を。まるで、自分じゃないみたいな感覚でした」
エンドウはそう言うと、弱々しく苦笑い浮かべる。
抑えられなくなった衝動、これはもしかすると――。
「それで、その後はどうなったんだい?」
「ダチのみんなはオレの言った通りにおっさんをリンチし始めちゃいました。そいつらもオレと同じで普段ならそんなことする奴らじゃないんですけど……」
そいつ等もエンドウと同じ状態に陥っていたということか……。
「それで、そのおっさんはその後、どうなっちまったんだ? まさか……殺してなんかいないよな?」
「か、海翔先輩、何言ってんすか!? そ、そんな事するわけないじゃないっすか!!」
「はは、そりゃそうだ……そんな事してたら、オレはお前を半殺しにして、警察に突き出すところだ」
「あはは……じょ、冗談きついっすよ、海翔先輩……」
エンドウは顔を引きつらせて笑っている。
本当に冗談がきつい。そんな事になったら、お前も警察行きだぞ、海翔クン。それ、分かって言ってる?
「そ、それじゃあ、その人はどうなったんだ? 逃げたのかい?」
「……いいえ、逆っす」
俺の質問にエンドウは急に深刻な顔になった。
「逆? どういう意味だい?」
「……あのおっさん、途中までやられ放題だったのに、突然暴れだしたんですよ。しかも、奇声上げながら……ちょっとおかしくなったと思いました」
「そ、それでどうなったんだい?」
「……そ、それで――」
再びエンドウは小刻みに震えだした。その時の事を思い出して、恐怖しているように見える。
「――それで、抑えこうもうとしたダチの一人が、そのおっさんに……か、噛みつかれたんです!」
「え――」
その言葉に、その事象に聞き覚えがある。
俺は海翔と眼を見合わせた。海翔も驚いた様子だった。
「そ、それからはもう何が何だか……噛みつかれたダチもおかしくなって、他のダチに同じように噛みついて……そしたらそいつも……気づいたら、ダチはみんなおかしくなって道行く人達を襲ってました。その襲われた人達も……オ、オレ、恐くなって……逃げ出して……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! ま、まさかそれがきっかけで街中の人間がおかしくなったって言うのかい?」
「そ、そうとしか思えないじゃないですか! あんな瞬間見せられたら……」
エンドウは先ほどよりもガタガタと身を震わせている。再び、錯乱状態に陥りかけている。
きっかけは、エンドウが通行人を殴ったことから。いや、その前に聞いた声だと思って間違いないだろう。
エンドウやその友人が異常な心理状態になったのも、通行人が暴れだしたのも、おそらくは大神の能力によるものだと考えて間違いない。
だが、その後の出来事については説明がつかない。大神の能力が願望を膨らませる力ならば、街中の人間が狂ってしまうわけがない。だからと言って、大神の能力ではないとも言い切れない。けれど、栗栖女医が嘘を言っているように思えない。だとすれば――。
「まさか――違う、のか?」
俺は、俺達は何か勘違いしているのではないだろうか。大神の能力について、何か見過ごしているのではないか。
願望……操作……狂気……声……何か、噛み合っていないような気がする。
「声……声……声は……音?」
音――そう言えば、学園での事件の時、学園内の音が遮断されているって一ノ宮が言っていたな。
音の遮断。つまりは学園内の音は外に漏れることはなく、学園内だけに響くということだ。
音が響く――つまりは声が響く?
「あ……」
分かってしまったかもしれない、大神の本当の能力が。確証はない。だが、確信はある。
「なんてことだ……」
もし俺が考えている通りなら、とんでもない能力だ。大前提となっていた事自体が大きくずれてしまいかねない。
「おい、一輝! 何、一人でぶつくさ言ってんだ?」
「え? あ、悪い」
海翔に呼びかけられて、思考と意識が現実に戻ってくる。
「大丈夫か? お前……」
「あ、ああ。ちょっと考え事してた」
「エンドウの話を聞いて、何か分かったのか?」
「ああ、まあな」
「本当か!? 何だよ?」
「それは後で話す。それよりも――エンドウ君?」
「な、なんすか?」
呼びかけられたエンドウは恐怖と後悔に歪んだ顔をこちらに向けてくる。
「今回の事、君は何も悪くない。それはきっと君の意志よるものじゃない」
「え? それはどういう――」
エンドウが俺に聞き返そうとした時、路地に足音が響いた。
「何だ? 誰か――来る!」
聞こえてきたのは俺達が路地に入ってきた方角だった。
目を凝らして、そちらの方を見ると、ふらふらとこちら向かってきている人影があった。
「ちっ! なんか嫌な予感がするぜ!」
海翔は忌々しげにそう口にする。
同感だ。おそらく海翔の予感は正しい。
「あ……あ……や、やつら……だ……」
その人影にエンドウは恐怖していた。声にならない声を上げている。その表情は今にも悲鳴を上げそうだった。
人影はゆっくりと近づいてくる。俺達との距離を縮めてくる。
そして、その姿がハッキリと見えたときだった――。
「ヤット……ミツケタ」
その声を聞いた瞬間、その人が味方でないことがすぐに分かった。
「う、うわあああああああああ!!」
その叫び声はエンドウのものだった。エンドウは大声で叫びながら、路地の奥へと駆けだしていく。
「待て、エンドウ!!」
海翔が制止を呼びかけるが、その声はエンドウに届くことなく、エンドウの姿は暗闇に消えていった
「くそ! こんな所まで入ってくるなんて! 仕方ない、俺達も走るぞ!」
「おう!」
俺達はエンドウを追うようにして、路地の奥へと駆けだした。




