第4話「目覚める鬼神」
意識は覚醒した。
状況把握に努めると、自分がうつ伏せの状態で濡れた地面に突っ伏してしているのだとすぐに分かった。
体の感覚を確かめながらゆっくりと起き上がる。
身体状況の確認。
全身に多少の痛みが残っているが、動けない程ではない。
どうやら、感電の影響はないようだ。
次、左手だ。
左手を動かしてみる。
「……ッ!」
左手に鮮烈な痛みが奔る。
火傷は重度のようだ。
だが、我慢できない程の痛みではないし、動かすことも可能だ。
身体的状況把握、終了。
結論、身体の損傷は問題なし。機動力の低下も見られない。
次だ。今度は周りの状況――外部状況の把握に努める。
目の前を見る。
役野真希が嬉々とした表情でこちらを見つめている。
まだ右手が地面に触れたままなところを見ると、あれからさほど時間も経っていないようだ。
いや、違うな。
あそこで起きたの事は俺の心の中で起きた事に過ぎない。心の中での時間間隔は現実世界とはまるっきり違う。眠っている間に見る夢のように。
だから、俺が気を失ってから数秒しか経っていないはずだ。
外部状況把握の終了。
結論、意識消失前と状況の変化なし。
次――、
「おはよう、前鬼。目覚めた気分はどう?」
状況把握をしている最中で、役野真希は何食わぬ笑顔で話しかけてきた。
「……ああ、想像していたよりずっといい気分だ」
余計な期待を持たせるのはなんだと思ったが、勘違いしているのは向こうの勝手だ。
第一、彼女のそのくだらない夢を叶えることも壊すことも俺の義理じゃない。
「そう。なら良かったわ。なら、始めましょうか」
「それは……」
言い淀む。
元より俺にその気はない。
彼女の言う「始めましょう」とは、前鬼と後鬼の血で血を洗う争いのことだ。
けれど、俺にそんな気はない。
彼女は勘違いしている。
自分が後鬼もどきになり、俺が前鬼として覚醒すれば、無条件で殺し合いができると思っている。
けど、違う。
本来、前鬼と後鬼はそんな関係ではない。それが、この状況になってやっと分かった。
だから、戦う前に見定める必要がある。彼女が本当に本物になり得るかどうかを。
けれど、俺の返答が返ってこないことに彼女は眉をひそめた。
「どうしたの? まさかと思うけど、戦う気なんてない、なんてこと言わないわよね?」
「……ええ、そうですよ、真希さん」
「な!? あ、なた……」
俺の返答に真希さんは狼狽えた。
その表情は、何故と言いたそうだった。
「ば、馬鹿な! あ、ありえない、ありえないわ! 貴方は前鬼、なんでしょう?」
「……」
その問いには正直答えづらい。
「ど、どうしてそこで黙るのよ! まさか、まだ一輝君のままだって言うの!? いいえ、いいえ、違うわ! だって、その眼――その赤い眼は、前鬼である証拠よ!」
そうか、眼が赤くなっているのか。だとしたらな、少なくとも俺は元の真藤一輝のままではないんだろう。
俺が真藤一輝か、それとも前鬼かと問われると、その答えはどちらでもない。
今の俺は真藤一輝に前鬼の魂が内包された状態だ。
これが逆だったならば、俺の魂は前鬼に喰われて、意識も完全に前鬼に成り果てていたんだろうが、今の俺は自分の魂で前鬼の魂を取りこんだ状態にあるため意識としては真藤一輝に近い。
無論、前鬼の意識も消えていない。しかし、彼は全ての決定権を俺に移譲してくれた。彼は今、ただ俺に手を添え力だけを貸してくれる存在となっている。故に、その力の象徴足る眼の色が赤くなってしまっていてもおかしい話ではない。
とは言え、俺の意識がまったく前鬼の影響を受けていないかと言うと、やっぱりそれは嘘になる。
何故なら、前鬼から授かったのは力だけはない。彼が持つ知識も一緒に授けられた。
それは、前鬼の記憶と言って差し支えない。
前鬼という存在についての情報、後鬼という存在ついての情報、そして、前鬼と後鬼の戦いの歴史、それらの情報が前鬼から俺に逆流するように流れ込んできた。
結果、おそらく一時的なものではあるが、今の俺は前鬼の人格も混ざってしまっている。
そして、そんな状態だからこそ、今の俺は冷静に彼女を見定めることができる。
