第8話「囮」
1月19日、土曜日。午後九時半。
「こんなもの役に立たないかもしれないけどな……」
学校帰りに買っておいたサバイバルナイフを懐に忍ばせる。
俺はこれから通り魔殺人の犯人を誘き出す囮となるため街へとくりだす。このナイフは自分の身を守るためのものだ。
俺は家族に見つからないように家を抜け出した。そして、近くの公園へと向かった。
午後十時。自宅から2キロ程離れた公園の入り口前に来ていた。そこが、一ノ宮との待ち合わせ場所となっていたからだ。
そのままそこで待っていると、黒いセダンの車が俺の方にやってきた。その車は俺の前で止まると、中からサングラスをかけた如何にも怪しげな黒服の男が降りてきた。
「真藤一輝様ですね?」
「……誰、ですか?」
男に対して身構える。
怪しげで見ず知らずの男に名前を呼ばれて警戒しない者なんていない。
「ご安心を。私は一ノ宮家に仕えるものです。怜奈御嬢様の命により、貴方をお迎えに参りました」
「一ノ宮、の……?」
そういえば、一ノ宮家は一ノ宮財閥と呼ばれる程の富豪だ。こういった怪しげな連中を雇っていてもおかしくない。いわば、一ノ宮家の精鋭と言ったところか。
「どうぞ、お乗りください」
「……わかりました」
意を決して車に乗り込む。
乗り込んでみれば、先ほど俺に声を掛けた男と同様の格好をした男が、もう二人乗っていた。そこに一ノ宮の姿はなかった。
「あの……一ノ宮……怜奈さんはどうしたんですか?」
強面の男たちに尋ねると、俺に声を掛けてきた男が答えてくれた。
「御嬢様はお屋敷におられます」
「え? 来ないんですか?」
「はい。我々は極秘裏で動いています。今回の事は一ノ宮家でもごくわずかな人間しか知りません。御嬢様が外に出られるのは、情報の漏洩となる恐れがあるため、お屋敷で我々の指揮を執られます」
「そうですか……」
確かに、こんな危険な事に一ノ宮を直接巻き込むわけにもいかないだろう。しかし、一ノ宮自らが指揮を執っているとは……。昨日、自らを次期当主と言っていただけはある。
「真藤様」
「え? あ、はい。何でしょう?」
「私たちは御嬢様により、目標との遭遇までは貴方の命令に従うように言われております」
「え!? お、俺の?」
「はい。そう命令されております。これからどうするか、御指示をください」
「御指示をって……」
いきなりそんな事を言われても困る。さっき一ノ宮が指揮を執るような事を言っていたのに、俺がこの黒服の男たちに指示を出すことになるなんて思っていなかった。
考えを巡らせる。
何はともあれ、まずは奴を見つけ出さない限りは話が前に進まない。その為の囮役であるのだから、俺が行動を起こさない限り、奴も姿を現さないだろう。
「そうですね……犯人はもっぱら隣町に出没しています。ですから、皐月町に行きましょう。皐月町に入ったら、俺を降ろしてください。そこからは俺は単独で行動します。貴方達は犯人に気づかれないように俺との距離を空けて、後について来てください」
「分かりました」
彼らは俺の説明に頷くと、車を皐月町へと走らせた。
どうやら、本当に俺の指示に従ってくれるようだ。
しかしながら、数が心もとない。彼らの実力は分からないが、あれだけの殺人犯だ。三人では少なすぎるような気がした。
「あの……三人だけで大丈夫ですか?」
「ご心配には及びません。既に後方から応援が来ております」
言われて後ろを振り向くと、いつの間にか同じような車がぴったりとついて来ていた。
「後ろの車には五人乗っております」
「なるほど……わかりました」
計八人。これなら例え犯人と出くわしても、取り押さえるのに十分だろう。
午後十時半。そして、遂に皐月町に入った。
辺りを警戒しながら俺は車から降りる。
