第10話「強き者へ」
処置室から出て、扉を閉めると同時に俺は深い溜め息を吐いた。
突如としてひどい疲労感と脱力感に襲われる。一ノ宮が無事だったという安堵感と、聖羅ちゃんに完全に嫌われてしまったという悲壮感によるものだという事は明らかだった。
「フフ、嫌われ役ご苦労様」
突然、右から声を掛けられて、驚いて振り向いた。
そこには、背中で壁に寄りかかっている栗栖女医がいた。何故か楽しいそうに微笑みを浮かべている。
「あ、あなた……」
俺は彼女に怒りをぶつけたくなる衝動に駆られた。そもそも、彼女が聖羅ちゃんを呼び、処置室に招き入れなければ、こんなややこしい事態にならなかったはずだ。
俺は栗栖女医をキッと睨んだ、つもりだった。だが、彼女から微笑みが消えることはなかった。
「フフ、そんな怖い顔しないで? まさか、私もこんな事になるとは思わなかったのよ。許して頂戴」
「――――」
栗栖女医は両手を合わせてそう言ってきた。けれど、顔は半分笑っており、そこからは悪ぶれた様子は感じられない。
その様子に、俺はまた既視感を覚えた。この軽薄そうな感じに覚えがあるような気がする。、
この人、誰かに似ている。誰だろう?
「どうかした? やっぱり、怒ってる?」
考え事をしていたために、またぼーっとしていたのだろう。栗栖女医は心配そうに俺の顔色を伺ってくる。
「い、いえ、違います。まあ、怒ってないかと言われたら、そんなことないですが……」
「やっぱり……そうよねぇ。ホントごめんなさいね?」
そうは言うが、やはり本気で謝っているような気がしない。けれど、この人を見ていると何故か怒る気が失せてくる。この感覚にも覚えがあるような気がする。
「いいですよ、もう。なってしまった事は仕方ないですし……」
「そ。そう言ってもらえると助かるわ」
栗栖女医はそう言って、また微笑み浮かべる。
結局、文句の一つも言えず、この話は流されてしまった。仕方がない。どうやら、俺と聖羅ちゃんとの仲については栗栖女医は知らなかったようだし、本人も言っていたように、こんな事態になる事を予測できなかったのだろう。
「あら? あんた怪我してるんじゃないの?」
栗栖女医は俺の腕や脚をまじまじと見ながらそう言った。
「え? あ、ホントだ」
見ると、衣服の腕や脚部分に血が付いている。
きっとあの時だ。怪物に振り落とされた時に怪我したのだろう。今まで色々ありすぎて気づかなかった。今更ながら、少し怪我した部分が痛む。
だが、たいした痛みではない。おそらくは少し擦りむいた程度だろう。
「いいわ。手当してあげるからついてきなさい」
「え? 今からですか?」
「ええ、そうよ。ここじゃあ何だから、休憩室に行きましょうか? ここだと、いつ妹さんが出てくるか分からないし」
「え……でも、一ノ宮はどうするんですか? あのまま、処置室に寝かせておいていいんですか?」
「ああ、大丈夫よ。点滴はしばらく終わらないし、終わったら帰宅してくれて構わないから。後は看護師と妹さんに任せておいて問題ないでしょう。あなたと話してみたかったし、丁度良い機会だわ」
そう言って、栗栖女医は俺の後ろに回り込み、俺の背中を押す。
「ちょ、ちょっと!」
「いいから、いいから!」
一体、この人は何を考えているのか。何も知らない聖羅ちゃんを病院に招き寄せて、俺と一ノ宮を困らせておきながら、今度は俺と話がしたいと言い出す。何か考えがある事なのか、それとも単なる気まぐれによるものなのか判断がつかない。
迷いはあるが、ここは素直に彼女の誘いに乗っておくべきだろう。単なる気まぐれならば、そこまでの話だ。だが、何か意図がある事ならば、それを知っておくべきかも知れない。この女性は、まだ信用できないのだから――――。
休憩室に入ると、栗栖女医は俺を椅子に座らせ、早速怪我の手当に取りかかった。
「たいした怪我じゃなさそうね。他に痛む所はない?」
「え、ええ。大丈夫です」
栗栖医師はテキパキと手当していく。先程、一ノ宮に確認し忘れたが、彼女が医師で、一ノ宮の主治医というのは確かな事なのだろう。
「フフ。ほっぺたも赤く腫れてるわね。湿布でも張っておく?」
「――いいですよ、別に……」
こんな風になったのはあなたのせいだ、と言いたくなる衝動を抑え、俺は平静を装って答えた。
「そう? 結構、真っ赤よ? 思いっきり叩かれたのね。妹さんも手加減ないなぁ。いくら嘘をつかれたからってここまでしくてもねー?」
「え……」
栗栖女医の言葉に俺は驚き、言葉を失った。
今、この人はとんでもない事をさらっと言ったような気がする。
「あら? やっぱり気づいてなかったのね?」
「ど、どういうことですか?」
動揺で言葉がもつれる。俺が何に気づいていないというのだろうか?
