第3話「襲いくる者」/5
人影はこちらに向かって歩いてくる。その距離、あと20メートル強。その距離になって人影の姿がやっとハッキリと見えてきた。
それは黄色いパーカーを着込み、フードを深々と被って顔を隠している。男か女かも分からない。
俺は目を凝らし、その人物の動きに注意を注ぐ。
それは本能的な危機感からだった。この半年で何度も人間以上の存在を見てきたから分かる。こいつは何をしてくるか分からない。本当にやばい人間だ。いや、人間ですらないかもしれない。
奴との距離は依然として20メートル程ある。俺はいつでも逃げ出せるように態勢を整える。
だが、奴はそれに気付いたのか動きを止めた。そして、ジッとこちらを見据えてくる。
「……なんだ、こいつ……?」
気味が悪い。襲ってくるわけでも、話しかけてくるわけでもない。ただ、ジッとこちらを見てくるだけ。
こんな奴、初めてだ。今まで出会ってきた能力者や魔術使いは、まだ人間らしい部分が残っていた。だが、こいつからはまるでそれを感じない。こいつは一体……。
そんな寒気にも似た感覚に身震いをした時、突然辺りの街灯が点滅し始める。
「っ! 今度は一体なんだ!?」
それはリズミカルで、周期的に点滅を繰り返している。
それを幾度かを繰り返した後――
「ぐっ!」
突然街灯が眩しいぐらい輝きを発した。
俺は街灯から急いで視線を外し、目に手をかざして光を遮る。
パーカーの人物はというと、フードを被っているからか、街灯の光をものともせず、変わらずジッとこちらを見ている。
だが、その強すぎる光のおかげで、フードの中の顔が薄っすらと見える。
「――――ぁ」
フードの中を見た途端、俺はぞっとした。
失敗した。見るべきではなかった。おかげで今更になって恐怖を実感してしまった。
見えたのは口元だけ。けれど、それだけで十分俺は戦慄した。
――その口元は、とても人間とは思えない程、左右に吊り上がり、笑っていた――
やばい――やばいやばい! 早く逃げないと、ここから逃げ出さないと。でないと、■■■■しまう――!
「ヤッと……みつケタ……」
「え――!」
それに俺は思わず声を上げてしまった。
いままで黙ってこちらを見つめてきていただけの奴が突然口を開いたのだ。
「ミツケタ……ミツケタ、ミツケタ……!」
ミツケタ、ただそれだけを片言でうわごとのように繰り返し、奴は口元をさらに吊り上げ、嬉々として笑っている。
それに合わせるようにさらに街灯の光は強さを増していく。そして――一斉に街灯は火花を上げて、弾け飛んだ。
「うわっ!」
俺は慌てて飛び退いて、割れた街灯の破片を避ける。
だが、パーカーの人物はその破片を頭から被りながらも口元は笑ったままだ。
「こ、これって……」
割れた街灯とその破片を見る。それは間違いなく、昨日火災現場近くで見た、壊れた街灯と同じ状態だ。
それに気づけば、その後に待つ答えにたどり着くまで一秒もかからなかった。
「まさか……お前……お前が、あの火事を……?」
それは奴への問い掛けでなく、単なる自問自答だった。だが、それを奴はどう受け取ったのか――
「あは! ひゃは、ひゃははははは……!」
笑う。笑う。まるで壊れてしまったのではないかと思うほど、奴は笑い出す。
奴に何が起きたかなど分からない。だが、奴の感情だけは読み取れた。それは歓喜だ。奴はいま嬉しくて笑っている。
ダメだ。とても話が通じるような人間じゃない。早く逃げないと本当に――
「ニガ、サナイ」
「――え?」
不意な言葉、それに意識を向けた瞬間だった。何か小さな物が俺の顔のすぐ横をもの凄いスピードで通り抜けていく。それは速すぎて何だったのかすら分からない。そして、その直後――
「ギャッ!」
背後から悲鳴が聞こえた。
振り向けば、数十メートル先の道の突き当たりに人が倒れていた。しかもピクリとも動かず、赤い血だけが流れ出ている。
「一体、何が……」
何が起きたかすら分からない。さっき俺の横を通り過ぎた物が何で、何故人が倒れているのか、それすらも分からない。
倒れている人を呆然と眺める。血は止めどなく流れている。生きているのか、死んでいるのか、ここからでは分からない。駆け寄って確認したいが、奴を前にして、背中を見せるの自殺行為だ。それに、他人の心配をしている場合でもない。
ただ恐怖のみが増していく。逃げたい――今すぐ逃げ出したい。だが――
「ニゲルナ、ニゲタら殺ス。ソイツミタイニ」
奴は笑いながら恐怖の言葉を投げかけてくる。
逃げれば殺す。それに嘘はない。俺がちょっとでも逃げ出そうとする様子を見せれば、こいつは躊躇いなく俺を殺すだろう。それこそ、背後で倒れている人のようにあっさりと。
「お前……何が目的だ?」
俺は相手を睨みつけながら、問いかける。だが、奴の口元はなおも笑っている。
「……タタ、カエ」
「え……?」
「タタかエ。ソウすレバ、もらエル」
「……もらえる?」
意味不明だ。こいつは一体何を言っているのか理解できない。戦えとは、貰えるとは一体どういう意味なのか……?
