第6話「もう一つの決意」
振るわれる刀。こちらの刀が掴まれている為にその一閃を防ぐことも躱すことも俺には出来ない。
死ぬ――そう直感した。
この一閃は確実に俺の体を切り裂く。右肩から左脇腹にかけて断ち切られるだろう。
助からない。助かりようがない。
今度こそ、俺の命運は尽きた――――。
そう思った時、だった。
「え!?」
「な!?」
俺と貴志は同時に驚愕の声を上げていた。
それは刀身が俺の右肩に食い込もうとした瞬間だった。その刃は何かに弾かれるようにして貴志の手から零れ落ち、後方へと飛ばされたのだ。
宙舞う貴志の刀、それがザクリと地面に突き立つまで俺はそれを茫然と眺めるしかなかった。
それは貴志も同じで、刀を握っていたその左手を見つめ続けていた。
互いの時間が止まる。
何が起きたのか一向に理解できない。
思考するだけ無駄だが、理解できない故に人は思考する。
それは一瞬の静粛の訪れだった。
けれど、その静粛を破る声が飛ぶ。
「右に避けなさい!」
「――」
その声に、その透き通るような声に、考える間もなく俺は反応していた。
こちらの刀身を握る貴志の手には緩みがある。それを振りほどき、声に従って右に跳んだ。
それを待ち望んでいたかのように、俺の脇をすり抜けていく物がある。
それがなんであるかは視えていた。見間違えることなどない。それは俺がこれまで何度も目にしてきたのものだ。
あれは、風の刃――カマイタチだ。
「ちぃ!」
その存在に気づいた貴志は、振りほどかれた左手を慌てて振るった。
刃をへし折るように振るわれた鉄鋼は、見事にそれを打ち砕いた。
「お前は……!」
貴志は苛立ちに似た声を上げ、睨んでいる。その視線は俺を捉えていない。奴は俺を飛び越えて、その先の夜の闇を睨んでいる。
俺もその視線を追い、振り返る。
そこには、一つの人影が浮かび上がっていた。けれど、その正体は確かめるまでもない。あの風の刃を振るえる人間なんて、もう一人しかいないのだから……。
人影はこちらに歩を進め、その闇夜から姿を晒す。
「……やっぱり、君だったのか……怜奈!」
そこに居たのは、俺にとって何よりも代え難い女性――一ノ宮怜奈だった。
何故、彼女がこの場にいるのか?
彼女は俺が昏倒させたはずだ。目を覚ますにしても早すぎる。
仮に目を覚ましたとしても、事情を知っている役野小蔵が彼女をこの場に向かわせるはずがない。
「怜奈、どうして……?」
けれど、怜奈は俺の声など聴こえていないのか、貴志をじっと睨んでいる。
「貴志……」
彼の名を呼ぶ怜奈の声は落ち着いていた。けれど、声とは裏腹にその内に秘める感情は嵐ように吹き荒れているに違いない。
幼き頃に母親を殺し、三年前には多くの命を奪い、共に産まれ出た双子の妹にもその刃を向けた。そして、現在に至っては父親すらも殺しかけた。
それが怜奈にとっての兄、一ノ宮貴志だ。彼女にとっては血を分けた家族でありながら、憎むべき仇敵に他ならない。
そこに渦巻く感情は複雑で余人には計り知れない。
だって言うのに、貴志は――、
「やあ、怜奈。久しぶりだね」
そんな怜奈の感情など知ったことかと、さながら久方ぶりに会った妹に向けて言うような台詞を吐いている。
そのせいで元から険しい顔だった怜奈は、眉をひそめ、さらに険しい顔つきになった。
「アンタなんかに気安く名前を呼ばれたくないわ、殺人鬼」
「おいおい、実の兄に対してそれはないんじゃないかい?」
「冗談言わないで! アンタを……アンタなんかを兄だと思った事なんて一度だってないわ!」
「へぇ……それは今も昔もかい?」
「……っ」
怜奈の顔は苦虫を噛み潰したような表情へと変わる。
嫌な質問だ。それを分かってやっているから尚更性質が悪い。
貴志が言っている昔とは三年前のことでない。それは貴志と怜奈がまだ兄妹として共にあった頃の事を指している。あの仲睦まじい兄妹であった頃のことを。
その過去の記憶すらもお前は否定するのかと、貴志は訊いているのだ。
怜奈は目を閉じ、一呼吸置いた後、目を開いた。その表情は既に平静に戻っている。
「……ええ、そうね。確かに嘗て私と貴方は兄妹だった。けどね、それは昔のことよ。そして、今の私達はもうあの時の私達じゃない。いいえ、もうあの頃の私達は既に死んでしまっているわ。あの時に」
