幕間「蠢く者達」
獣の断末魔が月夜に轟く。
それを両目を瞑り、耳を澄まして聞いている人物が暗闇の中に佇んでいる。その人物は外套に身を包み、その顔は見て取れない。
「ほう――あれを倒したか。やはり、そう簡単なことではないか」
暗闇の中の人物は呆れたように頭を振るが、その口元は笑みで歪んでいる。
「そんな事言って、初めから殺す気なんか無かったくせに」
外套の人物の後ろから、そう声をかける別の人物が現れる。
外套の人物は振り返り、声をかけてきた人物を確認すると、ふっと笑みを漏らした。
声をかけてきた人物は男だった。ただ、その男の両手には怪しげな刺繍が入った手袋がはめられている。
「ああ、君か? 早かったな?」
「え? そうかい? まぁ、結界は時間制限付きにしていたしね」
外套の人物の質問に男は軽快に答える。だが、その答えは男が求めていたものではなかった。
「私の前で嘘を言うのはやめておけ。彼の予想外の行動で慌てて逃げ帰ってきたのだろう?」
「――――」
外套の人物の言葉に男は顔をしかめる。
だが、男はすぐに笑みを浮かべ、再び軽快に答える。
「ハッ――まさか!! 逃げ帰るなんて表現やめてくれ。
オレは見切りをつけただけだよ。あの獣じゃあ、あの能力者には勝てないとね」
男は手をヒラヒラさせながら、敗戦の言い訳を述べている。
あの獣――狼の怪物では、一ノ宮怜奈には勝てないと、男は初めから認識していた。
だが、外套の人物はその言葉の裏に隠された事実を突きつける。
「勝てないか――確かに勝つつもりなど毛頭なかった。
だが、手傷すら負わせられないとは思っていなかったはずだ」
「そ、それはっ!!」
男は外套の人物の言葉に、また顔をしかめる。だが、先程とは違い、その顔から笑みが浮かぶことはなく、険しい顔のままだ。
「彼の行動こそが、その最たる要因だ。
あの時、あの場で彼があの様な行動を起こすことなど、誰も予想できなかった。あの場にいた君や、一ノ宮の娘ですらな」
「ば、馬鹿言え。確かにあの人間の行動は予想外だったが、それでやられてしまったのは、あの獣が弱かったせいだろ?
あれは失敗作だったんだよ。只の人間如きに傷を負わせられるようでは――!!」
先程までの軽快さはなかったが、男はそれでも流暢に喋っていた。だが、その言葉も途中で途切れる。フードから覗く眼光が目に入ったためだ。
「おいおい、そんなに睨まないでくれよ! オレが悪いわけじゃないだろ?」
男は慌てて、弁解する。あの獣がやられたのは自分のせいではないのだと、この人物にはハッキリ言っておかなければ、そのまま自分の責任にされそうだったためだ。
「アレは失敗作などではない。魔術による完全なる生命体だ」
「あれが? あの犬コロが完全なる生命体だって?
おいおい、そんな冗談はよしてくれ。だったら何故、あんな人間に深傷を負わされたっていうんだ?」
男はそう言いながら、外套の人物の言葉を鼻で笑った。
それが気に障ったのか、外套の人物は鋭い眼光を再びフードから覗かせた。
「な、なんだよ?」
「あの生命体は太古の魔犬の細胞を魔術で培養したものだ。オリジナルまでとはいかなくとも、それに匹敵する力を有していた」
「魔犬……だって?」
「ああ、君も名なら聞いたことがあるはずだ。魔犬ケルベロスの名を」
「――――」
男はその名を聞いて唖然とした。
魔犬ケルベロス、それはギリシア神話に出てくる冥界の番犬の名だ。男は神話には詳しくなかったが、その名とその伝説ぐらいなら聞いたことがあった。
だからこそ、男は外套の人物が夢想を語っていると本気で思った。
「ハハ! これはまた、あんたにしては面白い冗談だな? ケルベロスだって? あれが?
