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  作者: 内田花
3/3

3、 加地孝実

 ゆっくりと、街灯の明かりの下に立つ詩織に近づいた。靴音を立てると、彼女が消えてしまいそうな気がする。細い肩を震わせながら手紙を読んでいる姿は、弱々しく儚げだ。

 彼女が自分の罪に苦しみながら生きてきたことは、その姿を見ただけで分かる。この橋の上に立っている彼女を見たとき、そのまま川に飛び込んでしまうのではと思ったほどだ。

 この町に住んでいたときの詩織は、明るくて日に焼けていて、男の子みたいに活発な子だった。きゅっと結ったポニーテールといつもクルクル動く大きな目が可愛い少女。なのに、そんな面影も消え失せるほど、詩織は自分への罪悪感と嫌悪感に引き裂かれている。黒い瞳は翳り、怯えるように僕を見上げる。透き通るほど白い顔は、不安にかられ表情も乏しい。端正な顔立ちに化粧もせず、美しく成長したことさえ気づいていないようだ。

もし母のことがなかったら、宮子先生のように快活で芯の通った強い女性になっていただろうに。だが、彼女の時間はあの時の橋の上から止まったままなのかもしれない。

 詩織が宮子先生の気持ちを素直に受け取ってくれることを、今は心から願う。たとえ手紙が真実でも虚偽であっても……。僕たちはあまりに傷つき過ぎた。幼い罪が葬り去られたとしても、誰が咎めるだろう。僕たちは愛ゆえに罪を犯したのだから。

 街灯の下で、詩織はほっそりした肩を震わせている。そして、髪を揺らして頭を左右に振ると、

「母は馬鹿な人です。こんな手紙……」

 と震える声を絞り出した。

「そうだね……。君が愛おしくて堪らなかったんだろう」

 詩織の肩が激しく震え出した。その肩を掴むと振り向かせて、僕は彼女を再び抱き寄せた。詩織は腕の中で小鳥のように身を震わせた。「お母さん」と、何度も呟きながら胸に縋り付く。そして、ついには心を凍りつかせていた罪の意識を吐き出すように、声を上げ号泣した。

 詩織の髪に指をくぐらせ、ゆっくり撫でた。僕に甘えていた幼い彼女が、腕の中に戻って来たような気がする。純粋で無邪気で、春の陽射しのように暖かい子。僕と母がどれ程慰められたか……。愛おしさが突然溢れてきて、僕は彼女を抱く手に力を込めた。

「しいちゃん! 先生は亡くなったんだ。僕は全てを忘れたい……」

 途端に詩織の体がぐっと強張った。僕の胸で固く手を握っている。

「そんなこと……、許されない」

 呻くように彼女は言うと、腕を振りほどき僕から離れた。そして固く目を閉じて、胸に手紙を抱きしめた。

 詩織を救う一心で書かれた手紙……。

 宮子先生は恐い人だ。死を悟り、あんな手紙を残すなんて……。詩織のために、僕をひき合せようとしたのだと分かっている。つまりは宮子先生に代わって、僕が彼女の支えとなるように。先生は僕が詩織を拒めないことを知っていたわけだ。こうして救えるのは、僕しかいないことを。僕も父の死に関して怯えて生きてきたのだから。そして、幸せな一家を苦しみへと導いた女の子供なのだから……。

 本当に母親の愛情とは強いものだと思う。あの気の優しい僕の母でさえ、息子を守ろうと必死だった。

 詩織の温もりが残った手をポケットに押し込んで、彼女を見つめる。

「しいちゃん……。お母さんの愛情がわかるね?」

「はい……」

「君はお母さんの気持ちに答えて、しっかり生きて行かねばいけない。これ以上、悲しい想いをさせることがないように。この手紙は君を救うことになると信じて書かれたのだから」

