アステカの死の笛
尊敬する佐伯涼先輩がいなくなったのは、三年前のことだ。
「正確には、失踪ということになるのかな」
久世教授はそう言って、防音扉の横にある操作盤へ手を置いた。
「大学には退職届が出ている。ただ、その後は誰も彼と連絡を取れていない。実家にも帰っていないそうだ」
「警察には届け出たんですか?」
「一応はね。成人した男が、自分の意思で姿を消した。それ以上のことは分からなかったらしいが」
教授はそこで話を切り、分厚い灰色の扉を見た。
「優秀な研究者だった。君も知っているだろう」
「はい、もちろんです」
むしろ、俺がこの研究室に残った理由の半分は佐伯先輩だった。
大学時代、右も左も分からなかった俺に、録音機材の扱いから論文の書き方まで教えてくれた人だ。二つしか年齢は違わなかったが、俺にとっては研究者というものの完成形に近かった。
だからこそ、三年経った今でも、突然いなくなったという話をうまく飲み込めずにいる。
「では始めようか」
久世教授が操作盤の鍵を回した。
今日から俺は、三年前に中断された研究を引き継ぐ。
俗にいう――死の笛。
中南米の遺跡から発見された、頭蓋骨を模した笛を参考に、久世研究室では十年以上前から復元研究を続けていた。
息を吹き込むと、甲高い笛の音ではなく、ざらついた風のような音が鳴る。条件によっては人間の悲鳴にも似て聞こえることから物騒な呼び名で知られているが、実際にどのような目的で使われていたのかは、はっきりしていない。
久世教授が研究しているのは、歴史的な用途ではなく、その音響構造だった。
「単体では、ただの複雑なノイズだ」
教授はよくそう言う。
「だが複数を同時に鳴らすと、互いの倍音が干渉する。条件次第では、人間の発声に近い周波数構造が自然に形成される可能性がある」
それを証明できれば、この笛が最初から人間の声を模倣するために設計された可能性を提示できる。
教授は長年、その証拠を探していた。
そして三年前。
当時、佐伯先輩も参加していた実験で、初めて明確な「人声様成分」が記録された。
その実験の直後、佐伯先輩はいなくなった。
*
研究室の奥にある大型音響隔離槽は、一般的な録音用防音室とは少し違う。
人間が中で演奏するための施設ではなく、機械や音源を設置したあと、無人状態で長時間、音を測定するための設備だ。
扉は厚さ二十センチほどあり、閉鎖するとモーターによって枠へ圧着される。
今回の実験では、内部に十二個の復元笛を円形に並べ、それぞれに送風管を接続する。コンピューターで空気圧を変化させながら二十四時間連続で吹鳴し、四本のマイクで記録する。
当然、人間が一日中笛を吹くわけではない。
実験が始まれば、誰も中へ入らない。
「これ、中からも開くんですね」
設備確認中、扉の内側に赤い非常レバーを見つけて俺は言った。
教授の視線が、ほんの一瞬だけ止まった。
「ああ。今はね」
「今は?」
「昔はなかったんだが、3年ほど前に安全基準が変わって増設されたんだ。その改修で吸音層も厚くなって、以前より少し狭くなったが、実験には支障はない」
それだけ答えると、教授は送風装置の確認へ戻った。
外側の操作盤には、大きな緑色のOPENボタンがある。
押せばモーターが圧着を解除し、扉が開く。
今日も安全確認のために何度か開閉を試したが、問題なく動いた。
*
一週間、実験を繰り返した。
だが、何も結果は出なかった。
笛の角度を変え、風圧を変え、配置を変えた。それでも三年前のデータに記録されたような人声様成分は、一度も現れない。
「条件が違うんでしょうか」
「理論上は同じだ。ここからは粘り強くやるしかない」
教授は落ち着いた様子で次の実験の準備を始めていた。
三年前の実験記録は残っている。
使用した笛の個体番号も気圧、湿度、送風機にマイクの型番等可能な限り、すべて再現している。それなのに結果が出ない。
