1、 加藤詩織
一、加藤詩織
十年ぶりにこの橋に立つ。
水面までの高さは五メートル以上あるだろうか。何の変哲もないコンクリートと、赤い塗料が剥げ、錆の浮いた欄干の古い橋。橋脚に流れをぶつけながら、川に分断された向こう岸をつないで、十年たってもゆるぎない時を重ねている。
あれから町は変わっていない。私を待っていたように、何一つ変わっていない。背にかかる髪を乱す風を、私のすべてが懐かしむ。
京都府の北部、八ヶ峰の深い山麓から日本海へ向かい、うねるように流れる由良川の中流域の町。山に囲まれた田舎町は、静かな田園風景が広がり、川と平行に走る国道沿いに家が建ち並んでいる。山裾の平地に広がる田んぼには、緑の稲穂が項垂れ、そのあぜ道に小さな野花が風に揺れる。
山に続く木立から放たれる、悲鳴のような蝉の声が、雲の湧き立つ真夏の空を切り裂いた。それは私への警告のようであり、嘆きのようにも聞こえた。
白い百合の花束を抱え、欄干越しに底知れない深い流れを見つめる。眼下の由良川は清流の名に相応しく、今日も澄んだ川面に日差しを乱反射させ、うだるような暑さの町をなだめるように流れている。川下に灌漑用の堰堤があるため、川幅は二十メートル近くあるが、夏でもその水量は豊富で、治水された護岸を削るように波立っている。
私は無意識に握りしめた左手のしびれる感覚に気付き、目の前で拳をゆっくり開いた。白くなった細い指に赤みがじわりと戻る。薄い手のひらに走った生命線が濃くなる。あれから十年、私はこの手と生きてきたのだ。その瞬間閃光のように脳裏にひらめくシーン。背筋に戦慄が走り、見つめる手がぶるぶると震えだした。大きく息を吸い込み、平静を取り戻すようにゆっくりと吐いた。もう一度指を折って、強く握り締める。指の付け根から、皺の間からじっとりと汗が滲んできて、左手首に走る数本の醜い傷跡が浮き上がってきた。叫びを上げそうな心に呼応して、鼓動が痛いほど大きくなる。
私は怯えている。体は唇を噛み締めないと立っていられないほど震えている。胸元で手を握りしめ、祈る様に顔を上げた。
川下に、車の行き交う大きな橋が架かっている。駅前の繁華街と町の中心とを繋ぐつり橋状の橋だ。私が生まれ育った家も、その橋を渡った集落の中にあった。今、立っているのは「旧橋」と呼ばれ、かろうじて車が行き交える幅しかなく、川上の住人が行き来するだけの橋。子供のころ何度も何度も渡った、そして……、今は渡りきれない橋だ。
もう一時間余りここに立っている。時折渡ってくる町の人の好奇な視線に晒されながらも、私は橋から動けないでいる。町の者ではない女が一人佇み、川をじっと見ているなんておかしいと思われているだろう。
ここに来ようと決心して、神戸の家を出た。京都駅から一時間余り電車に揺られ、漸く寂れたJRの駅に降り立った。気持ちに反して、足は記憶に引き摺られるようにまっすぐにここへと向かった。抗うことは許されない気がした。でも、あと半分歩いて、橋を渡りきることはできそうにない。これで最後だと、もうこの町へ来ることはないと自分に言い聞かせても、加地家を訪ねて欲しいという、母の頼みを叶えることは無理だ。
川向こうの静かな山裾にある製材所の電動鋸の音が、耳を騒がしては消えてゆく。
雲間から射してきた西陽に顔を向ける。焼きつくすような陽射しは、漸く朱色の斜陽となって、山合いの小さな町に安息の時間をもたらしてきた。ひぐらしの声が、山間に物悲しく響き渡る。私は漸く心を決め、欄干から流れに抱えた花束を落とした。白い百合の花束は、夕刻の薄暗さに透明度のなくなった水面を、橋脚が作る渦に翻弄され川下へ流されていく。私はその場に屈むと、目を閉じゆっくり手を合わせた。言い添える言葉など何もない。あの人が私のことを許してくれるなどとは思えない。罪から逃れ、遠いところで隠れるように生きてきたのだ。母の死という辛い出来事がなければ、 この町に戻ろうなどと思わなかっただろう。十年目のあの人の命日……。ゆっくり目を開け、立ち上がって肩から力を抜くように息を吐いた。
その時、
「どなたですか?」
と、背後で低い声がした。
驚いて振り向くと、沈みかけた夕日を浴びて、白い半袖のワイシャツに黒地のネクタイ姿の男性が立っていた。肩に黒いブリーフケースを掛け、手には白い花束を持っている。
「突然声をかけてすみません。でも、手を合わせているあなたを見かけて……。あの、もしかして僕の母を、加地聡子をご存知の方ですか?」
僕の母? 目をひそめてその男を注意深く見つめる。戸惑いながら近づくその人は、困惑と期待に複雑な表情を浮かべている。いや、心底には疑念を持った目だ。勿論、今の私とは一面識もないのだから。
「加地孝実さん……ですか?」
躊躇いがちに震える声を絞り出す。私の問いかけに、橋を叩く靴音が止まる。名を呼ばれ、大きく見開かれた目が途端に笑みを浮かべる。
「え? ええ、そうですが。あなたは……」
ああ、やっぱり、加地孝実だ。やさしくて爽やかな微笑が私を包むようだ。大好きだった笑顔は十年たっても変わっていない。思いがけなくここで再会した彼に、私は一瞬救われたような気がした。
ひょろりとした華奢な少年は、思っていた以上に魅力ある大人の男に変わっていた。日に焼けた精悍な顔が私に向けられる。逞しく自信に漲っていて、まっすぐに生きてきた人の顔だ。輝く力のある目が、意志の強そうな固く結ばれた唇が、私をどう審判するのだろう。
「お久しぶりですね。ここであなたに会えて良かった。来た甲斐がありました」
平静を装いそう言うと、彼は瞳を絞るようにして私を見た。向かい合うことになった彼が、私の震える指に気づかないように手を握り締める。彼は訝しげな表情のまま、探るように私を見ている。
「まさか……。間違っていたら申し訳ない。加藤先生の……お嬢さんですか?」
まるで警告を発するように、川岸の土手の木立から聞こえるひぐらしの声が一段と大きくなった。
私は渇いたのどをコクンと鳴らすと、
「加藤詩織です」
と、ゆっくりと名を告げた。彼の眉が持ち上がり、サッと顔付きが険しくなった。改めて私の名を聞いた衝撃は、大きかったようだ。
「やっぱり……。久しぶりだね。でも本当にわからなかった。おてんばなしいちゃんがこんなに女らしくなっていたなんて」
表情を和ませ、小さい頃の私の呼称を口にするとき、彼は懐かしさを瞳に宿した。私は視線を下げ、
「あれから十年ですから」
と、つぶやくように言う。
彼は困惑した表情に戻り、頬を引きつらせた。そしていかめしく眉を寄せた顔で、まっすぐに私を見つめる。途端に私の心に、郷愁を帯びた切ない感情が渦巻いた。加地孝実はその視線だけで、私を過去へ引きずりこむ力を有しているようだ。
私達の過去――十年前に葬ったはずの忌まわしい記憶。パンドラの箱はもう開いてしまったのだろうか。
私が加地孝美を最後に見たのは、町の葬儀場だった。真夏の強い日差しに黒い喪服が汗ばむ参列者を前に、十四歳の彼は母の遺影を抱き、悄然と立っていた。震えながら物陰から見た、あの時の悲しい彼の姿は、ずっと忘れられなかった。
あれから月日は流れているのだと、私は白いワンピースの胸元を握りしめた。十年経って、彼はすべてを乗り越えているのだろうか。
*
私はこの町で生まれた。
隣町で中学校の教師をしていた父と、この町の小学校の教師だった母のもと、当然のように平穏で暖かな家庭の中で育った。この自然に恵まれた、静かな山合いの町が好きだった。四季折々に変化する美しい自然が、私たちの遊び場だった。一学年に一クラスしかない小学校で、生まれてから一緒に育った幼馴染達と、何の悩みもなくのびのびと育った気がする。今では、あんなに笑って駆け回っていた幼いころは夢だったのではないかと思う。