「では、お願いします」
黒服の人達にそう言って、歩き出す。
独り、俺は街を歩く。
街は街灯があるものも、少し薄暗く、人はちらほらと見かけるだけで、薄気味が悪い感じがした。それは緊張と恐怖のためにそう思えるだけかもしれないが、俺にはいつもと違うように思えた。
とりあえず、犯人がよく出没する路地裏を歩いてみた。恐る恐るではあるが、手当たり次第に歩いてみた。
しかし、いつまで経っても犯人は現れない。
「ふぅ。今日は現れない、のか……?」
俺は路地裏を諦め、街を練り歩く。
まだ人気があるところ、まったく人気がないところ、色々な場所を歩いてみたが、いつまで経っても犯人とは出会わない。
「はぁ……あいつ、どこに……?」
犯人がどこにいるかなんて、初めから分かっていない。目撃者も出さず、殺しができるような相手だ。早々に尻尾を出したりはしないだろう。それに――できることなら俺は奴とは二度と出会いたくなかった。
歩き始めて一時間半が経った。日付は変わり、午前零時。
少し歩き疲れたので、通りかかった公園のベンチで休むことにした。
「ふぅ……そう上手くはいかないか」
しばらくベンチで休もう。それからもう一度路地裏を探索して、それで見つからなければ、今夜は諦めよう。
その考えていた時だった。突然、強い風が吹いた。それは単に変哲もない風だった。しかし、俺にとっては違った。
「うぅ……あの時を思い出すな……」
犯人と遭遇した時の事を思い出す。あの時も、こんな感じで風が吹いていた。
寒気がしてブルッと体が震える。寒さのせいではなく、あの時のことを思い出したせいだ。恐怖で、震えていた。
「もう、今日は無理だろうな……こんな時間だ。もう帰ろう」
恐怖から逃げ出すかのように、俺は帰ることを決め込んだ。
怖気づいた心は早々に戻るものでもない。こんな状態であの犯人と出会いでもしたら、足が竦んで動けなくなるかもしれない。
ベンチから立ち上がり、黒服の男たちに声をかけようとした。その時だった――。
「おや? もう帰っちゃうのかい? 僕を探していたんじゃないの?」
聞き覚えのある声が、少し離れた所から聞こえてきた。
硬直。この時ばかりはすぐに振り返ることができなかった。
その声は、間違いなく〝奴〟の声に似ている。
俺はゆっくりと声が聞こえてきた方を向いた。
「やあ、また逢ったね」
そいつは陽気に、馴れ馴れしくそう言った。
黒いロングコートに身を包み、フードを被った人物。そのフードのせいで顔が隠れていて見えない。
「お……まえ……」
上手く声が出せない。いま目の前にいる人間は、間違いなくあの通り魔の犯人だ。そう理解できた時、心は恐怖で塗り潰されてしまった。
「ククッ、嬉しいね。君から逢いに来てくれるなんて、思ってもみなかったよ」
それはまるで恋い焦がれた相手に出会えたように本当に嬉しそうな声だった。けれど――、
「自ら死に来るなんてね。君は面白い人間だ。ハハ!」
その笑い声が聞いた瞬間、殺されると思った。
それは間違いなく殺意だった。笑っているが、奴からは以前以上の殺意を感じた。
「真藤様!」
自分の危機を感じた時、一ノ宮家の精鋭達が俺の目の前に現れた。
「む……なんだい? こいつらは?」
予期せぬ出現者たちに犯人は不機嫌そうな声を出す。
「真藤様。この者が……?」
「ああ……そうだよ……こいつだ! こいつが殺人犯だ!」
俺が叫ぶと、8人の精鋭達は犯人を取り囲むように陣営を組んだ。
「ふーん。伏兵が潜んでいたなんてね。やってくれるね」
犯人は自分が置かれている状況を理解したらしい。しかし、これだけのごつい男達に取り囲まれているのにもかかわらず、奴の声からは余裕さえ感じる。
一ノ宮家の精鋭達は、突然黒光りする物体を取り出す。
あれは――拳銃か!?