「貴女は……どうしてそこまで俺に――前鬼と後鬼に、鬼神の復活に拘るんですか?」
真希さんにその問いを投げかける。
役野真希が後鬼復活を目指そうとする理由、それは母親への復讐であり、自分から母親奪った一ノ宮家への復讐でもあると、俺は最初考えていた。
けど、違う。違う気がする。
それだけの理由で、彼女は後鬼を望んだりしない。きっかけではあったかもしれないが、理由ではないと思う。
だって、その為だけに魔術を覚え、肉体を作り変えるクスリまで製造し、それを完成させるために暗躍し、そして、最後にはそのクスリを自分に使った。それはあまりにも気が遠くなる作業だ。それはただ復讐というだけではやり通せない。
彼女にはもっと別の信念のようなものがあるはずなのだ。
「……ふふ、あはは」
真希さんは俺の問いに不機嫌そうに眉をひそめた後、怪しく笑った。
「そんな知りたいなら、教えてあげるわ、一輝君。私が後鬼を復活させたい理由を、ね
私はね、ずっと分からなかった。どうして私が生まれてきたのか。生まれた後、すぐに父親は殺され、母親は私を見捨てた。
そんな私が生まれてくる必然性がまったく分からなかったの。だって、誰からも私は必要とされなかった。私はいらない人間だったんだもん。
そんないらない人間が産まてくる理由も、生きる理由もなかった。だからね、私は何度も死のうと思ったの。実際に何度も死のうとした。けど、その度に思ったの。どうして、私がこんな思いをしなきゃいけないのかってね!
そうやって、ずっと、ずっと考えていたわ。私が生まれてきた理由を。だけど、ある日、それに答えをくれる人が現れた。その人は世界の在り方を嘆き、それまでの世界を壊して造り変えようとしていた。そう、大神さんよ。あの人を見て、私は気づけた。悪いのは母親や一ノ宮家だけじゃない。悪いのは、前鬼や後鬼なんてものを残した人間、ううん、世界そのものだって。
だから、決めたの。後鬼になって、この私の手で人間を、世界を殺し尽すって!」
溢れ出す憎悪。それは止めどなく、彼女の言葉から零れていく。
「そう、ですか……」
答えは得た。
彼女もまた大神と同じく歪んでしまっていた。ただ、その歪み方が大神とは大きく異なっている。
大神は人類の救済を願いながら、その想いが変質し、方向性を間違った。対して、彼女は初めから人類の滅びを願っている。
彼女は後鬼を模倣なんてしていない。彼女は、彼女の意志で世界を滅ぼそうとしているのだ。
決定だ。
彼女もまたこれまでの後鬼もどきと同じく、同じ末路を辿っている。
「そうよ、私は全てを殺し尽すの。その手始めが前鬼、貴方よ! 貴方を殺して、私は本物の後鬼になる。貴方が本来の貴方に戻らないと言うなら、それでいいわ。私はただ殺すだけ。もう二度と転生できないくらいにその魂を粉々にしてね!」
膨らんだ憎悪と殺意がこちらに再び向けられる。
もはや、彼女は言葉だけでは止まらない。彼女を止めるには、その身体機能を止めるしかない。
それが否応なしに分かる。俺の中の前鬼がそう告げている。
「さあ、行くわよ、一輝君! 貴方のままならそれでもいいわ! どうやったって結果は変わらないんだから!」
真希さんは再び暴風を巻き起こす。
では、再開だ。
状況把握再開――自己戦闘能力把握、開始。
前鬼としての戦闘能力読み込み開始――――読み込み終了。
闘争戦術は人間のそれとほぼ同じ。再現可能。ただし、肉体は人間のままな真藤一輝には、人間の域を超えた動きは不可能だ。その辺は心しておかないといけない。
次は、武装の確認。
前鬼の主武装は斧。だが、彼の黄金の斧は使用不可。あれは魂の形を模った力の象徴。魂が前鬼とすり替わっていない俺では生成不可能だ。
ただし、魂の形を模り武器とするという能力は使用可能。
現在、真藤一輝の魂に合う武器の形を検索開始――否、それには及ばない。既に答えは得ている。
俺が扱えるのただ一つ、〝刀〟だけだ。
武装の確認、終了。
だが、前鬼の持つ戦力はこれだけではない。彼の真価はそんなところにはない。
彼にはもう一つ、その力の象徴足る赤い眼――魔眼がある。