父の加藤孝一はこの町が生まれ故郷だが、母の宮子は神戸の都会育ちだ。母は京都市内の大学に通い、卒業して、この町の小学校に赴任したのだ。ひとりで知らない田舎町に住み、教師として働きだした。そして町の若者たちが活動の場としていた青年団に入った。青年団は若者の少ない田舎町で、独身者が集う唯一の交流の場だった。そこで、同じ歳の加地聡子さんと知り合ったのだ。
聡子さんは家業の洋品店を手伝って、この町でずっと暮らしてきた。行動的な母と、控えめで女らしい聡子さんは、自分にないものに惹かれあったのだろうか、すぐに仲良くなったらしい。独身の頃は、休日になれば二人で食事をしたり、幾度か旅行もした。知り合いもいなかった町で、母は漸く親友と呼べる人を得たのだ。そして結婚して家庭を持ってからも、二人の友情は続いた。
母は「聡子」と呼び、聡子さんは「宮ちゃん」と微笑みながら言う。それが幼い私の耳にとても心地よく響いたものだ。
加地聡子さんは美しい人だった。私の記憶の中でも、その容姿はテレビの中の女優さんと比べても遜色なかったように思う。色白の面長の顔に、長いまつげのはっきりした二重の目。すっきりと伸びた鼻筋と、上品な口元。端正な顔立ちは、この田舎町でも目立っていた。
母と知り合ってから二年後に、聡子さんは結婚した。この橋の向こうの、広大な敷地をもつ裕福な家の一人息子に望まれて嫁いだのだ。
私は橋から続く坂道へ目を走らせる。加地商という屋号の看板が掲げられた製材所と、年輪を重ねた太い丸太がつまれた材木置き場が有り、それを見下ろすように瓦屋根の大きな屋敷が立っている。今も全く変わりない。この橋はまるで加地家のものと言ってもいいくらいだ。廃業する同業者が多い中、沢山従業員を雇い、屋敷には通いのお手伝いさんもいた。何代も続く古い家柄の加地家は、傍目には裕福で幸せな家だった。
聡子さんの結婚から一年後に、母は父と結婚した。地元出身の教師として、父はこの町の中ではちょっとした有名人だった。労を惜しまず町の行事に参加し、学校の外でも子供達に勉強を教えたりスポーツクラブのコーチをしたりと、いつも町の人と接していた。そんな父を、母は教師としても男性としても尊敬していた。二人は当然のごとく結ばれ、私が生まれた。家は父母を慕う子供達がいつも出入りしていたし、「加藤先生の娘」として私は誰からも可愛がられた。
母も熱心な教師だと町でも信頼を得て、「宮子先生」と親しみを込めた名前で呼ばれていた。
私はこの両親の娘であることを誇りに思っていた。穏やかで思いやりのある父。明るく行動的でしっかり者の母。笑顔の耐えなかったあの頃を、どんなに懐かしんできたか……。
川下のにぎやかな場所にあった私の家に、聡子さんはよく一人息子の孝実を連れて遊びに来た。孝実は私より三つ年上で、聡子さんによく似た綺麗な顔立ちの優しい子だった。お互い一人っ子同士ということもあり、彼はいつも妹のように可愛がってくれ、私は物心がついたときからそばに居た孝実が大好きだった。
休日になると、やってきた聡子さんと両親がお茶を飲みながら楽しそうに語らう。それを見ながら、孝実に本を読んでもらったり、テレビゲームを教えてもらったりして遊んでもらう。今思い出しても幼いころの穏やかで優しい時間は、暖かな春の日差しのように心を慰めてくれる。
私は忙しい両親に代わって同居していた祖母に面倒をみてもらっていたが、小学校の二年生のとき突然脳梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまった。共働きで忙しい両親は私の処遇に頭を悩ませていたが、聡子さんが引き受けると言ってくれたのだ。学校が終わって母が帰ってくる間、私は加地家ですごすことになった。
授業が終わると一目散にこの橋を渡って加地家へ向う。駅の近くにある小学校からは遠かったが、苦にはならなかった。私は大好きな聡子さんと孝実に会えるのが、毎日待ち遠しかったのだ。
聡子さんは専業主婦だった。いつも家にいて家事をする傍ら、川に面した居間のソファに座り趣味の刺繍をしていた。カールした髪を肩に広げ、ほっそりとした指で軽やかに針を刺していく。私は美しい聡子さんがそうしているだけで、ピアノの音色が聞こえてきそうな気さえして、うっとりと見たものだ。大人の女性として、彼女に憧れていたのだろう。
孝実もいつも優しくしてくれた。おやつを二人で食べながら、うきうきして話を聞く。孝実は高学年になって、野球に興味を持ち始め、阪神タイガースの選手に夢中だった。勿論、私もファンになった。孝実と遊ぶうちに、あまり関心がなかったテレビゲームにも熱中した。孝実はいつも私に影響を与える、あこがれの人だった。彼が塾や遊びに行っていない日は、とても淋しかったのを覚えている。孝実がいると、母が迎えに来てくれても、帰りたくないと思う日もあったほどだ。
*
「十年か……。引っ越して行ったのは君が小学校の五年生で、僕は中学二年だった。随分昔のことのなのに、あの年の夏ははっきりと覚えている。良い思い出とは言えないけど」
孝実は私の肩越しに遠い目をして川下を見る。私は握りしめた手を口元に当て俯いた。
「でも、この町はちっとも変わってないだろう? 僕たちの通った小学校も当時のままだし、駅だって商店街だって変わっていない」
彼の明るい声に、私は顔を上げ、
「そうですね。何も変わっていない」と答えた。
「変わりゆくのは、いつの世も人だけだな」
孝実は呟くように言うと、赤い夕陽を見上げまぶしそうに目を細めた。そして錆びた欄干を掴み、川をのぞきこんだ。
「覚えてる? この川で、大きな鯉を釣り上げたのを」
「ええ、勿論覚えています。特性のエサを熊田のおじいさんに貰って、二人で川下の土手から糸を垂らしたのを。貴方はまだ六年生だった。灰色の大きな鯉がかかって、もう少しで川に落ちそうになったわ」
「君は僕の体に抱きついて必死で引っ張っていた。半分泣きながらね」
孝実がからかうように瞳を向ける。
「それは貴方が川に落ちたらって思って」
「だけど釣り上げただろ? 五十センチの鯉。クジラを釣ったくらいの達成感だったな」
「え? 五十センチでした? 私は一メートル以上あったように思っていたけど」
「君はあの時まだ三年生だったもの。本当はもっと小さい鯉だったかもね」
孝実はくすりと笑う。私も釣られて微笑む。
「でも帰ってから、おばさんにすごく叱られたわね。川に落ちたらどうするのって」
「ああ、おふくろは小さいときにこの川で溺れかけて、それから怖がっていたから。僕も川で遊んではいけないと、厳しく言われていた」
「おばさんはこの橋を渡るときでさえ、その時のことを思い出して怖くなることがあるって。泳げないのはそのせいだって言ってたわ」
「でも、楽しかっただろう? うちの池に放してやった後も、しいちゃんは毎日えさをやっていたね。友達みたいに話しかけて」
孝実はさわやかな笑顔を向けた。思わず頬が熱くなり、慌てて言葉を探す。
「あ、あの鯉はまだ生きているのかしら」
「さあ、どうなったんだろう。もう屋敷の池は埋められているから、川に放したのかもしれないね。おふくろが死んだ後、僕は京都市内の叔父の家に引き取られたし、ここにはずっと戻らなかったんだ。帰ってきたのは去年、隣町の小学校の教師に採用されてからだ。それまでずっと空き家だった」
私は長身の彼を、驚いて見上げた。
「小学校の先生?」
「ああ、大学を出て去年から。今は三年生の担任だ。四十人のクラスなんだ。ここから車で通っている。今は夏休みだけどね」
「そうですか。加地先生なんですね」
孝実は照れたように額に手をやり、前髪を搔きあげた。涼やかな風が少し長めの彼の髪をまた乱していく。