おいおい、そもそも神話の中の生き物が実在したなんて信じることすらできないが、ケルベロスなんて明らかな嘘を信じる僕じゃないよ」
「ほう――嘘、などと何故思う?」
「そんなの決まってるじゃないか! ケルベロスは三つの頭を持つ犬だろ? そんなの神話に詳しくなくても知ってるよ」
男は得意げにそう答えながらも、不愉快だった。正直、嘘付かれるよりも、そんなことも知らないと思われていた事の方が心外だった。
「フフ――三つの頭か。それは、これのことか?」
「え!?」
男は驚愕した。
気づけば、外套の人物の足下にフンフンと鼻を鳴らす生き物がいた。それは明らかに犬だった。
だが、その犬には明らかに異常な部分があった。頭が――三つ存在していたのだ。
そして、外套の人物が何やら呟くと、その犬にさらなる異変が起きた。男はその異変にさらに驚愕する。
「そ、そんな――バカな!?」
男が驚くのも無理はなかった。三つの頭を持つ犬は、グニャリと形を変え、三つに分かれ、三匹の犬に変わったのだ。
「これで、信じる気になったか?」
「――――」
外套の人物の問いかけに、男は答えることができなかった。いや、言葉を失っていた。それほど、自分が目にしたものが衝撃的だった。
「フ――まあ、いい。君が信じるかどうかはともかく、あの獣はケルベロスのうち一匹だ。君の言う只の人間を殺すことなど造作もない。
だが、その只の人間に傷を負わせられ、それが原因で負けたとなると、それは、扱う人間に問題があったとは思わないか?」
「ちょ、ちょっと待て! じゃあ、何か? オレに原因があったっていうのかよ!?」
「違うのか?」
「じょ、冗談じゃない! オレはあんたに言われた通りに、一ノ宮の娘の相手をしていただけだ!
もし、原因があるとすれば、それはあんたの計画にミスがあったんじゃないのか?」
男は焦っていた。今回の失態が自分に押しつけられそうになっていたために。
今回の敗戦はだれがどう責任を取るようなものではない。だが、この外套の人物に愚か者だと思われることだけは、男は避けたかった。この場で、外套の人物に過小評価されてしまえば、今後の行動に支障を来しかねない。
だが、外套の人物はその様子を見て、フッと笑みを漏らした後、言葉を続けた。
「まあいい。それにしても、只の人間か……君からそんな言葉を聞ける日が来ようとはな」
「な、なんだよ?」
「いや、なに、君もこちら側の人間らしくなったと思っただけだ」
外套の人物は先程とは打って変わって愉快そうに言った。
だが、男にとってはその言葉は不愉快そのものだった。だが、怒りはしない。いや、この人物の前で感情を表に出すことはしたくなかった。故に、男は外套の人物の言葉に鼻で笑って答えた。
「ハ! やめてくれ。オレはあんたとは目的が違う。一緒にしないでくれ」
「フフ――目的が違う、か」
「何が可笑しい?」
男にとって、その微笑が気に障った。男は馬鹿にされたようにな気がした。自身の目的が取るに足らないものだと言われたような気がしたのだ。
男は感情を露わにする程ではなかったが、外套の人物を睨んでいた。
「いや――何も。君の言うとおりだ。君と私とでは目的が違う。だが、利害が一致している。それ故に、私は君に力を授け、君は私の代わりに作戦を実行に移している。互いの目的のために」
「そうだ。分かっているじゃないか。だったら、仲間のような言い方はやめてくれ」
「分かった。以後、気をつけよう」
男は外套の人物の返事を聞くと納得したのか、睨むのをやめた。
“そうだ――オレはお前とは違う”
男は心の中で再度、その言葉を繰り返した。
外套の人物の目的は聞いて知っている。その目的も、この人物の願いも馬鹿げたものだ。言ってしまえば、妄想に近い。それを初めて聞かされた時は、ただただ、呆れさせられた。
男は自分の目的と比べれば、この外套の人物の目的の方が非現実的で、低俗なものだと、心の中で嘲笑っていた。
