第1話「血の力」
如月学園――かつて高校生活を過ごしたその舞台で、俺と蒼い双眸の女性は対峙していた。
その女性の名は役野真希。後鬼の血を受け継いだ末裔にして、役小角の子孫。そして、俺の大切な女性の姉でもある。
役野真希は一ノ宮怜奈の姉だ。彼女達は姉妹だ。正確には父親が違うので異父姉妹になる。その事実を知ったのは、つい先ほどのこと。けれど、それを聞いた時、驚きは大してなかった。むしろが逆で、色々と納得いってしまった。
真希さんと怜奈の境遇は似ている。
真希さんが母親に捨てられたのに対し、怜奈は母親に殺されそうになった。それは彼女達の中に流れる後鬼の血が原因になっている。
彼女達の母、一ノ宮怜子はその血を使って、後鬼の復活を目論んでいた。結果としてそれは失敗に終わったが、その意思は歪んだ形で真希さんに確実に引き継がれている。
彼女もまた後鬼の復活を目論んでいる。それも、自分の体を使って。
だからこそ、俺はここにやってきた。
「さあ、始めましょう。私達の愛の営みを!」
彼女は歓喜の声を上げる。
愛の営み、それは彼女が待ち望んだものだ。けれど、俺にとっては――。
「あら? 随分と浮かない顔ね? もしかして、緊張しているの?」
意地の悪そうな顔で彼女は微笑む。それは踏ん切りのつかない俺に発破をかけているつもりだったのかもしれない。
「いいえ、違いますよ、真希さん」
「あら……じゃあ、どうしたのかな?」
「どうしたもこうしたも、俺の返事は以前にもしているはずです。貴女とは、付き合えない。だから、その〝愛の営み〟にも付き合えないですよ」
「へぇ……なら、どうしてここに来たの?」
「決まっているじゃないですか。貴女を止めるためです!」
それが俺の目的だ。俺は前鬼とか後鬼とか、そんな人間からかけ離れた存在になんかに興味はない。そんなものに復活して欲しいとも願っていない。
だから、彼女を止める。人間として、人間の道を踏み外そうとしている彼女を止める。そう決意してここに立っている。
「私を止めるため、ね。呆れた……貴方まであの女と同じ戯言を言うのね」
「戯言なんかじゃない。怜奈も俺もそれを本気で思ってる。能力者の暴走を止めるのに殺すしかないなんてことは絶対にない! だから、まだ引き返せる道がある貴女を絶対に止めてみせます!」
「引き返せる道がある、ね……ふふ、あはははは……!」
真希さんはけたたましく笑い出す。まるで俺の言葉を嘲笑うかのように。そして、その笑いを堪えることができないのか、いつまでもその耳障りな笑いを続けた。
「……何がそんなに可笑しいんですか?」
「ふふ……失礼、したわね。でも、仕方ないじゃない。だって、貴方が勘違いしてるままなんだもん!」
「勘違い……だって?」
「ええ、そうよ。引き返せる道があるなんて、とんだ勘違いよ。だって、私は引き返すつもりないし……何よりも、もうその道は無くなっているんですもの!」
「な……ま、まさか!?」
「ええ、そうよ、一輝君。私ね、アレを使ったの。すごかった。ええ、すごかった! 想像してたよりもずっと気持ち良かったわ! 自分の身体が別のものに作り変わる感覚……いままで感じたのことのない快感だった!」
嬉々として自らの行いを語る真希さんの顔は、その時の快感を思い出しているのか、恍惚としたものに変わっている。
彼女はあのクスリ――能力を開花させるためのクスリ〝エクスタシー〟を既に自分に使ってしまっていた。
ならば、今の彼女はもう……。
「真希さん……貴女って人は、そこまでして、後鬼を……母親に復讐したいんですか!」
「知ったよな口を利かないでくれるかしら。貴方には一生分からないことよ。それにね、私は母親に復讐したいんじゃない。私がしたいのは人間への復讐よ!」
「それは……それは貴女の本当の意志じゃない。ただ単に後鬼を模倣しているだけだ!」
「後鬼を……模倣している、ですって?」
その瞬間、真希さんから表情が消えた。
彼女はこちらを睨む。その眼を視た途端、寒気がした。その視線はまるで凍てついた刃だ。
「やっぱり分かってないのね、一輝君。私はもう模倣者じゃない。だって、私はなれたもの、本物に! それを今から証明してあげるわ!」
