第48話「君がために」
目を開ければ、そこは暗い海の中ような場所だった。俺はその中で漂っていた。
「なんだ……ここ?」
上を見れば光が差し込んできている。下を見ればさらに深い闇が広がっていた。
『真藤君、聞こえる?』
上から来栖女医の声が聞こえてきた。
「はい、聞こえます」
『良かった。とりあえず上手くいったようね』
上手くいった――という事は、ここは怜奈の意識の中ということか。
『そこはまだ怜奈さんの表層意識。深層意識はそこから深く潜った処よ』
「つまり、下に行けってことですね」
『ええ、そうよ。あなたの眼を通して、ちゃんとモニタリングしてるから、案内ぐらいはしてあげられるわ。けど、それも途中までよ。おそらく、深層意識に近づけば私との交信はできなくなると思ってて』
「分かりました。それじゃあ、潜ります」
俺は来栖女医に言われた通り、下へと潜り始めた。
潜り始めると辺りはさらに暗くなっていく。上から差し込んでいた光もどんどん弱くなっていった。
あまりにも暗く、あまりにも深く、あまりにも広い。そんな場所にたった独りでいることにだんだんと心細くなっていくのを実感していた。
「これが怜奈の意識の中……こんな暗い所なんて……なんて辛くて寂しい場所なんだ」
『それがいまの彼女の心そのものなんでしょう。彼女はいま深い闇の中にいるのよ。おそらく、マリオがそうさせたのでしょうけどね』
これが怜奈の心そのもの……だとしたら、怜奈はいま何を思っているだろうか? こんな暗くて何もない場所で何を考えているのだろうか? 俺にはそれが推し量れないでいた。
『しんど……君。このま……潜り続け……さい』
突然、来栖女医の声が途切れ途切れになり始めた。
『……限界……ね。その先……怜奈……いる……そこで……』
どうやら来栖女医のとの交信ができるのはここまでのようだ。おそらくモニタリングも出来ていないだろう。もう彼女の声は聞こえなくなっていた。
この先に怜奈がいる――この光も届かない闇だけが広がる深海のような場所に。後はその怜奈を見つけ出し、正気に戻せばいいだけだ。
だが、一筋縄ではないことは分かっている。でなければ、来栖女医が「命に係わる」なんてことは言わないし、この方法を躊躇わなかっただろう。
来栖女医は、何が起こるか分からない、と言っていたが、それは嘘だ。おそらく彼女は分かっていたと思う。この先で起きることを。そして、それに俺が気づていることにも。だから彼女は敢えて口にしなかったのだ。
たぶん、俺と怜奈が出会えば――。
「ここが最深部か……」
来栖女医との交信が途絶えてからものの数分のことだった。潜り続けた先には何もなかった。ただただ深い闇が広がっていた。だが、地に立つ感覚だけがあった。その感覚が、そこが深層意識の最深部であることを告げていた。
暗い。なんて深い暗闇なんだ。これが怜奈の深層意識だなんて、自分が怜奈と意識が繋がっていると知らなければ、信じられないだろう。
こんな場所に怜奈がいる。真っ暗で何も見えない、自分以外何もいない場所に。いや――こんな場所に居続ければ、自分すらもいないのではないかと思ってしまいそうだ。そんな場所に怜奈が独りで佇んでいる姿を想像する。それだけで、胸が締めつけられそうになった。
早く――早く探さないと……!