あの時――嘗て、幼き頃のこの二人は、悲劇に見舞われた。それによって、彼らは一度死んでいる。体ではなく、心が。そして、悲劇を経て蘇生した彼らは全く別物として生まれ変わった。怜奈は人為的に人格と記憶を書き換えられ、貴志は己が憎悪に人格と心を塗り潰された。
「だからもう、私と貴方は兄妹なんかじゃない。私達の関係はただ一つよ。貴方は人を殺す狂った能力者。そして、私はそれを一ノ宮家次期当主として止める。ただ、それだけよ!」
それがこの街を預かる者としての決意と覚悟だった。
それに貴志は何を思ったのか、ふっと微笑む。
「そう、か」
それだけだった。その微笑みも、その一言も彼女の言葉を一笑に付すわけでもなく、ただ受け止めていた。その顔はどこか悲し気に――。
そう思えたのは一瞬だけだった。貴志はすぐに冷血な顔に変貌を遂げていた。
「では訊こう。お前は本気で我を止められると思っているのか?」
それは、先程まで俺と戦っていた時に纏っていた雰囲気――人格だ。
「くっ……!」
怜奈はその重圧に気圧され、一歩後ろにたじろぐ。
貴志もその怜奈の動きに合わせるように一歩前に詰め寄った。
「待て。俺がいることを忘れるなよ、貴志」
怜奈を手に掛けようとする貴志に俺は刀の切っ先を向ける。
「か、一輝! 何してるの!? 早くそいつから離れなさい!」
怜奈の声が飛んでくる。
冗談ではない。それはこちらの台詞だ。
「何を言っているんだ君は!? それはこっちの台詞だ。早くここから離れるんだ!」
「馬鹿言わないで! 何で私が逃げなきゃいけないのよ!?」
「何故って……」
こんな状況下だって言うのに、そんな事を訊いている来るなんて、頭を抱えたくなってくる。
「君は……一体全体ここに何しに来たんだ!?」
「な、何って……そんなこと決まってるじゃない! 貴方を助けるためよ!」
「……ッ!」
それは余りにも短絡的な回答だった。そのせいで俺の中に怒りがこみ上げてくる。
助けなんていらない。そんものは必要ない。特にこの場において怜奈の助けは、俺にとっては助けになると限らない。
「君は……小蔵さんから何も聞かなかったのか?」
「聞いたわよ、全部。前鬼と後鬼のこと、そして、役野真希や私達の母親のこと、貴志の事も」
「だったら……だったら、何でここに来た!? それを知ったならここに来るべきじゃないってことぐらい君なら分かるだろう!」
そう、怜奈はここに来るべきじゃない。
怜奈は真希さんや貴志と同じく後鬼の血を引いている。そんな彼女がここに来るは危険な事だ。
前鬼は後鬼の血に反応して目覚める。そして、前鬼は後鬼の血を滅するという衝動のみに衝き動かされる。それは遥か昔に組み上げられたシステムだ。人間にそれを変えることは叶わず、前鬼の魂に憑依されて取り込まれた人間は決してその衝動に抗うことはできない。
今の俺は前鬼の魂を逆に取り込むことで理性を保てている。けれど、それは前鬼がこの状況に今は甘んじてくれているだけに過ぎない。状況が悪化すれば、今度は内側から俺の魂を喰らい、体を乗っ取って後鬼の血を滅しようとするかもしれない。
そうなった時、その場に怜奈がいれば、三年前暴走した時と同じように……。
だって言うのに、その彼女が今ここに来てしまった。それは最悪の状況に他ならない。俺が彼女を批難せずにいるのも無理からぬことだった。
「……ええ、分かってる。分かってるわよ、そんなことぐらい。でも、だからって何よ! だからって何も言わず置いて行くことないじゃない!」
「そ、それは……」
言わなかったのではない。言えなかったのだ。
話せば、独りで行こうとする俺を怜奈は決して許さなかったはずだ。自分もついて行くと言うに決まっていた。それを知っていたから言えなかった。
それに……本音を言えば、全てを知った時に彼女が失望する顔を見たくなかった。だから、自分からではなく、他人から真実を告げられて欲しかった。一ノ宮怜奈に好意を抱いたのは真藤一輝ではない、という真実を。
「……知ってるわ。貴方が何も言わなかった理由」
「え……」
「貴方が行った後、すぐに間島が私の意識を戻してくれた」
新一さんめ、余計な事を……。
やはり新一さんに任せたのは間違いだった。彼は俺の考えに懐疑的だったから……。
「その後、役野のお爺さんから全部聞いたの。貴方が何を背負い、何を思い悩んであんな行動を取ったのかを」
それは真実を知ったということか。そうであるならば、そこに関してだけ言えば俺が望んだ通りになったということだ。
けれど、どうして彼女はここに来ることができたのか?
