最終話「神を殺す想い」・前編
空から墜ちる体、その体は既に死に体で、着地なんて芸当ができる状態になく――その体は呆気なく地面に叩きつけられた。
「ぐ……!」
全身を衝撃と激痛が襲う。
けれど、俺にはそれに身悶えることすらできない。
既に体は動かなくなっていた。動かせるのは首くらいなものだろうか。
それが……反動だった。前鬼の力と言う人知を超えた力を使った事への、そして、人間の限界を超えて動き続けた事への反動だ。
けれど、それは覚悟の上だった。
元々、真藤一輝の肉体にはヒビが入っていた。大神との戦闘の際に無理を強いたことによる傷が癒えていない状態だった。
それなのに、あんな無茶をやらかせば、体が壊れてしまうの当然の帰結だ。
それでもやらねばならなかった。後鬼を止めることが俺の使命だったから。
後鬼――彼女はどうなった?
〝破壊の魔眼〟にその身を砕かれ、倒れたのは見た。だが、それで本当に終わったのか……?
その懸念を拭いきれず、必死に頭を動かし、辺りを見渡した。けれど……。
「……え?」
思わず、自分の目を疑った。
何故なら俺の見る世界は、どこかぼやけていたから。
視ようとしても、視えない。そんな世界に変わってしまっていた。
焦点が……合わない。
いや、違うな……これは右の視界全てがなくなってしまっている……?
「そうか……そういうことか……」
その事実に気づいた時、自分の身に何が起きたのか、やっと理解できた。
これが〝破壊の魔眼〟を使った事への代償。人の身でありながら、鬼神の力を行使した事への代償として、俺の右眼は光を失ったのだ。
けれど、右眼の視力を失ったというのに、不思議と悲観はなかった。
前鬼はあの魔眼を使えば、死に至る可能性を示唆していた。それが、右眼だけで済まされるなら儲けもの、そんな風にさえ思える。
「はは……どうだ、前鬼。俺の言った通りだったろ?」
右眼を失ったと言うのに、自分の命が無事であったことを前鬼に自慢したくなってついそんなことを呟いていた。
けれど、それに前鬼は答えなかった。
「え……前鬼……? どうしたんだよ……?」
変わらず、前鬼からの返事はない。
いや、違う。そうじゃない。
感じない……前鬼の存在を……。
「ま、まさか……」
そうしてまた俺は気づいた。何が起きたのかを。
前鬼は……消えたのだ。
その力を使い果たし、その役目を終えて、彼は再び俺の中から消えてしまったんだ。
つまり……後鬼はもう……。
「ああ……やっと終わった……俺はやり切れたんだ……」
その事実を口にして、俺はやっと安堵することができた。
目を閉じる。
今度こそ、自分の役目を全うできたのだと、その充足感を味わう。
その充足感に浸っていた時だった。
「――、――」
「……え?」
微かだが、何かが地を這いずるような音と擦れたような小さな声が聞こえた気がした。
不安が過ぎる。
どこから聞こえてきたかも知れない音と声を求め、視線が彷徨った。
左眼だけとなった視界に意識を集中して、なんとか辺りの様子が視えてくる。
最初に見えたのは、ボロボロの姿で倒れている貴志の姿だった。
彼は身動ぎ一つしていない。意識を失っているのか……それとも……?
