第6話「過去」
荒井恵は間島新一の自室に入ってくるなり、神妙な面持ちで何かを言いたそうにしていた。
「どうしたんだい? こんな真夜中に……眠れないのかい?」
「い、いえ。そうじゃ……ない、です」
「ん? ……どうやら何か話があるみたいだね?」
「……はい」
「悩んでいるのかい? 自分がどうしたらいいのか?」
「い、いえ……そうではないんです」
「ん? じゃあ……」
「明日、父のもとに帰るつもりです」
その言葉には既に怯えなどなく、声にも眼にも決意が満ちている。言葉の通り、彼女は既に決心している。
「そうか……それで、いいんだね?」
「はい! ただ……」
「……ただ?」
決意に満ちた目に、不安の色が混ざる。それは何かに怯えている眼だ。それに新一は気づきながら、先を促した。
「……私、あの家に貰われて来る前の記憶がないんです。5歳の時にあの家に貰われてきたんですけど、その前の記憶が……」
「ない、と……?」
「……はい」
「じゃあ、君は本当の両親の顔や家族の事を知らないのではなく、覚えていないだけだと?」
「はい……たぶん」
恵の返答は実に曖昧だった。が、そこに嘘はない。
「ふむ……それで僕にどうして欲しいと? まさかと思うけど、君の過去について調べて欲しいとか言うんじゃないよね?」
「い、いえ! そんなんじゃないんです!」
「それじゃあ、なんだい?」
新一が尋ねると恵は表情を曇らせた。
「私……あの家に引き取られてからも、よく記憶がなくなることがあるんです。知らないうちに、外に出ていたり、知らない場所にいたりして……夢遊病で言うんですよね、こういうのって」
「それは……何時頃から?」
「貰われる以前の記憶がないから、前からそうだったのかもしれません……」
「医者には?」
「診てもらいました。でも、原因が良く分からなくって。お医者さんが言うには、精神的なもので、その過去が起因しているのでは、と」
「過去、か……」
結局、行きつく先はそこだった。たかが5歳までの記憶。だが、その失われた幼い頃の記憶は荒井恵にとってのターニングポイントになっている。
「君は前に住んでいた場所とかは知ってるのかい?」
「覚えてはいませんが……場所ぐらいなら。以前、自分の過去を知りたくて、父に聞いたことがあるんですが、決して話そうとはしてくれませんでした。それで、父がいない時に、こっそり父の昔の日記を見たんです。私が貰われて来た前の日、たぶん日記ではなくて、メモだと思うんですけど……」
恵は側にあったメモ帳に住所らしきものを書いて、新一に渡した。
「これが? 君が前住んでた所?」
「はい……たぶん。日記には、その前の日にも当日にも、私に関連する事は何も書かれていませんでした。だから、私の本当の家と父がどういった関係かも分かりません。その住所が私に関わりあるかどうかも……」
恵の言う事は、やはりどれも曖昧だった。自身が口にした言葉すら自信が持てていない。
「君はこの場所に?」
「行ったことはありません。父に言っても許してもらえないだろうし……一人で何処かに行く事なんて許してくれませんでしたから。調べてみたことはあるんですけど、そこにはバスも電車も通ってないんです。車を使って行くしか……」
「なるほど……隔離された村、か。確かに君には無理だね」
「私……一度は諦めたんですけど、縁談の話を聞いてから、どうしても行ってみたくなったんです!」
曇らせていた恵の顔に僅かにではあるが、赤みを差す。その様を見て、新一はそれが彼女の本心であることを疑わなかった。
だが、恵は再びその表情を曇らせた。
「その頃からなんです。自分の記憶がよく飛ぶようになったのは……」
「よく、とは?」
「前は時々だったですが……最近は頻繁に……」
「それは……今日も、かい?」
その質問の意図に彼女はすぐに気づいたのだろう。一瞬ではあるが驚いた表情を見せた。
「――はい。気づいたら、血まみれの人の前にいました。でも、一つ分かっていることがあるんです」
「分かっていること?」
「記憶が飛んでいる間、私はその場所に帰りたがっているんだと思います。いまの私じゃなく……」
「昔の君が、かい? それはどうして、そう思うんだい?」
「わかりません……けど、記憶が飛んでいる間、私、昔の夢を見ているんです。それは、私が貰われる前ので……はっきりと覚えてませんから、正直言うと自信がないんですど……」
「……なるほどね」
「それで、お願いしたいんです」
「お願い?」
「はい。もし、私にまた何かあったら、そこに来てもらいたいんです。たぶん私は……」
恵はその先を口にはしなかった。その先を言わずとも、新一には察しがついていることを知っているからだ。
その時になって新一は初めて気づいた。彼女の思慮深さを。
