黎明期
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リアル社会の高層マンションの一室。ミーナの部屋から見える空は快晴。おもてでは、いつもの日常が淡々と繰り広げられている。そう長い時間ログインしていたわけでもないのに物凄く疲れた。トニーの大魔法が飛び出してリーマスのアロウ周辺はかなりめちゃめちゃになってしまった。
「魔法の跡は管理部が修復しとくはずだから気にしなくていいからね。あ~、おなか減った」
ミーナはマルチインターフェイスを外し、パソコンから離れて、置いてあった買い物袋から食べ物をあさっている。
私もネットブックを閉じて、自分の買い物袋を取り出した。
「トニーと一緒に行けなかった。彼また一人ぼっちに……」
やっと分かり合えそうだと思ったらまたすぐ離れ離れ。涙が滲んできそうになる。
「バッカねえ。めそめそしないの。あたしに任せときな。あ、緑茶がいい? コーヒーがいい?」
ミーナは弁当をレンジに突っ込んでタイマーをひねると、ペットボトルを両手に持って聞いてきた。
「りょ、緑茶……」
こんな精神状態でお昼ご飯が喉を通るだろうか。私はビニールパックされたおむすびを握り締めてトニーのことを考える。
「どこが最強最高の大魔法使いよ。トニーを止めることも救うことも出来ないくせに……」
後悔が私の心に張り付いてくる。
「あんたがいたからトニーは自分から逃げ出したのよ。わたしとトニーの一騎打ちなら彼簡単に私を殺してたわ。リーマスだって崩壊させて世界自体がなくなってたかもね。彼は逃げることであんたとあんたの愛する世界を守ったのよ。おにぎり温めようか?」
「いいです。まだ喉を通りそうに無いから。チョコチップもらっていいですか?」
「そっちは喰うんかい?! 心配しなくてもトニーはどうせまた戻ってくるよ」
「どうして分るんですか?」
私はチョコチップクッキーを摘みながら聞いた。
「女の勘さね。今回だってトニーはあんたがログインしてくるのを待ってたんだと思う」
私は緑茶を注ぎながらほっぺたを膨らませてミーナへの不信感を表現した。
まったくミーナは味方なのか敵なのかさっぱり分らない。
「とにかくトニーは戻ってくる。それまでにこっちの方針を固めとかないと、また今回みたいなことになるからね」
ミーナはキャリアウーマンらしく新製品の満漢全席弁当3500円を頬張りながら言った。コンビニには似つかわしくない超豪華弁当だ。
「あのときどうしてトニーを逃がせって指示したの? しかも口パクで」
「さあ何ででしょ。あんたを人質に取ってトニーを引き止めることも出来たんだろうけどね」
ミーナがずる賢そうに口角を吊り上げて笑ってみせる。
「もう、まじめに答えてよ」
私はチョコチップクッキーをザラザラと口に流し込んだ。
「魔法使いミーナは、あの時ずっと管理部にモニタリングされてたんだよね。おしゃべりの内容から見たもの聞いたことまでぜんぶ、本部に筒抜けだったの」
「あ、……」
そうだったのか。だから口パクで。
「でも、だったらなんで?」
「あたしはBGMの社員だしリーマス管理部を通じてあんた達の調査を命じられてるわけだけど、個人的にはBGMが過去にやってきたことにも興味があったんだ。それでまあ色々と嗅ぎまわってみたわけ。あーもうおなかいっぱい」
弁当の空き箱をゴミ箱に突っ込むとミーナはキッチンに立ち、ホットコーヒーを煎れ始めた。ホットパンツにTシャツのミーナは普段会社で見る矢田美奈さんとは一味違う。キャリアウーマン風のスタイルも素敵だけどカジュアルなのもまた別のかっこよさがある。
「リーマスはBGMの子会社である『株式会社リーマス』が運営管理するオンラインゲームだけど、もともとは違う会社で作られたゲームなの」
サイフォンがごぼごぼと音を立てている間、ミーナは今日一番真剣な表情になった。それがまたカジュアルな外観とのミスマッチで一層かっこいい。
「リーマスは当時もっとも優れていると言われた基本ソフト『窓枠システム』をインターフェイスとして稼動している。『窓枠システム』が採用されるまでの基本ソフトは、それぞれが決まったコマンドを通じてしかパソコンに命令できないものだった。だからとても素人に使いこなせるものではなかったの。窓枠システムは個々のパソコンからの入力を飛躍的に簡単にし、ネットゲームのみならず、あらゆる世界にパソコン利用を広めていったわ。まさに画期的な発明だったわけね」
私もパソコン黎明期の大発明と黒い噂については聞いたことがある。
公正に評価されるべき発明特許の権利が巨大組織によって蔑ろにされ、国家レベルで横取りされたというものだ。
