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  作者: 内田花
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2、 加藤宮子の手紙

加地孝実様


 前略。


 お変わりありませんか?

 三通目のお便りになります。

 貴方のお顔を見ながら、お話を聞いていただきたかったのですが、叶いそうにありませんね。

 勿論、貴方がどんな気持ちで私からの手紙を受け取っているか、それは理解しています。

 それでも私は、この最後の手紙を書かずにいられなかった。たとえ貴方に憎まれようと蔑まれようと、私には貴方しか救ってくれる人はいないのです。

 こんな手紙を図々しくも差し上げることを、どうかお許しください。

 そして、貴方がようやくあの忌まわしい出来事から立ち直って、新しい道を歩み始めたと言うのに、また混乱させるやもしれないことをお詫びします。

 私はこの手紙にすべてをしたためることに決めました。死を前にして。

後は貴方のご判断を信じようと思います。


 主人から、貴方が教師として頑張っていると聞いて、どんなに嬉しかったか知れません。聡子さんが生きていたらどんなに喜んだだろうと思うと、只々胸が痛みます。

 主人とは、別れてから会うことはありませんでしたが、貴方の様子は時々手紙で知らせてくれていました。

素晴らしい青年になったと、まるで自分の息子のように自慢していましたよ。

 手紙とは不思議なものですね。あんなに傷つけあった夫からでさえ、その文面からは愛情を感じられるのですから。電話やメールではきっと出てしまう感情が、白い便箋に向かうと浄化されてしまうのかしら。

 私の文面の中にも、そんな愛おしさを貴方が感じてくれればうれしいですが。それは難しいことかも知れませんね。


 前置きはさておき、心を奮い立たせて綴ることにしましょう。

 私は今、余命数カ月の宣告を受け、ベッドの上でこの手紙を書いています。

 あのとき、貴方にお願いしたこと、いいえ脅したに等しいことの結末に怯えながら綴っているのです。

 私はもうすぐ死を迎えるでしょう。それについてはもう抗う気持ちもありません。この十年、町を離れてから、ささやかでしたが、娘と二人で暮らしてきて幸せだったと思います。家族を亡くして、一人で生きてきた貴方を思うと、申し訳なく思うくらいに。

 後は聡子さんの死の真相を、貴方にお話することだけが私の最後のつとめだと思います。

 貴方の気持ちを思うと本当に辛いですが、これを読んでいただいたら、きっと詩織のことを許してもらえると信じています。


 詩織は今でも、十年前の罪に苦しんでいます。それは当然のことです。貴方のお母さんを橋から突き落としたのですから、許されることではありません。

 今まで、あの子はまだ小学生で分別を持てる歳ではなかったと、私は敢えて事件には触れないようにしてきました。あの子も、忘れようとしていました。

 でも、幼い心は罪の意識に押しつぶされてしまっていたのでしょう。明るかった詩織は別人のように殻に閉じこもり、未来を見つめることを拒むようになりました。

 中学生になってから次第に精神を病んで、自宅にひきこもり、学校にもほとんど行けなくなりました。そして二年生の時、手首を切って自殺未遂まで起こしたのです。

 主人とやり直すのを諦め別れたのは、彼に対する詩織の気持ちを思ってです。すべての罪の根元が父にあるのだと、娘は傷つき憎んでいましたから。  

 詩織が命を取り留めたあと別れましたが、言うに及ばず私と二人になってから、娘はすこしずつ落ち着いてきました。

 詩織はなんとか通信制の高校へ進学し、立ち直ってくれそうでした。私の学習塾を手伝ってくれるまでに、気力を回復してくれたのです。大学に行きたいと言ってくれたときには、本当に涙が出ました。

 このまま、全てを隠し通して生きていける……私はそう思ったのです。

 

 でも、罪びとの私達には、そんな幸せな未来など許されるはずはありません。

 体調を崩し入院した私に、思いもかけない宣告が下されました。

 末期癌。余命数カ月。詩織は、そのショックでまた気力をなくして、発作的に手首を切りました。

 大事には至りませんでしたが、そのことで、私だけが娘を支えてきたということを痛切に悟り、激しい後悔に因われました。

もし、私がいなくなれば、詩織を支えてくれる人は誰もいないのです。

 自分の罪に怯え、自身を嫌悪し、父親にも心を閉ざした娘には、慰め救ってくれる人は誰一人いないのです。

 私が死んだら、この子も生きてはいない。それが分かっていながら、私はあと数カ月でこの世を去らねばならない。

 