詩織は頬の涙を手の甲で拭うと、濡れた瞳で僕を見上げる。

「あの……」

 街灯の明かりに、白い顔は少し赤味が差しているように見えた。所在なげにオロオロと落ち着かなかった瞳が、僕にまっすぐに向けられる。

「本当なのですか? 聡子さんはご主人を……」

 詩織の揺らぐ瞳に、僕は一瞬答えを躊躇った。すべては葬り去るべき過去の出来事だ。だが、それが僕たちの罪の根源だと、詩織は知る権利がある。

「うん……。父は死んだ。駆けつけた宮子先生と僕で父を材木置き場へ運び出し、積み上がった丸太の留めを外した。母と僕を救うため、宮子先生は手を貸してくれた。事故に見せかけようと……」

「そ、それで、母は貴方を脅したの? 私のことを話したら、聡子さんの罪を明かすと……」

「ああ、そうは言った。勿論、そんなことはしなかったと思うけどね。でもあの頃は僕も本当に辛かったし、宮子先生を心底憎んだよ。母を亡くして、心を開ける大人は誰もいなかった。君と宮子先生への憎悪は増すばかりだった」

「本当に……、私も母も許されません……」

 詩織は手紙を握り締めた手で顔を覆った。初めて知った真実に、ショックを隠せないでいる。僕は苛立つ思いに、大きく息を吐いた。

「しいちゃん。もう誰を憎んでも、どうなるものでもない。僕には君の、母に対する気持ちもわかるし、殺意などなかったと思っている。ただ、僕たちを取り巻く何かが狂ったんだ。母も宮子先生も亡くなった。それがこの忌まわしいできごとの結末だ。悲しいけど、それを僕たちは受け入れるべきだと思う。今更、父の死に関して、母と宮子先生の罪を明かすつもりなどない。散々に苦しんだけど、二人は僕にとって何よりも大切な人達だ」

「孝実さん、でも私……」

「それに、僕は、あれからもずっと君のお父さんに力になってもらった」

「え?」

 大きな黒い瞳が、唐突に向けられた。聞き間違いかというように、眉根を寄せ僕を見据える。彼女を裏切った父親のことを話すのはためらわれたが、僕にとっては恩人だ。それを彼女に伝える義務があるように思う。

「君のお父さん、加藤先生は七年前にこの町に戻ってきて、また教師として暮らしている。君たちの家で……。先生は一人で苦しんでいた僕を励ましてくれて、父親のようにそばにいてくれた。僕が全てを受け止められる人間に成長できたとしたら、それは加藤先生のお陰だ。君の罪を償うつもりだったのかも知れないが、僕は先生を心から信頼している。それに、母が愛した人だ。加藤先生はずっと母を忘れないでいてくれる」

「父が……この町に戻っていた……」

 詩織は目を閉じた。震える唇が小さく息を漏らした。暗く沈んだ表情が、穏やかさを取り戻したように見える。胸に押しつけた手紙をぐっと握り締め、暗闇に沈んだ川下の家の方角をぼんやりと眺めている。

 詩織は大きく息を吸うと、頬の涙を拭った。

「孝実さん。ありがとうございました」

 唐突に華奢な体を二つに折り、詩織は丁寧に頭を下げた。そして顔を上げ僕に向き合った時、柔らかく微笑んでいた。

「貴方に会えて本当に良かったです。手紙を見せて頂いて、母の愛をあらためて思い出しました。こんなに強く母は私を想っていてくれたのですね。私は二度と、母を悲しませるようなことはしません」

「しいちゃん、その手紙は真実だと僕は思っている。君に罪はないと……」

 詩織は僕の言葉を断ち切るように、笑顔になった。持ち上がった頬にまた涙が筋を作ったが、それでも精一杯の喜びと安堵を感じている気がした。

「孝実さん、お願いがあります。この手紙を頂きたいのですが」

「勿論いいよ。それは君宛に書かれたお母さんの心だから」

 胸に抱きしめた手紙を、詩織は丁寧に折りたたみ、肩から下げたバッグに入れた。そして、安堵したように息を吐いた。そして、

「父に……、手紙を書きます」

 と、呟くように言った。

「ああ、そうしてあげてくれ。加藤先生はずっと君を心配している。神戸には様子を度々見に行っていらしたから、君のことも、お母さんの亡くなったことも全てご存知だ。別れてからも宮子先生とは、ずっと連絡を取り合っていたらしい」