「僕は君のお父さん……加藤先生に憧れていた。だから教師になろうと思ったのかもしれない」
教壇に立つ孝実の姿を思うと、頬にほてりを感じた。誇らしさが彼の内からにじみ出ている気がする。この人は自分の人生をしっかり築いていたのだ。私のような卑怯者ではなく、臆病者でもなく……。
「加藤先生に、憧れの父親像を重ねていた。僕の家と違って、君の家族は本当に幸せそうだったから」
孝実の口元を漂っていた微笑が途端に消えてしまった。私は彼をまっすぐに見つめて言った。
「父も……、貴方のことを、息子のように思っていたと思います……」
欄干を両手で掴んだまま、孝実が顔を向ける。すこし照れたように、瞳を揺らしている。
実の父親を亡くしてから、孝実にとって私の父は本当に支えとなっていたのだろう。父は心底、生まれたときから知っている加地孝実の行く末を案じていた。彼の不幸な家庭の事情を、私たち家族は良く知っていたのだから。
*
私が加地家に預けられるようになって、製材所の従業員たちもお手伝いさんも皆、可愛がってくれた。でも孝実の父親だけは私を見ると太い眉をひそめ、鋭い目で睨みつけた。
孝実の父、加地辰三は製材所を経営し、代々続く加地家の当主として町の権力者だったが、傲慢で威圧的な人だった。滅多に屋敷の中で会わなかったが、時々不意に帰ってきたりすると、楽しい空気は途端に凍りついた。不機嫌で傲慢な夫に、聡子さんは怯えるように顔を強張らせる。孝実からも緊張が伝わる。それだけでなく時折製材所から従業員を怒鳴り散らす声が聞こえ、私は震え上がった。
町の人も、酒癖が悪く横柄な加地辰三をよく言う人はいなかった。私も子供ながらに彼を嫌悪し、恐れた。
加地家ですごすうちに、聡子さんの顔や体に、時々怖いほど鮮明に赤紫の痣が浮き出ていることがあった。理由を訊いても答えてくれなかったが、幼い私は聡子さんが心配で、学校の帰り道に孝実に訊ねたことがある。ランドセルを背負った孝実は唇をぎゅっと噛みしめ、橋のたもとに立つと、しばらくじっと屋敷を睨むように見ていた。そして私を振り返ると、怒りの籠った目を向けた。
「父さんが、なぐるのさ。何にも悪いことをしてないのに」
私は驚いて、震える声で言った。
「夫婦けんか?」
「違う。あれは暴力だよ」
孝実は垂らした手をぐっと握りしめていた。
「母さんは我慢しているけど、あいつに殺されるんじゃないかって心配だ……。あんなやつ、父親じゃない! 死んじゃえばいいんだ」
孝実は川下を見つめ、吐き捨てるように言った。私は初めて聡子さんと孝実の苦しみを知ったのだ。いつも優しい彼が怒りを露わにしている顔を見て、泣かずにいられなかった。
「しいちゃんが泣くことないよ。大丈夫。僕が母さんを守れるように、早く大きくなる。あんな奴に負けないから」
孝実は笑いかけて、頭をポンポンと叩いた。私は頷くしかできなかった。
痛みを分け合ったように彼と並んで橋に立ち、ゆったりと流れる川面を見た。私は加地辰三をいっそう憎み、聡子さんを慕う気持ちを募らせた。
幼い心には重すぎる出来事で、いたたまれなくて痣のことを母に話したことがある。母は沈痛な面持ちで聞いていたが、
「詩織、それは加地家の問題なの。あなたが何も心配することはないのよ。その事は誰にも話さないでね。聡子は黙っていて欲しいと思っているし、大人のことに口を出してはだめよ。絶対に」
と、珍しく厳しい口調でたしなめられた。私は母の反応に驚いて、それ以上言えなかった。
それからは痣を見つけても知らない振りをした。ただ加地辰三の背を睨み付けることは止められなかった。
しかし、私が加地家へ行くようになって二年経った初秋に、突然辰三は悲惨な死を遂げた。製材所に積み上げてあった材木が崩れ、その下敷きになったのだ。翌朝、太い丸太の下で絶命した彼は、出勤した従業員に発見された。遺体は無残にも下敷きになった頭は潰れ、顔も判別できないほどだったらしい。
遺体を見せられない葬儀に、狭い田舎町は騒然とした。ましてや葬式では、項垂れた聡子さんは頬を紫に腫らして、精気のない目をしていた。孝実の目にも涙はなく、二人とも魂が抜けたように無表情だった。辰三を知っている誰もが聡子さんの傷に同情したが、加地家の醜聞は町の隅々まで知られることになった。
加地辰三は酒に酔って帰宅したことがわかり、家にいた聡子さんと孝実に暴力を振るったのだ。丸太が崩れたのは天罰だと誰もが言い、あの男のことを悼む人などいなかった。
でもいさかいの跡を残した聡子さんの顔を見て、警察は疑念を抱いたようだ。通夜の席にまで刑事が来て、聡子さんは事情を尋ねられた。取り乱して泣き出した聡子さんをかばい、彼女の潔白を証言したのは母だった。
「聡子さんから暴力を振るわれていると電話があって、急いで駆け付けたんです。辰三さんのひどい仕打ちはよく知っていましたし、聡子さんと孝実君が本当に心配でした。家はひどい有様でしたが、辰三さんは怯える二人を前に、まだ酒を煽る様に飲んでいました。訪ねた私を見て不機嫌な顔になり、十時過ぎに飲み直してくるといって、家から出て行きました。すでに泥酔状態で、出かけるのを止めましたが、私にまで掴みかかろうとして……。ふらふらと出て行って、それから帰って来なかった。勿論、帰ってきたら、もう一度辰三さんの暴力を諌めてやるつもりだったんです。でも、いつまでたっても戻らず、どうせどこかで酔いつぶれているのだろうと、聡子さんと話していました。十二時頃まで、聡子さんと一緒にいましたが、外は真っ暗ですし、その頃には事故に遭っていたのでしょうけど、屋敷と材木置き場は随分離れているので、崩れた音には全く気がつきませんでした。あれほど酔っ払っていたら、丸太を避けることなど出来なかったでしょう」
事故の夜、母は聡子さんからの電話で、加地家を訪ねたのだ。辰三は、その日も町の居酒屋で酔っ払って帰り、家で散々に暴れたらしい。やってきた私の母に罵られ、彼は腹を立てて、また飲みに行くと家を出て行った。その後で、事故に巻き込まれたということだ。
私は眠っていたので、母が出かけたことも、帰ってきた時間もしらなかったが、聡子さんの肩をしっかり抱き、葬儀の列席者達が耳をそばだてている前で、警察に対してきっぱりと証言する母の姿を私は誇りに思った。何に臆することなく堂々と立ち向かう、母はそんな気概を持った人なのだ。
その後、孝実の父の死は事故として処理され、地元の警察もそれ以上は追及しなかったようだ。
中学生の孝実は父親を失い、聡子さんは未亡人になり、製材所は親戚の手にゆだねられた。孝実の叔父が経営を任されたが、聡子さんと孝実は今まで通り屋敷に住むことになった。
この不幸な出来事を、私は不謹慎ながら喜んだ。それほど私は加地辰三が嫌いだったのだ。
葬式から十日が経ち、私は半ば揚々と加地家を訪れた。でも訪ねてみると、聡子さんの様子ががらりと変わったことに驚かされた。線香のつんとする香が漂う居間で、窓辺のソファに身を縮めるように座り、生気のない青白い顔をして、ぼんやりと窓から川を見つめている。私がいつものように、
「おばちゃん」
と呼ぶと、振り向いた顔にうっすらと笑みを浮かべるだけで、また虚ろな瞳を窓に向けた。家の事はおろか、好きだった刺繍も手に取ろうとしなかった。大好きな聡子さんのそんな姿にショックを受けた。そしてあのひどい夫の死を、どうしてそんなに悲しむ必要があるのかと叫びたくなった。
孝実もそんな母親の様子に、朗らかさは消えていった。私にも前のように親しみのある目で笑いかけてくれない。というより、自分の友人達と関わるのさえ、彼は疎んじているようだった。狭い町で父親の事故死を噂する人に、きっと彼も傷ついていたのだろう。
