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旋風と衝撃の狭間で  作者: みどー
禍ツ闇夜編
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第5話「獣の宴」



 稽古が終わった後、俺は弘蔵さん宅で晩ご飯を頂いた。最近では、既にこれが常習化しており、俺と一ノ宮、弘蔵さんで食卓を囲っていることが多い。


「それで?石塚君、何しに来たの?」


 晩ご飯を食べている途中で、一ノ宮は海翔が昼間に道場に来た理由を聞いてきた。


「え?ああ―――資料を届けに来たんだよ」

「資料?何の?」

「新一さんに頼まれていたものだよ。本当は僕が調べる予定だったんだけどね。時間ないから海翔にお願いしたんだ」


 俺は一ノ宮に嘘をついた。今、俺の手元にある資料は、俺が新一さんに頼んだものだ。そして、それを新一さんが海翔に頼んだに過ぎない。

 俺は一ノ宮に、今、街に流れている噂を調査している事を知られたくなかった。奇妙な噂、さらには“ヤツ”の噂は、現段階では眉唾ものに過ぎない。それを一ノ宮の耳に入れて、彼女に余計な心配事を増やす必要はない。何よりも、俺がこんな事を調べているなんて知ったら、一ノ宮は確実に止めにくるに違いない。これは俺個人の興味で調べているものだ。調査できなくなってしまう事態だけにはしたくなかった。


「そう、間島の。アルバイトも大変ね?それに付き合わされる石塚君も。

 なんだったら、私の方から間島に言ってあげましょうか?あんまり、真藤君に仕事を押しつけるなって」

「はは――大丈夫だ。海翔はどうか知らないけど、僕は迷惑には思ってないし」

「そう―――ならいいのだけど」


 一ノ宮はそう言うと少し残念そうな表情をした。

 海翔とは事情が違うようだが、一ノ宮は俺が間島探偵事務所で働くことを何故か嫌っている。ただ、無理に辞めさせようとはせず、見守っているだけだ。

 以前、俺は一ノ宮に俺が新一さんの所で働くことに反対している理由を聞いてみた。その時、彼女が答えた理由は要領を得ないものだった。


『間島は―――ある意味、私たち一ノ宮家の人間以上の罪人だから』


 ただ、それだけだった。一ノ宮はそれ以上は語ろうとはしなかった。俺は意味が分からなかったが、そこには一ノ宮家とは別の事情がそこにあるように思えた。そう―――新一さん個人の事情が。


 だが、今の俺には、それよりも気になることがある。


「俺より一ノ宮の方こそ大丈夫かい?」

「え―――?」

「いや、さっきから箸が進んでないようだから。どこか体調でも悪いのか?」

「そ、そんなことないわよ?」

「本当――か?」


 俺は否定している一ノ宮の顔をじっと見て、聞き直した。


「な、何よ?」


 一ノ宮は少し恥ずかしそうして顔を背けた。

 だが、その背けた顔の目の下に少し隈ができているのを俺は見逃さなかった。


「隈ができてるじゃないか!ちゃんと夜寝れてる?」

「だ、大丈夫よ!最近、すこし寝不足なだけ。気にしないで」


 一ノ宮は俺のさらなる追求に、不機嫌になり、さらにそっぽを向いてしまった。


「怜奈や。今日は泊まっていったらどうだい?」


 突然、弘蔵さんが俺と一ノ宮の会話に割り込み、そんなことを言ってきた。


「え?今日ですか?ですが…そんな急には悪いです」

「構いはしないよ。寝不足というなら、偶には環境を変えてみるのもいいかもしれないよ?」

「は、はぁ…わかりました。お言葉に甘えてそうさせていただきます」


 一ノ宮は弘蔵さんの言葉に納得はしていなかったが、それでも断る理由もなかったのだろう、弘蔵さんの提案を受け入れた。

 こうして、一ノ宮は弘蔵さん宅に泊まる事になり、俺は食事が終わると、いつもの通りに帰ることになった。




 俺は弘蔵さん宅を出ると、真っ直ぐ自分のマンションに戻ることにした。新一さんの事務所に寄って帰ろうとも思ったが、既に夜九時を回っていた。昼間、海翔との話も途中だったこともある。海翔は先に帰っていると言っていたから、今日は部屋にいるはずだ。昼間の話の続きする必要あるならば、寄り道しない方がいいだろう。