「そうですか……。母を支えてくれていたのですね」

 詩織はそう言うと、再び灯が瞬いている川下の方へ視線を向けた。

「この町に来て、本当に良かった」

そう言うと、僕に丁寧に頭を下げた。

「孝実さん、本当にありがとう」 

 顔を上げた彼女の顔には、明るい笑みが浮かんでいた。それはまぶしいほど美しく……。僕は胸が詰まり、頷くしかできなかった。

 詩織は唇を噛み締めると、そのまま踵を返した。橋にヒールの音が響く。

「しいちゃん!」

 僕の声に、彼女のほっそりした背が振り返る。

「来年! 来年の母の命日には、この橋を渡っておいで。家で、僕は待っているよ。君が来るのを」

 詩織は口元から白い歯を覗かせて笑った。

「はい、ありがとうございます。私……、けじめをつけて、この町に戻るつもりです」

「約束だよ」

「はい」

 大きくうなずく詩織を見て、僕も満面の笑みを返した。

 彼女は木立の鬱蒼と繁った土手の道へと歩いていった。僕は街灯の下にたったまま、その姿を見つめる。

 詩織が木々の影に紛れると、漸くポケットの中で握りしめていた拳を解いた。

 十年前、去っていった加藤先生一家を、僕はどれほど憎んだか知れない。母が死に、僕はこの町に一人残された。詩織がそうであったように、誰にも明かせない秘密を抱えたまま……。

 彼女は宮子先生の最後の愛情によって、悪夢から目覚めようとしている。今度会うとき、彼女は本来の自分を取り戻しているだろう。

 

「孝実君」

 背後から声を掛けられ、驚いて振り向いた。

「加藤先生……。いらしていたのですか」

「ああ、聡子の命日だ。君と飲み明かそうと思って」

 と先生は言って、痩身の五十半ばの体を縮めるように肩を落とし、メガネの奥の赤く潤んだ目をしばたいた。

「詩織に会ってくれたんだね。橋に立っている君と詩織に気付いて、木の陰から見ていた」

「しいちゃんが橋で待っていたんです。驚きましたが、会ってよかったと思います。しいちゃんに宮子先生の手紙を見せました。信じたとは思えませんが……」

 二人で、灯りが交差する駅周辺へ続く、川沿いの暗い土手の道を眺める。町の灯りが夜空を薄めるように輝いているが、川は不気味なほど闇に沈んでいる。その寂しい道を詩織はひとり帰って行った。ほっそりした後姿を思うと、胸が締め付けられる。

「宮子が君に、詩織を会わせたいと思っていると聞いて、再び君を苦しめるのではないかと案じたよ。しかしあんな手紙だったとは……。見せてもらったときには驚いた」

「ええ。手紙を読んで、宮子先生がしいちゃんの罪をかぶろうとしていると知ったとき、確かに腹が立ちました。彼女が殺していなかったと、喜々とする顔を見るのは嫌でしたから。だから会いたくなかったのですが、しいちゃんを見くびっていました。彼女はあの手紙の通り、誰よりも苦しんできたのですね。きっと、宮子先生の後を追って、死ぬつもりでいたと思います」

 加藤先生の手が震えているのが分かる。案じながらも、そばにいてやれない父親の葛藤は、今でも先生の心を責め苛んでいる。

「孝実君、詩織は宮子の手紙を信じたのだろうか?」

「いいえ、信じていませんね。しいちゃんは母が泳げないと知っているし、流れにのまれるところを見ている。落ちたと聞かされ、動転していた宮子先生の様子も演技だとは思えないでしょう。彼女のために、罪を被ろうとした先生の思惑などお見通しですよ」 