あの事故の日から、何かが壊れていったのだと思う。
聡子さんと孝実が、私の家へ遊びに来ることもなくなった。でも、父も母もそのことを特別案じる様子もなく、「聡子さんも何かと大変だから」と、母はいくなと言わんばかりに、私を習い事と塾に通わせ始めた。
でも、それからも習い事のない日は、私の足は加地家へ向かった。この橋を渡るだけで、二人に会えるのだ。父と母が何かを躊躇い、加地家と疎遠になったとしても、私が聡子さんに会いたい気持ちは変わらなかった。
*
夕日は町を朱に染め、そしてゆっくりと山間に消え去った。次第に広がる薄墨の闇に、ポツポツと町の灯がともりだす。涼しい川風が橋を越えて流れてきて、私の白いワンピースの裾が風に煽られる。
孝実は手に持った白い花束を、流れに落とした。そして静かに手を合わせた。私はその様子を、拳を硬く握りしめ見ていた。
手を下ろし欄干を掴むと、彼は小さく息を吸い込んだ。そして、決心したかのように静かに私に訊ねる。
「君がなぜここへ? まさか僕の母のために?」
苦々しく口元を歪め、嫌悪を浮かべている。私は何も応えずに、川風に乱されたストレートの髪を撫でつけ、耳にかける。
「母の墓参りをして、寺の住職と思い出話に君達一家の話をしてきたところだ。君に会うのを予期していたようで、不思議な気がするよ。この橋で会ったということは、僕に会いに来てくれたと思っていいのかな?」
十年ぶりにこの忌まわしい場所に戻った理由を、どう伝えればいいのだろう。彼は、私たち一家が逃げるように引っ越したあと、脅えて生きていたなどと知る由もない。母が死を前にして、この町へ戻り加地孝実に会って欲しいと言わなければ、私は二度とここへ来ることはなかったのだから。
孝実は押し黙った私の心を探るように、見つめながら言った。
「しいちゃん、君は幸せだったんだろうか……。この十年……」
私は目を閉じた。今にも粉々に砕けてしまいそうな心に、痛みが走る。
「私が中学二年の時に父と母は離婚して、それからは母と二人、穏やかに暮らしていました。今、私は母の旧姓の高橋になっています」
孝実は辛そうに眉根を寄せ、大きく息をついた。
「離婚されたのは知っている。母のせいだね。僕は君にどう言えば良いのか……」
「もう終わったことです。それに孝実さんには何も関係ないことです」
孝実は私の言葉を噛み締めるように、頬の肉を引きつらせ、唇を引き結んだ。
「私がここに来たのは、母が貴方にあって欲しいと言ったからです。母の手紙はお読みになったでしょう? その手紙に癌で助からないと書いていたはずです。ずっと貴方に逢いたいと言っていました。母は手紙を何通か出したはずです。なのに貴方は病院に来てくれませんでした」
孝実は一瞬目を逸らし、前髪を思い悩むようにゆっくり掻きあげた。
「母の思いは最後の手紙にしたためてあったと思います。来てもらえないとわかった時、母は私に、貴方に会いに行って欲しいと……、死を前にしてそれだけ言い残したんです」
夕風に弄ばれるように、私の髪が再び乱される。長い髪を顔に纏わりつかせたまま、泣き声にならないように声を絞り出した。
「母は一月前に亡くなりました」
*
加地辰三の四十九日が終わるころ、聡子さんは漸く明るさを取り戻してきた。私は週に一、二度訪ねるだけだったが、会うたびに元の美しい聡子さんに戻って行くようで嬉しかった。
聡子さんは相変わらず家から出ようとはせず、私の家にも来る事は無かった。でも夫の死のショックから立ち直ったように、窓辺で微笑みながら川を見ている様子に、私は安堵した。
「うちへ来てくれる人は、橋を渡らないといけないでしょ。だから橋を歩いている人を見ると、訪ねてくれるのかも知れないって期待してしまうの」
人目を避けるように篭りがちな聡子さんを訪ねる人は少なかった。通いのお手伝いさんも辞め、製材所の関係の客ももう屋敷には来ない。中学生になった孝実も部活があり日が暮れるまで帰らないから、聡子さんはずっと一人だった。
「おばちゃん。塾のないときは私が来てあげる。だから、一人ぼっちじゃないよ」
聡子さんは私をぎゅっと抱きしめた。
「有難う、しいちゃん。ごめんね……。おばちゃん、しいちゃんには嫌われたくない」
聡子さんは声を詰まらせ、ごめんねと繰り返した。頬に落ちた涙を見て、私もぎゅっと抱きついた。
「おばちゃんのことを嫌いになんかならないよ」
何とか聡子さんを慰めてあげたい……私は心からそう思った。それから加地家へ続く橋を、許される限り渡った。ランドセルを揺らしながら息を切らせて渡った。
でも、聡子さんとのそんな暖かな関係が、突然終わりを告げた。
それは、十二月の初めの寒い日だった。その日は塾が急に予定より、早く終わり、家に戻る途中で加地家を訪ねたくなった。冬の早い夕暮れに闇が迫っていたが、母も父も遅くなると聞いていたので、両親が帰るころまでいるつもりで加地家へ向かった。
いつものように玄関に向かうと、鍵が掛かっていた。誰もいないのかと思ったが、明かりは点いていたので、居間の大きな窓から聡子さんを呼ぶつもりで庭へ回った。窓もしっかり鍵がかかり、遮光のカーテンが閉められていたが、ほんの五センチのほどの隙間から明かりが零れている。私は何気なく、窓ガラスに額をつけるようにして中を覗き込んだ。
あの時の光景は今でも頭から離れない。聡子さんはいつものソファに腰掛け、隣に座る男の人をしっかり抱きしめていた。白いワイシャツの背に、細い指を這わせている。男は何度も顔を近づけ彼女の唇をふさぎ、聡子さんの美しい顔は赤く染まっていた。花模様のブラウスの前をはだけ、あらわになった聡子さんの乳房を男の手が覆っている。二人は体を密着させるように抱き合い、狂おしく乱れていた。私はその光景にショックを受けながらも、その男が自分の父であることにすぐに気付いた。そしてそれが、ただの慰めやいたわりの行為でないことも。
火がついたように、必死で走り家に帰った。体の震えは止まらない。家の前で息を切らしてあえいでいると、母が丁度帰ってきて私の混乱した様子を心配したが、何も知らない母には打ち明けられなかった。
「お父さん、遅いわね。職員会議、長引いているのかしら」
食事を準備しながら掛け時計に目をやる母に、私は何度も叫びそうになった。『お父さんは聡子さんの家にいるよ』と。心臓はずっと走った後のように、激しく打つ。母の明るさに、泣くことだけは必死で耐えた。
食事が終わったころ、父が帰ってきた。口数は少ないが、母に対していつもと変わらぬ父の素振りに、私は唖然とした。そして無性に腹が立ってきた。父が聡子さんと抱き合っていた手で私の頭に触れたとき、思わずその手を払いのけた。
「詩織、何をするの! お父さんに」
母は驚いて叱責した。父も私の睨み付けた顔に眉をひそめたが、
「いいよ、いいよ。女の子は難しいものだな」
と、笑って言った。その場を逃げるように部屋へ上がると、私は声を押し殺して泣いた。
母と父はお互いに尊敬し合っていた。明るくて気丈で情熱のある教師としての母を、父は同じ教育者として支えてきた。我が親ながら、知的で思慮深く思いやりのある父は魅力的な人だったと思う。町の人からも尊敬され、私の自慢だった父。物静かで家庭を大事にする模範的な父親。言い争うこともなかった両親の間には、ゆるぎない信頼があったはずだ。
今思うと、父と母は男と女という本能の部分を、知性という仮面でお互い隠していたのかもしれない。向かい合って学校の話や教え子のこと、そして真剣に教育を語り合う両親は、いつも教師の顔をしていた。でも聡子さんと抱き合っていた父は、まるで獣だった。父の姿をした別人が、そこにいたのだ。まさかあの穏やかな父が、息を弾ませ、荒々しく聡子さんを抱くなんて、本当に信じられなかった。それに聡子さんの喜びに満ちた顔が、余計に私の未熟な心をかき乱した。