「ただいまー」


 俺は自分のマンションの部屋に扉を開けると、帰宅を知らせる挨拶をする。それは一人暮らしの俺ならば必要のないもののはずだが、今は同居人にがいる。

 俺は『おかえり』という言葉を期待していたが、予想に反して、その声が返ってくることはなかった。

 玄関を見ると、同居人の靴はなかった。海翔は帰ってきてないのだ。


「あいつ…どこ行ったんだ?」


 俺は海翔がいないことを不満に思いながらも、これからどうするか考えた。

 海翔からもらった資料を取り出し、読み直す。


『毎夜の闇に乗じて如月学園で獣が宴を開いている』


「やっぱりこの噂からだよな。調べるなら。

 海翔は何もなかったって言ってたけど、実際に自分で行って見てみないと納得できないしな」


 別に海翔を疑っているわけではないが、やはり、俺は自分の目で見ないことには納得できない性分のなのだ。


 調べると決めた以上、早い方がいい。

 俺はこれから実際に如月学園に行ってみることにした。


「本当は海翔にも付いてきて欲しかったんだけど、仕方ないな」


 俺は自分一人で夜の如月学園に行くことに多少の不安を感じていたが、それでも、海翔の話からは危険がないと思えたためか、一人で行くことを決意した。

 俺は、押入の中から、隠しておいた木刀を取り出す。その木刀を木刀袋に入れると、俺はマンションから出た。




 午後十時。


「やれやれ、まさか、こんな不審者みたいな事をするようになるとはな――っと!」


 俺は如月学園の塀をよじ登り、飛び越え、校内へと進入する。

 結構な高さのある塀だったので、着地の瞬間にそれなりの衝撃が足に伝わる。


「つ~~!!やっぱりちょっと無理があったかな」


 足をさすりながら、俺は立ち上がり、周りを見渡す。

 グラウンドと大きな校舎、あとは自転車置き場があるだけだ。その他に変わったところは見当たらなかった。


「異常…なしか。なら、校舎に入ってみるか」


 俺は木刀袋を肩に掛け直すと、校舎へと近づいて行った。


「つっても、ドアや窓が開いているとは思えないけど…」


 俺は校舎の見上げながらも、当たり前の事を呟いた。

 見上げた校舎の中には、一切の光がなく、不気味さを感じる。夜の学校なのだから、当たり前と言えば、当たり前なのだが。

 俺は、しらみ潰しにドアや窓を調べるつもりでいた。開いているなんて可能性は極めて低い。セキュリティが厳しくなっているこのご時世に不用心に鍵の締め忘れがあるとは思えなかったからだ。

 だが―――。


「―――開いてる」


 最初に調べた窓には施錠がされていなかった。まさかの事に、俺は驚いいた。

 如月学園は近年、急成長した進学校で、最近では校舎内を改築して、エスカレータやエレベータなどの取り付けを行っている。当たり前のことだが、それに伴い、セキュリティも強化されている。

 にも関わらず、この不用心さ。これでは、この学園で何かが起こっていると勘ぐりたくもなる。


「と、とりあえず入ってみるか」


 俺は意を決して、窓から暗闇の校舎の中へと侵入した。



 侵入した先は廊下だった。どうやら、侵入した場所は、一年生の教室の前の廊下だったようだ。

 如月学園は、校舎が二棟存在しており、そのそれぞれに各学年の教室があり、一階には一年生、二階には二年生、三階には三年生の教室がある。学年毎に十クラスあり、各棟の各階に五クラスが入っている。

 一本の廊下に沿ってそれぞれの教室があるため、廊下は五教室分の長さがある。

 そして、その廊下は途中で右に曲がる道と、真っ直ぐ進む道とに分かれている。真っ直ぐ行けば、また廊下に沿うように教室がある。右に曲がれば、少し進んだ所にドアノブ付きの鉄製の扉がある。この扉の先は、もう一方の校舎とを連絡するための渡り廊下となっている。この渡り廊下は、各階に造られており、どの階からでも、もう一方の校舎に行くことが可能だ。