ことの真偽は定かではないが、国は当時できるだけ低コストで成長産業を育てたかった。だから、その当時もっとも優秀だった基本ソフトの権利料を徹底的に安く買い叩こうとして、わざわざ特許法を改悪した。そして、ある中小企業の発明特許を政府とつながりの強い大企業にその権利があると偽り、取り上げてしまったというのだ。もともと資本の無い、アイデアだけで伸びようとしていたその中小企業は成長の芽を摘まれてまもなく潰れ、社長家族は一家離散の憂き目にあったと言われている。私が知っていることを断片的に述べるとこの程度だ。
ミーナは「そこまで知っているなら話は早い」と、私にもコーヒーを注ぎながら続けた。
「当時、窓枠システムを発明したのは『窓の森株式会社』という中小企業だったの。窓枠システムはどんなアプリケーションとも相性がいい便利なソフトで、今ではあらゆる機器に最初から組み込まれているのはミニカも良く知ってるわよね」
ミーナが言うとおり。
現在販売されているほとんどすべてのパソコンに窓枠システムは不可欠なものとして組み込まれている。一部マニアックなファンだけが『りんごの森』や『ライナス』といったマイナーな別のシステムを使っているのみだ。
「本来は何にでも使える便利なシステムだけど、その窓枠システムを初めて実用化したのが当時窓の森株式会社の運営していたオンラインゲーム『ルピナ』よ」
つながった。ここでやっと。
すっかり忘れていたが、私がまだ何の取り得も無いただの引きこもり中学生だったころ、初めて『ルピナ』をやったときの感動は、それはもう素晴らしいものだった。
ヴァーチャルとはいえ、マルチインターフェイスを初めて採用したそのリアル感は他の追随許さず、また、努力し、それが認められ、糧を得て、稼いだギルで新しい道具を買い、さらにまた己を高めていくといった成長過程のゲームバランスは群を抜いた秀逸さで、リアルの自分自身に希望を失っていた当時の私は、どんどん『ルピナ』にのめりこんでいった。
しかし、引きこもりだった当時の私には感動を分かち合う友人も熱心につたえたい恋人もいなかった。だから私は当時の開発者にファンメールを書いた。溢れ出る感動を誰かに伝えずにはいられなかったから。そしてこれは後で知ったのだが、驚くべきことにその開発者は当時の自分と同じ中学生だったのだ。もしこの事実をその当時知っていたなら、私はなおさらルピナの熱狂的なファンになっていたことだろう。
その後、ゲーム自体はずっと続けていたのだが、いつの間にかゲーム名はルピナから『リーマス』に代わり、いつのまにか運営管理会社も代わっていた。
しかし当時の私は、自分自身のレベル上げに精一杯でそんなことにはまったく気付いていなかった。いつのまにかゲーム名も、あたかも最初から『リーマス』であったかのような気がしていたのだ。
しかし私たちファン層がのん気にゲームを楽しんでいるその裏側で、ゲームと基本ソフトの権利をめぐって血で血を洗うような争いがあったのだ。その事実は、どうやら疑いようが無い。
ミーナはコーヒーを飲み干し、日差しの強い窓際に腰掛けて窓からまぶしそうに外を眺めている。私は部屋の奥でふかふかのカーペットの上に女の子座りをして飲みかけのコーヒーカップを両手で握り締めた。
「とにかく政府は基本ソフトの権利関係コストを安く抑えたかった。だから当時の日本には無かったサブマリン特許という概念を無理やり取り入れて特許法を改悪した」
「サブマリン特許……?」
「そもそも日本は先願制といって先に特許省に届けた者が発明の権利を得る制度を取っているのよ。しかしアメリカなどでは先発明主義と言って先に考えたことの証拠を示せれば出願が後でも特許権を主張できる。当時の政府は産業振興の費用を節約するために先発明主義を取り入れた特許法改悪を時限立法で行った。
そして、過去に日本BGMが窓枠システムに似たものを作ったと言うニセの証拠を日本BGM自身にでっち上げさせた。それを見た特許省は、窓枠システムの権利を窓の森株式会社から取り上げ、日本BGMのものだと認めてしまったのよ」
「そうしておいて政府自身はその窓枠システムの使用権を日本BGMから安く買い叩いたってわけね。不正に与した日本BGMは政府の提示する条件が非常識な安価でも文句を言わないし、ましてや日本BGMが自分から真相を語ることは絶対に無い。日本政府は不景気を脱出するエンジンと燃料を格安で手に入れたと」
「その通りよ。改悪特許法は時限立法だったから、今は以前の法文に戻っているわ。単に、特定の権利関係をいじりたかったから行っただけの、とんでもない改悪だったわけね」
すべてを聞き終えた私はなんとも言えない索漠とした気持ちになった。