「……小蔵さんは君がここに来ることを止めなかったのか?」
「ええ、あの人は何も言えなかったわ」
「え……?」
「当然じゃない。他人様の管轄地で孫があんな事件を起こしておいて、どの面下げて言えるっていうのよ。あんたなんかに私を止める権利は何処にもないって言ったら、もう何も言わなくなったわよ」
「な……そんな馬鹿な……」
唖然とした。あの気難しい老人が怜奈に言いくるめられたなんて、とてもじゃないが信じられない。
何か裏がある? いや、それはあり得ないだろう。彼だって怜奈がここに来れば、状況が悪化する可能性があると分かっているはずだ。
では、孫が犯した罪を恥じ、本当に怜奈を止めることができなかった、その資格がないと判断したということか。
くそ……これじゃあ、俺のとった行動が全部裏目に出てるじゃないか。あの人達はどうしてこうも勝手な事ばかりを……いや、違うな。勝手なのは俺の方だ。自分がしなきゃいけなかった事を他人に押し付けた俺の責任だ。他人を責めるのはお門違いも甚だしい。
悔いても仕方ない。ここは何としても怜奈を説得して退かせるしか――。
「一輝、貴方にも言っておくことがあるわ」
「え……」
怜奈は先程とは違って貴志の事などお構いなしで、ズカズカと俺と方へと向かってくる。
そして、俺の傍まで寄ってくると唐突に右手を振り上げた。
その行為に俺は何の反応も出来なかった。
「……ッ!」
焼けるような痛みが左頬を襲う。
怜奈は振り上げた右手で俺の頬を叩いていた。
「ふざけんじゃないわよ、この馬鹿……!」
痛烈な一撃の後に、痛恨の罵声が飛ぶ。
そんな事をする彼女の瞳は怒りを灯しておきながらも、哀し気に潤んでいた。そこには失望の色が濃く出ている。
「ふざけんじゃ、ないわよ……何が前鬼と後鬼の宿命よ、何が戦いの運命よ! そんな物を振りかざして、何も言わず勝手にいなくならないでよ!」
「それは……だって……」
「言い訳なんて聞きたくない! どうせ君を巻き込みたくなかったとか、傷つけたくなかったとか、そんなどうでもいい言い訳をしようとしているんでしょう?」
「ど、どうでもいいって……なんだよそれ!? どうでもよくないわけないだろう!?」
「どうでもいいわよ! そんな……そんな自分が傷つきたくないだけの言い訳なんて、全部嘘っぱちじゃない!」
「――」
それは冷や水を浴びせられたよう感覚だった。彼女の〝嘘っぱち〟という発言は俺の心に深く刺さった。
「怜奈……違う、違うんだ。俺は……俺には……君の傍にいる資格が……ないんだ」
そう、資格がない。俺が彼女に抱いた気持ちは他人から与えられた偽物だから。そんな自分が彼女の傍に居てはいけない。
「資格、ですって? そんなものが……必要なの?」
「え……」
「貴方が自分自身を信じられなくなってるの分かってる。けど、それがどうしたの? そんな事、私にとってはもうどうだっていいことなのよ!」
「どうだっていいこと、だって?」
「そうよ! 貴方がどうであれ、私は貴方を好きになった。それは、その事実だけは決して変わらない。貴方の気持ちがどうだとか関係なく、私は貴方のことが好きなの! 貴方の気持ちが前鬼って奴の影響だって言うなら、別に私は構わない。だってそうでしょう? そいつのお蔭で私達は出会えたんだから。だから……だから……!」
怜奈は必死に訴えかけている。自分の気持ちを俺に伝えようと必死になっている。
俺の気持ちは関係ない……か。
なんだよそれ。それじゃあ、まるで俺が怜奈に惚れていたんじゃなく、怜奈が俺に惚れていたみたいじゃないか……。
「ぁ……」
その時になってようやく俺は気づけた。
真実を話せば彼女が失望する?
