騎兵戦線「契り」
風のうねりを背後に聞いた。草原の匂いがまとわりついて離れ、また絡みついた。
内股を引き締め、転げ落ちないように挟み込んだ。地面から伝わる振動を脚と腰で吸収する。身体を小さくまとめ、馬の律動に合わせて息を吸い、肺の中の空気を吐いた。
強情な牝馬だった。乗り手を試しているのがわかる。油断すると、振り落とされそうだった。
黒い瞳がぐるりと後ろを見た。
「なかなかだな。だが、これで終わりか」
紫蘭が耳元で告げると、牝馬はたてがみを横に振った。斜めに傾いだ上体を、両脚をきつく締めあげることで維持する。
戦いだった。馬と騎手との一対一の立ち合いだ。武器を打ちつけはしないが、お互いの力と意地をぶつけ合った。
紫蘭の体力は、以前より落ちていた。腕に大きな怪我を負ってから、回復はしてきている。しかし、元通りにはなっていない。
弱った身体で騎乗していられるのは、騎兵としての自尊心があったからだ。馬と離れたくないという思いも、手綱を左手に絡みつかせる行為に表れていた。
紫蘭の右半身が不安定に揺れた。そちら側はどうしても、隙ができる。右腕で手綱を握ることができないからだ。肘から先は、余った袖がなびいていた。
医師から乗馬を禁じられて、数ヶ月が経っていた。その間、馬と触れあうことはあっても、遠乗りはしなかった。だが、限界は訪れるものだ。強い誘惑に抗えなくなり、今、こうしている。
久しぶりの騎乗だ。心臓の鼓動が異常と思えるほど、強く打っていた。興奮しているのがわかる。冷静になろうとしても、どうにも抑えがきかなかった。
心が弾む、とはまさにこのことをいう。生きている心地がする。どうして、今まで我慢できていたのか不思議だった。
左右を見回した。草原が広がっていた。蹄の音は他になかった。かつて、共に駆けた仲間の姿は、どこにもない。
不意に寂しさを覚えた。
「お前の主は、どこへ行ったんだろうな」
牝馬がじろりと睨み付けてきた。
紫蘭の騎乗している月花は、仲間の愛馬だった。彼が自分の馬を紫蘭に預けたのは、騎兵をやめたからだ。古巣に帰ると言って姿をくらましてしまった。
「お互い、捨てられたか」
月花が鼻息荒く否定した。自分は違う。きっと迎えに来ると言っていた。
紫蘭も、本当は同じ気持ちだ。きっと何かの事情があって、姿を見せないのだ。今はただ、歩む道が異なっただけで、また交差することもあるだろう。その時まで、月花と共に駆けていればよい。
「もう少し、行こうか」
紫蘭は軽く拍車をかけた。月花は迷惑そうに、だが蹄を蹴る音は軽快だった。
風の心地よさに、ずいぶんと遠くまで来てしまった。
紫蘭と月花は、お互いに意地を張りつつ、駆けることに夢中になっていた。走ることが好きなのだから、しかたがない。陽がすでに下がり始めていた。
「疲れたか?」
月花の腹に白い汗が垂れていた。
「私も疲れたみたいだ」
緩やかに手綱を引き、鞍から下りた。
膝が震えた。立っていられず、尻をついてしまった。どっと疲れが押し寄せてきた。すぐには立ち上がれそうもない。
こんなことは初めてだった。後先考えずに駆けたことなど、今までにない。まるで新しい玩具を与えられた子供だ。
紫蘭はうっすらと笑った。笑えるのが不思議だった。
怪我のこと、敗戦のこと、自分自身のこと。それらが脳裏に浮かんだが、心地良い疲労が頭の隅に追いやってくれた。
「ありがとう、月花」
月花は耳を動かしただけで、顔も上げなかった。
寝転んだ。だんだんと色が濃くなっていく青空に、雲が浮かんでいた。どこまでも蒼天が続いていた。
「馬蹄だ」
紫蘭は手のひらに振動を感じた。地面に耳を当てると、蹄の音が聞こえた。丈の高い草の間から首を伸ばした。遠目に数騎の騎馬が動いているのが見えた。