「さて…運良く?侵入できたのはいいが、どこから調べるか…」


 少し廊下を歩いた後、俺は立ち止まり、腕を組みをして考え込んだ。

 別にあの噂を真に受けているわけではない。だが、あんな噂が流れること自体、異常な事なのだ。

 どの噂にしてもそうなのだが、あんな根も葉もない噂は、本来であれば、すぐに立ち消えてしまう物のはずだ。それが、一ヶ月もの間、立ち消えることなく流れ続けている。それも、如月町と皐月町の隅々まで。

 俺には、それが何か理由があるようにしかには思えなかった。

 この如月学園にも、あの噂が流れるような原因が存在するのではないか―――。


 俺は考えを巡らせながら、とりあえず長い廊下を歩いた。

 夜の学校のため、薄気味悪さはあるが、海翔の言う通り変わったところはない。

 途中、教室の中にも入ってみようと思ったが、さすがに教室の扉は施錠がされていた。

 俺はそのまま、長い廊下を歩き続け、廊下の突き当たりと曲がり角が見えてき始めていた。


 その時だった―――丁度その曲がり角の先の辺りからカチッカチッと金属製の音がした。


「―――なんだ?」


 それは規則正しく、そして次第に大きくなっていく。まるで、こちらに近づいてくる足音のように。


「なにか―――近づいてくる!!」


 俺は無意識の内に左肩に掛けていた木刀袋に手をかけていた。

 

 呼吸が―――止まる。

 音が―――耳鳴りのように聞こえる。

 背筋に悪寒が―――走る。

 悪寒はあれど―――冷や汗は溢れる。

 寒い、寒い。暑い、暑い。

 相反する感覚が体中を駆けめぐり、吐き気さえ催す。


 呼吸は乱れ、身体は変調をきたす。

 それでも、視覚だけはハッキリとしている。廊下の突き当たりの曲がり角、そこにだけ意識が集中し、まるで望遠鏡で覗いた時のように、その場所が近くに見える。

 耳鳴りがしているはずなのに、音はハッキリと聞こえる。それは、音の主がすぐ近くまで来ていることを意味している。

 音はハッキリと聞こえてくるようになった時には、呼吸の乱れも耳鳴りも、身体の変調すら気にならなくなった。いや―――気にしている場合ではない。


「―――く、る」


 そして―――音の正体が露わとなる。


「い―――ぬ?」


 真っ黒い体躯に、地へと伸びた四肢が、窓から差し込む月明かりに照らされている。耳を澄ませば、ハッハッという独特の息づかいさえも聞こえてくる。

 俺の目の前に現れたのは、真っ黒い毛並みの大きな犬だった。


「野犬―――なのか?でも―――」


 何故、こんな場所にいるのか―――。

 そんな疑問が沸いてきたものも、その答えが分かるはずもない事がすぐに分かった。

 ここは夜の学校で、野犬が校舎を歩き回ることなどありえない。例え、施錠し忘れた窓があったとしても、俺のようにその窓を開けて入ってくることなどありえない。誰かが、意図的に校舎の中に放たない限りは―――。


 俺は予想外の相手に呆然とし、木刀袋からも手を離していた。

 だが―――野犬にとっては、俺の存在は招かれざる客だったようだ。



 野犬は俺の存在を視認すると、低いうなり声を上げ、犬歯を露出させる。

 威嚇の行動―――いや、敵意の現れだ。

 

「やべ!ぼーっとしてる場合じゃないな、これは」


 俺は野犬から視線を切ることなく、廊下の窓際へと横へゆっくりと移動する。野犬は威嚇を続けながら、じっとその様子を見ている。

 そして、俺が窓の側まで行き、窓の鍵に手を伸ばした、その瞬間―――。


「ウォーーーーン!」


 突然、野犬は大きな遠吠えを発した。

 すると、その遠吠えに呼応するかのように、幾つもの犬の遠吠えが聞こえてくる。それは近くから聞こえるものあり、遠くから聞こえるものもある。


「な、なんだ…一体、どこから―――」


 視線を野犬から切り、窓の外を見た瞬間、俺は驚愕した。



 窓の外のすぐ側にぞろぞろと十匹ほどの犬が集まってきていた。窓の外の犬は、小型犬から大型犬までおり、俺の前にいる野犬と似た姿をしたものから、全く異なるものまで様々だ。