馬鹿が。なんて勝手な思い込みをしていたんだ俺は。彼女はそんなことで決して失望したりしない。
怜奈の心は俺とは違い、決して偽りなんかじゃない。一ノ宮怜奈という女性は、真藤一輝という人間に心を寄せてくれている。
だからこそ、俺はそんな彼女に真摯向き合い、その心に応えなければならない。逃げてはいけないのだ。
だって言うのに、俺は逃げた。
彼女が失望したとすれば、その逃げ出したこと自体にだ。だから、ここにいる彼女は俺に対して怒っている。必死に訴えているんだ。
彼女の心の在り方を知った俺は、もう何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
そんな俺に対して、彼女は訴え続けた。
「貴方が戦うと言うなら、私も一緒に戦う。貴方が死ぬって言うなら、私も一緒に死んであげるわ! だから、独りでいくなんて絶対に許さない! 運命なんて、宿命なんて関係ない。貴方が抱えてるものは私が半分背負うから、だから、貴方の隣にいさせてよ! お願いだから、運命なんかに負けないでよ!」
「っ……!」
運命なんかに負けるな。その言葉に俺の心は強く打たれた。
俺は自分の運命を受け入れているつもりだった。けれど、それは嘘だ。本当に受け入れていたなら、それに立ち向うことだってできたはずだ。俺は受け入れているつもりなっていただけで、本当の所は受け入れられず、ただ逃げていただけに過ぎない。
その事実に気づいた時、俺は自分の愚かさがあんまりにも可笑しくて笑いがこみ上げてきてしまった。
「はは……はははは……」
「一輝……? 泣いて……いるの?」
「え……?」
言われて頬を伝う熱いものに気づく。
笑っているはずなのに、俺は泣いていた。
ああ――なんだよ、馬鹿野郎。こんな時に泣いてるんじゃない。まだ敵は目の前にいる。まだ戦いは終わってない。だって言うのに、なんで……なんでこんなに嬉しいんだよ……!
涙を止めようとして袖で拭っても次から次へと溢れてくる。
嬉しかった。怜奈の言葉が。俺を好きだと言ってくれたことが。真実を知ってもなお彼女の気持ちが変わらなかったことに俺は嬉しくて、泣いている。
この気持ちは――この気持ちが嘘だなんて思いたくない。いや……嘘なんかじゃないはずだ!