魔眼――魔を宿す眼。その眼で見ただけで効果を発揮することができる特殊能力。前鬼の場合、それを二つも持っている。
一つは『千里眼』。
千里眼――全てを見通す眼。その視界は全方位で、死角はない。背後からの攻撃も見抜くことが出来る。
本来、この眼は未来すらも見通せるが、今の俺ではそこまでの力はない。視界を広げただけで留まっている。
これは知っている。大神と戦っていた時に無意識だが使用していた。奴が〝第三の眼〟と呼んでいた代物だ。
そして、もう一つ。それが前鬼を最強と足らしめる魔眼でもある。
その魔眼の名は『破壊の魔眼』。
破壊の魔眼――視界に入った全てのものを破壊する、殺戮に特化した魔眼。
だが、この魔眼は真藤一輝には使用不可。使用者の脳に多大な負荷をかける上に、人の身ではそれに耐えられず、一度使うだけで死に至る可能性がある。
前鬼からの警告――この魔眼の使用許可は決して降ろさない。故に覚悟せよ。この魔眼を使うような事態になった時、それこそ真藤一輝の命を捧げる時だ。
了解した。破壊の魔眼だけは決して使用しない。
だが、それでは出力的に問題がある。
故に、破壊の魔眼を使用しない代わりに代替えとなる力が必要だ。
代替えとなる力を要請……要請受諾……代替え能力の付与完了。
代替え能力、解析開始――解析不要。それは既に千里眼と同じくして既に一度使用済みだ。
それは〝力を断つ力〟だ。それが俺の望んだ力だったはずだ。故に今回もその力は継続している。
使用方法は前回と同じ。刀にその力を上乗せし、力を斬る刀とする。
自己戦闘能力把握、終了。
続いて、戦闘能力の運用確認。
右手に意識を集中する。
刀をイメージ。自らが最も扱いやすい武器のイメージを綿密に構築していく。
すると、右手が一瞬光り、次の瞬間には刀が顕現していた。
既に刀への力の上乗せは完了済み。
千里眼は常時発動状態。視界良好。
運用確認、終了。
前鬼の力は正常に働いている。
相手の戦力把握は不要。既に真藤一輝はそれを終えている。
これで、戦闘準備は整った。
真希さんを見据える。
彼女は俺に羨望の眼差しを向けていた。
「ああ――なんて、なんて素晴らしい!」
彼女は感嘆の声を漏らした。とても嬉しそうに彼女は口元を歪めている。
「それが前鬼の力――鬼神の力なのね! いいわ、一輝君。実に良い! その力がどれ程か、確認させてもらうわ!」
言うやいなや、彼女は俺に向けて風の刃を飛ばしてくる。
それに対して、俺は刀を一振りする。
「え……?」
真希さんは疑問の声を上げる。何が起きたのか分かっていないようだった。
俺が刀を振るった瞬間、こちらに向かって飛んできていた風の刃は霧散した。それどころか、俺の動きを封じるための暴風も刀に切り裂かれたように消え去った。
「なに? 一体、何をしたの?」
疑問を投げかけてくる真希さんに対して、俺は何も答えず、彼女の方へと歩く。
「くっ! なら――」
真希さんはパチンと指を鳴らした後、その腕を振るう。
すると、人の頭大ほどの火の弾が一つ出現してこちらに向けって飛んできた。
それに対して、俺は刀を突き出す。
刀の切っ先に火の玉が触れた瞬間、火の玉は呆気なく消え去った。
「な……なんで!?」
愕然とした声を漏らす真希さん。それを尻目に俺はなおも彼女の方へと歩く。
「こ、この……だったらぁ!」
真希さんは苛立ちの声と共に右手を空に向かって上げて、それを振り下ろす。
視えている。
俺の頭上、そこにはパチンコ玉ぐらいの大きさの水の玉が数えきれない程できている。
それが降り注いできている。
聞こえは雨のようなものだが、その一粒一粒は水を高圧縮したものだ。頭に当たれば、脳天を貫通し、体すらも突き抜けて地面に突き刺さるだろう。
だが、それが発生する前から俺には視えている。視えているならば、後は躱せばいいだけだ。
タンと地面を蹴って、右に跳ぶ。
着地に瞬間に、元いた場所に水弾が降り注いで、地面に穴を開けていく。
それを幾度となく繰り返していく。
「なんで……なんでよぉ!」
攻撃の全てが見切られ躱されたことに真希さんは業を煮やす。
そして、何を思ったか、彼女は自然を摂理すらも捻じ曲げる暴挙に出た。