その言葉を皮切りに、彼女は右掌をこちらに向けて突き出した。
その途端、こちらに向かって突風が駆け抜けていく。
「ぐっ……! こ、これは……風の能力か!?」
「あははは! どうかしら? すごいでしょう? 後鬼の力なら、一ノ宮の真似事なんて簡単なことよ! いいえ、これは一ノ宮なんかよりもずっと強い力よ! それを分からせてあげるわ!」
その言葉通り、風の勢いは増していく。
「く、くそっ! これじゃあ……」
突風の勢いはどんどん増してきている。近づく以前に、風で吹き飛ばされ兼ねない。
駆け抜けていく強烈な風の中、俺は一歩も踏み出せず、その場で堪えることがやっとだった。
「しぶといわね……いいわ、それならこれでどうかしら?」
彼女がそう口にした途端、風の軌道が変わった。いや、風がこちら向かって吹いているのは変わらない。けれど、その風はまるで渦を巻くようにして吹き荒れている。
吹き荒れる暴風。それが俺から自由を奪っていく。まるで手足に重い枷を付けられているようだ。
「褒めてあげる。その風の中、一歩も後退しないことには、ね。でもね、それが仇になるのよ」
「え……?」
理解は及ばない。及ぶ前に彼女はパチンと指を鳴らした。その瞬間、指先から火花が散り、それが一瞬して大きな炎に変貌する。
「な、なんで!?」
発火現象。いや、発火能力か。だからこそ、どうやって燃やしているかなんて考えていけない。これは能力だ。原理なんてものはない。
それに考えるよりも前に、動かなければいけない。
発生した炎は一瞬にして風に巻き上げられ、その火力を増していく。そして、風の軌道通りに炎は膨張し、こちらに向かって来ている。
急いでこの風の渦から脱出しなければ、丸焦げだ。
「このっ……これぐらいで!」
風に流されそうになりながら、全力を振り絞って右に跳ぶ。それで風の軌道から何とか外れることができた。けれど――。
「ぐあああ……!」
左手に強烈な痛みが走る。
見れば、逃げ遅れた左手が炎に焼かれていた。
「ぐぅぅ……!」
焼けただれた左手を抑え、痛みでその場に蹲る。
「ふふ、いいの? そんな悠長に蹲っていて」
「……?」
辺りは火の海。けれど、そこから既に脱している。一先ずは安全圏のはずなのに――。
「な……!?」
安全圏、そんな考えは即座に打ち消された。
真希さんは既に次の手のを打っていた。
彼女は左手を空に突き上げている。その手の上には、大きな球体上の液体が浮いていた。
「あれは……水……?」
「そう、水よ。それをいまからその燃え盛る炎の中に投げ入れるの」
「え……あ! や、やばい!」
彼女の狙いに気づき、立ち上がって必死に走った。
少しでこの火の海から離れなくてはいけない。でないと、この左手だけでは済まなくなる。
「ふふ……さあ、逃げ切れるかしらね?」
その声に走りながら振り返る。その時には、彼女は愉しそうに球体上の水を炎の中に投げ入れていた。
真希さんの手から離れた球体は一瞬にしてその形を失い、ただの水となってシャワーのように炎に降り注いだ。そして、瞬時に水は蒸発していく。
炎も水も消えていく。その代わりに発生したのは、高温の蒸気。それがこちらに迫ってくる。
「くそっ、こっちに風を!」
真希さんは風の軌道を変え、発生した蒸気がこちらに流れてくるようにしていた。
あんなものに覆われたら、火傷なんかじゃ済まない。蒸気を吸い込めば、内部から焼かれてしまう。それだけは絶対にダメだ。
俺は脇目もふらず、必死に逃げた。
「ふふ……いい逃げっぷりじゃない、一輝君。でも、そんな必死に逃げなくても大丈夫よ」
「え……?」
ポツリと顔に何かが当たる感触。それを手で拭ってみる。
「水――雨?」
そう気づいた時には、土砂降りのように雨が降ってきた。それも俺の周りだけに。それが自然現象なのではなく、彼女が起こした事だとすぐに分かった。
「一体、何を……?」
振った雨のせいで、すぐ傍までに迫っていた水蒸気は冷やされて消えていく。
彼女が何を考えているのか、さっぱり分からない。
自ら発生させた蒸気だというのに、それを彼女は呆気なく消した。
余裕のつもりなのか……?
