幕間「それぞれの戦場」・前編
怜奈は足を引きずりながら、校舎の中へと向かっていく。その姿はあまりにも弱々しく、先程まであの怪物と――魔犬ケルベロスと戦っていたと思えない程だ。
そんな彼女を高みから見下ろす存在がいた。その存在こそが、今宵、街中の人間を生ける屍へと変え、そして、ケルベロスを生み出した。そう――大神操司、その人物だ。
「能力の暴走……これで、準備は整ったな」
大神はそう呟くと、禍々しい笑みを浮かべた。
「すべては計画通り。もうすぐだ……もうすぐ私の願いが叶う!」
これまでは感情が窺えない抑揚のない声だったが、その声にも熱が帯びていた。それは、感情で言うところの歓喜にあたるだろう。
彼は感情というものをとうの昔に捨て去っていた。それは、自分の目的を果たすためには、その人間としての感情が最も邪魔だと、この運命を歩き出した時に気がついていたからだ。彼の目的は――望みは人のままでは決して叶える事のできないものだから。
そんな彼が歓喜している。喜びを得ようとしている。矛盾した話だ。彼はそれを自覚しながらも、致し方ない事だと一笑に付した。
そう――致し方ないことだ。彼にとっては、十何年という歳月をこの目的ためだけに捧げてきたのだから。
「しかし――」
大神は久方ぶりに生まれた感情を消し去るように笑みをその顔から消した。そして、振り返り背後を睨む。
そこには人影があった。闇夜に紛れているせいか、顔を見て取れず、背格好しか分からない。だが、彼はその人影が何者か分かっていた。
「――まさか、お前がこの場に来ようとはな」
大神はその人影にそう言葉を投げかけた。すると、人影はクスリと笑う。
「別にそんな風に言う事ないだろう? 久しぶりの再会だっていうのに」
聞き覚えのある男の声が返ってくる。大神はその声にさらに目を細め、睨みつけた。
「ああ――確かに久方ぶりだ。三年……ぶりだ」
「そう、三年ぶりだ。その三年ぶりの再会だって言うのに、そんなに恐い顔しないでくれよ? 悲しいじゃないか」
「悲しい?」
大神は男の台詞に微笑した。それは、彼にとって嘲笑に他ならなかった。
この目の前の男がそんな〝悲しい〟などという感情を持ち合わせていないことを大神は知っている。この男が自分と同類であると彼は知っているのだ。それが〝悲しい〟などと口をにするなど、冗談としか受け取れない。
「ふ――まあ、いい。それで? どういう風の吹き回しだ?」
「何のことだい?」
「とぼけるな。この場に現れるだけでなく、あまつさえあの女をたすけるとは、一体何を考えている?」
「なんだ……気づいてたのか。別に? 単なる気まぐれさ」
「嘘をつくな。分かっているぞ。お前はあの女があのまま能力の暴走させて自滅するのが見過ごせなかったのだろう?」
「――へぇ」
大神の言葉で男の雰囲気は一変した。それまでの揚々とした態度から、今は感情というものが排斥された冷たい視線を大神に注いでいる。
「よく気がついたね? そうさ。僕はアイツをあのまま死なせるなんてこと、堪えられなかった。〝何も知らないまま〟で死ぬなんて許せるはずがないだろう?」
「なるほどな……だが、その執着ももうすぐ意味をなくす。もはや、遅い。あの女はわが手の内だ。お前の出る幕はない」
「言ってろよ。過去三度失敗した男が言う台詞じゃないね。まぁ、あんたの計画が成功するよう、陰ながら応援しているよ」
男はそう言うと、踵を返す。
「最後まで見ていかないのか?」
「必要ないよ。どうせ、最後はあんたが勝つんだろ? だったら、僕はお役御免さ」
「そうではない。〝あの男〟の最後を見ていかないのか、と言っているのだ。もうすぐここにやってくる」
「……それこそ、興味がない。〝現在〟の彼にはね」
つまらなさそうに言い放ったその言葉を最後に、男は大神の前から忽然と姿を消した。
男の気配が完全に消えた後、大神はふっと笑みを漏らす。
「相変わらず何を考えているか読めない奴だ。この私ですらな」
そう呟き、やれやれと頭を左右に振った後、振り返って向き直った。
眼下に広がる校庭の先、学園の外に視線を向ける。そこには、こちらに向かってくる人影があった。
「……来たか」
大神はそれが何者か知っている。知っていて当たり前だ。その人物がここに来るように仕向けたのは他ならぬ彼自身なのだから。
「お前を排除してこそ、私の計画は成就する」