俺は改めて、三年前のデータを開いた。音声ファイルは全部で四つ。
MIC1
MIC2
MIC3
そしてMIC4
ただし、四つ目だけファイル名の末尾に、《解析不要》と書かれていた。
「先生。このMIC4って何ですか?確か論文に載っているのは三番までですよね?こんなデータ初めて見ました。」
教授はパソコンから目を上げなかった。
「ああ、それは補助用のマイクだよ。」
「聞いてみてもいいですか?」
「必要ない」
即答だった。
「君もこっちを手伝いなさい。そのファイルはノイズが多い。佐伯が配置を間違えたんだろう。論文に使ったのは一から三までだ」
「分かりました」
そのときは、それ以上気にしなかった。
三年前の実験データは、確かにMIK3までで十分驚くべき音が入っている。
実験開始から十七分ほど経った頃、死の笛が作る粗いノイズの底から人間の声に似た周波数構造が現れる。
初めは不明瞭だが、時間が経つにつれて強くなり、開始から一時間二十三分後に最大値を記録する。その後は少しずつ弱まり、三時間を過ぎる頃にはほとんど消える。
俺には、ときどき男が叫んでいるように聞こえた。
だが、それこそがこの研究の目的だった。
意味のない音を人間の脳が「声」と認識してしまうのか?それとも実際に、人間の声と共通する音響構造が形成されているのか?
客観的な評価が必要だった。
そこで俺は、研究内容を知らない学生十二人に音源を聞かせた。
翌日、回答用紙を見て、手が止まった。
『男の声?が聞こえる?』
『遠くで誰かが叫んでいる』
『助けて、に聞こえる』
偶然だろうか?
いや・・・少なくとも三種類のマイクに録音された音の中に明確な言語情報はない。人間はランダムな刺激にも意味を見いだす。壁の染みを顔だと思うのと同じだ。
「面白い結果ですね」
俺が報告すると、教授は回答用紙を一枚ずつ確認した。
「おそらく先入観だろう」
「一応、死の笛という名前は伏せていますが」
「水城君」
教授が初めて強い口調で遮った。
「我々が研究しているのは言語ではない。古代の楽器から生まれる音だ。実験に余計な意味を持たせるな」
教授は回答用紙を机へ置いた。
「彼も、そういうところがあった」
「佐伯先輩、ですか?」
「優秀だったが、考えすぎる男だったよ」
*
その日の夜、教授が帰ったあと、俺は一人で三年前の記録を見直していた。
現在の実験と三年前の実験の条件は、ほぼすべて同じだ。なのに、人声様成分だけが再現できない。
どうしても腑に落ちなかった。
違いがあるとすれば、何かが記録から抜けている。
俺は古い実験フォルダを一つずつ開いた。佐伯先輩は几帳面な人だったから実験時の写真も大量に残っている。
一枚の写真で手が止まった。・・・現在と大型音響隔離槽の形が違う。
”扉の内側に非常レバーがない”
教授が言っていた通りだった。ただ、それだけではなかった。今の隔離槽より、奥行きがある。それは写真に写る床のタイルを数えれば分かる。
三年前の方が、明らかに広い。
その時”吸音層を厚くした”という教授の説明を思い出す。次に設備図面を開くとMIC1、MIC2、MIC3は、笛の周囲に設置されている。
MIC4だけが離れていた。
場所は――扉の横
俺はしばらく画面を見つめたあと、MIC4のファイルを開いた。そして再生ボタンにカーソルを乗せる。
クリック音が室内に響くと十二本の死の笛が、一斉に叫び声を上げた。
現在の実験で何度も聞いている、耳障りな音。
十七分すぎても何も起こらなかったが十八分を過ぎた頃小さな金属音がした。
ガンっと何かを叩く音。
その直後にノイズの奥に、声が混じった。
『……ぁ……』
俺はヘッドホンを外しかけて、止まった。
少し戻し再生する。
『……ぁけ……』
いつものようにフィルターをかけて笛の主要周波数帯を削ると何も聞こえなくなった。