「詩織は……救われないのか」

 加藤先生は、ふらりと僕の前へ出た。詩織を追いたい気持ちが募ったのだろう。先生の腕を思わずつかむ。

「大丈夫です。しいちゃんはお母さんの気持ちを受け取りましたから。娘を何としても救おうという愛情を。彼女は来年、けじめをつけて戻ると言っていました」

「けじめ……」

「はい……。幼い子供の犯した罪がどう裁かれるのか僕にはわかりませんが、彼女は罪を明らかにするつもりだと思います」

「ああ、神様……」

 先生は苦渋に呟いた。顔は詩織の姿を探して、土手道へ向いたままだ。

「しいちゃんは僕にすべてを打ち明けて、罪の呪縛から解き放たれたようでした。自分の判断で、償いの決心をしたんです。必ず立ち直りますよ」

「すまない……、孝実君」

 加藤先生は僕に深々と頭を下げた。痩せて老いた背が悲しい。

「宮子先生もしいちゃんが大人になっていることに気が付かなかったのかもしれませんね。あんな手紙を彼女が信じると思ったなんて……。それに、僕がしいちゃんを救えると思ったなんて。彼女はもう幼い少女じゃないのに」

僕の言葉に、先生は顔を伏せ、大きく息を吐く。

「まったく愚かなことを……。私では詩織を支えられないと思い、宮子なりに思い悩んだ末だろう。許してやって欲しい」

「もちろんです。それに、しいちゃんはもう一人でもしっかり生きていけるでしょう」

「だといいが……」

 加藤先生は再び詩織の去った方角を見つめる。

先生の心が少しでも詩織に届くことを願う。何度も神戸を訪ねては、それこそ物陰からひっそりと詩織を見てきたのだ。先生がどれほど彼女を愛しているか、僕にはわかっている。

 ふと、この橋を渡ってくる詩織の姿が目に浮かんだ。真夏のまぶしい光の中を、蝉の鳴き声を払うように靴音を響かせ、美しい髪を風に流して渡ってくる。幼いころのように輝く笑みを浮かべて……。

だが、僕は彼女を待つことはできない。詩織の笑顔を見た途端、僕の中の過去を押し込めた箱の鍵が開いた。もう、忘れるふりはできない。

 詩織は高潔で潔癖な人間だ。僕のおぞましさに比べたら。


 いつの頃からだろうか。

 もともと傲慢で、身勝手だった親父が母を殴るようになったのは……。祖父が病に倒れ、急死してからだったろうか。

 田舎の製材所など、たとえ何代も続いた家業であっても、この時世に経営するのは難しい。一人息子として甘やかされて奔放に生きてきた父に、突然圧し掛かった跡継ぎとしての責務は大変なものだっただろう。途端に苦しい経営状態に陥り、父は山や土地を売り払い、何とか対面を保っていた。しかし、もともと好きだった酒にますます溺れ、それをいさめようとする母を殴るようになった。

 そんな父親を、僕は嫌悪するようになった。小さいときはただ恐れるばかりだったのが、成長とともに反抗心を抱くようになったのを、父は暴力で抑えようとした。母と二人で実の父からお互いをかばい合う、全く常軌を逸した家族だ。

その中へ幼い詩織が飛び込んできたのだ。詩織はまぶしいほどに明るくて、素直で優しい子だった。母も僕も、彼女と一緒にいるだけで慰められた。けなげにも母を励まそうとする姿に、どんなに感謝したか知れない。

しかし、父は詩織を毛嫌いし、預かったことでますます母を責めた。

地元の者同士、加藤先生のこともよく知っていて、一度酒癖の悪いことをいさめられ、そのことを根に持っていたようだ。あろうことか、先生と母の関係まで疑って暴れる日々が続いた。