「あちらも遠乗りか」
彼らはどこかに帰るような足取りだった。近くに、集落か村があるのだろう。
「そうだ」
頼めば、一晩泊めてもらえるかもしれない。疲れた身体で、今来た道を戻るよりはよいだろう。
後を追った騎馬たちは、いつの間にか消えていた。しかし、彼らを見失った先に村を見つけることができた。
簡素な住居の間に馬を乗り入れると、奇異の目が向けられた。馬に乗った女が珍しいわけではない。村人の目が、紫蘭の右腕の位置をちらちらと見ていた。
「腕なしだ」
「黙ってな」
紫蘭を見た男の子が口走り、母親が口を押さえて隠した。
「この村に宿はあるか?」
月花から下りた紫蘭は親子に尋ねた。
「ないよ」
ぶっきらぼうに言って、二人は背を向けた。それ以上の声をかけることができず、紫蘭は立ちすくんだ。
「あんた、軍の人間かの?」
老人が近づいてきた。竹を編んだ笠を押し上げ、皺深い顔が覗き込んだ。
「そんなものだ」
紫蘭は頷いた。
「口の利き方がなっとらんな。他人にものを尋ねるときは、もう少し丁寧な言葉をつかうものじゃよ」
「すまん」
「まあよい。宿ではないが、うちでよければ泊めてやろう。ついてきなさい」
先に立って歩き出す老人に、紫蘭は謝意を述べた。
「礼はいらん。たいしたもてなしもできぬからな」
老人はかくしゃくとした足取りだった。月花と紫蘭は歩調を緩める必要がなかった。
「帰ったぞ。客人がおいでだ」
「あら」
腰を丸めた老婆が、紫蘭の姿を見て口に手を当てた。視線が右腕に注がれていた。
「厄介になります」
「ごめんなさいね」
老婆はぶしつけな態度を取ったことを謝った。
紫蘭は馬の世話をする許しを得て、家の裏手に回った。月花の身体を拭き、水をやった。
「よい馬じゃの」
様子を見に来た老人が、月花の鼻面を撫でた。意外だった。紫蘭が同じことをしたときは、噛みつかれそうになった。
「儂の牧にも、これほどのものはおらん」
「ご老体は馬を?」
「今は息子が継いでおるがの」
老人は馬の扱いに慣れていた。何か感じ取ったのか、月花はされるがままだった。
「食事にしよう」
月花に秣を出して、二人は家の中に入った。
「息子は、今日は帰ってこないでな。質素ですまんが」
夕餉は、根菜を煮込んだものと粥だった。肉や魚はない。老人二人ならこれで十分なのだ。
紫蘭はありがたく頂戴した。戦時の糧食と比べれば、温かいだけでもご馳走である。しばらく養生していたこともあり、食も細くなっている。これくらいが、ちょうどよかった。
「そうじゃ、酒があったな」
「あなた」
老人は老婆を無視した。
「酒、飲めるじゃろう?」
「駄目ですよ。止められているじゃありませんか」
「うるさいやつだな。客人にだけ振る舞うのも、おかしな話ではないか」
老人は飲酒を禁じられているようだったが、紫蘭を理由に飲もうという魂胆が見受けられた。
「いや、私は」
紫蘭は酒を飲まない。怪我とは関係なく、もとから飲酒の習慣はなかった。
「駄目か」
残念そうに肩を落とした老人が滑稽だった。紫蘭の頬が緩んだ。
「ほほ、笑いおった」
老人は歯を見せた。
「おなごは、笑っているほうがいいのう。戦上手な女丈夫だとしてもな」
「私を知っているのか」
軍の人間と見当をつけられていた。顔が知られているのかもしれない。
老人は湯をすすった。
「知らぬよ。村人の誰も知らぬ。だが、どこか血の臭いがする」
紫蘭は右腕を見た。剣を握っていた手は、もうそこにはない。だからといって、流してきた血の痕が消えるわけでもない。多くの命を奪った事実も、なくならない。
「血臭か」
紫蘭は左の拳を開いた。右だろうが左だろうが、人を斬るのは、人だ。手ではなく、身体に染みついた何かが、老人の鼻を刺激したのだ。
