プロローグ「血に堕ちる者」/2
その後、大神と名乗った男は一緒に来るように言ってきた。だが、僕は彼と別れることを選んだ。無論、外に出してくれたことには感謝していたが、自身を神になる存在と豪語する彼を信用などできはしなかった。
それに、僕は父に外に出ることを禁じられていた。それを破ってまで外に出たかったのは、彼女に謝りたい一心だったからにすぎない。それを果たせば、僕はまたあの闇しかない牢獄に戻るつもりでいた。
大神にそれを告げると、意外なことに、彼は容易く了承した。だが、最後に彼は不吉な言葉を残し、僕の前から姿を消した。
「だが、お前は私に必ずまた会うことになる。いや、私を求めるだろう。なぜなら、私だけが本当のお前を理解してやれるからだ」
その言葉の意味を理解できないまま、かつて自分の家だった場所に僕は向かった。
おぼろげな記憶を辿り、数日歩き続けて僕はやっと自分の家にたどり着いた。
そこは何もかも懐かしかった。かつての僕の居場所。かつて僕と彼女が暮らした家。そして、僕が大罪を犯した場所だ。
僕は感慨に耽る暇もなく、誰にも見つからないように家に忍び込んだ。
僕の目的は彼女に謝る事だけ。それが済めば、またあの場所に戻る。それが僕の願いのはずだった。
僕は誰にも見つかることなく、彼女の部屋の前までたどり着けた。それは自分でも驚くほどあっけなかった。もっと厳重な警備が引かれているものだと思っていたが、ほとんどと言っていい程、敷地内は無警戒だった。僕がいた頃は少なくとも外に向けては厳重な警備がされていたものなのだが――。
「ねぇ、お姉様?」
考えを巡らせていると、彼女の部屋の中から、女の子の声が聞こえてきた。
「なぁに?」
その女の子の声に応えるように、別の女性の声が聞こえてくる。その声を聞いて、すぐに分かった。〝彼女〟だ。では、最初に聞こえてきた声は――。
「お姉様はずっとここにいてくれるよね?」
「え……」
女の子の質問に彼女は驚いているようだった。
「……お姉様?」
「ど、どうしたの? 急にそんなこと……」
「だって……お姉様はお父様の後を継ぐんでしょ?」
「そ、そうだけど……」
「だったら、お姉様もお父様にみたいにいっつも家を空けるようになっちゃうのかなって……」
「……バカね」
呆れたような彼女の声が聞こえる。その声は優しさに満ちていた。
「お姉様?」
「私がお父様の後を継ぐなんて、ずっと先のこのことよ。そうね……もしかしたら、あなたがお嫁に行った後かもしれないわね」
そんな事を含み笑いとともに彼女は女の子に言い聞かせている。
「そ、そんな!? お、お嫁なんて私行きたくない! ずっと、お姉様と一緒にいたいよ!」
「冗談よ」
慌てる女の子に、彼女は笑いながらそう言った。それを聞いた女の子はほっと胸を撫で下ろしているようだった。
けど、何か――何かがおかしい。彼女の雰囲気に何か違和感がある。まるで、僕の知っている彼女ではないような――。
「でもね……もし、あなたがお嫁に行ったとしても、私はいつでもあなたを見守っているわ。あなたが生まれた時から、私とあなたは二人っきりの姉妹なんだから」
え……二人っきりの姉妹だって? なんだよ、それ……。
「お姉様……うん! 分かったわ!」
「良い子ね」
女の子の元気な声と、彼女の優しい声が聞こえてくる。けれど、彼女達の会話は僕にとって現実感のないものだった。
二人っきりの姉妹――違う。
二人っきりなんかじゃない!
僕がいる。僕は君達の――なのに……。
なのに、なんで僕が初めからいなかったみたいな感じになってるんだ!
どうして、ナンダ。ボクは、ココに、イルのに――。
「さ、もう夜も遅いわ。自分の部屋に戻って寝なさい」
「はい、お姉様!」
その声に僕は我に返った。
ダメだ――早くここから離れないと。
僕の頭の中には逃げ出すことしかなかった。彼女に会って謝りたい。そう思っていたはずなのに、彼女たちの会話を聞いて、怖くなってしまった。彼女が、彼女達が僕を忘れてしまっていることに。
僕は駆け出していた。無我夢中で、何も考えられず、ただ逃げるように。
けれど、それが良くなかった。走った先には人がいた。入る時には誰にも見つからなかったのに、今度はあっさりと見つかってしまった。
僕が出会ってしまったのは、執事姿の中年の男性だった。だが、その男性の姿に僕は見覚えがあった。
頭髪や口元に蓄えられている髭は白くなってしまっているが、その男性が僕の良く知る執事であることは間違いなかった。そして、僕のことを知っている執事でもあるはずだった。
だから、僕はすがる思いで彼に呼びかけようとした。
「さい――」
「何者だ?」
「え……」
執事姿の男性は獲物を狙うかのような眼光で僕を睨みながら、問いかけてきた。
その眼に僕は愕然とした。彼の眼光は確かに恐ろしかったが、それ以上にその眼が知らない人間に向ける眼だということ気づいてしまったから。
「答えぬか。ならば、賊と判断してよいということか」
彼は感情のない声でそう告げると、僕に向けて一歩踏み出す。その彼の眼には明らかな殺意が燈っていた。
今度こそ、僕は彼に恐怖した。このままでは殺される。そう直感した。
「う……うわああああ!」