嫌悪を抱きながらも、私は頭の中で父に代わって言い訳を考え続けた。四年生だった私には、愛だの恋だのと解らなかったが、父に、母と私の他に、愛おしそうに抱きしめる人がいるということが私を苦しめたのだ。甘えん坊の私が突然傍に来なくなったことを、父も訝しんでいたが、聡子さんとのことを知られているとは思いもしなかっただろう。
日に日に、父と聡子さんが母を裏切っているという怒りは大きくなった。ますます父を避けるようになり、聡子さんを憎んだ。そして加地の屋敷にも二度と行かなかった。
父が、私と母を捨てて聡子さんのところへ行ってしまったらという不安から、父の行動が始終気になった。私は時々、橋のたもとまでこっそり様子を見に行った。聡子さんは週に幾度か夕刻に橋を渡り、駅から電車で町を出た。それまで町から出ないことの方が多かったから、そのことを告げると、母は漸く元気を取り戻したと安堵したようだった。でも、彼女が出かけた日、父もいつも帰りが遅かった。私は二人がどこかで会っているのではと、勘ぐっていた。そして、明るく笑う母を見ては、唇を噛み締めた。
それからも母は何も気づかず、父も平生を保っていた。私は誰にも言えずにいたが、数ヶ月経ってくると、あれは見間違いだったのかもしれないと思うようになった。
しかし、平穏に過ぎてゆくはずの暮らしが、突然終止符を打ったのは、五年生の新学期が始まる頃だった。いつもは張り切って準備をしている母が、心ここにあらずで、ぼんやりと過ごす姿を目にするようになる。
そして、ある夜、階下から聞こえる母の感情的な甲高い声に目を覚ました。今まで聞いた事のない母の泣き叫ぶ声に、私はベッドの中で身を強張らせ耳を研ぎ澄ました。
「聡子は……」と母が叫び、「すまない……」と父のくぐもった声が聞こえた。私は震えながら、自分の暖かだった家が壊れる恐怖に身を震わせた。
その後、母と父は私の前では普段と変わりなかったが、凍りついてしまった二人の背は、向き合おうとはしなかった。
父は自分の書斎で眠るようになり、時々母のすすり泣く声がすきま風のように私の部屋に忍び込む。
信頼していた父と友に裏切られた母の悲しみを思うと、子供心に聡子さんへの憎しみが募っていった。
*
「宮子先生の最後の手紙は二ヶ月前に受け取った。手紙にも病気のことは書いてあったが……。お気の毒に……。君を残して逝くのは本当に辛かったでしょう」
孝実は私の予想に反して、穏やかな表情で答えた。返す言葉を失くしてしまうほど、彼の目は澄んでいてまっすぐに見つめてくる。
「すぐに……何度も読み返したよ」
戸惑いながらそう告げる彼に、
「だったら、なぜ訪ねてくれなかったんです! 母は病室でずっと貴方を待っていました」
と、両手をぐっと握り締めながら、私は声を荒げた。母のやせ衰えた姿が……、懇願して手紙を差し出した姿が目に浮かぶ。死を悟って、病床で書いた手紙の重みを知ってほしかった。
「貴方と話したいと言っていたのに……」
孝実は大きく肩で息を吐いた。そして、困惑したように顔をしかめると、沈んだ声で言った。
「しいちゃん、君は……、知っているのか? 宮子先生の手紙の内容を」
私は黙って目を閉じ、震える唇を噛んだ。
加地孝実への手紙……。病床の母にそれを託ったとき、文面を知りたいと思った。投函したくない思いに囚われもした。何も知らない母が、再び忌まわしい過去へ私を引きずり込もうとしているのかと、焦燥感にも駆られた。
でも聡子さんの死に関して、母が心を痛めていたのは間違いない。聡子さんの自殺は、自分が父と別れなかったせいだと思っていたのかも知れない。町を離れてから二人の愛の深さを漸く悟り、意地になっていた自分をずっと責めていたのかも知れない……。
孝実に会って、死に追い詰めたことを謝りたかったのか、それとも最後に怨み言を言うつもりだったのか、私にはわからない。孝実はきっと来ないと私が言うと、会ってきてほしいと言い出したのだ。会えば加地孝実が答えをくれると、母は言うばかりだった。
母が亡くなり、どんなに辛くても最後の母の願いを叶えたいと、私にはその想いしかなかった。手紙に何が書かれていようとも。
黙り込んだ私に苛立ったのか、孝実は大きく息を吐いた。
「母は自分で川に飛び込んだ。つまり自殺だと言ったのは君だ。いくら死を前にしたといっても、恨んでも恨みきれない女の息子に会いたいなんて、宮子先生もおかしな人だ。それとも何か他に、僕に言いたいことでもあったのかな?」
彼の口元に皮肉な笑いが浮かんだ。でも、その声は奇妙に聞こえるほど落ち着きがあった。どくんどくんと自分の鼓動が耳をふさぐほどに大きく聞こえる。私は身じろぎできず、瞬きもしないで孝実を見た。彼は怒りを噛み締めるように、こめかみをひきつらせている。容赦のない眼差しから身を守るように、私は自分の痩せた体を二の腕に抱いた。
誰も知らない私の秘密。私はもう十分に苦しんだ。母が死んだ今、耐えて生きることも必要ない。孝実にどう思われようと、何を責められようとかまわない。母の頼みを聞いてこの町で彼に会った。もう、全てを終わりにしたいと願っている。母を失った今、自分の罪に向き合ってまで生きることに執着などない。
漸くたもとの四機の街灯が点ると、橋の上は浮かび上がるように明るくなった。
製材所から数人の従業員が、怪訝そうに私と彼を見ながら橋を渡ってきた。孝実は顔見知りの人たちに微笑んで軽く会釈し、橋を渡り終えるのを見ていた。それから息を整えるように吸い込むと、冷静な面持ちで私に視線を戻す。
「母はしいちゃんが可愛かった。君がこの橋を、息を切らして駆けてくるのを窓から見つけると、おやつの準備をしないとと、嬉しそうに刺繍の手を止めた。居間からこの橋が良く見えたから」
その言葉に私は、彼の肩越しに急な坂の上に建つ加地の屋敷を見た。懐かしい情景が脳裏を横切ると、強張った体から力が抜けていった。
「しいちゃんがこんなに綺麗な女性になったと知ったら、母は喜ぶだろうな」
その顔は笑っていた。私を包むように。私は一瞬、彼のその胸に縋って泣きたい気持ちになった。幼心に、聡子さんと同じく大切だった人。彼は優しく慰めてくれるかも知れない。十年の間、苦しんで擦り切れた心をいたわり、私を許してくれるかも知れない。
でも、彼の失くしたものは大きすぎる。涙で彼の姿が滲んだ。
「宮子先生が大好きだった。明るくて優しくて、いつも母と僕を大切に思ってくれて……。二人目の母親みたいだった」
孝実は夜の帳が降りる前の、透けるような群青色の空を仰いだ。彼は欄干を強く握りなおすと、淀みなく流れる黒い川に視線を落とす。
「なのに、母は……、君の大切なお母さんを苦しめた。宮子先生が母を憎んでも当然だと思う」
孝実は頭を抱えるように手を当て、髪を後ろへ撫で付けた。眉間に皺を刻み、苦悩に満ちた低い声が語り始める。
「母は弱い人だ。君も知っての通り、親父は母に暴力を振るっていた。祖母と祖父が相次いで亡くなり、製材所を若くして継いだ父の責任は大きかった。次第に業績が落ち込み、親父なりに苦しんでいたのかもしれないが、そのはけ口が母だったんだ。理由は些細なことで、飯が拙いだとか従業員と親しくしたとか、何でもつっかかって殴っていた。そんな親父が死んで、僕はホッとしたんだよ。悲しいなんて思う気持ちなどなかった。でも母は親父が死んだことで、ひどく苦しんでいたんだ。まるで病人のようになってしまった。僕は……、何とか母に立ち直って欲しかった」
「孝実さん……」
彼の苦悶の表情に、私は思わず慰める言葉を探したが、孝実はゆっくり頭を振った。そして私を辛そうに見つめると、