「女は、子をなして、命を育むべきだと思うがの。奪った分だけ、産んで、育てる」
「無理を言う」
紫蘭は首を振った。老人らしい考えだ。当たり前のことを、当たり前であると口にする。「私は、私の生き方しかできない。戦をするしか能のない人間だ」
「自分で枠組みを作っておらんか。戦に、固執しておるのう」
「女に、妻と母の生き方を求めるのも、固執ではないのか」
「うむ、まさしくそうじゃの」
老人はあっさりと引いた。紫蘭は肩すかしを食らった。
「なあに、生き方など、いくつもあるということじゃ」
頭の固い老人だと思ったが、そうではなかった。
ひとつの道を示したが、それ以外の道もある。自分はこうあるべきだと思い定めるのではなく、他にもいろいろな生き方があることを知っておけと言っていた。
だが、紫蘭には戦以外の道が見えなかった。
「酒を飲むのもしかり、飲まないのもしかりじゃのう」
「はいはい、わかりましたよ。少しだけですよ」
老婆が立ち上がって、奥から瓶を持ってきた。
「お主も飲むじゃろ」
「いただいてみようか」
飲んだことのない酒を飲めば、見えてくるものがあるのかもしれないと思った。
月花の嘶きで飛び起きた。表に出て、暗闇を見据えた。
「賊か」
松明が揺れ動いていた。全員が掲げているわけではないだろうから、およそ二十の賊徒だろう。炎の高さから、馬に乗っていることがわかった。
「賊じゃと」
物音に気づいて、老夫婦が出てきた。
「家の中へ」
二人に短く告げ、紫蘭は家の裏手に回った。月花が待っていた。鞍を置いて飛び乗ると、すぐに駆けだした。
村人はまだ気づいていなかった。紫蘭は軒先で警告の声を投げかけながら、短刀を抜いた。護身用に持参していたものだが、戦うには物足りなかった。利き腕でない左に握ると、さらに心許ない。
村の男たちの加勢に期待した。たいていの村では、自警団が組織されている。少しの間でも、村への侵入を阻めば、どうにかなるかもしれない。
「愚か者め」
弱気な己に怒りを覚えた。
賊徒など、一人で斬り伏せられなくてどうする。村人を頼るなど、三騎兵と呼ばれた自分のすることではない。手助けは無用だ。寝泊まりさせてくれた礼にも、村に被害を与えてはならない。
しなければならないことを決めると、腹が据わった。
「月花、駆けるぞ」
月花はすぐさま反応した。三騎兵の仲間が騎乗していた馬だ。怖れなど微塵も感じず、気負いもまったくなかった。遠乗りと同じように、馬体はしなやかに動いた。紫蘭のほうがぎこちなさを感じるほどだ。
松明に照らされた男の顔が見えた。次の瞬間には、あばた面のたるんだ頬肉が血にまみれた。紫蘭の短刀が首の筋を断ち切っていた。
紫蘭は月花が駆けるに任せた。指示を出さなくても、月花は敵に向かっていった。戦うことを知っている駿馬だ。紫蘭は短刀を振るうことに集中できた。今の彼女にはありがたい。
次の男の腕を斬った。落ちた松明が、賊の馬のたてがみを燃やした。暴れ出した馬に、他の馬もつられ、混乱が生まれた。火傷した馬には申し訳ないが、紫蘭にとっては好都合だ。
何が起きているのか、彼らはようやく理解し始めた。
襲撃者がたった一騎の騎馬であることに、犠牲者を出しながらも、男たちは安堵した。一人ならば、負けることはない。早まった村人が、単騎で突っ込んできただけだ。多人数で取り囲んでしまえば、脅威ではない。
彼らは剣を抜き、騎馬の姿を追い求めた。明かりの届く範囲に、見知らぬ馬はいなかった。逃げたのかと思った矢先、蹄の音が聞こえた。
松明の明かりが届かない位置から、紫蘭と月花が男たちの間を突き抜けた。
一人の手首が斬り飛ばされた。間抜けな仲間に、何人かの男が嘲笑を浴びせた。まだ、余裕がある。