怜奈を探し求めて俺は走り出した。けれど、どこまで行っても暗闇が続いているだけだった。いや、前に進んでいるのかも既に怪しい。景色も変わらず、真っ暗な闇が広がっているだけ。自分がどこに向かっているのかも定かではない。もしかしたら、走っているつもりで一歩も前に進んでいないかもしれない。そんな錯覚にすら陥る。
「くそっ! どこにいるんだ怜――うわっ!」
焦る気持ちばかりが空回りしたせいか、俺は足がもつれて転倒してしまった。
「ちくしょう……ちくしょおおー!」
俺は胸が張り裂けそうなるほど叫んでいた。自分の不甲斐なさに。自分の無力さに。
何が――何が、今度こそ救ってみせる、だ。こんな暗闇だけの世界で怜奈を見つけることもできないのに。
握った拳に力を込める。俺は悔しさのあまり、その拳を地面に叩きつけた。その瞬間、俺は意外なものを見た。
「――へ?」
あまりにも意外なものが目に入って、俺は間の抜けた声を上げてしまっていた。
俺が目にしたもの――それは地面に叩きつけた自分の拳だった。
「な、なんで……」
俺は戸惑っていた。こんな光も届かない暗闇の中なのに自分の手が見えているなんて変だ。いや、手だけではない。見てみれば、自分の身体はハッキリと視認できた。それがさらに俺を困惑させた。
自分のいる場所は真っ暗で何も見えない。けれど自分の体だけは見てとれる。もし本当に光のない暗闇ならそんなことはありえない。絶対に自分すらも視認することできなくなる。にもかかわらず、俺が自分の体を視認できるということは、ここには光があるということだ。では、この暗闇はなんなのか――。
「まさか……」
答えは一つだ。この場所は――この世界は初めから何もなく、初めから真っ黒なのだ。黒く塗り潰された世界なのだ。それがいまの怜奈の心象世界。
俺は立ち上がり、目を凝らして辺りを見渡す。それでも真っ黒な世界しか見えなかった。けれど、そこに俺は怜奈の心を見たような気がした。
「怜奈……待ってろ。すぐに行くからな」
俺は再び前へと進みだす。けれど、前と違う。一歩一歩確かな足取りで、迷いなく進める。
分かる――どこに向かえばいいか。どの方角に行けば怜奈がいるのか。怜奈の心の一端に触れた俺は誘われるように歩いていた。
そして俺はたどり着いた。
「怜奈!!」
彼女は真っ暗なこの世界で、俺から十メートル程離れた場所で独り俯いたまま、佇んでいた。そんな彼女は俺の呼びかけにピクリと体を震わせた。
「怜奈。俺のこと……分かるかい?」
俺はなるべく慎重に声をかけた。いま俺の目の前のいる怜奈が果たして〝どちら〟なのか、はかりかねていた。
怜奈はゆっくりと顔を上げていく。俺は恐る恐るその表情を窺った。その表情はいつもと変わらないように見えた。
「か……ず……き……?」
彼女はたどたどしく俺の名前を口にした。それに俺は安堵した。俺を認識できるということは少なくとも完全な洗脳状態ではないようだ。
「よかった……どうやら無事みたいだね」
俺は彼女の表情を窺いながら慎重に一歩前に歩み出る。その瞬間、風が吹いた。
「ぐっ……!!」
左肩に痛烈な痛みが走る。肩口を右手で抑えると、手にぬるりとした感触があった。肩から手を離し、その手を見てみるとベットリと赤い液体が付いていた。それを見た瞬間、頭がクラリとして俺は膝をついた。
肩口を見る。刃物で切られたようにパックリと割れていた。そこから血があふれ出している。
さっきの風――あれは風の刃……なのか?
「れい……な?」
佇む怜奈を見上げる。そこには無表情な顔があった。無表情で俺を凝視する眼があった。
「それ以上近づくようなら次は確実に殺す」
「え……」
彼女が発した言葉に俺は耳を疑った。確かに言った。『殺す』と俺に向かって確かに言ったのだ。まさか――。
「ど、どうしたんだよ……怜奈? 俺が……俺が分からないのか?」
「分かっている。真藤一輝、でしょ?」
「だ、だったら……なんでこんな……」
「なんで? 分かりきっていることを。お前が私の敵だからだ」
「な、なに言って……」
俺が怜奈の敵……? なんで――なんでそんなことになる? それに何か様子がおかしい。口調も変わっているし、雰囲気も禍々しい。
「お前は私の敵だ。私の目的を邪魔する憎むべき敵。もう何度殺したか知れない。それでもこうやって私の前にやってくる。だから、殺す。お前ら人間全てを!」
「な……何言ってるんだよ! 人間を全て殺すって……本気で言っているのか!?」
「当然だ」
何の躊躇いもない即答。本気だ。怜奈は本気で人間を全て殺すなんてことを言っている。これでは本当に大神の言っていた通りだ。いや――まるで怜奈が大神のようになってしまったように見える。
そこまで分かって、俺は確信した。いまの怜奈は間違いなく大神の能力の影響下に置かれ、既に本来の意志というものを失いかけていることを。
「れ、怜奈。目を……目を覚ますんだ。君の願いはそんな事じゃないはずだ!」
「私の願いはお前達を――愚かな人間どもを消し去ることだけだ」
「違う! そうじゃないだろ? 君の願いは大神から聖羅ちゃんを取り戻すことだろ!」
「セイラ……? 誰だ、それは?」
「な……だ、誰って……」
俺は愕然とした。怜奈は本気で分かっていないようだった。本気で自分の妹の名前が分かっていない。まさか、記憶まで操作されてしまったって言うのか?