「空、耳……?」
呟いた瞬間、ふと思い出した。
佐伯先輩に教わったノイズリダクションと音量補正の帯域ごと増幅する音響補正の方法。焦る気持ちを抑えながら試してみるとその音が浮かび上がる。
『……あけて……』
背中に冷たいものが走った。
さらに処理を続ける。
『開けてください!』
知っている声だった。聞き間違えるはずがない。三年前まで、毎日のように聞いていた。
その声が、笛の向こう側から叫んでいた。
『開けてください!』
思わず椅子から立ち上がった。
再生は続く。
『扉が閉まりました!』
『誰かいませんか!』
『聞こえてたら開けてください!』
その間も死の笛は鳴り続けている。まるで先輩の叫びを覆い隠すかのように・・・
ガン
ガン
ガン
佐伯先輩が扉を叩いている。
呼吸が荒くなる。
おそらく先輩が何かの確認で中へ入り、その最中にシステムが起動して扉が閉じた。
俺は三年前の制御記録を探した。
あった・・・
実験開始十六分四十二秒《SYSTEM REBOOT》
十六分四十八秒《DOOR LOCK》
十七分三秒《AUTO BLOW START》
その後、扉の故障記録はない。
OPENボタンの異常記録もない。外からなら開けられた。
では、なぜ?
*
「何をしている」
背後から声がして、心臓が跳ねた。
研究室の入口に、久世教授が立っていた。
「……先生」
教授の視線がモニターへ移る。
”MIC4”
その文字を見た瞬間、教授は顔をしかめた。
「それは解析するなと言ったはずだ」
「・・・この声、佐伯先輩ですよね」
教授は答えない。
「どれだけ実験しても結果が出ないはずだ・・・三年前の人声様成分は、死の笛が作った音じゃない」
沈黙
「先輩の声だ」
教授は眼鏡を外し、ゆっくり机へ置いた。
「三年前、何があったんですか」
「ただの、事故だ」
「じゃあ、どうして扉を開けなかったんですか」
教授の眉がわずかに動いた。
「誰が、私がその場にいたと言った?」
言葉に詰まった。・・・確かにそうだ。事故発生時、教授が研究室にいたという記録はまだ見つけていない。
「私はその時間、学部棟にはいなかったよ」
「……じゃあ」
「佐伯が勝手に一人で実験を始めた。それだけだ・・・そうでもなければ私は今頃捕まっているはずだろう?」
教授は静かに言った。
「君は少し疲れている。今日は帰りなさい」
一瞬だけ・・・本当に一瞬だけ、自分の考えすぎなのかもしれないと思った。
先輩は一人で実験を始め、事故で閉じ込められた。だから気づかれなかった・・・そういうことなのかもしれない。
俺はモニターの音声ファイルの波形へ視線を戻した。
開始から一時間二十三分。人声様成分が最も強くなった場所。何気なく、その少し前へ再生位置を移動した。
「水城君」
教授の声がした。
「もうやめなさい」
先輩の声は、すでにかなり弱くなっていた。
『誰か……いないんですか』
数十秒。
『くそ……一人で始めたのが失敗だったな……』
そう言って反応が消え、また数十秒・・・そのとき録音の奥で、小さな声がした。
『……あれ?』
佐伯先輩の声。
『誰か来たのか?』
数秒の沈黙。そして突然、声が大きくなった。
『先生!?』
教授の顔から表情が消えた。
『久世先生ですよね!?』
波形が跳ね上がる。人声様成分が記録上の最大値を迎える時間だ。
『よかった! 開けてください!』
ガン
ガン
ガン
『外の緑のボタンです!』
『先生!』
『外には聞こえてますよね!』
教授は何も言わない。
録音の中で、何かが床を擦った。まるで後ずさりをするような・・・
佐伯先輩の声が、一瞬止まった。
『・・・先生?あ、ありがとうございます!』
大型音響隔離槽の扉が開く音と共に俺はゆっくりヘッドホンを外した。
『・・・え?どうして?先生?・・・』
その瞬間、
俺の口からあの人声様成分が流れた。
間に合わなかった