母を見かねて、別れることを訴えたが、

「出来ないの。お母さんの実家をずっと援助してくれているし、離縁されたなどと言われて、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんを落胆させたくない。私が我慢すれば済むことだから。辛いだろうけど辛抱して、孝実。きっと、仕事が順調に行くようになれば、お父さんは優しい人に戻るから」

 と、繰り返すばかりだった。

 子供の自分が情けなくって悔しかった。そして、乱暴な父の血を引いていることにおぞましさまで感じた。

 あの夜、父はいつもより酔っていた。取引先の集まりに出て、そのまま行きつけの飲み屋に立ち寄ったようだった。帰宅したのは十時過ぎで、玄関で母を呼びつける大きな声がし、僕は二階の部屋で身をすくめた。母がばたばたと父の世話をする音を聞きながら、このまま眠ってくれと僕は心で祈っていた。

 しかし、大きな罵声が聞こえ、食器が壊れる音がした。何かが壁にぶつかる。母の短い悲鳴と、すすり泣く声。体がぶるぶると震えた。いつものことだと自分に言い聞かせた。止めに入って、殴られるのは恐ろしかった。酔った父は手加減などしない。痣を作って学校へ行く恥ずかしさを思うと、母の前に立ちはだかるのが躊躇われた。

 唇を噛み、父の罵声にびくついていると、

「やめてえ」

 と、母の悲痛な叫び声が聞こえた。

「恨みがましい目で見やがって。おまえなんぞ死ねばいいんだ。殺してやるから、こっちへ来い」

 父の嘲笑う声が、僕の体を流れる血を凍りつかせた。

 楽しんでいるのか? 母の恐怖する姿を。痛みにのた打ち回る様子を。

 父が化け物に思えた。この上なく憎むべき、化け物……。狂っている!

 再び大きな音がして、母のうめく声が聞こえた。すぐに家具がひっくり返る音。

 本当に殺す気だ!――机に立てかけてあったバットを掴んだ。ドアを開け放したまま、階段を一気に下りる。

 止めなくては! 母さんが殺される。

 息を荒げ、めちゃくちゃになった居間を見回す。ひっくり返った椅子、ソファ、投げつけられたものが壁際で壊れている。居間のカーペットの上で、母は、苦しげに呻きながら父の足元で横たわっていた。カアッと血が煮えたぎった。倒れた母の横顔を、父の大きな足が踏みつけているのだ。肩を怒らせ、ぐいぐいと足に力を込めているのだ。

「止めろ!」

 僕の叫び声に父は振り向いた。その角張った顔は、恐ろしいことに笑みを浮かべていた。

激しい怒りを感じた。押さえることなど出来ない爆発だった。そのままバットを頭上に振り上げ、父に走りよった。そして、力の限り振り下ろした。

「ぐわっ!」

 父の叫びと同時に、バットを固い木にぶつけたような衝撃が両手に残った。途端に、父の眉間が割れ、どっと血が噴出した。顔から流れ落ちた鮮血は、父の白いシャツを真っ赤に染めた。目を剥いて、ふらりと足を踏み出した父に、もう一度バットを振り下ろした。ガツッと鈍い音がして、父はもんどりうって倒れた。