「君のお父さんに最初に電話したのは僕だ」
と、沈んだ声で言った。
「宮子先生には、これ以上迷惑かけられなくて……。それでも一人で耐えるにはあまりに辛かった。それで君のお父さんの中学校へ電話をした。加藤先生は川沿いの公園に来てくれて、僕は抱えていたことを全て打ち明けることができた。先生は……まるで本当の父親みたいに肩を抱いて慰めてくれた。携帯番号を教えてもらって、それから先生と会うようになったんだ。先生は宮子先生にも、会っていたことを言わなかったと思う。あまりに秘密は大きすぎて……誰にも言えなかった」
「秘密……?」
私の問いに、孝実は悲しそうに、うっすらと笑みを浮かべた。
「母と僕の秘密……。打ち明けられた加藤先生も苦しんだと思う。だけど、僕と母のために、隠し通してくれた。僕は君のお父さんまで巻き込んでしまったんだ」
孝実は黒い流れに変わった川を、じっと見つめている。伏せ目がちな瞳は輝きを失くしている。
「加藤先生に会って話が出来るだけで満足だったのに、段々と欲が出てきたんだ。家に……、母と僕の家に、先生に来て欲しいと頼んでしまった。母を元気付けて欲しかったこともあるけど……。僕の理想の父親像だったんだよ、君のお父さんは。だから、見せかけでも親子のように三人の時間を過ごしてみたかった。それが母と君のお父さんを結びつけることになってしまった。全ては僕のせいだ」
私は言葉を失って彼を見つめた。
父が聡子さんといつから関係を持っていたのか、私はあれこれ考えた。四十九日の済んだころ、聡子さんが少しずつ明るさを取り戻してきたのは、父の存在があったからなのだと思うと、怒りがふつふつと湧き上がってくる……。
「同じ地元で育ち、君のお母さんよりも加藤先生の事を知っている母は、正直にすべてを打ち明け救いを求めた。母には守ってくれる人が必要だったんだ。加藤先生と母が愛し合うようになって、僕は実際うろたえた。宮子先生やしいちゃんへの罪悪感は勿論あったから。でも……、母の、今まで見たこともない幸せそうな様子と……、それに僕自身も、君のお父さんが自分の父親になってくれたらって、そんな思いが強くて……、母を諌めることが出来なかった」
「ひどい! よくもそんなこと! 私と母がどれほど苦しんだか、分かっているの!」
一歩彼に近づき、わなわなと震える手を握り、私は思わず怒鳴った。そうして彼を睨みつけた。
そうだ。この人に、聡子さんに、何を懺悔するようなことがあろうか。私の家をめちゃくちゃにした人達なのだ。
「母が何を手紙に書いたかは知りませんが、聡子さんは自殺です。自分で川に飛び込んだんです」
私はそう言うと、肩に提げたバッグを掴み踵を返した。
「待って! しいちゃん!」
腕に彼の手が食い込む。有無も言わさず、振り向かされる。
「君はいいのか? これからもずっと嘘をついたまま、生きてゆくつもりか?」
「嘘?」
「そうだ。母は自殺じゃない。橋の上から突き落とされたんだ」
踏ん張っていた足元が、突然に空虚な闇へと墜ちてゆく感じがした。ふらつく私を、彼は両手で支えた。私は抗うように体を捩って叫んだ。
「違う! 自殺よ!」
「いや……。こうして欄干の側に立っていたところを、突き飛ばされて、川に落ちたんだ」
「母は聡子さんを、突き落としたりしていません!」
私は持てる力を振り絞り、彼に向かって言い切った。
加地孝実の怒りを帯びた目が、残酷に私の全ての鎧をむしりとる。私はもう、枯野にそよぐすすきのように、すぐに倒れてしまうというのに。
「分かっている。宮子先生はその場にいなかった。勿論、加藤先生も」
「だったら、どうして突き落とされたなんて……」
彼の顔が強張って、言いよどんでいるのが分かった。躊躇いを拭うように、舌で唇をなめた。そして震える私に強い視線を送ってくる。
「目撃者は君だけじゃない」
「えっ?」
「僕も見ていたんだ。一部始終を」
「嘘よ! そんなはずない! だって、誰も私の言うことを疑わなかった!」
「それは、宮子先生から頼まれたからだ。見たことを黙っていてくれと」
体から力が失せる。十年間、かろうじて宿していた魂が抜け出たように、私は血の通わない人形となって立ち尽くした。
「僕は母がお父さんに会いに行くのを知っていた。噂も叔父から聞いたし、何とか母を引きとめようと思っていた矢先だった。自分の部屋から居間へ下りると母の姿がなかったので、窓から橋を見たんだ。薄暗かったが、橋の上に母とランドセルを背負った君がいるのがわかった。本当に胸が痛んだ。君が母を止めようとしているのはわかったよ。僕も家を出ようとした瞬間、君が突き落とすのが見えた」
*
母は良き教育者であり、そして潔癖な人だった。父の愛を取り戻すために、縋って泣いて懇願したりなど出来るはずもない。父を拒むことで、母はプライドをかろうじて保っていたのだろうが、そのかたくなな態度は父をますます遠ざけた。
父が深く思い悩んでいるのは、私にも解った。それでも聡子さんと別れなかったのは、それだけ愛情があったというべきなのだろう。父を失ったら、聡子さんは一人で生きられないと思っていたのかもしれない。
狭い町には、何処からともなく父と聡子さんの噂が立ち始めた。それがまた母を苦しめた。父と私の前では気丈に振舞っていても、母は一人になると泣いていた。私は母を苦しめる父を恨んだし、聡子さんを憎んだ。そして父に怒りをぶつけない母が歯がゆかった。
そして、父が「遅くなる」と言ったあの日、私は聡子さんを待ち伏せた。学校が終わるとすぐに、橋のたもとの大きな楡の木の下で、膝を抱え小さな塊になって何時間も待った。そのときのうるさいほどの蝉の声を忘れもしない。由良川の上流の方で沸き立った夕立の黒い雲が、ちぎれて空に浮かんでいた。時折遠雷が空を脅かし、川はいつもより水嵩が増していて、轟々と激しく流れていた。私はムッとする暑さに汗を拭いながら、母のためだと何度も戸惑う心に言い聞かせた。
陽が沈み、あたりが薄暗くなる頃、橋を渡ってくる聡子さんに気付いた。清楚な淡い水色のノースリーブのワンピースに、つばの広い白い帽子から肩にふんわりと黒い髪が揺れている。コツコツとヒールの音が近づいてくる。帽子で顔を隠すように俯き加減で、それでもまっすぐに橋を渡ってくる。
私は躊躇うこともなく、橋へ飛び出し、聡子さんの元へ走った。丁度真ん中あたりで、聡子さんは私に気付き足を止めた。
「しいちゃん……」
驚いたように、私を見る彼女の顔は凍りついていた。私は彼女の行く手をふさぐように前に立ち、睨みつけて言った。
「おばちゃん! お父さんに会わないで」
「しいちゃん……」
怯えるような黒い瞳が見開かれ、蒼白の顔に紅い唇が震えている。聡子さんの胸元で握り締められた手も震えていた。
私はきっと鬼のような顔をしていただろう。大好きだった聡子さんが汚らわしくて、憎くて、その気持ちが溢れたように涙が頬に零れた。彼女は私から逃れるように、ふらりと橋の欄干へ身を寄せた。私に背を向け、頭を振りながら肩を震わせている。
「ごめんなさい……」
聡子さんは消え入るような声でつぶやいた。
「しいちゃん……。本当にごめんなさい……。私が間違っているのは分かっている。あなたやお母さんにひどい仕打ちをしているのも分かっている」
肩が大きく揺れ、すすり泣く声が大きくなった。私はその背を見ながら思った。聡子さんは私の気持ちを分かってくれたのだ。これで母と父はまた以前のように笑い合える。もう、母は一人で泣くことはない。
顔を覆っていた聡子さんの手が下ろされ、腕に提げたバッグを強くつかみ、心持ち顎を上げたように見えた。私は聡子さんの言葉を待った。二度と父に会わないという誓いの言葉を……。でも!