そう言いながら、大神は両掌を合わせる。それは魔術を行使するための儀式のようなもの。
「今度こそ、お前に絶望を与えてやろう――真藤一輝」
その言葉とともに、合掌した大神の両手は青白い光に包まれた。それが意味することは、もはや語るまでもない。
如月学園は、再び戦場と化す。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦場は変わり、如月町のある一角にある道場。
ここもまた大神によって創られた過酷な戦場だ。
だが、今はそこで暴れる猛者も、死から逃げ惑う者いない。そこにいるのは、地に倒れふした人々だけだ。
その異様な光景とは裏腹に道場の周辺は静まり返り、そこがつい先ほどまで戦場であったことが嘘のようだ。
その静粛に包まれた戦場に、ただ一人だけ地に立つ人物がいる。その人物は腰が曲がっている上、その顔には多くの皺がある。つまりは、かなりの高齢である事が窺える。
それでもなお、その老人は自らの二本の脚で立っていた。過酷であったであろうその戦場を自らの力で制し。
だが、それは驚くことでも、不思議なことでもはない。何故なら、その老人は能力者であり、そして、一ノ宮家前当主である一ノ宮弘蔵なのだから。
「やれやれ……やっと大人しくなったようだね」
弘蔵は辺りに動くものがいない事を確認すると、道場の縁側に腰を下ろす。その表情からは疲労の色が濃い。
「流石にあの数を相手にするのは疲れたねぇ……やはり歳は取りたくなものだねぇ」
弘蔵は寂しげに表情と共に、空を見上げた。
今宵の空は雲がかかり、月も星も見えない。おまけに街中が停電しているため、明かりにと呼べるものは一切なくなっている。弘蔵は街が完全に暗闇に覆われていることを今になって知った。
「……闇夜……か」
暗闇に人間は悪いイメージしか重ねない。弘蔵とてそれは同じだった。
その悪いイメージが今宵は現実のものとなった。突如、街中の人間が暴徒化し、自分達に襲い掛かってきた。
しかし、それも既に過ぎ去った事だ。今や弘蔵の前には暴徒化した人々が気絶し、倒れている。事態は沈静化したのだ。
「いや――」
事態は沈静化した。そう思うのも束の間、弘蔵は自身でそれを否定した。
弘蔵は道場の周りに倒れている人々に目を向ける。多くの者が倒れている。だが、弘蔵はそれを少なすぎると感じた。
もし、街中の人間が操られ、暴徒化しているのであれば、この程度で終わるはずがない。ならば、沈静化した理由は二つしかない。それは、操ることができなくなったか、操る必要がなくなったか、だ。
「後者……だろうねぇ」
考える必要などない。何故なら今もなお戦いは続いている。戦場は二つ。一つは間島探偵事務所の付近、もう一つは如月学園だ。その二カ所が未だに戦場であることは、弘蔵は察知していた。そして、如月学園では、ここやもう一つの戦場とは比べものにならない壮絶な戦い行われているであろうことも感じ取っていた。
まだ、何一つ終わってなどいない。この禍々しい闇夜は始まったばかりなのだと、弘蔵は気づいていた。
弘蔵はできることならば、すぐにでも怜奈のいる戦場に駆けつけたかった。だが、それはできない。何故なら、疲労が拭いきれず、駆けつけたとしても足手まといになるのは明白だったからだ。
それに――この場でやっておかなければならないこともあった。
弘蔵は縁側に腰掛けたまま、もう一度空を見上げる。そして、不意に口を開いた。
「出ておいで。いるのは分かっているよ」
それは誰に向けた言葉なのか。辺りには気絶し、倒れた人々しかいない。だが、弘蔵は間違いなく誰かに向けてその言葉を口にした。
「はは! すごいなぁ、まさか気づかれちゃうなんて!」
突然、後ろからまるで子供のような声が聞こえてくる。だが、弘蔵はその声を聞いても振り返ろうとしなかった。
「君がいるのはずっと前から知っていたよ」
「そうなの? おかしいな? 完全に気配は消してたはずなのに」
「気配ではないよ。何となく、そんな気がしていたんだよ」
「す、すごいな……どうやったら、そんな千里眼みたいな事できるの?」
「ふふ……千里眼とは良く言ったものだね。だが、違うよ。これは年の功というものだよ」
「そっか。覚えておくよ」
その声の主はそう言うと、屈託なくケラケラと笑った。そこに悪意と呼べるものは一切なく。まるで本当に子供がすぐ後ろにいて、笑っているように弘蔵は思えた。