「聖羅ちゃんだよ! 君の妹の一ノ宮聖羅だ! 本当に……本当に分からないのか?」
「いもうと――ああ、そんな子もいたわね」
瞬間、怜奈は懐かしそうに目を細め、口調も戻っていた。だが、次に彼女は恐ろしい言葉を口にした。
「私が肉片に変えてやった二人目の名だ」
怜奈から人間としての表情は消えていた。口元を吊り上げ、悍ましく笑っている。その笑みを見て、俺は背筋がぞっとするほど恐ろしかった。
「肉片に変えたって……何を言っているんだよ! 聖羅ちゃんは無事だ。君は聖羅ちゃんを殺してなんかいないし、ちゃんと彼女は生きてる!」
「――生きてる?」
俺の発言に怜奈は目を瞠り、驚いている。
そうか――大神は怜奈に聖羅ちゃんを自分の手で殺したと思い込ませて、彼女を追いやったのか。なら――。
「そうだよ。生きている。君が彼女を殺すわけないだろ? 君は聖羅ちゃんを何よりも大事に想っていたんだから」
「そう……殺したと思ったけど、それは思い違いだったのか。なら――今度こそ殺さないと」
「なん……で……」
怜奈の躊躇いない残酷な言葉に俺は愕然とするしかなかった。もう、目の前にいる怜奈は俺の知る怜奈とはかけ離れすぎていた。少なくとも俺の知る怜奈はこんな事を言う人間ではなかった。それなのに――。
「なんで……なんで、人間を殺すなんてこと言うんだよ……」
「何故と問われれば、私がそうしたいから。愚かな人間をこの世界から消してしまいたいからだ。そして世界を作り変える。私が望む世界に」
「君が望む世界……なんだよそれ……怜奈が……怜奈が望む世界はそんなものじゃないはずだ。俺は知ってる。前に紅坂さんの病室に行ったとき、君が彼女を見る目は能力者を見る目じゃなかった。あれは友達を、親友を見る目だ。それに君はあの時、紅坂さんと本当に楽しそうに話していた」
「黙れ……」
怜奈は俺を睨んでいる。けれど、俺はそれを無視して話し続けた。
「怜奈。君の本当の願いは、日常の中にあるはずだ。聖羅ちゃんがいて、新一さんがいて、齋燈さんがいて、弘蔵さんがいて、紅坂さんがいる……みんながいる何にも変わらない日常が欲しかったんだろ?」
「黙れ! お前に私の何が分かる!」
怜奈は激昂していた。叫んだ瞬間に強風が吹き荒れ、俺は吹き飛ばされるのをぐっと堪えた。
「分かるさ! だって三年前も、今もずっと君を見てきたんだ。だから分かるよ。根拠なんてものはないけど俺には分かるんだ。君はどんな理由があろうと人殺しなんてことしたいとは思ってない。ましてや、世界を作り変えるなんてこと、ありえないよ。だから、それは君の本当の願いじゃない。君が望む世界は、人間がいない世界じゃなく、みんなが君の傍で笑っていられる世界のはずだろ? そのみんなも心配しているよ? だから帰ろう。みんなが居る場所へ」
どんな言葉をかければ怜奈が正気に戻ってくれるのか。怜奈の人間としての心に訴えかけることができるのか分からない。けれど、怜奈に言葉をかけ続けるしかない。彼女自身の気持ちに気づかせるために。
けれど、そんな事は無駄だったのだ。どんな正論や綺麗事を語ろうとも、心を閉じ、世界に絶望した者には届きはしないのだと、この後すぐに気づかされることになった。
「フ――フフフ、アハハハハ!」
俺の説得に怜奈は声を大にして笑い出した。その高笑いが俺の説得が無意味であることを物語っていた。
「みんなが笑っている世界? みんなが心配している? だから、みんなが居る場所に帰ろう? ふざけるな! そんな言葉に私が騙されると思っているのか!」
「だ、騙してなんかいない! 本当のことだ!」
「黙れ! だからお前は何も分かっていないって言ってるんだ。私は独りだ。どこまで行っても独りだ。教えてやる。私に人間の言葉など意味がないことを。