「私の能力はどうだったかしら? すごかったでしょう? 一ノ宮お得意の風を自由に操る能力に加え、空気中の酸素を燃焼させる火の能力、そして、大気中の水分を集めて圧縮することのできる水の能力。どれも、後鬼の血に起こしたことで得た能力よ」
「……デモンストレーションのつもりですか? 俺をその気にさせるための」
「デモンストレーション? 貴方をその気にさせる? 馬鹿言わないで」
「え……」
「貴方なんかに用はないのよ、一輝君。私が会いたいのは貴方じゃない」
「え……俺じゃ、ない?」
「そうよ。私が会いたいのは前鬼だけよ。だから、貴方をここで殺すの」
前鬼――後鬼と対になる鬼神。そして、後鬼の宿敵でもある。やはり真希さんの狙いはその前鬼を殺すことなのだ。けれど、そうであるならば、先程の発言はおかしい。だって、前鬼は――。
「私と前鬼との愛の営み、その邪魔をする貴方は、ここで消す。これまでのはその為の布石よ」
真希さんはそう告げながら、水浸しになった地面を右手で触れる。そして、不敵な笑みを漏らす。
「さて――ここで問題よ。風、火、水と来たら、次はどんな能力だと思う?」
「な! ま、まだあるって言うのか!?」
「当たり前じゃない。私は後鬼。鬼神の力はまだまだこんなもんじゃないわ。ところで一輝君、濡れた手でコンセントを触ったらどうなるかしら?」
「え……それはもちろん――」
当たり前だが感電する。運が悪ければ、死にもするだろう。が、それをここでする質問ではない。だって、ここにはコンセントもなければ、電流が流れているなんてものもない。例え、俺が濡れているからって――待て。濡れている、だって?
「――は! し、しまった!?」
真希さんの真意に気づき、慌ててその場から離れようとした。けれど、その足は動かない。
「な、なんだ!? どうなって――」
足元を見ると、自分の足がまるで沼にでも嵌っているかのように地面に沈んでいた。
「な、なんだこれ!?」
地面がどうしてこんなことになっているのか分からず、真希さんの方を見ると、彼女は苦笑していた。
「残念。貴方、最初の質問にまだ答えていないでしょう? 次はどんな能力か、その答えがそれよ。大地を操る力――〝土〟の能力よ」
そんな……四つも能力を持っているなんて――いや、違う。四つじゃない。この人はまだ――。
「く、くそっ!」
もがく。なんとか沼から抜け出そうとしてもがく。けれど、その足が地面から抜けることはない。
彼女の右手は、まだ濡れた地面に触れたままだ。
「終わりね。案外、呆気なかったわね?」
「ち、ちくしょお……!」
ここまでなのか。やっぱり俺には何も出来ないのか。怜奈を置いてけぼりにしてまで、全部に独りで決着をつけると決意してここに来たのに。それなのに何も出来ず終わるのか。
なんて……無力。俺は、なんて無力なんだ。
「……さようなら、一輝君」
その別れの言葉と共に、真希さんの右手が一瞬青く光る。
「――ぁ!」
その瞬間、視界は真っ暗に閉ざされた。