だが、弘蔵は知っている。この声の主が子供ではないことを。そして、たとえ振り返ったところで、その姿を目視できないことも。
「それで? 今日ははどうしたんだい?」
「うん、お礼に来たんだ。約束を守ってくれたことへのね」
「そうかい。それはご丁寧なことだね。ありがとう」
「ううん、それは僕の台詞さ。こんな得体のしれない声だけの存在の頼み事を聞いてくれたんだからね」
弘蔵は苦笑した。声の主の言う通りだと思った。姿を見たこともないのにも関わらず、律儀に約束を守っていることに不思議で堪らなかった。だが、それでも何故かその声の頼みを断る気にはなれなかった。
そう――弘蔵は声の主と話すのは初めてではない。彼は以前に一度、その声と会話していた。
それは数日前、まだ一輝達が一連の事件に関わる前のことだ。その声は突然弘蔵に話しかけてきた。最初は空耳かと思っていたが、あまりにもはっきりと聞こえてきたため、無視することもできなかった。
それは今と同じで無邪気な子供ような声だった。だが、弘蔵は子供と認識できなかった。その声があまりにも神聖なものに思えてならなかったからだ。
その声は名も名乗らず、弘蔵にある事を頼んできた。その頼み事というのは、ある物をある人物に、ある時に渡してほしいと言うものだった。
彼がその頼み事を了承すると、まるで天から降ってきたかのように、そのある物が――『刀』が目の前に落ちてきた。
そう――それはまさしく真藤一輝に渡した刀である。弘蔵は声の主から託された刀を一ノ宮家に代々伝わってきた刀だと、嘘をついて彼に渡したのだ。無論、それも声の主の指示によるものだが。
故に弘蔵は知らない。あの刀に何の意味があるか、何故、一輝に渡す必要があるのかも。だが、声の主は弘蔵にこう言い聞かせてもいた。
『その刀を彼に渡せば、必ずあなたの孫にとっても、彼にとっても必ず助けになるよ』
その言葉を信じ、弘蔵は一輝に刀を渡した。。
今から思えば奇妙な事だと弘蔵は思っていた。名も知らぬ、姿も見せぬ者の言葉を信じるなど、本来であればあり得ない事だ。
「君は一体――いや、よそう。聞いたとしても、君は答えてくれないのだろう?」
「……ごめんね。本来なら答えてあげたいところだけど、今の僕にはそれができない」
「そうかい……なら、聞くだけ野暮ってものだねぇ」
弘蔵はそう言うと、ふぅっと溜息をついた後、立ち上がった。
「どうしたの?」
突然立ち上がった弘蔵に、声は問いかける。
「そろそろ、次の場所に行こうと思ってね」
「行くって……お孫さんの所にかい? 今から行っても……」
「いや、そっちじゃないよ。そっちも気になるのだけどね。それは怜奈と一輝君を信じることにしたよ。それよりも、〝彼ら〟の方が心配だ」
「ああ、なーんだ。そういうことか。だったら、心配いらないよ!」
声の主はそう言うと無邪気にケラケラと笑い出す。
「なんだい? それはどういう意味だい?」
さすがの弘蔵もその言葉の意味が分からず、怪訝そうに聞き返した。すると、声の主は自慢げに答える。
「だって、あそこには助っ人を向かわせているもの!」
「助っ人?」
「そうだよ! 彼らの内の一人に縁のある助っ人がね! だから、もう大丈夫!」
「そうかい……何から何まですまないねぇ」
「そんなことないさ! これは僕の頼み事を聞いてくれた御礼だよ。だからね? あなたはゆっくり休んでいていいんだよ?」
「そうだねぇ……それじゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらおうかね」
「うん! おじいさん、本当にありがとう。お疲れ様」
「いやいや……」
御礼と労いの言葉をもらった弘蔵はむずがゆく思った。過去、一ノ宮家の生業上、他人から批判や罵声を浴びせられたことはあれど、素直に御礼を言われることなどなかった。故に、その言葉が嬉しくもあった。
まったくもって不思議な存在だ。改めて、弘蔵はそう思った。できれば、もう少し話していたいと思っていた。
「ところで――」
弘蔵の方から話しかけようとした時、弘蔵は途中で言葉を切った。
「――やれやれ、もう行ってしまったか」
声の主の存在が感じられなくなっていた。もはや、彼の声は聞こえてこず、こちらの声も届かないだろう。
弘蔵は再び縁側に腰を下ろし、空を見上げる。
未だに空は雲に覆われている。闇夜はまだ続いている。