 聡子さんの死に真実があったと、今更あなたに打ち明けるのは、正直に申して詩織のためです。

 私は主人を奪った聡子さんを憎んでいます。

 娘にこんな罪を犯させた聡子さんを今でも許せない。主人に対しても同じ思いですが。

 でも詩織の嘘を暴いていれば、これほどあの子を苦しめなかったということはずっと悔いてきました。あの時は、ただ娘を守りたい一心だったのです。

 

 貴方にも、本当に辛い思いをさせました。

 私がもっと早く打ち明けて罪を償って入れば、貴方を苦しめることはなかったと思います。

 私だけでなく、娘まで罪を犯すなんて……。どうしてこんなことになったのかと、私はずっと苦しんできました。そして私達の運命を呪ってきました。


 思えば、全ての発端は、あの忌まわしい出来事から始まったのです。

 あの日、辰三さんが動かないと、聡子さんが家に電話をくれたことから、主人と私と聡子さんの運命がずれてしまったのです。

 辰三さんが、日頃から聡子さんに暴力を振るっていたことは以前から知っていました。華やかだった聡子さんが、結婚してから暗い顔をして人付き合いも避けるようになったのは、暴力による痣のためであることはわかりました。

 堪らずに私に打ち明けてくれた悲惨な結婚生活は、本当に同情すべきものでした。私は別れることを勧めましたが、怖がっていた聡子さんには無理な話でした。

 それがあの日、彼女の常軌を逸した電話で駆けつけると、聡子さんは、血まみれでうつ伏せて絶命している辰三さんのそばで震えていたのです。貴方の野球のバットで殴り殺したと知って、戦慄を覚えました。

 それにも増して、貴方が殴られている聡子さんを助けようと、バットを持ち出してきたと聞いて、本当に胸が張り裂けてしまいそうでした。

 結局は怒り狂ったお父さんに反対に乱暴され、それを止めるために聡子さんが……。

 貴方が震える手でお母さんをしっかり抱きしめている姿は、本当に可哀想でならなかった。そしてこんな男のために、聡子さんが罪を償い、貴方が一人ぼっちになることに我慢ならなかったのです。

 私の過ちはここから始まったのですね。

 自首するという聡子さんを説き伏せ、お父さんを事故に見せかけようと、死体の上に、積んである丸太を崩させたのですから。

 ただあの後、顔を合わせないようにしようと聡子さんと誓いあったのが、彼女を追い詰めることになったのだと思います。


 聡子さんは弱い人だった。繊細で優しい人だった。私が罪の意識に苛まれても、彼女のそばにいてあげれば、貴方が苦しんで主人に頼ることはなかったし、聡子さんが理性を失うほど主人に執心することもなかったと思えてなりません。

 私は聡子さんのそばにいたのに、彼女が本当に守って欲しいときに逃げ出したのですから、身勝手な共犯者ですね。


 主人は貴方から事件の真相を聞いて、勿論激怒しました。でも、画策したことで、聡子さんの罪は重くなり、私も共犯として罪を負うことになります。主人は自分の正義感を押さえて、黙っていることに耐えてくれたのです。

 でも主人は、その秘密が聡子さんを苦しめていることに心を痛めていました。あの人は聡子さんを支えなくてはと考えたのでしょう。真相を知って、すでに主人の気持ちは、愚かな私から離れていたのかもしれません。本当に彼女を案じるのなら、きちんと罪を償うように諭すのが当たり前なのに。罪は軽かったはずです。

 本当に悔やんでも悔やみきれない。


 そして、その辰三さんの事件を盾にして、貴方に詩織の罪を口外するなと頼んだ私は正真正銘の鬼です。貴方がお母さんを亡くし、どんなに悲しんでいるか考えもしないで、聡子さんの罪を隠す代わりに、詩織の罪を黙っていろと約束させるなんて……。

