エピローグ「追憶の彼方へ」
ここはどこだろう?
気づけば、私は暗闇の中にいた。
いや、単なる暗闇ではない。全身がひんやりとしてたもの包まれ、体はふわふわと浮いているように感じる。
これは―――水のなか?
ううん、違う。これは単なるの水じゃない。水の中には流れがある。水流だ。
これは―――海?
でも、本当に海の中なのだろうか?
潮の匂いもしないし、何より、私は呼吸ができている。
私は魚にでもなってしまったのだろうか?
だとしたら、私は深海魚になってしまったのだろう。この海には光がない。太陽の光が。
暗い暗い海の中を私は漂っている。
私はどうしてこんな所にいるのだろう?
確か私は怜奈と喧嘩して、それから、真藤君と文化祭を回る約束したんだ。怜奈と仲直りするためにも、文化祭で彼に怜奈を紹介するつもりでいたんだ。
真藤君と約束を取り付けた私は期待と不安に胸を弾ませながら家に戻ったんだ。
それから――――――あれ?それからどうしたんだっけ?
思い出せない。家に戻った後のことが何も思い出せない。
私―――一体、どうしてしまったのだろう?
私は自分の記憶があやふやなことに一抹の不安を覚えながらも、今の私にはそれ以上の心配事があった。
何故、私はこんな所を漂っているのかということだ。
でも、考えても分からない。記憶を辿っても、その記憶がない。これでは、八方塞がりだ。
とりあえず、ここから抜け出す方法を探し出さなければ―――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
四月。高校の入学式当日の朝。
登校中に私は足を止め、通りすがりの空き地を眺めていた。
そこには、一人の男子生徒と一匹の子猫がいた。
男子生徒は私の高校の制服を着ていた。きっと同じ学校の人だ。もっと言えば、制服が真新しいから、きっと新入生だ。横顔だけだが、その顔は端整な顔立ちで、優しそうな人に見える。
子猫は、その男子生徒の足下にすり寄り、ミーミーと鳴いている。
男子生徒はしゃがみ込み、猫の頭を撫でる。
「ごめんな。何も持ってないんだよ。
お前、一人か?親とはぐれたのか?」
男子生徒は猫を撫でながら、問いかける。
当たり前だが、猫はその問いかけに応えることはない。ミーミーと鳴き続けるだけだ。
男子生徒は一頻り猫を撫でた後、立ち上がった。
「それじゃあ、俺は行くよ。
あ、そうだ。明日、ミルク持ってきてやるよ。それまで、元気でいろよ」
子猫にそう言って、彼はこちらを振り返る。
私は慌てて、目を背け歩き出した。
その次の日、登校中に同じ空き地の側を通ると、その空き地に本当に昨日の男子生徒がいた。
そして、彼の足下には昨日と同じ子猫がすり寄っていた。
彼は鞄からミルクとお椀を取り出し、お椀にミルクを注ぐ。
“本当に持ってきたんだ―――”
私は驚いていた。彼が昨日猫との別れ際に言った言葉は、冗談なのだろうと思っていた。けれど、それは違った。彼は本当に猫の事を心配していたのだ。
ミルクを喜んで飲み続ける猫を彼は撫でながら、嬉しそうに見つめ続けていた。
その優しい眼差しが印象的だった。
そして、その次の日も、そのまた次の日も彼は、猫にミルクを与え続けていた。
私は知らず知らずの内に、同じ場所で足を止め、空き地に彼がいることを確認するようになっていた。そして、彼がいれば、彼に気づかれないように眺め続けていた。
“あの人は一体誰なんだろう?なんて名前の人かな?何組なんだろう?”
気づけば、そんな考えが巡るようになっていた。
そして、それが二週間続いたある日、朝同じように空き地の前を通ると、その日は男子生徒も子猫もいなかった。
“今日は一体どうしたんだろう?”
私は辺りを見渡し、彼と子猫の姿を探した。
すると、五十メートル後方にある交差点の方で、見覚えのある姿を見つけた。
交差点の手前にあの男子生徒がいた。そして、交差点を挟んだ道路にあの子猫がいた。
子猫は彼を見つけると、彼のもとに駆け寄ろうと交差点を渡っていく。
そこに―――乗用車が―――
“危ない―――!”