「クスッ」
拳銃を向けられていても、犯人は動じる様子はない。それどころか、笑っている。
「発砲命令が出た。全員撃てー!」
その号令が発せられた直後、続々と発砲音が聞こえてくる。
精鋭達は容赦なく撃つ。そして、犯人は撃ち抜かれ、その場に倒れ伏す。そうなるのは容易く予想できたのに――けれど、俺の目の前で起こったことは、全く予期せぬものだった。
「なっ……!?」
「ククッ。君たち本当にそんなので僕を殺せると思ってたのかい?」
犯人は生きている。打ち抜かれてもいない。
撃たれた弾は奴の目前で止まっていた。まるで、時間が止まっているかのように。そして、銃弾はそのまま地面に落ちた。
「怯むな。撃てー!」
再度の号令。その命令に再びけたたましい発砲音が聞こえてくる。
彼らは命令通り怯むことなく撃ち続ける。しかし、その弾は犯人に届くことはなく、地面に落ちていく。やがて――弾切れの時がきた。
「バカな……」
精鋭の一人が呆然と呟く。それは誰もが思っていたことだ。あれだけの銃弾を浴びせながら、対象は傷一つ付いていないのだ。誰だって信じられないだろう。
「ククッ。ホント、君らときたら……でもまあ、良くやったって褒めてあげるよ。何せ、僕に〝力〟を使わせたんだからね。でも、僕に拳銃を向けて撃つなんて、お仕置きが必要だね」
奴は楽しげにそう言うと、手を振り上げ、そして一気に振り下ろす。その瞬間、風が巻き起こった。
「うわっ!」
強い風。まるで台風のような、全てをなぎ倒してしまいそうな強い風だ。
その風が巻き起こった瞬間、俺はあり得ないものを見た。
精鋭達は吹き飛んだ。ただ、吹き飛んだわけではない。精鋭達の肢体がバラバラになりながら、吹き飛んでいった。それは、まるで肢体を鋭い刀で切り刻んだかのように。
「う、嘘……だろ……?」
どうしてしまったのだろうか。俺は夢でも見ているのだろうか。それとも、おかしくなってしまったのだろうか。
こんな事が現実に起こりうるはずがない。人間が自然にバラバラになるなんて、ありえないことだ。けれど、いま俺の目の前で起こったことは――。
「お、お前……いま、何を……」
「ククッ」
奴は笑いながら、こちらに近づいてくる。
「よ、よるな!」
懐に忍ばせておいたサバイバルナイフを咄嗟に取り出し、奴に向ける。
「クク……アハハハ! そんな物で、僕を殺そうなんて本気で考えているわけじゃないよね?」
そんな事は分かっている。けれど、この場はどうしようもない。俺にはこのナイフしかない。
「そんな危ない物を持っていてはダメだよ?」
突然キンという金属音が鳴り響く。
「……え?」
手元を見てみれば――なんと、ナイフの柄から先がなくなっていた。
「な、なんで……」
突然の出来事に訳が分からなかった。なくなった物を探すように、ただ視線を泳がす。
探しても無駄なことだと分かっていた。でも、そうするしかなかった。そして、俺は自分の足元に折れたナイフを見つけ、愕然とした。
「あ……あ……そ、そんな……」
最後の希望が立ち消えた。もう逃げる気力もなく、俺はそこにへたり込んでしまった。
「残念だったね。でもまあ、すぐに腰を抜かさなかっただけでも大したものだよ。その勇気に免じて、謎解きをしてあげようか?」
「なん……だって……?」
「君も見たろ? 奴らがバラバラになる様を。そして、そのナイフを。僕はね、風を操ることが出来るんだよ」
「な……に……?」
「君は〝カマイタチ〟を知ってるかな? 僕はね、それを使う事ができる。いや、それに該当すると言った方が正しいか。まあ、それはどっちでもいい。要するに、風を刃に変える力を持っているんだ。その刃は鋭い刀のような切れ味なんだ。それが、奴らをバラバラにした手品だよ。すばらしいだろう? 僕は、誰もが持ち得ない『力』を持ってるんだよ!」
それはまさに自画自賛。自分で言っていることに奴は酔っていた。
風――カマイタチ――。
そうか。だからいままで目撃者もいなかったのか。あんな一瞬でバラバラにできるなら、犯行の瞬間を目撃されることもない。それに、現場に残った血の跡の形が不自然だったことも頷ける。だが、そんなことよりも――。
俺は奴の〝力〟にも恐れをなしたが、それ以上に奴のその歪んだ心が恐ろしかった。
こいつは間違いなく殺しを楽しんでいる。人を殺すことを何とも思わず、ただ、自分の力を振るうことを楽しんでいるだけだ。
こんな奴、誰も捕まえることなんてできやしない。
「狂ってる……」
「え? なんだい?」
「お前は狂ってる……!」
「クク……アハハハ! 狂ってるか! いいね。君はホント面白いよ。僕からしたら君の方が狂っているように見えるよ。自分から殺されに出てくるんだからね!」
「くっ!」
「おしゃべりは終わりだよ。君にも死んでもらう。冥土の土産に面白いことが聴けたんだ。ありがたく思ってよね?」
「く、くそぉ……!」
「な!?」
奴に向かって突進する。
もうやぶれかぶれだ。何もしなければ、どうせ殺されてしまう。これが俺の最後の抵抗だ。
けれど、次の瞬間、
「が、がはっ!」
激痛が体中を襲う。
何が起きたのかわからなかった。気づいた時には、俺は地面に叩き付けられていた。
どうやら、奴の起こした風で吹っ飛ばされたようだ。
「ゴホッ! ゴホッゴホッ! ア、ウ……!」
痛い。苦しい。息ができない。
「ククッ。驚いたよ。まだ動くことが出来たなんてね。てっきり観念したかと思ったのに。でも、ここまでだよ。死にな!」
奴はゆっくりと手を振り上げ、そして一気に振り下ろした。