私の母親は私を殺そうとした。この意味、お前に分かるか?」
「な、何言って……」
怜奈の突然の告白に俺は驚きのあまり何も答えられなかった。
怜奈の母親が、彼女を殺そうとした? なんだそれは。そんな馬鹿なこと……。
「無条件に愛情を注いでくれるはずの存在が、そこに愛情なんてものはなかった。あの女は私が生まれた瞬間、私の死を望んだ。そして、成長した私に失望し、私を畏れ、私を憎み、私を殺そうとした。母から初めてもらった感情、それは憎しみだった」
そんな……そんな事ってあんまりだ。母親が――子を無条件に愛すべき母親が、その子供を殺そうとするなんて酷過ぎる。これが本当なら、彼女に言葉なんて意味がない。だって、愛を、人の心を教えるべき母親が愛情じゃなく、憎しみしか植えつけなかったのだから。でも――。
「分かったか? 私に何を言おうと意味がない。私はこの憎しみをぶつけるだけ。母と同じ人間に!」
でも、違う。いままでの怜奈はそんな人間じゃなかった。だって、彼女だってその愛情を知っていた。母親からは愛情を貰えなかったかもしれない。けど、その代わりに様々な人間から愛情を注ぎこまれてる。だから、彼女が憎しみ知らない人間なわけがない。
いまの怜奈は本当の彼女じゃない。大神によって操られ、憎しみという感情を利用されている。たとえ愛情が注ぎ込まれていても、いまの彼女は憎しみに支配されている。なら、言葉は通じないだろう。だったら――だったら言葉以外で彼女に気づかせるしかない。
「分かったよ、怜奈」
「そう――理解できたなら、去れ。でなければ、殺す」
「いや、それは違うよ、怜奈。俺は君の憎しみを理解してやれない。そんな借り物の憎しみなんて、理解するつもりなんてない」
「なん、だと?」
それは小さな動揺だった。彼女は自身が口にした憎しみを否定され、一瞬ではあったが揺らいだ。それを俺は好機と見た。
「だから、俺はここから去るつもりもない。さっき分かったって言ったのは、君を連れ戻すには言葉だけじゃ無理だってことだよ。だから、俺はこれから実力行使にでることにするよ」
「お前、死にたいのか? 私は本気で――」
「本気で殺すつもりなら、何故さっさとやらない。君なら何時でも簡単に俺を殺せるはずだ。けど、君はしない。そんなつもりないからだ。本気で殺すつもりなら、〝去れ〟なんてこと言わないだろう?」
「なに、を……!」
まただ。今度はさっきよりもはっきりと分かる動揺だ。挑発とも取られかねない発言ではあったが、相手を揺さぶるには十分だったようだ。
確かに言葉だけでは、怜奈を元に戻すことはできない。だが、攻撃の武器としてなら有効だ。これは相手の心を揺さぶるための手段であり、決して効果としては大きくはない。けれど、少しの間でも、一瞬でも動揺を誘えるなら、いまの俺にとっては突破口になる。
俺は怜奈の動揺を見逃すことなく、行動に移した。怜奈に向かって駆けた。
「き、きさま……!」
言葉で動揺を誘うことは確かに有効的だった。少なくとも俺の最初の数歩に彼女は反応できなかった。だが、そこまでだ。一メートルも進まずして、風の刃が襲ってきた。
「くっ!」
俺は寸でのところでその刃を躱す。
今のはやばかった。なんとかギリギリのところで躱せたが、あと一瞬反応が遅れていたら俺は腰から下を切られ、真っ二つだっただろう。だが、それは逆に言えば――。
俺が刃を躱すのを見た怜奈は忌々しげに舌打ちをした。
「本気で殺すつもりがないだと? ふざけるな! 私は何時でもお前を殺せるから放っておているだけだ。殺すことに躊躇いなどない!」
「嘘だね。君は躊躇っている。その証拠にいまの風の刃だって、俺がギリギリ躱せるスピードでしか飛ばしてこなかった。君は明らかに躊躇っている」