どちらにしろ、声の主は彼ではない。
次に見えたのは、怜奈の姿だった。
怜奈は倒れている貴志の脇で茫然と立っている。その表情は窺い知れないが、何かを見つめているように思える。
その視線の先に何があるのか――それを追って、彼女が見ているものを俺も見た。そこには――。
「な……!?」
そこにあり得ないものを見て、その様を見て、俺は愕然とした。
「ご、後鬼!?」
そこにいたのは、四肢を失い、夥しい血を流しながらも、それでも這いずる後鬼の姿だった。
あんな状態になっても、まだ生きているなんて……。化け物……いや、あれこそ鬼だ。
完全に鬼と化したからこそ、不死身と言える肉体を得てしまった。だから、あんな状態でも彼女は死なない。
「お……お……の……れ……!」
後鬼は何かを呟きながら、恨めしそうな目でこちらを睨んでいる。
その目はあまりにも人間離れしていた。いつか見た古書に描かれていたような飛び出たギョロ目だ。
その恐ろしい目で俺を真っ直ぐ見て、這いずり回りながら、こちらに向かって来ている。
逃げなければ――恐怖のあまり後鬼から視線を切ってそう思ったが、出来なかった。
「く、くそっ! 身体が……動かない……!」
逃げたくとも、身体がどうにも動かなかった。
限界を超えて酷使した身体は、立ち上がることも、這いずることすらも出来なくなってしまっていた。
這いずりながら迫る後鬼に視線を戻す。
すると、そこでさらに恐ろしい光景を見てしまった。
「う、うそ……だろ……?」
俺が見たものは、目を疑いたくなるような光景だった。
這いずる後鬼の四肢は、急速に再生しようとしていた。まるでトカゲの尻尾が再生するのを早回しで見ているかのようだ。
そして、瞬く間に両脚がその形を成して、後鬼は立ち上がった。
「ハア……ハア……!」
荒い息の後鬼。再生したと言えど、それでもダメージが大きいのか、それともまだ再生し切っていない両腕が痛むからなのか、苦しげな表情をしている。
「お、おのれ……この、わら、わを……こ、ここまで……ゆ、ゆるさん……」
途切れ途切れの声、それでもそこからはどす黒い感情――怒りと憎しみが窺い知れる。
「許さん……ゆるさんぞ、この下等種どもがあ……!」
怨嗟の声を響かせながら、再生したばかりの足で後鬼はこちら向かってくる。
だめだ……全ての力を使い果たしたあげく、前鬼まで失った俺にはもう……。
その先に待っている確実な死が俺から生への渇望を急速に奪っていく。
希望はない。奇跡は起きない。現実はかくも残酷なものだ。
それを知らしめられ、俺は全てを諦めかけた。
そう、諦めかけたその時だった。迫る後鬼の前に立つ一つの人影を目にしたのは。
「なにを……なにをやってるんだ、怜奈!?」
そこに立っていたのは、怜奈だった。
彼女は、倒れた俺に迫る後鬼を遮るように悠然と立っている。
「邪魔だ、娘。死にたくないならそこをどけ!」
「……」
後鬼の殺気を帯びた恫喝に怜奈は全く動じることなく、黙ったまま立ち尽くしている。
「ば、馬鹿! さっさと逃げろ!」
そんな必死の叫びも虚しく響くとばかり、怜奈は動こうとしない。
いや、何か……おかしい……。
後鬼の声に反応しないばかりか、俺の声にすら反応しないなんて、変だ。
今の怜奈は……どこかおかしい。
「そうか……ならば、先に逝け。妾の血を引く人間よ!」
怜奈の様子に業を煮やした後鬼は、右腕を振り上げる。
見れば、後鬼のその手は完全に再生し終えていた。
やばい。後鬼は本気で怜奈を殺す気でいる。このままでは、怜奈が……。
立たなければ……立って、怜奈を助けないと……。
立て……立つんだ、俺!
ここで立たなきゃ、ここで守らなきゃ、いつ彼女を守るって言うんだ……!
足に力を入れる。最後の力を振り絞り、そして――、
「立ちやがれぇぇええええ……!」
渾身の力と叫びと共に、俺は立ち上がった。
けれど、間に合わない。彼女を助ける為の手は届かない。もとより、立ち上がるだけで、足は動かせなかった。
後鬼は振り上げた右手を無情にも怜奈に振り下ろす。
「や、やめろおおおお……!」
叫びは虚しく、振り下ろされた手は怜奈を切り裂く――そんなコンマ先の未来が現実のものになりそうになった時、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。
「な――」
「――に!?」
俺同様、後鬼もそのあり得ぬ様に驚愕している。
何故なら、後鬼の振り下ろした手は――その凶刃は怜奈自らの手で受け止められ、掴まれていたのだから……。
「な、何故だ……何故、そのようなか細い腕で妾を止められる!?」
後鬼からそんな疑問が口をついて出る。
それは当然の疑問だ。今の怜奈は異常すぎる。風の能力を使った様子もないのに、あの後鬼の一撃を事もなげに受け止めるなど、普通ではあり得ない。
けれど、怜奈はそんな疑問に答えることはせず、俺や後鬼が意図しない事を話し出した。
「なるほど……憎しみに身を堕とした者とは、斯様に醜いものなのですね。はたから拝見して漸く理解できるとは……可笑しなものです」