もう一度、袖で涙を拭う。それでもう涙は零れて来なくなった。
「……ごめん、怜奈。俺が間違ってたよ」
「え……一輝?」
「戦おう、一緒に。最後まで俺は君と一緒だ!」
「――ええ!」
怜奈は一瞬驚いたような表情を見せた後、力強く頷いてくれた。
俺の心は決まった。もう迷うことない
この心を疑うことなく、俺は突き進む。
俺達は、手を取り合い歩み続ける。
けれど、対峙している貴志はそんな俺達を見て――、
「ハ――まったく、くだらぬ事をべらべらと……虫唾が走る!」
そう吐き捨て、不機嫌極まりない表情で睨んでいる。
そして、静かにその怒りを口にする。
「怜奈――お前は邪魔だ」
「え――」
一瞬だった。貴志は俺の眼でも追いきれない程の速度で間合いを詰め、怜奈の前に立っていた。
貴志は右の剛拳を躊躇いなく怜奈の腹部に浴びせた。その腹を抉るような一撃をなす術なく怜奈はくらってしまった。
「かはっ」
怜奈は吐血しながらその身が弾き飛ばされる。そして、そのまま地面を転がって倒れた。
「れ、怜奈!? く、くそぉ!」
俺は慌てて刀を振るったが、貴志はそれをひらりと躱し、俺から再び距離を取った。
俺は貴志との距離が十分あることを確認して、怜奈のもとに駆け寄る。
「怜奈! だ、大丈夫か!?」
「あぐ……ぐ……」
倒れた怜奈を抱き起すと、彼女は苦悶の表情を浮かべていた。
「ふん――あばらの二三本は折っておいた。もはや、その女は役に立たん」
背後から貴志の冷徹な声が聞こえてくる。
そんな貴志に対して、俺は振り向いて睨みつけた。
「貴志……どうして……お前の目的は俺のはずだろう!?」
「どうして、だと? くだらぬことを訊くな。その女は我の邪魔をしただけでなく、やっと鬼らしくなってきた貴様を人間に引き戻そうとした……そんなもの言語道断の所業だ。そんな愚妹には仕置きの一つをくれてやるのが道理というものだ!」
「愚妹……だと!?」
その言葉に怒りが頂点に達する。
刀を握る右手に力が籠る。
赦すことなどできない。俺の大切な人を傷つけただけでなく、愚妹なんて言葉を吐くこの男を。
こいつだけは――もう赦せない!
「貴志ィ……!」
「よい! その顔だ。それこそ鬼の顔だ。我が憎いか? ならば、もっと憎め、もっと鬼となれ! さすればその刃、あるいはこの体に届くかもしれんぞ?」
人の心を失ったその言葉は、さらに俺の心を逆撫でしていく。
怒りが、憎しみが俺の中に膨れ上がり、理性を消し飛ばしていく。
そんな黒い感情に吞まれそうになった時、そっと右手に温もりある物が触れてきた。
「え……」
それは怜奈の手だった。怜奈は刀を持つ俺の右手に手を重ねてきていた。
「だ、め……たた、かう、なら……一緒、に」
「れ、怜奈……」
「だから、ね……独りで……いかないで」
怜奈のその声に、我に返った。
痛みで苦悶の表情を浮かべ、そのせいで声もまともに出せないのに、それでも彼女は俺と一緒に戦おうとしてくれている。
その健気さが、その想いが、俺が抱える貴志への怒りと憎しみを沈めていってくれた。
「……ありがとう、怜奈」
その言葉と一緒に右手に添えられている怜奈の手の上に自分の左手を重ねる。
すると、彼女は痛みの中、弱々しく微笑んでくれた。
「チッ! やはり、その女がいる限り貴様は人間性を捨て去れんか。厄介な事だ。これならば、やはりあの時に無理矢理でも……」
背後から聞こえてくる貴志の声。それは何かを後悔しているような言葉に聞こえたが、彼は途中でその言葉を切ってしまった。
「……どういう意味だ?」
俺は振り返らず、その言葉の真意を訊ねる。
だが、貴志は何も答えない。黙ったままだ。
振り返り、貴志の表情を窺い見る。その顔はどこか苛立っているような、焦っているような表情をしていた。
さっきの言葉とその表情に何かが引っ掛かる。頭の隅を違和感が掠めていく。
何かが……おかしい。
奴の振る舞い、態度、言動、その全てが三年前の俺の知る殺人鬼と違う気がする。
だが、ならば、俺の知らない殺人鬼とではどうか?
思い返すのは、ここでの貴志との会話と俺の記憶にない三年前の奴の言動。それを思い返した時、
「――あ」
全てが分かったような気がした。
そうか……それがお前の真実か、貴志。お前はずっと――。
俺は抱き起していた怜奈の体をそっと地面に降ろす。
「か、かず、き? なに、を……?」
「怜奈、君はそこで休んでいるんだ」
「だ、め……あなた、ひと、り、じゃ……」
「大丈夫だよ、怜奈。今度は絶対に負けないから。だから、安心してそこで見ているんだ」
微笑みながら力強くその言葉を告げる。
一瞬驚いたように目を見開いた怜奈は、俺の真意に気づいてくれたようで、すぐに穏やかな表情になってくれた。
「いってらっしゃい、一輝」
「うん……すぐに終わらせて、戻るよ」
そう告げて、俺は再び貴志と対峙した。