 そのすべての犬が俺に対して、威嚇の態勢にとっている。


「どうして―――こんな―――」


 俺は、目の前にいた野犬に視線を戻す。すると、気づかないうちに、元いた野犬の後ろに、さらに三匹の野犬が姿を見せていた。


「うそ、だろ?」


 俺は愕然とした。外にも、そして、自分の目の前にも敵意を露わしている野犬がいる。この野犬達に襲われれば、ひとたまりもない。最悪、命を落としかねない。いや、確実に落とすだろう。

 逃げなくてはならない。それでも、足が竦む。目の前の恐怖に足が竦み、震えてしまっていた。


“しっかりしろ、一輝!今は自分の身を守ることだけ考えろ!”


 俺は心の中で自分を叱咤する。

 そして、足の震えを無理矢理押さえ込み、野犬に背を向け、自分が歩いてきた廊下を全力で逆走した。


 駆けだしてすぐに、後を追ってくる野犬の足音が後ろから聞こえくる。

 俺は振り返ることなく、全速力で走りながら、左肩に掛けていた木刀袋を掴み、中から木刀を引き抜く。

 武器と呼べる物はこの木刀のみしかない。殺傷性は低く、相手に致命傷を与えることなど、ほぼ不可能な武器だ。いや、上手くやれば致命傷を与えられるかもしれないが、俺にはそんな力も技量もない。だが、何もないよりはましだ。今はこの木刀だけが、自信の身を守ってくれる唯一の物なのだ。


 後ろを見る。四匹の野犬は列を作り、俺を追ってきている。

 複数の相手に追われている時の応戦方法については弘蔵さんから以前教わったことがある。


 足が一番速い追っ手が先頭で追ってくることになる。その追っ手が自信に最も接近した瞬間、振り向いて一撃を加える。そして、また逃走する。その行為を繰り返すことで追っ手を振り切る戦法だ。

 だが―――今回の追っ手は人間ではなく、野犬だ。知性があるものは、警戒から安易には近づかない。だが、野犬のような動物は、知性による行動はほとんどない。逃走者に噛みつくことをだけを目的としている。逃走者がどんな行動を取ろうがお構いなしだ。

 さらには、武器として持っているのは殺傷性の低い木刀で、それを扱う人間も半端者だ。それでは、この戦法を用いるにはリスクが大きすぎる。

 確実に、追っ手を倒す一撃がなければ、確実に食いつかれる可能性の方が高い。そして、一度足を止めてしまえば、次々と追っ手に捕まることになるだろう。それでは、命がない。

 せめて、二匹ぐらいであれば――――――。


「くそ―――何とか振り切るしかないか!」


 俺は無駄な考えを振り捨て、木刀を握ったまま、走り続ける。


 廊下の突き当たりまで行くと、廊下は直角に折れ曲がっていた。

 俺は走る速度を落とすことなく、突き当たりの壁に衝突するギリギリの所で、方向転換して曲がる。

 曲がった先には停止したエスカレータがあった。

 俺はエスカレータを駆け上がる。今は上に逃げるしかない。


 エスカレータを駆け上がる途中で、背後で鈍い音がした。見れば、先頭で追ってきていた野犬が曲がり角を曲がりきれず、壁に激突していた。そして、その後ろにいた野犬もそれに巻き込まれる形で、衝突していく。