「しいちゃん……。できないの。孝一さんなしでは生きてゆけない。私は彼と別れられない。絶対に」
そう言って、私を振り返った聡子さんの顔は苦悩に歪んでいたが、唇は噛み締められ、その目は私を拒んでいた。そして、憎しみさえ抱いているような激しい感情が宿っていた。その顔を見たとき、私は絶望と怒りが爆発した。
「おばちゃんなんか、大嫌い!」
叫んだ瞬間、私はこの両手を、力いっぱい彼女の腰へと伸ばした。大きく目を見開き、「あっ」と声が上がる。彼女の高いヒールのサンダルは、不安定になった体を支えきれなかった。華奢な聡子さんの体が大きく揺らいだ。
スローモーションを見ているようだった。その一コマ一コマを、今でも鮮明に覚えている。低い欄干を頭から飛び越え、水色のワンピースの裾がめくれ上がった。落ちて行く彼女の手が、何かを掴もうと大きく指を広げている。白い帽子がゆっくりと舞い降りる。私はハッとして欄干から、川を覗き込んだ。川はあっという間に、全てを急な流れに呑み込んだ。夕闇の中で透明度のなくなった黒い水が、轟々と唸りを上げ、橋桁に激しくぶつかっていた。
そして私は橋から逃げ出した。
「聡子さんが橋から落ちた。自分で飛び込んだ」
と叫びながら。
*
私はゆっくりと目を閉じた。もう終わったのだ。絶望が体を滑り落ちる。孝実が知っていたという衝撃は、私を隅々まで砕いた。でもそれと同時に、今まで悪夢となって私を支配し続けた罪の意識から解放された気がする。諦め……いや、安堵したという方が正しいだろう。
「孝実さん……。そのとおりです。私が……、私が聡子さんを突き落としました。この手で」
私は両の手を広げて眺めた。ぶるぶると小刻みに震える手。あのときの聡子さんの体の温もりを覚えているこの両手を、何度切り離したいと思ったことか。でも、これで良い。加地孝実を悲しませ、母を苦しめ、父を責めた私の罪は、明かされるべきだった。彼は私を罰してくれる。人を殺めた悪夢から救ってくれる。漸く終止符が打てる。
孝実は私から顔を逸らすと、苦しげに硬く目を閉じ顔を歪めた。川風がゆるりと吹き抜け、うな垂れた彼の前髪を乱した。いつも見続けている悪夢に出てきて、私を激しく糾弾する顔のはっきりしない男は、憎悪に溢れた加地孝実だったのだ。
「自分の罪の重さは分かっています。人を殺めて、罰も受けずのうのうと生きてきた自分を許せないと思います。もっと早く真相を打ち明けるべきでした」
「そうだね……。そうすれば、君自身苦しみを多少なりとも和らげることが出来ただろう。その手首の傷……自傷だろう? 死にたかったのか?」
孝実の視線が下がった手首へ下りた。左手に残る絶望の跡……。
「中学になって、自制することが出来なくなってしまったんです。聡子さんへの罪の意識といえば聞こえはいいですが、もっと根本的な自分への嫌悪だと思います。私は嘘をついて、罪から逃れようとした。あなたを不幸にした罪をどうしたら拭えるというんですか。生きていることが許されるはずない!」
体は焼きつくされたようにカラカラに乾いているのに、涙が溢れてくる。
彼の表情が急に和らいで、私の手首を手繰るようにして掴んだ。
「そんなに……苦しんでいたのか……。君は何も悪くないのに、あんなに小さかったのに、大人たちの罪に巻き込まれて……。宮子先生の手紙に、今まで自分を傷つけ、何度か命を絶とうとしたと書いてあった。学校もほとんど行けなかったって……。しいちゃん、本当にかわいそうに」
孝実は両腕を広げると、私を胸に抱きしめた。大きな胸は硬くて暖かかった。私は抑えきれず、まるで小さな子供のように声を上げて泣いた。この人は、私に殺された聡子さんの息子だということも忘れるほどに、ただ泣いた。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい」
彼は答えるように、私の背を優しく撫でた。
加地孝実に会って良かった。これで私の魂は安らいで天に召される。
*
聡子さんの葬儀のあと親子三人で町を出た。慌しく荷物を積み込んだトラックの後ろを父の車が続き、母のふるさとの神戸へと出発した。川沿いの道すがら、私は後部座席で、美しい流れを湛える由良川を涙で霞む目で見つめていた。好きだった町、小さいころから一緒だった友達、優しい近所の人達。脳裏に浮かぶ顔に心の中で別れを告げる。夏休みの終わる前の急な引越しのために、誰にもゆっくりと別れを言うことも出来なかった。
でも、両親が突然に引越しを考えたことに、戸惑いながらも心の中では安堵していた。私は人殺しで、嘘つきだ。けれどあの町で、聡子さんを突き落としたことを、隠して生きてゆけるはずはない。
車が町から離れてゆくと、漸く私は新しい空気を吸い込むように大きく息をした。罪を犯した恐怖を忘れてしまえると、そう思ったのだ。
私達は母の実家のある神戸市にマンションを借り、息を殺すように住み始めた。
町を出たとき、住んでいた家は処分することもなく、荷物も必要なものだけを持ち出してきた。母は急な引越しの理由をはっきりと教えてはくれず、ただ暗い顔をして荷解きをしていた。父は、母以上に憔悴しているようで、私に言葉を掛けることも無かった。それでも私は嬉しかった。この橋のある町から離れられたことが。
九月になり、私は近くの小学校に転入して新しい生活が始まった。両親は、教師の資格を生かして学習塾を開いた。現職の教師だったことで、生徒は次第に増え、思ったより早く生活してゆける基盤は出来た。自宅マンションから近いところに借りた教室で、父と母が仲良く二人で教えていると思うと、私は両親に抱いた不安な気持ちが薄れていく思いだった。
一月も経つと学校にも慣れ、友人も出来て、新しい生活は嫌なことばかりではなくなってきた。私は明るさを取り戻し、頭をいつも過ぎっていたあの恐怖の場面さえ、次第に夢だったのだと思うようになった。父と母も、狭い3DKのマンションの中で、だんだんと普通に言葉を交わすようになり、私に笑いかけてくれるようになった。元通りになりそうな家族が、私はどんなに嬉しかったか……。
しかし、私は知ってしまったのだ。父が孝実を、聡子さんを忘れたわけではなく、まだ大切に思っていることを。
私が学校から帰ってくると、その日、珍しく父だけが家にいた。そして私には気づかず、寝室で携帯を掛けていた。私は邪魔をしてはいけないと、父に声は掛けなかった。でも、閉め切ったふすまの向こうから聞こえた名前に凍りついた。
「孝実君、すまない。連絡できなくて。来月の聡子の月命日にはそっちに帰ろうと思っている。うん……わかっている。京都の三条の叔父さんの家にいるんだね? 迎えに行くから、一緒に聡子の墓参りをしよう。うん……。いつでも電話してきなさい。何も遠慮はいらない。じゃあ、来月、連絡するから」
父のくぐもった声は、途切れた。そして、凍り付いたように立ち尽くした私の耳に、父の呻くように泣く声が聞こえてきた。
「聡子……。聡子……。なぜ、死んだんだ……。聡子……」