私は心の中で叫んだ。
だが、乗用車は止まることなく、子猫に近づく。子猫は横から近づく乗用車に気づいていない。
男子生徒は慌てて、子猫のもとに駆け寄ろうとしていた。けれど、もう間に合わない。
きっと私だけなく、彼ももうダメだと思っただろう。
その時、彼の脇を通り抜ける人影があった。
それは乗用車がすぐそこまで迫っているのにも関わらず、躊躇することなく、子猫のもとに飛び出し、子猫を抱え込んだ。
誰しもが驚いていた。その人の身のこなしは常軌を逸していた。
子猫を抱え込むと、その人は跳んだ。
そして、間一髪で乗用車を交わし、転がるようにして交差点を渡った。
その人物が起きあがった時、私は目を瞠った。
人の身のこなしとは到底思えなかったその人物はなんと女性だった。しかも、その女性は私と同じ制服を着ていた。なにより、その顔には見覚えがあった。
“あの子は確か―――”
彼女は、起きあがると腕に中にいる子猫をゆっくりと地面に降ろした。
「今度から気をつけなさい」
彼女をはそう言うと、子猫の頭を撫でて、優しく微笑んだ。
その微笑んだ顔がとっても綺麗で可愛かった。
私と彼は、交差点を挟んで、その彼女を呆然と見つめていた。
これが、私が真藤一輝を好きになった経緯で、それと同時に一ノ宮怜奈を好きになった経緯でもある。
そして、おそらくは彼が彼女を好きになった経緯でもあるのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれ?私、寝てしまっていたのだろうか?意識が朦朧とする。
懐かしい夢を見ていた。あれはいつことだったろうか?
あの時からそれほど経っていないはずなのに、もう何年も前のような気がする。
私がここに来て、どれくらいの時間が流れただろう?
ここは暗くて何も見えないから、時間感覚すらもない。とりあえず、気が遠くなるほどの時間が流れてしまったのは確かだろう。
あれから私はこの暗い海の中を漂いながらも、ここから抜け出す方法を探し続けた。
けれど、見つけることはできなかった。
この海には終わりがなかった。
水面を目指し、上へ上へと泳いでも、水面はおろか、陽の光すら見えてこなかった。
そして、どこまで行っても、暗い海に終わりはなかった。
私は既に諦めた気持ちでいた。
もういいよね?
私、このまま漂い続けるだけなんだよね?
きっともう文化祭も終わっている。
結局、真藤君に怜奈を紹介してあげれなかった。
結局、怜奈と仲直りできなかった。
結局、三人で文化祭を回ることができなかった。
もういいよ。もういい。
このまま、私は誰もいない場所で独りぼっちで、誰にも知られることなく消えていくのだ。
だったら、もう何を望んでも意味はない。
だったら―――早く死んでしまいたい―――。
死――――――。
死というものを実感した時、私は言いしれぬ不安に襲われた。
これは―――死への恐怖?
違う――――これは、記憶から、経験からもたらされる不安だ。
私は、ごく最近に死に対して、絶望と恐怖を経験したような気がする。
私は―――私は―――人を―――殺した?
そうだ。思い出した。
私は人を殺した。それも沢山。
しかもそれには―――パパとママも含まれている。
私は自分の両親を殺してしまったんだ。
そして、私は怜奈と―――。
思い出した―――すべてを。
そうか―――私はもう―――。
だったら、納得いく。
でも、何か違うような気がする。
いや、これは私が認めたくないだけだ。自分が死んでしまったなんて事を。
そうだ。認めるわけにいかない。
だって、私には心残りがいっぱいある。
真藤君ともっとおしゃべりしたいし、怜奈とももっといっぱい色々なことを一緒に楽しみたい。真藤君と怜奈と私で、楽しい高校生活を謳歌したい。
そして、何よりも―――最後に見た怜奈の顔が忘れられない。
怜奈は笑っていた。必死に私のために笑ってくれていた。目に涙をいっぱい溜めて。
あの笑顔が最後なんて、イヤだ。
私は彼女の本当の笑顔が見たい。あの綺麗で可愛い笑顔が見たいのだ。
だから―――死ねない―――死にたくない!
諦めかけていた心に、生への渇望が蘇る。
「ここから出して!私はこんなところにいたくない。ううん、いるわけにはいかないの!私は戻らなきゃならないの!怜奈のもとに!
だから―――ここから出して!!」
その瞬間、暗い海に光が灯った。
陽の光ではない。なぜなら、光っているのは私の目の前だからだ。それに光っているという表現も正しくない。どちらかと言うと、輝いていると言った方が正しい。
これは、一体――――――!
光への疑問が浮かんだ直後、私は自分の眼を疑った。
光の中から人が―――少年が現れたのだ。
「あ、あなた一体―――」
私は目の前にいる少年に問いかけた。だが、少年は答えず、ずっと私を見据えている。
「あなたは、天使なの?」
一言も発しない少年に私はさらに問いかけた。
私は自分でもありえない問いかけをしたと思っている。けれど、それは仕方のないことだった。だって、少年の背中には純白の翼が生えていたから。
少年は私のその問いかけに一瞬目を見開き、そして、すぐに表情を崩して、苦笑した。
「はは!なるほど。やっぱり、こっち側でも間違えられるんだね。
でも、仕方ないかー。背中にこんなものが生えてんじゃあ、普通の人はそう思っちゃうよね」
少年の言葉には若干意味不明なところがあるが、それでも理解は出来た。要は、この少年は自分のことを天使ではないと答えたのだ。
「天使じゃ―――ない?じゃあ、あなたは一体―――」
「僕のことはどうでもいい。今は君のことの方が重要だ」
「え―――」
少年の言葉は私にとってあまりにも理解不能な部分がある。
一体、私の何が重要だというのだろう?