あのすばらしいゲーム世界を構築する一方で不当な弾圧と戦い、敗れて一家離散に追い込まれたトニー。そしてその世界を一度は壊そうと決心し、しかし私のためにあえて残すと言ってくれたトニー。
「自分が過去に一所懸命作ったゲーム世界を彼は『腐っている』『だから壊す』と言ったの。彼が作った、私が大好きな世界なのに。それを聞いて、私すごく悲しかった。悲しくてたまらなかった。『なんでそんなこと言うの?』って思わず叫んでた」
「そうか。じゃあそれがミニカの本当の気持ちなのさ」
「私ね、トニーが与えてくれた世界のおかげで今こうしていられるの。本当に冗談でも大げさでもなく。あのままなら私、いつ死んでもおかしくなかった。自分自身の人生観や生きがいの殆どを彼と彼の世界から貰っていたことに気付いたの」
「みんな一度はくぐるんだぁよ。ありふれた出来事さ。でも、今のあんたにゃ宝物かもね」
ミーナの声は、おどけてはいたが優しさと思いやりに溢れている。
「う…… ごめん、あんまり見ないでミーナ…… 今の私、変な顔だ」
いつのまにか涙が溢れていた。
「変じゃないよ…… 全然」
「自分が作った世界を壊そうと決心した時、トニー自身とても辛かったんだろうなって、想像したら勝手に泣けてきちゃった……」
声が震える。
引きこもり時代の私は孤独だったけど、トニーはもっともっと孤独で心細い戦いを続けてきたのだろう。壊そうとしたり守ろうとしたり、殺そうとしたり愛してると言ってみたり、彼自身も大きく揺れている。
私が愛した世界は彼自身だ。彼が壊そうとした世界は彼自身だ。彼は自分の世界を壊すことで自殺しようとしていたのだ。でも彼は言ってくれた。『壊すのは止めた』と。前向きに生きると言ってくれたのだ。
手強く知的で大胆で、謎めいて復讐に燃えて危うく逃げ回る、不遇の天才。
孤独な天才は、壊そうとしたその世界を『君のために残す』と言ってくれた。
あのさらりとした告白に込められた想い。
彼は心から私を必要としてくれている。
「ミーナ…… わたし…… 私、もう会社をクビになってもいい…… 私トニーと共に生きる。彼がハッカーだっていいの。わたし……」
涙と鼻水が止められない。
私は椎野君に初めて出会ったときから、既に惹かれていた。
いいえ。
それ以前から、トニーがハッカーになる遥か前から、私はおそらく彼に恋していた。
初めてファンメールを送ったときから、今日のこの運命はもう決まっていたのだ。
ルピナに出会う前の私は、ただの生ける屍だった。
友達も、恋人も、生きがいも、何も無かった。
トニーだけが私に全部をくれた。そして愛していると、必要だと言ってくれた。
いまならはっきり言える。私は彼のための魔法使いだ。
力になりたい。今すぐトニーの力に。
「バカね。焦んないでよ」
落ち着いた口調でミーナは2杯目のコーヒーを勧めてきた。
「でも、私……」
持ってきたハンドタオルで顔を拭いながら、私はコーヒーを受け取った。
「別に会社に告げ口したりしないわよ」
「ほんとに?」
「当然でしょ。それくらいヤバい話なのよこれ。告げ口なんかしたら、秘密を知った者と思われて、あたし自身もBGMから目を付けられちゃうわよ」
「信じていいのね?」
「何のためにいったんログアウトしてきたと思ってるの?」
ここにきて、やっと私は心の底からホッとした。
BGMの正社員であるミーナが味方になってくれるならこれほど心強いことはない。
「さっき言ったことが本当なら、あたし自身もBGMを許せない。それだけよ」
「でもミーナはBGMが潰れてもいいの?」
「ぷっ、あっはっはっは、あんたなにそれ? マジで言ってるの?」
「な、なんで笑うのよ?」
「なんでって、腐っても天下の日本BGMよ。そんなことくらいで潰れるわけないでしょ」
「ほんとに?」
「そりゃ社会的に相当なダメージは受けるわよ。不買運動や役員総入れ替えが起こるかも知れない。あちこちの公共的入札から外されたり、企業収益は一時的にかなり落ち込むかもしれないわね」
「それでも大丈夫なの?」
「全然大丈夫。逆に、膿を出し切って将来的には今より評価が上がるかもしれないわ。
いえ、きっとそうなる。こういう怪しげな部分は、BGMのほんの一部なのよ。うちの会社の隠れたポテンシャルは凄いんだから」
あれだけ暗かった話がミーナにかかるとこんなに明るく、楽しげに展開していく。
本当に前向きな女性。ミーナは根っからのキャリアウーマンなのだ。
「ミニカにはまだ言ってなかったけど、あたし自身にも捨て置けない理由があるんだよねこの一件」
さっきまで明るかったミーナの表情に少しだけ影が差した。
時刻はまだ昼下がり。
オンライン上にネットゲーマーが増えてくるのにはまだしばらく時間があった。