紫蘭は月花を停止させ、下馬した。落ちていた剣を拾い上げた。
「女だと」
炎に照らされた騎手が片腕の女と知り、男たちは驚いた。
手首から血を噴き出させた男が唾を吐いた。その唾が落ちる前に、奪い取った剣が男のもうひとつの腕を奪った。
紫蘭は回り込んだ月花に飛び乗り、再び馬上の人となった。剣の一閃で、腕なし男の首が落ちた。
「おい、待て」
瞬く間の惨劇に、男たちの誰もが目を疑った。
紫蘭は時を待たず、首をひとつ飛ばした。また、ひとつ。さらにひとつ。
辺りが暗くなっていた。
「ひ」
松明を持った男が狙われていると、誰かが気づいた。一人が松明を放り出すと、他の男もそれにならった。
「馬鹿野郎、見えねえだろ!」
叫んだ男の首も落ちた。
紫蘭の技量は卓越していた。利き腕でなくても、賊を圧倒した。
だが、無理をしすぎた。左手の握力が落ち始めていることに気づいた。久しぶりの実戦で、体力の消耗を見誤ったようだ。
剣には刃こぼれが浮いていた。うまく骨を断ち切れない。懸念が現実になったとき、賊の首半ばで剣が引っかかった。柄から手が離れる。
紫蘭が武器を失ったのを見て、賊たちは息を吹き返した。
「押し包め!」
男たちが馬を寄せてきた。
月花は素早く反応し、馬と馬の間をすり抜けた。だが、紫蘭の右半身が浮いていた。伸びた手が彼女を地面に叩き落とした。
「捕まえたぜ」
毛深い腕が紫蘭をつかんだ。膝頭を男の顔面に叩き込み、緩んだ手から逃れた。
「そこまでだ、女」
起きあがる前に、槍の石突きが腹に沈んだ。呼吸が止まる。鼻を曲げられた男が、彼女を平手で打ち据えた。口内に血が滲んだ。
紫蘭は唾を吐きかけた。男の視力を奪う。頭突きで顎を砕いてやった。懐から抜いた短刀で、首を突いた。
「この野郎!」
馬上から飛びかかってきた別の男に、組み伏せられた。短刀が落ちる。
背中の重みで、肺の空気が締め出された。頭が朦朧となる。何も考えられなくなり、咄嗟に肘を繰り出した。不具の右腕は空を切った。
「捕まえたぜ」
耳元の声がおぞましい。臭い息、男の臭いがまとわりつく。身体をよじって逃れようとしたが、すぐに手を捻られた。
「暴れるんじゃねえ」
別の手が両脚をつかんだ。何かが足首を締め上げた。
「やめろ」
頭の中が揺り戻された。苦いものが湧いてくる。
「黙れ」
首の後ろを押しつけられた。土と草が頬を汚した。
「いやだ。やめて」
戦の記憶が甦る。
両手両脚を縛られた。なおも抵抗する紫蘭の肩が地面に叩きつけられた。
大人しくしろ。
兵士が剣の切っ先を腕に押し当てた。金属が肉に沈み込み、骨と骨が切り離された。
痛みは耐えられた。流れ出る血にも平静だった。死ぬ覚悟はできていた。
見せしめだ。
兵士の言葉に、紫蘭は怒りを覚えた。何故、殺さない。いつでも殺せると言いたいのか。
女、だからな。
いやらしい声音に、怖気を震った。敗者を叩き潰すには、有効な手段がある。思いつく限りの屈辱を与えることだ。女の兵士が相手なら、どの国も同じことを考える。
抵抗はできなかった。出血が意識を薄れさせていた。すでに舌を噛み切る力もなかった。
恐怖が消えない。殺されないからこそ、恐怖を感じた。
助けを、求めた。
兵士たちは笑った。
紫蘭も自分の愚かさに気づいた。
誰も来るはずがない。自軍を逃がすために、囮となったのだ。助けが来ては、彼女は無駄な行いをしたことになる。
醜い男たちの手が、彼女を我先にと縛り上げた。
血の味に土が混じった。
今ならまだ、舌を噛み切ることができる。自ら命を絶つことは可能だった。
賊の半数ほどは討ち取っていた。だが、彼女がいなくなれば、残った賊が村に危害を与えに行くと予想できた。老夫婦や村人の命が危険に晒される。