 聡子さんの四十九日も終わらぬ矢先に、引越しを決めて、町から逃げ出した私たちを、貴方は憎んだことでしょう。

 それでも貴方が約束を守り、詩織の罪を黙っていてくれたこと、本当に感謝しています。許されない罪を犯した親娘が、しばらくの間でも、人並みに穏やかな生活を送れたのですから。


 死を前にして、これからしたためることは、真実です。

 私がどれほど身勝手で愚かな人間か、憎むべきは私一人だと貴方は思うはずです。

 愛する娘まで苦しめて、隠してきた真実を漸く明かすのですから。


 あの日、仕事を終えて私が家に戻ると、詩織はまだ戻っていませんでした。塾もない日なのにと、ふらりと詩織を探しに出たのが運命だったのでしょう。詩織は聡子さんのところへ行ったのではないかと、私はまっすぐ橋へ向かいました。

 国道から、すぐに橋の上にいる詩織に気付きました。

 娘は一人で、まるで橋から飛び込むかのように下を見ていました。危ないと思い私はそこから川岸の土手へ降りて、橋へ向かいました。

 その途中で、川を流される聡子さんを見たのです。

驚きました。でも彼女は溺れそうになりながら、何とか岸へ泳いできました。助けなければと、垂直に護岸されたブロックに這いつくばって私が手を差し伸べると、彼女はしっかり掴んで言いました。

 助けて。詩織ちゃんに橋から突き落とされたと。その時の私の衝撃は言い表せません。

 そして、娘が聡子さんに対して持っていた気持ちに、やっと気付いた気がしたのです。

 聡子さんを引き寄せ助けようとしました。でも私の手を掴み、安堵した聡子さんの顔を見たとき、抑えて来た怒りが爆発してしまったのです。

 私達と同じ町に住みながら、主人と関係を続ける女。友情も信頼も裏切った女――嫉妬と憎悪があふれ出してきました。

 そして娘が人を手にかけるほど、苦しめられているのだと思うと、どうしても許せなくなったのです。家庭を壊し、親友だった私の友情さえ裏切った。それだけで、手を離す理由は十分でした。

 川は知っての通り、山奥で降った夏の雷雨のために激しい流れに変わっていました。私に手を離された聡子さんは小さく悲鳴を上げましたが、そのまま再び流れにのまれたのです。

 詩織が自殺だと訴えたのは好都合でした。聡子さんは夫との不倫関係に悩み自殺した。世間はよくある出来事として受け取ると思いました。


 まさか貴方が詩織を見ていただなどと、思いもしなかった。

 でも、私たちにだけ打ち明けてくれたと知って、本当に安堵しました。後は貴方に、詩織の犯罪を公表させないようにすればいいだけのことだと、私はそう思いました。

 聡子さんを夫殺しの罪人にしたくない貴方に、詩織の罪を暴露しない条件で、黙っていると持ちかけた時は命がけでした。貴方が首を縦に振ってくれなければ、何をしていたか分かりません。

 娘を守る事、私にはそれしか考えられなかった。


 詩織のために、再び主人を説得して同意させ、世間に聡子さんは自殺だと思わせたのです。


 生きているうちに自首すべきだと、貴方は思うでしょう。私は本当に卑怯な人間です。

 でも、数分でも数秒でも愛する娘を見守っていたい。傍にいてやりたい。今の私にはこの想いしかありません。


 詩織は私の罪を、全く知らないのです。今でも自分は人殺しだと怯えていると思います。

 貴方が病院を訪ねてくれて、私を糾弾してくれるまで、詩織には自分から打ち明けることは出来ません。勿論、娘は信じないでしょうから。


 私は貴方を待っています。

 死を前にして、真実を明らかにし、やすらかに逝きたいと切望する気持ちを、どうか汲んでください。


 詩織が、娘がやってもいない罪のために命を絶つようなことだけはして欲しくない。

 貴方から無実だと言ってやってほしい。

 そして詩織に生きてゆく勇気を取り戻させて欲しい。


 すべては私のやったことです。聡子さんを殺したのは私です。

 貴方に会って、お詫びできる日を待ちわびております。

                          

                                       

                        加藤宮子


明日3話で完結します。

3話目は孝実の告白になります。

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