 息を荒げて、倒れた父を見下ろす。父は目を見開いたまま数秒間ひくひくと痙攣した後、手足はぱたっと動かなくなった。

「た、孝実……」

 よろよろと母が立ち上がり、僕の体に縋るように手を伸ばしてきた。うつ伏せた父の頭から赤い血が湧き上がるように床に広がる。

「殺した……。こいつだけは許せない」

「孝実!」

 母は僕の手にぶら下がったバットをひったくった。

「あなたじゃない。あなたがお父さんを殺したんじゃない」

「か、母さん……」

 母は崩れるように膝をついた僕を、力いっぱい抱きしめた。

「あなたが殺さなければ、私がやっていた。この人はケダモノよ。私はずっとそう思っていた。だから、あなたは関係ない。私の変わりに殺してくれただけ」

 いつも弱々しくて怯えている母が、目を剥き血にまみれて引きつった父の死顔を臆することなく睨みつけた。

「いいこと。この人を殺したのは母さんよ! 自分が殴ったなんて誰にも言わないで」

「でも、母さん……」

 次第に恐怖が体に降りてくる。父を殺した……、人間を殺した恐怖。

「孝実! あなたがこの人のために罰を受けるなんて、それこそ私は生きてはいられない! お母さんには孝実しかいないのよ。あなたを守るためなら、私は何も怖くない」

 僕は抱きしめる母の胸で、すすり泣いた。僕を包む母の華奢な体は、海のように大きく感じた。

 しばらくして母は自首するつもりで、宮子先生に電話を掛けた。おろおろと話す母に、宮子先生は何かがあったと悟り、すぐに駆けつけてくれた。

 僕と母の抱き合った姿と倒れた父の亡骸を見て、宮子先生は一瞬蒼白になり、その場にへたり込んだ。だが、気丈にも、すぐに母と僕を救おうと画策してくれた。母は自首すると言い張ったが、先生は承知しなかった。

もしかしたらあの時、宮子先生は僕のおどおどした様子を見て、殺したのは僕だと気づいていたのかもしれない。

「表ざたになって正当防衛が認められても、この町にいられないばかりか、孝実君の将来にも影響する。こんな男のために、孝実君を犠牲にしたいの!」

 この宮子先生の一言で、母は鬼になる決心をした。

 そして、父の遺体を三人で材木置き場に運び、丸木を支えている杭を抜いたのだ。十本の太い丸太が崩れただけで、父の頭蓋はうまく潰れ、バットの傷も分からなくなった。母は悲鳴も上げず、冷たい視線で丸太の下にのぞく父の死体を見ていた。

 それから明け方近くかかり、居間を片付け、証拠のバットと血の付いたカーペットを製材所の大きな焼却炉で燃やした。

 その後で、父の血を体に滴らせたままの僕を、二人は浴室で洗ってくれた。僕は裸で立ったまま体を洗われながらも、少しも恥ずかしくなかった。丁寧に、丁寧に、まるで僕の罪を消そうするように体中をこする。宮子先生は、僕の頬から首筋にスポンジを滑らせながら、

「いいこと、孝実君。これで聡子は幸せになれるのよ。貴方と二人で、幸せに生きてゆけるのよ」

 と言った。その時の宮子先生の顔が忘れられない。人を殺した僕を、まるで誇らしいと思っているように目は輝いていた。思えば、その先生の顔が、今まで罪の意識から僕を守っていたように思う。宮子先生が帰った後、僕の部屋で、母に幼子のように抱きしめられたまま眠った。朝になれば、悪夢から目覚め、変わらない日常がやってくる……。そう、信じられるほど、母の胸は優しくて暖かかった。

 静かな朝が、再びやってくることはなかったが……。

 すべては僕の罪から始まった。それを忘れようとした僕こそ、許されることはない。

 前を向いて生きたい。詩織と同じように。


 

 川の流れる音が、闇に沈んだ寂れた田舎町を優しく包む。その流れは未来永劫続いていく。すべての過去を押し流して。

「先生……。しいちゃんは、お父さんに手紙を書くと言っていました」

 先生は驚いた表情で、僕を見た。そしてみるみる顔を歪めると、俯いた。途端に先生の肩が震え始める。

「詩織……」

 闇から守るように、柔らかい街灯の明かりが僕と先生を包んでいる。

 呻くように声を殺して泣く先生の背に、僕はそっと手を置いた。

 そして、その肩に言った。

「来年、しいちゃんをこの町で待ってやって下さい。僕の代わりに……」

                                                                                                        

                          了


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