本来、雨は上から下にしか降らない。それなのに彼女は俺を取り囲むように全方位に水弾を発生させ、それを放った。
これは躱せない。躱しようがない。
けれど、それは躱そうとすればの話だ。
元より俺に躱す必要ない。
刀を無造作に振り回す。
すると、その切っ先から光の斬撃は発生した。その斬撃が水弾を叩き落としてく。いや、叩き落とすという表現は正しくない。何故なら、斬撃に触れた水弾は形をなくし、ただの水になって地面に落ちていったのだから。
全ての水弾は俺に触れることなく、全て水となって地面に落ちていった。
「ど、どうして……?」
青ざめた顔で真希さんは疑問を口にする。
悉く攻撃が躱されることに、無効化されることに彼女は理解できないでいる。
どうして……か。
なんて、哀れな。
皮肉なものだ。あれだけ鬼神という存在に憧れていたのに、彼女は何一つとして前鬼のことを分かっていなかった。
「な、何よ……その目……なんなのよぉ!」
考えていたことが表情に出てしまっていたようで、真希さんは批難するように口調を荒げる。
「なに? ちょっと強くなったからって、いい気にでもなってるわけ? ふざけないで! その程度で――そんなんで勝った気でいるんじゃないわよ!」
そんな罵倒も聞く耳持たず、俺はただ彼女の方へと一歩を踏み出す。
「この私に――」
彼女は俺の動きを察して、手で地面に触れる。
「――近づくんじゃない!」
その声と同時に、前へと踏み出そうとした俺の足が地面に捕られる。
地面へと沈み込んで行く足。それを俺は冷静に眺めた上で、彼女に視線を戻す。
「今度こそ終わりよ! さっきのような手加減はしない。丸焦げになりなさい!」
地面に触れている彼女の手が青白い光りを発する。
それと同時に俺はザクリと地面に刀を突き立てる。
地面の走る稲妻。けれど、それは唐突に、その色も、その音速を超える速さも、その全てを燃やし尽くす熱量も、失われしまった。
「は……?」
真希さんは口を開けて唖然としている。
既に俺の振るう力は彼女の理解の外にあるようだ。これだけ力を見せているのに、それに気づけないのがその証拠だ。
あの大神がどれ程鬼神の力に精通していたか知らないが、俺と対峙した彼は鬼神の血を引いていないと言うのにその力に気づいた。
だと言うのに、真希さんはそれに気づかない。
なんて――愚かな。
この程度で後鬼になろうとするなんて、やっぱりこの人は――。
「貴女は……やっぱり偽物だ」
「な……」
真希さんは俺の言葉に息を飲む。そして、その目は狼狽えたように泳いだ。
「な、何を言ってるの? 私が……偽物? どういう意味かしら?」
「言った通りの意味です。貴女は偽物だ。本物じゃない」
「だ、だから、それはどういう意味だって訊いてるのよ!」
動揺を隠しきれていない。
おそらく、無意識下では彼女自身も分かっていながら、それを認められないのだろう。
だから、ハッキリと口にする必要がある。それを彼女自身に認めさせるためにも。
「分からないのなら、言ってあげます。貴女は後鬼になれない。あんな偽物しか作り出せないクスリなんかに頼った時点で、貴女の後鬼の血はもう汚れてしまっている。そんな汚れた混血種がどうやって後鬼になれるって言うんだ」
「な……ち、違う! 私はあのクスリを完成させたわ!」
「いいえ、違いますよ、真希さん。貴女が完成させたのは、偽物を作るクスリだ。アレは決して本物を作り出すことなんてない。だって、そうでしょう? 純粋な後鬼の血に、他者の血を混ぜるなんて、そんな事で生まれる存在なんて劣化した偽物でしかない。
考えたことは無かったんですか? あの大神が何故途中でクスリの研究を打ち切って、自ら行動を起こしたのかを。それはあのクスリがそういう物だと気づいていたからですよ。あれで作り出された存在に未来はなく、それが自分の目指す世界にとって害悪にしかならない劣化した種となると分かっていたんですよ。貴女は――自ら劣化種に成り下がったんだ!」
「そん……な……」
顔面を蒼白にさせる真希さん。その表情からは絶望が読み取れる。
これで彼女は止まってくれるだろうか?