僕はその恐怖に耐えられず、彼に背を向けて逃げ出した。
僕は無我夢中で走った。家から飛び出し、ただひたすら走って逃げた。
敷地内から出たところで、僕は後ろを振り向いた。だが、そこには彼の姿はなかった。その代わり、黒服に身を包んだ数人の男達が追ってきていた。彼らが何者なのか、僕には良く分からなかった。それでも、彼らの目的が僕を捕まえることであるのは明らかだった。僕にはただ逃げるという選択肢しか残されていなかった。
僕は呼吸するのも忘れ、ただ逃げた。どの程度を走ったかも分からない程、ただ走った。
気づいた時には、僕は暗く狭い路地の中にまで入ってきていた。その時になってやっと我に返った僕は、後ろを振り向いた。もう、追ってくる者は誰もいなかった。
僕は追っ手がいないことに安堵すると、その場に崩れ落ちた。既に体は限界だった。元々、あの牢獄の中だけで生活していた僕には、走ることですら負担がかかる行為だった。
「……ぐっ、ごほっ! あ……ぐ……」
呼吸が安定しない。胸を駆け上がってくる吐き気がそれをさらに助長させている。
「……く……そ……」
意識が遠のきそうなるのを何とか持ちこたえさせながら、僕は立ち上がろうと必死にもがいた。そこに、突然後ろから足音が聞こえてきた。
おかしな話だ。いまにも意識が途切れそうだと言うのに、その足音だけは、やけにハッキリと聞こえた。
僕は恐る恐る振り返ると、そこには一人の人間が近づいてきていた。それは先程僕を追ってきた黒服の男の一人だった。
何故その男だけがこの場所にいるかは分からない。だが、目的にハッキリとしている。僕を捕まえるために、この男は追ってきたのだ。
逃げなければ――。
僕は必死になって立ち上がろうとした。既に体中は悲鳴を上げている上、足はガクガクして力が入らない。それでも逃げたい一心で僕は立ち上がった。
その時だった。男は懐から何かを取り出し、それを僕に向けきた。それと同時に小さな破裂音が聞こえて、僕の頬を何かが掠めていった。
「え……?」
何が起こったかも分からないまま、僕は自分の頬に手を当てた。ぬめっとした感触がして、僕は自分の手の平を見る。そこには真っ赤な泥が付いていた。
「……血?」
それが血だと気づいた時、僕は自分が何をされたのか、やっと分かった。僕は銃で撃たれたのだ。
「そんな……なんで……?」
理解などできるはずもない。僕はただ彼女に謝りたくて、自分の家に侵入しただけにすぎない。その代償が命だと言うなら、それはあまりに大きすぎるし、理由にならない。そんな理不尽があってはならないはずなのに……。
なのに――それなのに、何故この男は平然と撃ってくる? 何故、この男は笑っている?
そんなに人を殺すことは楽しいのか?
『そう――愉しいはずだ。それをお前は知っているだろう?』
「え……」
それは突然の声だった。いや、声ですらなかったような気がする。頭の中に直接話しかけられているような感覚だった。
『思い出せ。お前は知っているはずだ。命を奪う愉しみを。命を狩る悦びを。お前はそれを望んでいる』
違う……僕の望みはただ彼女に謝りたいだけで――。
『己を偽るな。お前の中に流れる血はそれを望んでいる』
僕の中に流れる、血……?
『そうだ。欲しているはずだ。お前の中に流れる血が、殺人という、破壊という快楽を』
そんな……僕は……僕は――。
『奪え。壊せ。殺せ。全てを!!』
「や、め、ろ。や、め、て、くれぇ……!!」
叫ぶと同時に、僕の意識は薄れていった。
気づいた時には、全てが終わっていた。
僕の目の前に、人間だったもの残骸が散らばっていた。
「そんな……ハハ、なんだよ、コレ? これを僕がやったって言うのか?」
それは変えようのない事実だった。散らばった残骸は鋭利な刃物で切り刻まれたようにバラバラだった。そして、僕の周りには風が渦巻いていた。それが何よりもの証拠だ。
僕は……人を殺した? 何故?
殺したいなんて、一度も思ったことないのに、どうして――。
どうして、こんなにココロが踊っているんだ?
これが、ボク……? ホントウのボク? だとしたら、ボクは――。
「ああ、そうか。ボクは……オレは……我はそういう存在だったな」
僕は、自分の正体に気が付いた。だから僕は、再び求めた。
「やっと、己の願望に気が付いたか?」
背後から、聞き覚えのある声がする。僕はゆっくりと振り返った。そこには彼がいた。
「アンタか……」
「やはりこうなったな。それで? いまの気分はどうだ?」
「ああ、最高だ。外の空気を吸った時以上にな」
「それは結構」
彼は僕の答えに満足そうに微笑んだ。そして、彼は再びあの質問を口にした。
「では、いま一度問おう。お前は何を望む?」
そんな質問、既に答えるまでもない。僕は自分のやりたい事と、やらなければならない事を知っているから。だが、敢えて口にするならば、それは――。
「破壊、ただそれだけだ」
その答えに、彼は目を瞠った。
「良い答えだ。では、私と共に来るがいい」
「いいけど……それ、人を殺せるんだろうな?」
その質問に、彼は一瞥した後、答える。
「無論だ。その為にお前を選んだのだ、一ノ宮貴志」
それが僕と大神操司の二度目の出会いであり、その後の惨劇の始まりだった。