とにかく逃げることはできない。助けを呼ぼうにも、そんなことをすれば犠牲者が増えるだけだ。せめて、こいつがさっき何をしたのかぐらいは分かってからでないと。
「わ、悪いが、お前の言っている事が俺には分からない。もう少し分かりやすく喋ってくれないか?」
「オマエ……殺ス。殺セ、言われタ」
「言われた? 誰にだ?」
「殺す、コロス。デモ、ダメ。ただコロシタラ、アレもらえナイ。ダカラ、タタカエ」
ダメだ、会話が成り立たない。完全にイカれてしまっている人間の典型みたいな奴だ。危険なドラッグでもやっているのか、それとも――
「――一つ聞く。答えられるなら答えろ。お前は能力者か? それとも魔術使いか?」
それは自分でも驚くほど感情のない声だった。いつの間に俺はこんな風に感情を排斥できるようになったのか。
不思議だ。恐怖はあるのに、不思議と心は落ち着ている。いつもより思考も冴えている。
だが、奴は俺とは対照的に動揺を見せる。
「ギ……ノウ、リョク? マジュツ……? チガウ! あいつハ、チガウと言っタ!」
「アイツ……?」
「ダカラ、オレハ……オレハ……!」
奴はブツブツと呟き、頭を抱える。それがまるで苦しんでいるように俺には見えた。
「お前……辛いのか?」
その質問に、奴はハッと顔を上げる。
「ツラ、イ……? チガウ! チガウチガウチガウ! オレ、ハ……ツラクナンテ、ナイ!」
ギロリと睨まれる。フードで顔が隠れているのに、ハッキリと分かった。隠しようのない殺意が。
「ま、待て! 何か気に障ったなら謝る。 だから、落ち着ていくれ」
「ウルサイ! オマエ、気に入らナイ! もうイイ、コロシテヤル!」
ハッキリとした殺意を口にすると、奴は邪魔だと言わんばかりにフードを払いのけ、その素顔を晒す。
そこには、まだあどけなさを残す少年の顔があった。だが、そこにある表情は常軌を逸している。
口元は裂けているのではないかと思えるほど両側に吊り上がって笑っている。なのに、目は大きく見開かれ、血走っている。まともな精神状態ではないことが窺い知れた。
その顔を俺はここ最近見たような気がした。無論、その少年の顔に見覚えなどない。だが、少年のこの表情はどこかで――。
“――――まさか、な”
過ぎったのは一瞬。異形の姿をしたもの。現実には存在しないもの。それでも――
“いや、いまはそれどころじゃないな”
脳裏を過ったものを打ち消す。いまは目の前の相手に集中する時だ。余計なことは頭の中から消し去らなければ。
少年は俺を睨んだまま、右手を俺に向けて差し出す。その手の中指を曲げ、それを親指で押さえている。それはデコピンをする時のような手の形だ。だが、デコピンとは違う点が一つ。それは、その中指と親指の間に丸くて銀色に光る小さな何かが挟まれている。
“――まずい!”