途切れ途切れに呟かれる名前。私の中で何かが音を立てて壊れた。父を……、再び許すことは出来なかった。
私はそれから、父を見るたび聡子さんを思い出し、そして罪の意識を蘇らせた。一人の人間の命を奪ったという事実は、私が成長するほどに鮮烈に心に刻まれる。
父に対する憎悪――私の罪の根源が父にあると思うと、憎しみを抱くのは簡単だった。そして父がまだ聡子さんを愛しているという真実。父を拒絶し、自分を嫌悪し、新しい生活を壊す。目の前に開かれた希望さえ自分自身で拒むようになったのだ。登校拒否が始まり、部屋にこもることが多くなった。それは父に対する、幼い私の抗議だった。
中学生になって、私は学校になじめないまま完全に部屋に閉じこもった。
真っ暗な闇しか見ない私の目は、次第に「死」を見つめるようになった。何のために生きるのか? 死ねば楽になれるのではないか? 死ねば罪におののくことも、父を憎悪することも無い。毎日毎日、頭を占拠する聡子さんの恐怖に引きつった顔。泣いてもわめいても、振り払えない罪の意識。恐ろしい記憶に蝕まれるように、私はぼろぼろに壊れてゆく。
聡子さんを突き落とした手を切り離したいと思った。この忌まわしい手を。私は躊躇いもせずに手首にカッターナイフを当てていた。恐怖と鋭い痛みが私を罰っする。溢れ出る鮮血が生き物のように、私の服に、部屋に、汚らわしいシミを残す。薄れる意識の中で、私は安らかな気分になっていた。漸く自分を断罪できたのだ。
でも、偶然部屋の扉を開けた母が気を失った私を見つけ、病院へ運ばれた。母のお陰で、私は命を絶たずにすんだ。だが、助かったことで、また病んだ心は生きることを拒み続け、ますます追い詰められた。
自殺未遂から三か月後、父は家を出た。
母は、もしかしたら、父のことを許していたのかもしれない。でも、私の頑なな父に対する嫌悪を感じ取り、別れる決心をしたのだろう。父も手首を切った原因が自分にあると悟り、傍にいてはいけないと考えたようだ。
母は私のために、生活を根底から覆すことも躊躇わなかった。父が出て行った後も、気丈に働き、私を支えようと懸命だった。私はそんな母を見て、何もかも忘れようと思った。母との生活を生まれ変わって過ごせば良い。それは容易いことのように思えた。
だが、記憶は忘れ去ることも塗り替えられることもない。心の奥深いところで、ゆっくりと私を侵食していくようだった。自分を取り戻そうとしても、突然に糸がぷっつりと切れる。そうして、死が甘く誘いかけてくる。悪夢から逃れるには、それ以上の苦しみが必要だった。自分を傷つけ、悲鳴を噛み殺していれば楽になれたのだ。私は発作的に手首や体を切り刻むようになった。嫌悪する自分自身を痛めつけること……それはまさに甘い誘惑だった。
何度も病院へ運ばれ、精神科の治療を受けた。「心を解き放せ」などと、安楽に言う精神科医に、「私は人を殺しました」と打ち明けたら、どんなに驚くだろうと笑ったこともある。いろんな薬が処方され、一時的に楽になる。でも、自分を嫌悪する気持ちは消すことなど出来なかった。
それでも今まで生きてきたのは母がいたからだろう。
母はまっすぐに私に向かってくれた。諌め、慰め、そして抱きしめてくれる。成長するとともに、母の涙に後悔し、強くならねばと思った。何をしても母は私を諦めず、努めて明るく振舞い、心から私を愛してくれた。
「詩織が死んだら、お母さんだって生きていない。貴女は私の分身なのよ」
母は口癖のようにそう言って、私を幼子のように抱きしめる。母の胸の中には、すべての苦悩から隔離される暖かさがあった。
私は母の愛情に縋ってしか救われなかったのだ。
でも、私にとどめを刺すように、医師から母の余命を告げられた時、私は傷だらけの手首に、また刃を当てていた。病魔に苦しむ母を見たくなかった。母がいなくなるかもしれない恐怖に、到底立ち向かうことなど出来なかった。
だが、私のために入院を躊躇っていた母に、また助けられた。意識の戻った私に、泣きながら母が言った。
「詩織、あなたは生きて孝実君に会わなくてはならない。お母さんを大事に思ってくれるなら、最後のお願いを聞いて……」
*
「しいちゃん」
孝実は囁くように、優しく私の名を呼ぶ。心に染みこむような暖かな声。
「お母さんは自分が死んだ後、君が命を絶つのではと心配していた。手紙にはそのことばかりが書かれていた」
彼の腕の中から離れ、夜空を仰ぐように顔を逸した私を、尚も支えるように腕を掴んだ。
「孝実さん……、もしかして、両親に見たことを話したんですね。私の罪を……」
うな垂れて、私は訊ねた。
「ああ、話した。君が許せなかったんだ。まさか母を突き落とすなんて……。君が自殺だと言っていると知って、僕も混乱した。葬儀の次の日、心配してご両親がうちに来てくれたんだ。その時怒りにまかせて打ち明けた。先生たちの驚きは言葉にできないほどだった。お父さんは何度も畳に頭を擦りつけ謝っていたよ。泣きながらね」
孝実はまっすぐに私を見つめてきた。怒りが宿る目を見るのは、辛い……。
「知っていたなんて……。父も母も……。私、なんてことを……。どれだけ両親が苦しんだか……」
頭の中が真っ白になって、体がゆらりと揺れた。孝実がすぐに手を伸ばし、私を支えた。私は髪に指を差し入れ、愚かな自分の頭を抱え呻いた。
「母は……何も言いませんでした。父も……。誰も私を責めなかった」
「それだけ君が大切だったんだろう。それから二週間もしないうちに住み慣れた町を捨てて、引っ越して行ったんだ。君のこと、守ろうとされていたんだよ、きっと」
「でも、どうして貴方は私のことを訴えなかったんですか? 私が子どもだったから? それとも両親のことを考えて?」
孝実は足元に目を落とし、力を抜くようにゆっくり息を吐いた。思い悩むようにゆっくり頭を振ると、くぐもった声で答えた。
「いや……。しいちゃん、君は母を突き落としただけだ」
「え?」
「母は……、君に殺されたんじゃない……」
「わからない。どういうことなのか……。孝実さん、私はもう何も隠すつもりはありません」
孝実は、怯えるように顔を上げた私を、また厳しい目で見つめた。
「君は僕に真実を話して、この後どうするつもり?」
「え……」
「お母さんのいない、一人ぼっちの君がこの先、生きていけるのか? ここに来るときから死ぬつもりだったんだろう?」
体が震えだす。私は、ただ頬に涙を伝わせるしかなかった。
孝実は顔を曇らせて口元を引き結ぶと、肩にかけたブリーフケースを開け、手を差し込んだ。取り出された白い封筒を硬く握り、じっと見つめて言った。
「君のお母さんからの手紙だ。読んだらいい。これが母の死に関するすべてだと思う」
白い封筒を私の前に差し出す。美しい文字で「加地孝実様」と書かれた封書は、母から渡された物に違いなかった。
気持ちは動転していたが、私は恐る恐る封筒へ指を滑り込ませた。そして三つに畳まれた白い便箋を広げながら、橋のたもとの街灯の下へと歩いていった。
三話の連載になります。
三日で完結予定ですので、よろしくお願いいたします。