「でも、それでいいのかい? 自分の過去や病気の事も分からないまま、家に戻って」
「はい。自分で決めたことですから!」
「……わかった。君の依頼受けるよ。ただし、もしそうなったら、ちゃんと依頼料もらうからね?」
「はい! ありがとうございます!」
その感謝の言葉と共に、恵は新一の前でやっと笑顔を見せた。それが新一の見た荒井恵の最後の笑顔になった。
◇
俺と海翔は車の中にいた。
俺達は車で荒井恵の故郷と思われる場所に向かっていた。
俺と海翔は新一さんの話を聞いた後、新一さんの車を借りて、海翔の運転で荒井恵が新一さんに託した場所へと向かうことになった。
新一さんはというと、街に残って荒井恵の消息を荒井慎二殺しの線から調べている。
「しっかし、あの所長さんも人が悪いよな。端から恵の事を捜す気でいたんだから。頭なんて下げるんじゃなかったぜ」
海翔は運転しながら、新一さんへの文句を愚痴っている。
「そう言うなよ。俺達には話さないでおこうと思ってたんだろ。結構、ショックなことだからさ」
「……そんなの分かってるっての!」
「あんな殺人事件さえなかったら、新一さんが探しに行ってたさ」
「ふん!」
海翔の怒りは収まりそうにない。
だが、海翔が怒っているのは、新一さんに対してではない。たぶん、自分自身に、だろう。海翔は彼女の事に気づいてあげられなかった自分が許せないのだ。
その気持ちが、どうしようもなく理解できるのは、俺があの事件を得て似たような体験をしているからだろう。
「わるかったな、海翔」
「あん? 何だよ、急に……?」
「あの時、お前に偉そうな事言ったけど……俺は、本当の意味で彼女の事を考えてあげられていなかったのかもしれない」
それは懺悔なのかもしれない。ただ、単に自分の価値観を相手に押し付けてしまったことへの。
「はん! 何言ってんだよ? んなことねぇよ!」
海翔は怒ることなく、あっさりと俺の言葉を否定した。
「け、けど、俺があの時彼女を帰さなかったら、こんな事にはなってなかったかもしれない」
「バカ言ってんじゃねぇよ。アイツは自分で帰るって決めたんだ。だから、お前のせいじゃない」
「海翔……すまない。ありがとう」
海翔は仏頂面のまま、運転している。
「あのさ?」
「なんだよ? 今度は……」
「もしかしてさ、お前……恵ちゃんのこと……」
その質問に、海翔は応えようとはしなかった。
出発してから3時間後。俺達は目的地の村についた。そこは山奥にある小さな村だった。
「しっかし、小さな村だな……人、いるのか?」
海翔はあたりを見渡しながら、つまらなげに言い放つ。
「いるに決まってるだろ? まばらだけど、家だってあるんだから」
「そりゃそうなんだけどさ。この村に入ってから、まだ誰も見てないから不安にもなるだろ?」
「まあ、な。でも、家の庭とか見てるだけでも生活観とかあるし、大丈夫だよ」
とりあえず、広い場所に出たところで、車を止めて、降りてみた。
「んで、どうすんだ? 結局、ナビは正確な位置を示してくれなかったが……」
実は荒井恵が書いた住所は既に存在してなかった。村名などは残っていたため、村までは辿り着けたが、正確な位置までは特定できなかったのだ。
「と、言われても……現地の人間に聞いてみるしかないんだけど……こう人がいないとな。仕方ない、近くの民家を訪ねてみるか」
俺達は一番近くにある家に行って呼び鈴を鳴らす。
しかし、誰も出て来ない。
「おい、一輝。この村、本当に人がいるのか?」
いくら待っても、いくら鳴らしても、誰も出てこない。
「と、とりあえず、手当たり次第に回るぞ。そうすりゃあ、誰かいるって」
俺達は1件目にめげる事なく、次の家を訪ねた。しかし、2件目も誰も出てこない。3軒目、4件目。何件も回ったが、誰も出て来なかった。
「なあ、かずきぃ……ホントにこの村――」
「言うな、海翔。……いないはずないんだけどなぁ……?」
俺達は、7件目を回ったところで、その家の前でそんな問答を繰り返していた。
季節は夏。小さな村とはいえ、それなりに歩いた。暑い上に、さすがに疲れてきた。
「なんじゃ、お前ら? ここで何をしておる?」
突然、そんな声が後ろから聞こえてきた。
我に返って後ろを振り向くと、そこには一人の男性の老人が立っていた。
「あ、あの……こちらの家の方ですか?」
そう訊ねると、その老人は訝しげな目でこちらを見る。
「ああ、そうじゃが……お前達、この村の人間じゃないの。何をしておる?」
明らかに警戒されている。どうやら、泥棒か何かと思われているようだ。
「あ、いえ、決して怪しい者じゃないです!」
とは言ったものも、見る人から見れば、それなりに怪しいのも事実だ。
「本当かのぉ? なら、わしの家に何の用じゃ?」
「えっと……用というか、お尋ねしたい事があって……」