駄目だ。
彼女は兵士であり、騎兵だ。戦を生業とする者である。最後まで諦めてはならない。自分が戦い続ければ、他の誰かは生き残ることができる。一人でも多くの命を奪うことが、騎兵である己に刻み込まれた定めだ。
固執だ。
老人の言葉が不意に浮かんだ。
紫蘭は以前のように馬を駆れていない。片腕で、敵を倒しきれてもいない。それでも、騎兵でありたかった。剣を振るい、命を奪いたかった。
強い欲望が、彼女の内奥で渦巻いていた。俘虜として囚われていた時に芽生えた憎しみが消えない。汚らわしい男への憎悪が燃え続けていた。
騎兵として村人を守り、騎兵として敵を殺す。戦い続けることを彼女は選んだ。戦場に赴く騎兵の道以外は見えない。
紫蘭は拳を握った。耐えろと自分に言い聞かせた。生き延びることだけを考える。生きていれば、また殺す機会が巡ってくるはずだ。
身体の下に、蹄の音を感じた。それが近くなり、ふっと背中の重みが消え失せた。
「月花」
馬の蹄にかかった男が、地面をのたうち回っていた。
紫蘭は短刀をたぐり寄せ、足首の縄を切った。
「死ね」
男の胸に短刀を埋めた。肋骨の隙間を貫いていた。
引き抜いて、右の肩に突き入れる。両手をそえてねじり、関節を砕いた。
断ち切るまではいかない。紫蘭の力ではそこまでが限界だった。馬に乗らないと、勢いを借りて腕を奪うことができない。
股間を刺し、太股を裂いた。溢れた血が彼女に注ぎ込まれる。暗い喜びを感じた。喜悦が浮かんだ。
「死んでしまえ」
鼻を削いで、眼球を抉った。男は痙攣し、息絶えた。紫蘭は吐息を洩らした。
月花が蹄を鳴らした。賊たちを威嚇する。
「ひ、引くぞ」
誰かが言い、男たちは逃走した。
逃げる馬から、何人かの賊が滑り落ちた。首が異様な角度に曲がっていた。中には血を噴き出させた死体もあった。
「葉俊?」
目を凝らすと、藍染めの衣を纏った男が見えた。逃げようとした賊の息の根を止めたのは、彼の技だった。
「賊を追う」
月花に乗ろうとした紫蘭を葉俊が遮った。
「月花が嫌がっています」
葉俊は月花の主だ。すり寄ってくる月花の鼻面を撫でた。
「走る」
「追いつけませんよ」
葉俊は、紫蘭の短刀を押さえつけた。
「邪魔をするな」
押し通ろうとする彼女から、短刀をむしり取った。
「返せ」
「お断りします」
「お前も殺されたいのか!」
血に濡れた手が葉俊の喉をつかんだ。藍染めの衣が血に濡れる。彼は首の筋肉を張り、紫蘭の圧迫を打ち消した。
「弱くなりましたね」
「なんだと」
紫蘭の握力は、以前と比べものにならないくらい脆弱だった。賊徒との戦闘で疲労が蓄積していたことを差し引いてもだ。
葉俊が簡単に短刀を奪えたことにも納得がいった。賊を倒せても、彼にかすり傷を負わすことさえ難しいだろう。
「追いかけても、返り討ちに合うだけです。あなたのやりたいことが、できなくなってしまいますよ」
「やりたいことだと? 賊を討つことではないか」
逃げる賊徒を皆殺しにする。一人でも逃がせば、村に危険が及びかねない。
「賊、ではなく、男を殺したいだけでしょう」
「何の話をしている」
紫蘭の声がかすれた。爪を立て、葉俊の皮膚に食い込ませた。真実を突かれたこと対する反応だった。
「やはり、そうですか」
葉俊は紫蘭の欲望に気づいていた。彼女が敵兵に陵辱される場面に出くわしたときから、危惧を抱いていたが、その通りになった。
「どけ」
紫蘭は葉俊の首から手を放した。いくら指先に力を込めても、顔色を変えない彼に、自分の無力さを知る。真っ向からぶつかることは諦めて、横をすり抜けようとした。葉俊が行く手を塞ぐ。
「どうしても邪魔をするつもりか。殺されたいらしいな」
「殺しますか」