それにさっきの言葉は――――。
「妹さん――聖羅さんはあなたの嘘に気づいてるってことよ」
「え? なんで、なんでそんな……」
「フフ。気づかないわけないわよ、あんな嘘。彼女があなたが言ったことを本当に信じたと思ってるの?」
「え、だって、だから俺を――――」
ひっぱたいたと言い掛けて、はっとした。あの時、処置室から出て行こうとした時の聖羅ちゃんの顔が思い出される。あの悲しそうな顔の意味が分からなかった。だけど、もしそれが嘘をつかれたことへの心痛によるものだとしたら――――。
「気づいてないのは、あなたと怜奈さんの方ね。あの子は、バカじゃないわ。あなた達が何かをひた隠しにしているってことには気づいているのよ」
「……そ、それじゃあ、彼女は本当の事を知らないままなんですね?」
「ええ。一ノ宮家の裏の顔までは気づいてないでしょうね」
「そ、そうですかぁ」
俺は安堵した。聖羅ちゃんが一ノ宮家の真実に気づくような事になれば、それはもう大問題だ。
だが、栗栖医師はそんな俺の様子を見ながら、真剣な表情で言葉を続けた。
「だけど、いつまでも隠し続ける事があの子の――いえ、あの姉妹のためになるとは、私には思えないけれど……」
「え……だって、それは一ノ宮家の掟なわけですから」
「そうよ。だけど、その真実をいつまで彼女に秘密のままにしておくのかしら? 本当にいつまでも秘密のままにしておけるかしら? あなたはどう思う?」
「そ、それは……」
現実問題として無理だと思う。
聖羅ちゃんは今年高校生になったばかりだ。まだ、一ノ宮の社会的な立ち位置や重要性について表側の方ですら理解できていないだろう。だが、それはまだ子供だからだ。高校を卒業し、大学生になれば、人は世界が広がるものだ。子供の頃は見えなかったものまで見えてくる。内側の事も外側の事も。
そうなった時、彼女が一ノ宮家の真実に気づかない保証なんてどこにもない。いや、気づく可能性の方が大きいだろう。その時、あの姉妹の関係はどうなってしまうだろうか。今の様な仲の良い姉妹のままでいられるだろうか。
「フフ――あなたが思った通りの子で良かったわ」
「え? 何のことですか?」
栗栖女医は俺の問いかけに微笑んでいた。いや、その前から微笑んでいたように思える。その微笑みは、それまでに見せたことのない優しい微笑みだった。会ってまだ間もないが、その微笑みからは何か温かいものが感じられる。
先程までの軽薄そうな感じが既に一切伺えなかった。あれは俺が先入観持っていたためにそう映っていたのだろうか?
「そうやって、他人の事を真剣に考えられる所のことよ。怜奈さんから話を聞いていた時から感じてはいたけど、優しいのね。でも、優しさだけじゃない。そこに強さも持っている。あなたがいてくれれば、たとえ彼女がすべて知る時が来たとしても、安心かもね」
「そ、そんな……買いかぶりすぎですよ。優しいとか強いとか、俺はそんなことないです。優しさだけじゃ人は救えないし、一ノ宮に比べたら、ひ弱な普通の人間ですから」
それは照れと謙遜が入っていたと思う。けれど、俺は本気でそう思っていた。この時、この瞬間までは。栗栖女医がこれから俺にしてくる話を聞くまでは。
栗栖女医は俺の答えを聞くと、それまで以上に真剣な顔をした。そして、「真藤君」と少し語気を強め、俺を呼んだ。
俺はそんな彼女の様子に驚き、姿勢を正した。既に栗栖女医の手当は終わっていた。
「本当の強さというものを履き違えないで。力がある事が強いってことではないわ」
「どういう意味ですか?」
俺は栗栖女医の言っている意味が理解できなかった。力を持っていることが強さではない?
では、強さとは一体なんだろうか?