だからこそ、この人物は利用できると考えた。この外套の人物が夢想家で愚か者であることは確かだが、この人物が使う摩訶不思議な術は、評価すべきものがあった。その術こそが自身の目的を果たす近道になると、男は直感していた。
故に、男は外套の人物の世迷い言に付き合うことにした。いや、付き合うふりをした。そして、男は外套の人物を一時的に師と仰ぐことで、この人物が使う摩訶不思議な術を―――魔術を身につけることに成功した。
だが、それは外套の人物の利用価値がなくなったことを意味していた。それでも、男はこの人物と共に居続けた。この人物をさらに利用すれば、自分の目的に近づけることが分かっていたから。
男と外套の人物とでは目的は違っていたが、幸い利害は一致していた。共に居ることは不自然な事ではなく、当たり前の事と相手も認識してくれた。
そして、男の予想通り、今現在、目的を果たす目前にまで迫っている。
“待っていろ――すべてが終わった後は――――”
男は心の中でそう呟き、嘲笑う。だが、その感情は決して表に出ることはない。
「さて、それで? これからどうするんだい?」
男は何事もなかったように、外套の人物に問いかけた。
「無粋な質問だな」
外套の人物は抑揚なく答える。
遊びのない言葉に男はうんざりしながらも、それに応える。
「じゃあ、手はず通りでいいんだね?」
「ああ。すべて予定通りだ」
男はその言葉だけ聞ければ、それで満足した。
内心では多少に不安に思っていた。あの獣が倒される事は予定通りとはいえ、一ノ宮怜奈に手傷すら負わせられなかった事は、予想外の事態だった。
この事態に、外套の人物が計画を変更するのではないかと、内心では心配していた。そんな事になれば、自分の目的を達成することに支障を来たしかねない。
だが、その心配も杞憂だったようだ。この人物は多少の想定外の事態が発生しようとも計画を変更するような人間ではない。
「りょーかい。それじゃあ、オレは行くよ。次の準備もあるからね」
男のその言葉に、外套の人物は何も反応しなかったが、男はそれを了解の意味と捉えた。
そして、男は軽快な足取りで夜の暗闇の中へと消えていった。
残された外套の人物は、男が居なくなった後も同じ場所に佇んでいた。
「自身の失敗と力量を顧みないその愚かさ、命取りにならなければ良いがな」
男は誰もいないその場所でポツリとそう呟いた。誰に聞かせるわけでもないその言葉。その言葉の意味も真意も、その言葉を口にした人物にしか分からない。
「真藤一輝――――やはり君は私の邪魔をしてくれる。“三年前”と同様に。だからこそ、すべては予定通りだ」
驚くべきことに、外套の人物にとって、これまでの事はすべて予定通りだった。真藤一輝の行動も、それによって獣が倒されることも、一ノ宮怜奈が無傷のままなことも。
だが、それだけではない。この人物とって、すべての事象が掌の上のことだった。
真藤一輝が噂を聞きつけ、如月学園に侵入すること。
彼が野犬に追われ、別棟に逃げ込むこと。
そこに『第三者』の介入があること。
一ノ宮怜奈の介入があること。
そして、それに伴う結果も。
どれも予定通りだった。そして、これから起きる事も予定通りに進むと信じて疑わない。
「“三年前”は失敗した。だが、今回に限っては失敗は有り得ない。そのための布石も既に打ってある」
外套の人物は顔を上げ、月を眺める。
「もうすぐだ。もうすぐ叶う。私の――長年の願いが――――」
外套の人物は、感慨に浸っていた。待ち遠しかったものが手に入る直前の子供のように、眼を輝かしている。
だが、その眼に暗い灯がともる。
「だが、その前に――」
外套の人物は左手で被っていたフードを掴み、ゆっくりと外した。
そこには、端正な顔立ちをした男とも女とも見て取れる顔がそこにあった。
「お前に挨拶ぐらいはしておこうか――魔弾の射手!」
外套の人物は月を見上げたまま、不敵な笑みをこぼしている。