「だ、だまれぇ!」
怜奈は俺の言葉に激怒し、再び風の刃を飛ばしてきた。だが、その表情には戸惑いがある。その戸惑いが狂わせたのか、風の刃の軌道が若干逸れ、俺はそれを難なく躱すことができた。そして、俺はまた怜奈に向かっていく。
「お、おのれぇ!」
俺が駆けだすのと同時に怜奈は風の刃を飛ばしてくる。俺はそれをギリギリのところでまた躱し、立ち止まった。今度も進めたのは数歩のみ。だが、確実に怜奈に近づいている。
「ほら、また躱せた。いや、躱させてくれた。やっぱり君は俺を本気で殺すつもりなんてない。君も気づいているんだろう?」
「だ、だまれ! たまたま躱せただけだ!」
「たまたまが三度も続くのかい? ありえないよ。君は自分でも気づかない内に放った刃にブレーキをかけてるんだ。殺したくないから」
「その口を――閉じろ……!」
怜奈はさらに激昂し、風の刃を飛ばす。今度は二撃同時。本来なら躱すことはできない。だが、今は躱すこともしなくていい。刃は俺の両脇を通り抜けていった。
「な、なんで……!」
放った風の刃が意図したものとはまったく違う軌道だったことに、怜奈は愕然とした。
――俺はその間に一歩進む。
「君は憎しみを人間にぶつけると言ったけど、それは嘘だ。君は人間を憎んじゃいない」
「……だまれ」
俺の言葉に俯き、小さな声で呟く彼女。
――俺はその間に二歩進む。
「君は人間を殺すと言ったけど、それは嘘だ。君は殺せない。誰も殺したくないんだ」
「……黙れ」
彼女は俯いたまま、先程よりも声を張り上げた。
――俺はその間に三歩進む。
「君は独りだと言ったけど、それは嘘だ。君は独りじゃない。独りなんかでいたくないんだ」
「黙れ……!」
彼女は顔を上げ、叫んだ。
――俺はその間に彼女の前に立った。
「本当は寂しいだろう? 誰かと一緒に居たいんだろう? 傍に居て欲しいんだろう?」
「だまれえええ……!」
彼女は叫びながら、右腕を突き出した。その腕は風を纏い、鋭利な刃物になっていた。
それでも俺は躊躇わなかった。前へと歩を進め、彼女の腕は俺の胸を貫いた。
「ぐっ……!」
苦悶の声を漏らしてみたものも、あまり痛みというものを感じなかった。その代わりにあるイメージが頭の中に流れ込んできた。
そのイメージはまるで録画映像の早回しのようだった。そこには俺の知らない光景や見知った光景があった。それと同時にその映像に合わせて、〝心〟も一気に流れ込んできた。嘆きや悲しみ、そして恐怖。ありとあらゆる負の感情だった。
それが怜奈の記憶とその時の感情であると理解するのは容易かった。
――そして俺は全てを知った。
彼女がどれほど孤独だったのか。
彼女がどれほど苦しんでいたのか。
彼女がどれほど強くあろうとしのか。
けれど、俺は知っていた。彼女がどれほど弱い存在かを。いままでどれほど涙を流してきたのかを。だから――。
――だから俺は彼女を抱きしめた。
「な……なに……を?」
「ごめんな……怜奈。ずっと、独りにして……」
彼女を引き寄せた腕に力を込めて、その腕で強く抱きしめる。
胸からは血が滴り落ちている。
「や……めろ」
「もう……独りで……苦しまなくていいんだ」
さらに強く抱きしめる。
胸からは血が止めどなく流れている。
「やめろ!」
「君はもう……独りじゃない。俺が……いるから」
強く強く抱きしめる。
黒い世界は一面に紅く染まっていく。
「やめ……て」
「ずっと……君の傍に……いる……もう、放さない」
力の限り抱きしめる。
そして、一滴の涙が紅く染まった世界に流れ落ちた。
「もうやめてぇ!」
「怜奈。君を……愛してる」
それが俺の最後の攻撃だった。全身から力が抜けていく感覚と共に、俺は怜奈を抱きしめていた腕を放し、その場に崩れ落ちる。それと同時に突き刺さっていた彼女の腕も胸から引き抜かれた。