「シネ!」
気づいたのは早かった。中指が弾かれる前にその軌道から外れようと俺は右に跳んだ。その瞬間、銀色の弾丸が頬を掠めていった。
「……ハズシタ……デモ」
「くっ! なんてスピードだ!」
たらりと頬から血が垂れる。けれど、それを拭っている暇など俺になかった。
少年は既に第二射への構えに入っている。
俺は間髪入れず、今度はさっきとは逆方向に飛び退く。すると、弾丸は俺のいた場所の地面に突き刺さった。
「ギ……コイツ、マタ……!」
少年は憎らしげにこちらを睨んでくる。
まずい。次発への間隔がほとんどない。さっきは上手く避けれたが、こんな事が何度も続けば確実に殺される。
奴が放っているのは指弾と呼ばれるもの。本来は中国武術の一種で、武器を失くした場合に、そこらに落ちている小石を使って礫として放つものだ。
だが、こんな少年がこれほどの指弾を放てる道理がない。それに親指で弾くだけの指弾にしては速すぎるし、威力もあり過ぎる。何か秘密があるとしか思えない。
とにかく当たれば確実な死だ。だが、逃げることは不可。ならば――
「ちっ! 一か八か!」
俺は奴に向かって駆けだす。直線的ではなく、左右に体を振りながらジグザグに進んでいく。
対して奴は、次弾を放ってくる。それを寸でのところで躱しながら、俺は奴へと向かっていく。
いつよりずっと身体が軽い。何故だか分からないが、怪我して以降で一番調子がいい。これなら軽快に動ける。これなら躱せる。これならあの時のように――
「くらえ……!」
数発の弾丸を躱し、奴との距離は既に二メートル。俺はそのまま右手の拳を振り上げ、奴の顔面へと繰り出し――
「ぐっ――あ、つい!」
突然、繰り出そうとした拳がまるで焼けているのではないかと思うほどの痛みに襲われる。
右手を見る。別に何ともない。右手が焼けているなんて馬鹿な事は起きてない。俺の錯覚だ。だが、その痛みだけは本物だ。
「アハ! 死ネ!」
「やべっ!」
奴は次弾をいままさに打ち出そうとしていた。
右手の痛みに気を取られ、気づくのが遅れた。いや、気づいていたとしても、この距離では躱せない。
慌てて拳を繰り出す。だが、もう遅い。奴が弾丸を放つ前に、拳を当てなければ意味がない。撃たせる前に殴り倒さなければならなかった。
弾丸が眉間に迫る。
“あ――だめだ、これ”
助からない。間違いなく弾丸は脳を貫通する。即死だ。
死を――覚悟した。
理由も分からず、死ぬ。
何も成しえぬまま、死ぬ。
俺は、何か間違ってしまったのだろうか――?
死の瞬間、呑気にもそんな疑問を浮かべながら、俺はその意識を――
「――――え?」
その意識が閉ざされることはなかった。
気づいた時には撃ち出された弾丸が目の前で静止していた。
「ギ……! バカ、ナ!?」
奴も突然の出来事に驚いている。ということは、奴がわざと弾丸を止めたわけではない。もとより、一度放たれた弾丸を止める術など奴にはない。
では、いったい何故――?
空中で静止した弾丸を視る。それはパチンコ玉のような鉛玉だ。
その弾丸そのものに変わった様子はない。だが、その周りには、渦巻く小さな気流のような膜ができていた。
気流の膜は消え、弾丸は地面に落ちる。それを茫然と眺めていた時だった。
「右に避けなさい!」
「え!?」
突然の声。訳も分からず、それでも俺はその声に反射的に従った。
右へと飛び退く。次の瞬間、その脇を突風が通り抜けていく。
「ギ……!」
突然の突風は少年を襲う。その体は宙を舞い、十数メートル先まで吹き飛ばして、地面に叩きつけた。
「こ、これって……」
知っている。この風も、さっきの気流の膜も俺は見たことがある。これは――
「そこまでよ! これ以上は私が許さない!」
背後から声が聞こえてくる。良く知っている声だ。透き通った綺麗な声。けれど、そこには確かな強い意志がある。そして、それをも上回る冷たい殺意がそこにある。
振り向いた先に、彼女は立っていた。




