エピローグ「溶けていく心」
目を覚ますと、そこは真っ白だった。
とても懐かしい夢をみていたような気がする。あれはそう――荒井家に貰われていく前に、お爺様からあの懐中時計を貰った時のことだ。
あの時、懐中時計を手渡してくれたおじい様はとても穏やかに優しい顔で微笑んでいた。当時のあの人は私を孫として本当に愛してくれていた。それが今になってやっと思い出せた。
今? 今とはなんだ? 今、私はどこにいるのだ?
私は確か――時澤邸諸共、異次元に転移したはずだ。その後、おじい様の魔力爆発に巻き込まれて、死んだはずなのだ。いや、その辺は良く覚えていないけれど、そのはずだ。
では、ここは死後の世界なのだろうか。
辺りを見渡す。そうして、私は驚愕した。私がいたのは、天地すらなく、何もない真っ白な世界だった。今、私は地に伏せているのか、立っているのか、それもと逆さまになっているのかすら分からない。もしかすると重力すらないのかもしれない。
「ああ――死後の世界ってこんな何もないところなんだ」
なんとも拍子抜けだ。死後の世界があるとしたら、私は間違いなく地獄行きだ。何故なら、多くの人をこの手で殺してしまったのだから。
だが、今、私がいる場所は、私が想像していた地獄とはかけ離れていた。誰もいない。何もない。私だけの世界。私に与えられた罰は、どうやら〝孤独〟だったらしい。
しかし、それは私にとって罰になるだろうか? 今更、孤独になっても、意味がない。罰になんてならない。だって――私は今までだってずっと孤独だったのだから。
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あれから、どのくらいの時間が流れたろう? もはや分からない。この地獄では、天地もなければ、どうやら時間の感覚すらもないらしい。いや、何もないこの世界を長い時間漂っていたから、時間の感覚がなくなってしまったのかもしれない。
そして何より、もうまともに思考できない。今、自分は本当にここにいるのか? 今、ここいるのは本当に私なのか? いや、そもそも私なんて最初から存在していなかったのではないだろうか。そんな気さえしてくる。
ああ――ここは確かに地獄だ。最初はここが本当に地獄かと疑ったが、確かに地獄だ。ここは虚無しかない世界、それが地獄以外なにものでもない。
それを理解した時、私はすべてを放棄した。動くことも、考えることも、自分が自分であることも。
簡単なことだ。あの凍った世界にいた時と同じにように、全てを閉ざしてしまえばいい。見ることも思考することも止めて、自分の心も凍りつかせてしまえばいいだけのことだ。
『ああ、さよなら、恵。……またな!』
すべてを投げ出そうとした時、とても懐かしい人の最後の言葉が脳裏に過った。
「あ……ああ……ああああああ……!」
彼の声、彼の仕草、彼の顔、彼の全てが思い出されていく。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
「嫌……嫌だよ……イヤイヤイヤイヤイヤ!、こんなのイヤアアアア! こんな所で消えたくない! こんな所で終わりたくない! 私は……私は生きたい! 海翔さんに……会いたいよ!!」
頬を伝う涙。泣きじゃくりながらの叫び。それこそが私の本当の心だった。たった一言の言葉、それが私の心を、この凍りついた心を溶かしてしまった。
いつ死んでもいいと思っていたのに、それなのに――ああ、こんなにも私は、あの人の事を――。
それを自覚した次の瞬間、私の叫びに呼応するように世界は激変した。
「――え?」
私の目の前が光り輝いた。いや、もしかしたら世界そのものが輝いていたのかもしれない。
その輝きの中から、突如として少年が現れた。
私は自分の目を疑った。少年が突然現れたからではない。その少年の背中には、白い翼があったからだ。
その純白の両翼は羽根の一本一本まで真っ白だった。この世界よりも深い白だ。
翼を持つ少年はこちらに手を伸ばす。
私は吸い寄せられるように、その手を掴んだ。
その瞬間、私は引き上げられた。そう、少年は飛んでいたのだ。この何もない世界の空を目指し飛んでいた。
やがて、一段と強く輝く光が見えてきた。少年と私はその光へと飛び込んだ。
そうして、私の地獄は終わった。
私が出会った少年は、天使そのものだった。
悲しみの懐中時計編 完