「か……かずき……!」
怜奈は俺が地面に倒れる前に抱き止めた。
「れい……な……おれの……なまえ……」
呼んでくれた――いつものように俺の名前を呼んでくれた。
「かずき、かずき、一輝!」
彼女は泣いている。俺の名前を何度も呼びながら、大粒の涙を流している。
「わたし……わたし……なんで……なんでこんなこと……!」
なんで――それは後悔の言葉。先程までの彼女なら決して口にしなかったであろう言葉だ。
「よか……た」
よかった――戻ってくれた。いつもの怜奈に。
「やだ……やだよ! こんなの……こんなのイヤ!」
怜奈はまるで子供のように泣きじゃくっている。
――泣かせちゃ、ダメだ。
俺は最後の力を振り絞り、右手で彼女の頬に触れた。そして、笑って見せた。
「はは、大丈夫……だよ、怜奈。おれは……だい……じょうぶ、だから」
だから泣かないで――と、笑って見せる。君も笑って――と、微笑んで見せる。
「かずき……」
笑う俺に彼女は涙を流しながら、優しく微笑んだ。
その瞬間、暗い世界に太陽のような光が差し込み、世界は光に満たされた。
怜奈は頭上から降り注ぐ光を眩しそうに見上げている。
「これって……」
怜奈は世界の変貌に戸惑っていた。けれど、俺には分かった。この変化こそが、怜奈の本当の目覚めの時なのだと。
「起きる……時間だよ、怜奈」
「え……起きる時間って――え!?」
怜奈は疑問を口にする前に驚きの声を上げた。無理もない。彼女の体はゆっくりと浮き上がり始めていたのだから。おそらくは、怜奈が深層意識から浮上することで、現実の彼女が目覚めることになるのだろう。
だが、俺の体は浮き上がることはなかった。重力に逆らい上昇する怜奈。そして、重力に縛りつけられ、地に臥す俺。それが意味することを俺は瞬時に理解できた。もう俺は――。
「一輝!」
怜奈は俺から離れまいと手を伸ばし、もがく。そんな彼女に俺はもう一度笑って見せる。
「はは……大丈夫……だって。すぐに……俺も追いつく……から」
「イヤ! イヤよ! もう放さないって言ってくれたじゃない!」
浮上していく怜奈。手から頬も離れていく。俺は別れが近いのだと悟った。だから、最後の言葉を振り絞って、途切れることなく声にした。
「ああ、放さない。ずっと一緒だよ、怜奈」
その言葉がまるで合図であったかのように怜奈は急速に浮上し始めた。
「かずきいいいいぃぃぃぃ……!」
俺の名前を叫ぶ怜奈。その声が聞こえなくなった時、彼女の姿は完全に見えなくなった。
「ごめん……な……れい……な」
それは彼女の前では決して口にしなかった言葉だった。これを言えば、彼女がまた暗い世界に閉じ込められてしまうと思ったから。
でも、もう大丈夫だ。怜奈はもう暗い世界には戻ってこない。光を知った彼女は闇には戻らない。たとえ彼女の前に闇が再び現れたとしても、彼女の周りには光となる人が沢山いる。光を知った彼女ならそれに気づくことができるから、きっともう闇にも堕ちることはない。
だから――もう、俺の役目は終わったんだ。
心残りがないなんて言えば嘘になる。でも、俺は満足している。最後に彼女を救うことができたから、彼女のためにできたことがあるから、満足している。
俺は最期に怜奈の心に差し込んだを光を見たくて、虚ろな眼で上を眺める。
「ぁ……」
上を見た瞬間、俺はあり得ないものを見た。それは上から舞い降りてくる人影だった。怜奈ではない。既にほとんど視力を失っていたが、それだけは分かった。なぜなら――。
「……てん……し?」
なぜなら、その人の背中からは純白の翼が生えていたから。
薄れゆく意識の中、俺が最期に見たものは紛れもなく天使だった。
――そうして、俺は死んだ。