それは、あまりにも彼女の……怜奈の言葉としては、おかしなものだった。時代錯誤というか、今時の人間が使う言葉ではない。
けれど、後鬼は怜奈の言葉を聞いて、顔色を変えていた。驚いた後、焦ったような表情に変わっていく。
「ま……まさか……其方は――」
後鬼がその先を言う前に、怜奈がそれを遮るように言葉を紡いだ。
「還りなさい、妙童鬼。此処は其方が存在して良い現世ではない」
「――――ァ」
途端――怜奈がその言葉を紡いだ途端に後鬼の小さな呻き声が聞こえた。
そして、後鬼はガクンとその膝をおり、 絶叫した。
「アア……アァァアアアァ……! わ、妾は……わらわはあああ……!」
その絶叫と共に後鬼はその眼から溢れんばかりの涙を流している。哀しげに、苦しげに、ただ泣いている。
そして、その流した涙の量に応じるように、彼女の体は鬼のそれから人間のそれに戻ろうとしていた。
「なぜ……なぜなの……? わらわは……わらわ……すらも……なぜ……」
泣きながら、何故と繰り返しながら後鬼は消えていき、彼女は役野真希の姿に戻った。
姿が完全に真希さんに戻ると、怜奈は掴んでいた彼女の手を離す。すると、真希さんはその場にぐったりと倒れてしまった。
「し……死んだ……のか?」
真希さんの様子を見て、ついそんな疑問を口にしてしまった。けれど、それに怜奈がこちらに背を向けたまま答える。
「いいえ。役野真希は死んでなどいません。肉体も精神も疲弊してはいますが、命に別状はないでしょう」
「そ、そっか……よかった――」
安堵しかけて緩む心を俺はグッと堪えて、締め直す。何故なら、気掛かりなのは真希さんの事ではなく、怜奈の事だから。
目の前の怜奈の姿をした存在が何者なのか、それを確かめることをせず、気を抜くことはできない。
いま、俺の前にいる怜奈は確かに先程まで一緒にいた怜奈だが、中身が違うことはもう明らかだ。
怜奈に何が起こったのか……?
それに、この彼女は一体……?
そんな湧いてくる疑問と不安の中、彼女は振り向き、そして――。
「妾を止めてくれたこと、感謝します、真藤一輝」
怜奈はどこか神懸った様子で微笑みながら、そう告げた。
「わ、妾をって……そ、それじゃあ!?」
「ええ、妾もまた其方らが後鬼と呼んでいる存在です」
「そ、そんな……!?」
信じられない……怜奈が後鬼に……?
いや、そんな事はあり得ない。第一、ついさっきまで後鬼は真希さんだった。それが真希さんから抜け出し、怜奈になったのならまだ分かるが、彼女は真希さんが後鬼だった時から、怜奈の中にいたようだった。だったら、やっぱり彼女は後鬼でない。
「ふふふ……その疑いを持つことは当然ではありますね。ですが、今回は例外中の例外、とでも言いましょうか……」
「な……!? こ、心が……読めるのか!?」
「ええ、其方の心を読む程度の事はできます。鬼神とは、本来は全知全能の神にも等しい存在ですから」
「け、けど、俺達が戦っていた後鬼はそんなこと……」
少なくとも心を読むなんてことはしてこなかった。心なんて読まれていれば、きっと手の打ちようがなかったはずだ。
「当然です。あれは神の座から堕ちた鬼神……悪鬼ですから」
「悪鬼……? 神の座……? 一体、なんのことだ?」
怜奈もとい後鬼を名乗る存在は、ふうっと溜息を吐いた。どうやら呆れられてしまったらしい。
「えっと……知らないと拙いことなのか?」
「いいえ、そうではありませんが……今回は随分と変わった人間を前鬼も選んだものと思っただけです」
なんだ……やっぱり呆れられているじゃないか……。
「呆れてなどいません。それが当然のことですから」
「と、当然?」
「ええ。妾たちが根付いた時代ならいざ知らず、この時代のこの国において、もはや神や鬼はいない存在、なのですから」
いない存在……それは実在するか否かの事ではないだろう。彼女の言っているのは、神や鬼を信じる人間がいないということを言っているのだ。
「その通りです。この国からは信仰というものが失われかけている。されど、それで良いのです。それが自然なこと。時代が進むにつれ、忘れられるのが当然な事ですから。いいえ、忘れられてしまった方が良い事もあるでしょう。なまじ記録として残されていると、誤ったものになり兼ねない。今回のように……」
なるほど……それは言えている。
正しい信仰は現代においては希少なものだ。ほとんどの信仰、宗教は元々のそれから大なり小なり外れてしまっている。場合によってはそれが害悪に成り下がってしまっているものもある。今回の事もそれに該当すると彼女は言っているのだろう。
「理解が早く助かります。未知から既知になること……人間の言葉では、これを学習と言いましたね。それを持つ人間は素晴らしい」
彼女はそう言ってニコリと微笑む。
その顔は優しげで、とても俺達が戦っていた後鬼とは思えない。
「話が脇道に逸れましたね。我ら鬼神――前鬼と後鬼について語りましょう」
そう前置きをした上で、彼女は目を瞑り語り出した。
後編に続きます。