葉俊は短刀を差し出した。
「私も男ですから、殺したいのでしょう」
「……できるわけがない」
醜い男たちから、彼女を救ってくれたのは葉俊だった。男であるが、仲間でもある。その彼を傷つけることなど、できはしない。
刃を向けないことがわかっていて、葉俊は殺せと言ったのだ。小狡いやり方に、紫蘭は苛立ちを感じた。
「逃げてしまったではないか」
賊徒の足音は遠く離れていた。今からでは、月花を駆っても見つけるのは困難だ。
「彼らはいずれ捕まります」
葉俊の部下が賊たちを追っていた。住処がわかり次第、守備隊に通告する手筈だと教えた。
「ならば、よい」
紫蘭は短刀を受け取り、血を拭った。
「男は、戦で殺す」
騎兵として、戦に臨めば、兵士を殺すことができる。辺境の賊を倒すより、多くの命を奪うことが可能だ。
「戦を利用しないでください」
「利用して何が悪い」
「私欲で戦場に出られては、冷静な判断ができません。引退をお勧めします」
「お前のように、行く当てはない。私は騎兵であらねばならないのだ」
「固執ですね」
「黙れ」
聞きたくない言葉だった。自分の生き方は自分で決める。他人に指図される謂われはない。
「殺したいなら、一人でやってください。騎兵ではなく、ただの殺人者として。もちろん、無法者を野放しにすることは、できませんが」
葉俊の手が紫蘭の首に触れた。
紫蘭は死の匂いを嗅いだ。
葉俊は無手の技に長けていると聞いたことがある。逃げる賊を一瞬で倒したのが、その技だろう。三騎兵として常に馬上にあったため、目にした機会はなかったが、皮膚を通した殺気が、彼女の血を冷やした。
紫蘭が黙ったのを見て、葉俊の手がそっと離れた。
「……むごいな、お前は」
葉俊には、否定して欲しくなかった。せめて、見逃して欲しかった。
所詮、葉俊は男なのだ。女の気持ちなど理解しようとしない。憎しみの炎を抱いたまま、生かされてしまった人間の気持ちがわからないのだ。
「あなたに、騎兵の資格はないようです。兵士ですらない」
「お前に剥奪の権利があるのか」
葉俊に感じたのは、怒りよりも悲しみだった。そして、苦しい。
「権利はありません。ですから、頼みます。騎兵であることをやめてください」
「私からそれを奪うのか。死ねと言うのか」
「違います。生きて欲しいのです」
葉俊は紫蘭の手を握った。
「私の妻として、生きてくれませんか」
紫蘭の理解が及ぶまで、しばらく時を必要とした。
月花が苛立たしげに、蹄をかいた。
「賊は散った」
紫蘭は村人たちに告げ、老人の家に戻った。月花が嫌々従っていた。
「無理をしおる」
頬を腫らした紫蘭を迎え、老婆が濡れた布で顔を拭った。紫蘭はされるがままだった。
「こんなになって。痕が残ったら大変ですよ」
「構わないさ」
腕に比べたら、顔の傷はたいしたものではない。
「戦いなんて、男に任せておけばよいのですよ」
老婆は目尻を濡らしていた。女が馬にまたがり、剣を振るうことには反対のようだ。
「そうなのでしょうか」
心の迷いが言葉の角を削っていた。
騎兵として生きるより、女としてあるほうがまともなのだろうか。憎しみを抱えたまま、吐き出す場所もなく、堪え忍んで生きていくのが、真っ当な人間の生き方なのだろうか。男を殺そうと考える自分は、頭がおかしいのか。狂っているのか。
紫蘭は自分自身がどうあるべきか、どうすべきか、わからなかった。
「何かあったのか?」
「他にも痛むところがあるのかい?」
老夫婦の優しい声を聞きながら、紫蘭は目を閉じた。疲労が押し寄せてきた。
「寝てしまったのかな」
「疲れているのですよ。横にしてあげましょう」
紫蘭は眠った。眠りながら考えた。
葉俊は、何故あんなことを言ったのだろう。