「僕がここに来れたということは、君が望んだということだ」
「望んだって―――何を?」
「決まっているじゃないか?生きることをだよ。生きたいんだよね?」
「それは―――そうだけど。でも、もう私は…死んで―――」
「死んじゃいないよ、君は」
「え!?」
少年の言葉に私は耳を疑った。
私が―――生きてる?そんな、馬鹿な―――
「うそじゃない。君は生きている。現実の君は、病院のベッドの上で眠り続けているよ」
「そんな―――それじゃあ―――」
私はこの少年の素性も何も知らないが、彼が嘘を言っていないという事を何故か信じることができた。
「でも、このままでは本当に死んでしまう。
こんな場所で漂い続けていては、本当に消えてしまう」
「え―――」
その言葉に背筋が寒くなった。
嘘ではない。この少年は真実しか語らない。私はそれが直感で分かっていた。
「大丈夫だよ。そのために僕が来たんだから。君をここから出すためにね」
「――――――私をここから出してくれるの!?」
「うん。ただし―――対価は支払ってもらう」
「た、対価?何を支払えばいいの?私、お金なんて持ってないよ?」
「お金なんていらないよ。君の力と君がもっとも大事にしているものを支払ってもらう」
「私の力と大事にしているもの?」
「そうだよ。それは君の吸血能力と記憶だ」
「記憶!?」
私は仰天のあまり声を張り上げていた。
対価として吸血能力は問題ない。むしろ、こちらとしては喜ばしいことだ。力を支払うということは、私の中からこの忌まわしい力が消えるということだから。
だが、記憶を支払うというのは、あまりにも大きな対価だ。記憶を支払うということは、記憶を失うということだから。
「それを支払ってもらわないと、僕は君を助けることができない」
少年は申し訳なさそうに答えた。その顔は本当に申し訳なさそうだった。
「本当に天使じゃないのね?」
「本当の天使だったら、こんな取引しないよ。僕は紛い物だから」
「紛い物―――」
その言葉も真実だと直感した。そして、だからこそ、彼の言葉は信用できた。そして、対価を支払えば、私は本当に助かるのだという事も信用できた。
二者択一。
この暗い海の中で朽ちるか、すべてを忘れ生きるか。
「選択してもらう前に言っておくよ。
たとえ、君がすべての記憶を無くしても、君は君だ。
君の周りは君の知っている世界だ。君が望んだものがある世界だ。
だから、どうか、見失わないで。本当に大切なことを。」
私が望んだもの―――それは―――。
彼のその言葉で私の心は決まった。
「対価を支払います。だから、私をあの世界に還して!」
「本当にそれでいいんだね?」
「ええ!だって、私が望む世界は怜奈と真藤君がいる世界だけだもの!!」
少年は私の答えを聞くと、満面の笑みを零した。
「よかった。君ならそう言ってくれると信じてたよ!」
少年はそう言うと、私の腕を掴み、背中の翼を羽ばたかせた。
その途端、暗い海に陽の光が差し始めた。
「これは―――」
「さあ、戻るよ!君の世界に!」
少年は私の手を引き、上へ上と目指す。
そして、それまでは見えなかった水面が見えてきた。
“嗚呼―――私は還れるんだ―――あの世界に―――”
その瞬間、それまでの記憶が走馬燈のように駆け巡っていった。
そして、走馬燈の最後には、怜奈の顔があった。
そこには怜奈が満面の笑みで笑う顔があった。
そうして、私の記憶と想いは追憶の彼方に消えていった。
最後に少年を見た。
純白の翼を羽ばたかせ、まるで空を飛んでいるような姿だった。
少年は自分の事を天使ではないと言った。
それでも、私は敢えて言おう。
私が出会った少年は天使そのものだった。
追憶編 完
『追憶編』を最後まで読んで下さった読者の皆様、大変ありがとうございます。
まだまだ大変読みづらい文章であったかと思います。この場を借りてお詫び致します。大変申し訳ございませんでした。
今回は副主人公である怜奈にスポットをあてた章でした。
そして、色々な謎が解け、また新たな謎が生まれた章でもありました。
ここから先、すべての謎が明らかになると共に、衝撃の展開を迎えていきます。
次章は、ついに黒幕登場です。
どうぞ、お楽しみに。
ここまで読んでくださった読者の皆様、どんな些細なことでもよいので、感想など聞かせて頂ければ、大変うれしく思います。
そして、これからも『旋風と衝撃の狭間で』を宜しくお願い致します。