「尋ねたいこと、じゃと?」
「は、はい。それで何軒か訪ね歩いたんですけど、誰もいなくて……」
「なるほどのぉ。で、聞きたい事とはなんじゃ?」
「えっと、あるお宅を捜しているんですけど、正確な場所が分からなくって」
「……ふむ」
老人は俺達をジロジロ見た後、納得したのか、警戒を弱めた。
「まぁ、ええじゃろ。聞いてやるわい」
「よ、よかった……」
内心ホッとして、老人に訊ねることにした。
「あ、その前に……どうして、こんなに人がいないんですか? 人は住んでいそうに見えるんですけど」
「ああ、それか。今日は年に一度の夏祭りじゃて。村のもんは、みんなその準備に行ってるんじゃよ」
「なるほど。それで人っ子一人いないってわけか……爺さん、それどこであるんだ?」
海翔が訊ねると、老人は海翔をジロっと睨んだ。どうやら、「爺さん」という言葉が気に食わなかったらしい。
「……神社じゃよ。ほれ、あの山の上に社が見えるじゃろ? あそこじゃ」
「そ、そうなのか……」
睨まれたせいか、海翔の顔は少し引きつっている。
「おぬしら……そんな事を聞きにきたのか?」
「い、いえ、違います! えっと、この住所だったお宅なんですけど……なんだか、いまはなくなっているようで」
言いながら、住所が書かれた紙を老人に見せる。
「ふむ…………むぅ……!」
老人はそこに書かれている住所を見た途端、難しい顔をした。
「ここを知っているんですか?」
「知ってはおるが……おぬしら、ここに何の用があるんじゃ?」
「え? ええっと、何かまずいんですか? そこに行っては……?」
「むぅ……そこに行っても無駄じゃよ。いまは誰もおらん」
「いないって……じゃあ、前は誰か住んでいたんですか?」
「……前は、の」
「それは、いつ頃のことですか?」
「もう……どのくらいになるかのぉ。確か、13年ほど前か」
それを聞いた瞬間、俺と海翔は互いの顔を見合わせた。
「おじいさん! その場所、教えてください!」
彼女が荒井財団に貰われてきたのが5歳の時、つまりは13年前だ。ともすれば、その場所が、彼女が以前住んでいた場所である可能性が高い。
だが、老人からは思いもよらぬ答えが返ってきた。
「ならんならん! それだけは絶対にだめじゃ!」
「ど、どうしてですか?」
「あそこには……あそこだけには行かせるわけにはいかん!!」
それは断固として拒否の言葉だ。まるで、そこに近づくことが禁忌にあたるような言い方だ。
「あ、あの……?」
「あ、ぁぁあそこには……悪魔が住みついとる。あそこだけには行ってはならん!」
「あ、悪魔?」
「そ、そうじゃ。悪魔じゃ。あの日からずっと悪魔が、あそこには住みついておる!」
「あの日? ……なあ、爺さん。その事詳しく聞かせてくれないか? 13年前に一体何があったんだ?」
海翔が訊ねると、さらに老人の顔から血の気が引いた。
「あ、あれは……ちょうど、こんな暑い日じゃった。あの屋敷に住んでおった一家が突然消えたんじゃ」
「き、消えた?」
「そうじゃ。突如として消えたんじゃよ。村の人間は神隠しにあったと言っておったがの。それから、少し経ってじゃったか……村の若者が面白半分にその屋敷に入っていったんじゃ。しかし、屋敷から出てくる事はなかった。……その男も神隠しにあったんじゃよ。それからも何人もがその屋敷に入っていったが、出てくる事はなかった。それ以来、あの屋敷には悪魔が住みついとると噂されるようになったんじゃよ……」
唖然とした。まさか、自分達が目指していた場所が、そんな恐ろしい所とは思いもよらなかった。
「おぬし達……そんな恐ろしい場所に行きたいか?」
「そ、それは……」
俺は答えることができなかった。けれど、俺が迷っている間に海翔は――。
「ああ、行きたいね。俺達はどうしても、そこに行かなきゃいけないんだ。何があってもな!」
「か、海翔……」
「そうだろ、一輝? 俺は行くぜ。もし、恵があそこにいるんなら、そんな場所から連れ出さなきゃいけないだろ?」
迷っていた。俺は老人の話に吞まれ、足が竦んでいた。心が折れかけていた。
けれど、海翔の言葉で俺は決心した。
「そう、だな。分かったよ、海翔。俺も行く!」
「そういうことだ、爺さん。教えてくれよ。その屋敷、どこにあるんだ?」
海翔の言葉に老人は呆れた顔をする。
「おぬし達……どうしようもない奴らじゃの? もう何を言っても聞きそうにないのぉ」
老人はほとほと困り果てた後、俺達にその屋敷の場所を教えてくれた。
それから、その老人にお礼を言って、その場所に向かおうとした時、俺はあることを思い出し、老人に訊ねた。
「その、前に住んでいた一家、なんて言うんですか?」
老人は記憶を辿るように思案した後、その名を口にした。
「時澤じゃよ」