仲間として歩んできた時間は、たった数年だ。その間、彼を異性と考えたことはない。戦う仲間というだけで、好悪もなかった。
返事は、いつでも良いと言った。だが、答えが見つからない。
申し出を断れば、葉俊は紫蘭の行く手を塞ごうとするだろう。殺そうとするかもしれない。
応じれば、騎兵をやめなければならなくなる。女としての生き方を受け入れ、男に対する憎しみを押し殺して生きることになる。そして、妻になり、彼に抱かれるのだ。
頭が冴えたまま、身体だけが眠りに落ちていった。
紫蘭は老夫婦に別れを告げた。月花を歩かせ、帰路に就いた。
「葉俊」
「はい」
草原の先に彼はいた。月花が嬉しそうに鼻面を押しつけた。
「決めたぞ」
紫蘭は葉俊に飛びかかった。葉俊は身体を丸めて受け身を取り、彼女の身体を受け止めた。
「お前の妻になってもよい」
「本当ですか?」
葉俊は疑わしげだった。彼自身、こんなにも早い返事を想定していなかったのだ。
紫蘭は短刀を首に当てた。
「ただし、お前も、私も死ぬんだ」
刃が皮膚に触れた。
死ぬことで、思い悩む必要がなくなる。憎しみも霧散し、苦しみから逃れられる。
「嘘、ですね」
「嘘だ」
殺気がなかったのだ。葉俊には手に取るようにわかる。
紫蘭は短刀を放り、寝転がった。草と土が夜露に濡れていた。
「戦いは、やめていただけるのですね」
「それはできない。私は騎兵であり続ける」
葉俊の表情が沈んだ。肘を立てて、紫蘭に覆い被さった。草の露が彼女の頬を伝い、首筋に流れる。葉俊の指が雫の行き先を止める。指の腹には、太い血管がある。
「かつての私に戻ればよいのだろう。男を殺すことに固執せず」
それが紫蘭の出した結論だった。
「できますか」
「わからない。だから頼む」
紫蘭は葉俊の指に触れた。
自分が弱い人間だということは受け入れられた。だから何かに固執しないと生きていけない。心の中にある炎も鎮められない。
「お前なら、私がどうあるべきなのか、知っている気がする」
一人では無理だった。誰かを頼り、力を借りる必要があった。頼れる相手は葉俊しかいなかった。
「そういうことなら、お任せください。誤った道へ踏み込むようなら、引き戻します」
葉俊は、紫蘭を見てきた。暗部から騎兵となったのは、彼女と出会ったからだ。近くにいたいがために三騎兵にもなった。だが、いつでもというわけにはいかず、彼が不在のときに不幸は訪れた。そして、彼は彼女を支えるために、再び暗部へ帰任したのだ。裏からも表からも、彼女の有り様は知っていた。
「どうした?」
葉俊がじっと見つめていた。
「妻と呼んでもよろしいですか」
うやむやになっている気がしたのだろう。葉俊ははっきりさせたかった。
「あれは、私を止める方便だろう?」
「違います」
「何故だ」
「理由が必要ですか」
紫蘭は口をつぐんだ。理由を並べ立てられても、納得はしない。
「わかった。今日から我々は夫婦だ」
「あっさりと受け入れるものですね」
葉俊は苦笑いを浮かべた。
「形だけだ。好いている、愛しているという感情はない。だから、抱かれたくもない」
それは無理だろうと、葉俊にもわかっていた。肌を合わせようとしたら、まず命のやりとりが始まる。
「形式だけでも結構です。今は」
憎むことができるのならば、愛すこともできる。二人が離れずにいれば、いずれどうにかなる。
「この地にいたことも何かの縁です。私の祖父母があの村に住んでいるのです。ちょうど良いですから、顔を出しましょう」
着替えのために姿を消した葉俊を待つ間、紫蘭は不思議な気持ちだった。
「まさかな」
戻った葉俊と、村から出てきた道をまったく同じように歩いた。
軒先で驚いた顔をする老夫婦に、葉俊は手を振った。