そんな淡い期待が脳裏を掠める。
だが、それに俺の中の前鬼が「否」と答える。そんなことで終わるのであれば、これまでの悲劇は回避できた、と。
そして、それが現実だと思い知らされることになる。
「ちが……う。嘘よ。嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ、嘘、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘うそうそうそうそうそうそうそうそ! 全部、嘘よおお……!」
「ま、真希さん……」
彼女は半狂乱になりながら、その頭を振るい、嘘だと絶叫する。
その様子はあまりにも痛々しく、そして、禍々しい存在であるように映った。
「はあ! はあ! はあ!」
絶叫した後、彼女は荒く息を弾ませながら、こちらを睨む。その目は既に人としての感情が欠落したように狂っていた。
「そうよ、全部嘘だわ! 私は後鬼! 後鬼になるの! 証明してあげるわ。私が後鬼だってことをねええ!」
彼女は叫ぶ同時に両手の平を空に向けて掲げる。
その先に、闇が浮かんでいた。
それは黒い塊だった。そこからいままでないほど悍ましい力の本流を感じる。
「な、なんだ……あれは……? 何をする気なんだ、真希さん!」
「あは、あははは……!」
真希さんは俺の質問に答えることなく、狂ったように笑っている。
ダメだ……あれはもう正気でなくなっている。
真希さんからの答えは望めない。だが、あの黒い塊が恐ろしいものであるのは分かる。あれは一体……。
その時、前鬼の呼び掛けが頭の中に流れこんできた。
警告――あれは、全てを塵に返す危険な力。後鬼本来の力。あれに触れてはならない。
警告――役野真希にはあの力は扱えない。人間の肉体ではあの力は制御不能。力の暴走により本人を含め、辺り一帯が吹き飛ぶ。
「な……ダメだ、真希さん!」
前鬼からの警告に俺は慌てて真希さんに向かって駆け出す。
「あはははははははは! 全部、ぜんぶ、きえちゃえええええ……!」
彼女のその狂った笑いと共に、黒い塊にひびが入る。そのひびから黒い光が漏れだす。
もはやあの黒い塊は砕け散る一歩手前だ。あれが砕け散れば、その膨大な力が中から溢れ出し、彼女も含め全てを塵にしてしまう。
それだけは絶対に止めないといけない。
だが、間に合わない。間に合ったところで、それを止める方法がない。
だが、そんな絶望的な状況の中で、唐突にそれは起きた。
「え……」
真希さんから笑みが消える。
俺はそれを見て、呆然と立ち尽くしていた。
黒い塊は刀で切られたように突然真っ二つになり、溢れ出すはずだった黒い光は出てこない。それどころか、黒い塊は、その形を崩し、霧散してしまった。
「まったく……死にたいならどこか他所で独りで死んでくれよ。アンタの勝手に僕達を巻き込まないでくれるかな?」
唐突にどこからか聞こえてくる声。けれど、その声は――。
「ああ、違うか。つまりアンタは――」
陽気で、無邪気そうなその声は、けれど、どこか冷酷さを感じさせる。そして、その声に俺は聞き覚えがあることに気づいた。
けれど、それに気づいた時には、その声の主は真希さんの後ろに立っていて――その手が彼女の腹から突き出ていた。
「――え? な、ん、で……?」
何が起きているのか、おそらく真希さんは理解できていない。だが、その口からは赤い血が零れている。
ズボリと音を立てながら、引き抜かれる手。それと同時に真希さんは声もなく地面に倒れた。
「詰まる所、アンタは僕に殺されたかったってことで、いいんだろう?」
彼は陽気にそう告げる。
その彼の右手は先程の行いを証明するように真っ赤に血に染まっていた。
口元をほころばせながら、彼は俺の目の前に姿を現した。
それは、三年前見た姿と変わりなく――殺人鬼・一ノ宮貴志だった。