 俺はその隙にエスカレータを駆け上がり、二階まで登る。

 俺は二階まで上がり終えると、振り向き、下の様子を伺う。

 すると、すでに野犬はエスカレータを駆け上がり始めていた。


「頼む!動いてくれよ!!」


 俺はエスカレータの脇にあるエスカレータの作動スイッチを押す。

 押した直後にエスカレータを音を立てながら、上から下へと動き始めた。

 野犬は、下へと動き始めたエスカレータの動きに対応できず、四匹とももつれるようにして、転げ落ちていった。


「助かった―――」


 安堵の息を漏らしながら、その場にへたり込む。危機的状況は去ったと思った。

 だが、再度、一階の様子を見た時、俺は戦慄した。

 一階へと落ちていった野犬は諦めてはいなかった。上と動く逆側エスカレータを登ってこようとしている。

 俺は慌てて、エスカレータを停止させる。だが、野犬の勢いは止まらない。


「くそ!かくなる上は―――」


 俺は木刀を握っている右手に力を込め、木刀振り上げ、上段の構えで野犬を待ち構える。

 先頭を走ってきていた野犬はエスカレータを登り終え、俺に飛びかかろうとする。


「ヤァ!!」


 野犬が飛びかかろうとした瞬間、発声と共に俺は木刀を思いっきり振り下ろした。

 木刀は野犬の頭部に見事当たり、野犬は吹っ飛ぶ形で再びエスカレータを転げ落ちる。それと同時に後ろに続いていた他の野犬も一緒にもつれるように落ちていった。

 転げ落ちた野犬は、まだ起き上がりはするが、戦意を失ったのか、その場で右往左往している。


 俺はそれを確認すると、さらに上の階を目指して、急いでエスカレータを登る。

 二階では心許ない。三階に上がって、どこか身を隠せる場所を探すしかない。



 三階は静かなものだった。

 俺は三階の廊下を進みながら、教室の扉や窓が開いていないかチェックしていく。

 二つの教室をチェックしたが、開いてはいなかった。

 次の教室へ行く途中、廊下が真っ直ぐ進む道と右に曲がる道に分かれていた。曲がり角の先を見ると、別棟に通じる渡り廊下へと出る扉があることに気づく。

 俺はそこを通りすぎ、教室の扉をチェックする。


「――――開いている」


 驚いたことに、三つ目の教室は扉は施錠されていなかった。

 俺は当惑しながらも、そのまま扉を開けた。


「――――――」


 開けた瞬間、愕然とした。

 教室の中には五匹以上はいるだろうか、一階にいたのと同じような野犬がいた。


「そ、そんな―――」


 今度こそ、逃げきれない。そう思った。

 俺は後ずさることも、木刀を構えることもできなかった。ただ、頭の中が真っ白になり、今の状況に目眩がして、その場にうずくまりたくなった。


 逃げなくてはならない―――。

 だが、恐怖で――絶望で――体が動かない。


 野犬は俺を見据え、俺の方へと近づいてくる。

 犬の独特の息づかいが、やけにハッキリと聞こえ、吐き気がする。


 自信が置かれた状況に絶望し、逃げる気力すらない。


“ここで―――俺は、死ぬ―――?”


 そう思った瞬間だった。


『渡り廊下へ逃げて―――あっちの棟には、奴らはいない』


 すぐ近くで、そんな女性の声が聞こえてきた。


「え―――」


 突然のことに俺は驚愕する。

 辺りを見渡しても、野犬以外には誰もいない。


『早く!!』


 俺はその声に弾かれるように走り出し、渡り廊下の方へ引き返す。

 後ろからは野犬の追ってくる足音がする。

 俺は無我夢中で走った。そして、渡り廊下へと出る扉を開け、飛び出した。



 渡り廊下に出ると、月明かりで明るかった。

 俺は急いで、扉を閉める。閉めた途端、扉に野犬が激突する音がした。

 

 俺はほっと安堵の息を漏らす。犬ではこの扉を開けることはできない。

 だが、まだ安心はできない。俺はすぐに走り出し、渡り廊下を進む。


 渡り廊下の中腹に差し掛かった時、俺は異変に気づいた。

 月明かりがあるのに、自分のいる場所だけ薄暗い。そして、自分の影がない。


“いや―――違う―――”


 何か別の影で自分の影が隠れてしまっているのだという事に俺は気づく。

 三階の渡り廊下には、屋根はない。そこに影が出来るということは、高所に何かがあるからだ。


 俺は、恐る恐る振り返り、先程までいた校舎の屋上を見上げた。



 そこには―――大きな黒い、そして見覚えのある形をした『獣』が―――。


「な―――」


 俺は言葉を失った。それがあまりにも現実離れしたものであったために。

 屋上にいる存在は、明らかに常識から逸脱した存在だった。

 

 視線を切ることができない。俺は金縛りあったように、その存在を見つめ続けることしかできなかった。

 そして、当然のことながらその獣と目が合う。その瞬間―――。


「■■■■■■■■■――――――!」


 聞き取ることもできない雄叫びが獣から発せられる。

 大気は震え、地震のように建物は揺れる。

 それは雄叫びというには易しすぎる。


 それは―――咆哮そのものだった。




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