「さっきも話したけれど、能力者も人間よ。私たちと何も変わらないわ。傷を負えば痛むし、その傷が致命傷なら死んでしまう。心も同じよ。悲しい事があれば傷つくし、それが限界を超えれば心が壊れてしまう。そこに例外はないわ。能力者だろうと、一ノ宮家だろうと、普通の人間だろうとね」
なんだろう? 彼女の話を聞いていると、焦燥感にかられる。それに、すごく不愉快だ。なんで、自分の事を言われているわけでもないのにこんな感覚に襲われるのか――――。
「それは……怜奈も同じってことですか?」
口に出して、知る。そうか、一ノ宮の事を言われているからだ。一ノ宮がまるで――――。
「ええ――そうよ」
「あいつが他の能力者と同じように精神を病んで、人間に危害を加えるようになるってことですか!?」
俺は我を忘れて、椅子から立ち上がり、声を張り上げていた。それが、俺の焦燥感の原因となる疑念だった。
だが、栗栖女医はそんな俺の様子を一瞥するだけで、至って冷静に話を続ける。
「そうなってしまう可能性もあるわ。実際、気が振れて暴走した能力者はこれまで沢山いたそうだし……彼女にだけ当てはまらない、なんて事はないわ」
「そ、そんな! そんな事あるはずないじゃないですか!」
「どうして、そう言い切れるの?」
「だって、それは――――」
たとえ能力者でも、あいつは人を傷つける事に、人を殺す事にひどく心を痛めているから――――。
そう言い掛けて、俺は思いとどまった。
そうか――それこそが一ノ宮が何一つ普通の人間と変わらない証拠なのか。
「気づいてくれたようね。人はね、どんな理由があろうと、誰かを傷つけたり、殺してしまえば、心が痛むものよ。心が傷ついてしまうの。傷つかないのは人の心を捨てた者だけ。それはもう人とは呼べないわ。でも、彼女は違う。人としての情もしっかり持っている。だからこそ、苦しいの」
「苦しい……怜奈が……」
「そうよ。苦しいの。そして、自分の力を振るう度に誰かの命が失われていくのが怖いの」
「怖い……」
俺は学園での一ノ宮との会話を思い出していた。あの時、なんであんな風に俺を拒絶するのか分からなかった。
でも、今なら分かるような気がする。あれは、俺を自分に関わらせて、危険な目にあってほしくなくて、俺が傷つく姿を見たくなくて、俺を突き放す様なことを言っていたのではないか――――。
「真藤君。本当に強い人っていうのは、大切な人が苦しい時に側にいて、支えてあげる事ができる人の事を言うのだと私は思うの」
「俺は……俺に……」
そんなことができるだろうか。一ノ宮が本当にどうしようもなく傷ついた時に、俺は彼女を支えてやれることができるだろうか。
「あなたならできると私は思うわ。だって、あなたは彼女の事が好き、なんでしょう?」
「――――」
そうだ――俺は一ノ宮怜奈の事が好きなんだ。だから、彼女を守りたいと思った。だけど、それは俺の自分勝手な思い上がりだった。本当に彼女の事が好きで大切ならば、俺がしなければいけないことは――――。
それが分かってしまえば、もう迷うことなど何もなかった。
俺は踵を返して、休憩室から出ようとしていた。
「どこにいくの?」
栗栖女医の問いかけに、俺は振り返り答える。
「帰ります。明日も朝から稽古があるので!」
「そう。がんばってね!」
栗栖女医は親指を立てながら微笑み、そう返した。
「ありがとうございました!」
俺は一礼した後、休憩室から出ると、一ノ宮を待たず病院を出た。
マンションの自室に帰り着くと、海翔も戻ってきていた。だけど、既に居間に布団をひき、すやすやと気持ちよさそうに寝ていた。
「ったく! こっちが大変な思いをしていたっていうのにコイツは――」
文句を言いながらも、不思議と笑みが漏れていた。それは、何一つ分からない日常がそこにあったからとすぐに気づいた。
時計を見ると、既に日付がとっくに変わっていた。流石に眠い。これ以上起きておくと明日が辛くなる。きっと明日も厳しい稽古が待っている。
俺は部屋着に着替えると、ベッドに身を投げ出す。
すると、一気に疲労感が増し、眠気が押し寄せてきた。
「はは――これじゃあ、今日一日あったことを整理するのもままならないな。あ、そう言えば――」
新一さんに一ノ宮の事を報告してなかった。
あの後、新一さんは大丈夫だったろうか。問題ないか。あんなごつい男が護衛に付いていたのだから。
(ん? 待てよ? 新一さん?)
新一さんの事を考えていると、俺が感じていた栗栖女医への既視感が何なのか、そこで初めて分かった。彼女は新一さんに似ているのだ。いい加減そうだが、その実、しっかりと決めると時は決める。そして、的確なアドバイスなんかもしてくるあたりとか、そっくりだ。
「ああ……なんだ、そういう……こと……か……」
もやもやしたものが晴れると、今度こそ完全に眠気が勝った。一気に意識が落ちていくのが分かる。
長い長い一日が終わった。
そして、この長かった一日が、これから始まる惨劇の幕開けにすぎないという事を、この時の俺はまだ知らない。




