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第9話:苛立ち

 ミラは、苛立っていた。


 それは怒りではなく、失望でもない。


 ――思った通りに進まない、不快感。


 予定では、もっと簡単なはずだった。そう、ことは思い通り、簡単に進んでいたはずだった。


 人間の男一人を籠絡し、欲と恐怖と血で縛り、我が吸血族の眷属にする。あとは勝手に壊れていく人間社会を、闇の底から眺めればいい。家畜として、これほど都合のいい種族はいない。ただ生きるだけの獣とは違い、自ら考え、競い、堕落し、勝手に増えていく。贅沢を覚えた血は、熟れた果実よりも甘い。


「……まったく」


 学園の廊下を歩きながら、小さく舌打ちする。


 ミラは、かつてこの地で栄華を極めた吸血族の最後の一人だった。忌まわしい光の子らが全てを奪い、この地に国を建てるまでは、確かに我らは繁栄していたという。一部の穢れた混血どもが外界へ散るまでは。


 ミラは生き残った。神殿の奥深くに閉じ込められた母の血肉を喰らい、生まれてきた。記憶は伝達され、何が起こったのかを知った。屈辱を抱えながら、穢らわしい小動物の血を啜って生き延びてきた。この地を取り戻す機会を、200年以上も待ち続けて。


 そして――見つけたのだ。


 エドワード・バッハルト公子。光の子らの末裔。ただし、その地は限りなく薄く、面影は片鱗も残さず。驕り高ぶった人間の末裔が見てとれた。


 ――下等な人間だもの。落ちぶれるのも早いんだわ。


 エドワードをテディ、と相性で呼ぶのは、アタシだけ。ぬいぐるみのように柔らかく、脳にもワタが詰まっているような自分で考えることのできない愚かな人間。これが、この公国の長となるべくして生まれた男。短絡的で、感情と下半身でしか物事を測れず、責任から逃げる、驚くほど扱いやすい矮小な男。


 そうだ、放っておいても人間はこの男のように退化し、自分から滅亡を目指していく。馬鹿で醜く、身を守る術を持たない恐るるに足らないアタシの食料。


 身体という褒美を与えれば、簡単に理性を捨てた。

 血を与えれば、思考を放棄し、力に酔った。

 囁けば、「真実の愛」などと吐き、盲目的に信じ込んだ。


 ――何度、無防備に晒すその首筋に食らいつこうかと思ったことか。でも、まだダメ。この男が国の長になるまでは。


 アタシの力は、まだ弱く、長い間光の下で生きられない。夜な夜な、ひ弱な孤児や浮浪者を時々餌にして屈辱に打ちひしがれる。足りない。全然足りないのだ。もっと餌を育てて。もっと血を肥えさせなければ。


 まずは、光の血を絶やさなければならない。忌々しい剣聖の血筋。あれがあるから瘴気が薄まる。


 だからアタシは考えたのよ。


 エドワード(テディ)を操り、籠絡させる。彼が愚行を続ければ、不平不満が溜まり瘴気が濃くなる。光の力が弱まれば、闇が広がる。婚約破棄を公衆でさせることで、女共の嫉妬心を煽り、プライドを傷つければ。憎悪は闇の潤滑剤になり、貴族社会が混乱し、対立が生まれ、いずれは争いに発展し。戦争が起これば世界は荒れる。それこそアタシが望んだもの。


 恨みと屈辱と恐怖が血を呼び、瘴気がアタシを強くする。


 ――そうなるはずだった。


「……なのに」


 ミラの視線の先で、ナターリエは新たな婚約者を得て、澄ました顔で学園に通っている。帝国の第3皇子が常に背後に立ち、近づくことすらできない。魅了を試みれば弾かれ、視線すら向けられず、虫を見るように追い払われた。


 屈辱が、胸を焼いた。


 人間風情が。この私を無碍にした。


 囁きは混乱を生んだが、恐怖には至らない。暴動も、流血も起きていない。


 壊れているのは、エドワード(テディ)だけだった。光の血は薄れていくのに、闇の濃さは変わらない。


「どうして……」


 公衆の面前での婚約破棄。ありえない冤罪。十分に毒は撒いたはずだ。大公もすでに堕ち、国は機能を失いつつある。


 それでも。


 ――国は、まだ崩れていない。それどころか。


「おかしいわ」


 人間社会は、もっと脆いはずだった。操れたはずだった。遥か昔からそうだった。なのに、今回は壊れない。急激に距離を空け、憎しみが、嘆きが、怒りが薄れていく。光の力が強さを増していく。


 脳裏に浮かぶのは、あの二人。


 銀髪の皇子と、黒髪の女。


 帝国第三皇子、アーサー・サン・フランシス・クレメンテ。

 そして、その婚約者――()婚約者の女、オリヴィエ・キーヴァ。


 彼らは怯えなかった。怒りもしなかった。ただ静かに観察し、見切りをつけ、水面下で処理した。ただの人間のくせに、闇を弾き続けている。


「……不快。本当に不快だわ」


 血にも、欲にも、恐怖にも動かされない人間など、餌にもならない。いいえ、毒にしかならない。しかも、その背後には――強大な帝国。


 帝国は、恐ろしいと肌で感じる。冷酷に秩序で動く。なのに欲で動かない。魅了にも、恐怖にも、反応しない。魅了には理性で返し、恐怖には畏怖で返してくる。敵対するには、アタシはまだ弱い。


 まるで――捕食者。


 アタシと同等の立場なんて、ありえない。


 その事実が、ミラを苛立たせていた。


「なあ、ミラ」


 テディは室内を落ち着きなく歩き回っていた。魅了で弱らせ、アタシの血を飲みすっかり穢れた光の血族。その顔に浮かぶのは、不満と不安。猜疑心と警戒心。


「最近、周りの連中が冷たいんだ。俺、何も間違ってないよな?」


 愚かなテディは理解していない。すでに権力の流れから外されていることを。


 それが何を意味するのか、考えようともしない。


「俺は真実の愛を選んだんだ!賞賛されるはずなんだ!『素晴らしいよ』『正しいよ』って……なのに、聞こえないんだよ。俺を認める声が、どこにも」


 与えた毒はすでに全身を巡り、精神を壊していく。


 ミラは微笑んだ。


 いつものように、優しく真綿で包むように。


 いつものように、甘く毒を吐きつける。


 何度も、何度でも。繰り返す。


「もちろんよ、テディ。あなたは正しいわ。アタシの真実の愛なんだもの」


 ――()()は、もう役に立たない。


「……次を考えなくちゃ」


 呟きは、彼に向けられていない。


 もっと血を。もっと深い絶望を。


 ならば――あの女。オリヴィエ・キーヴァにしよう。帝国の皇子はあの女に執着している。いわば弱み。()()を手に入れれば、あの王子の歪んだ顔が目に浮かぶ。絶望と怒り。アタシが最も愛する感情。帝国から向けられる敵意に、恐怖する公国。生まれるのは、闇。


「ふふっ……見ものだわ」


 ミラは確信していた。


 人間は、すぐに滅びる。秩序も、信義も、契約も100年という時すら維持できない脆い精神。200年の間に、血は薄れ、代は流れ、法も秩序も変化した。何度も人間同士で殺し合い、国を造り、そして滅び、また知らぬ間に湧いて出てくる、アタシの大切な糧。


 最後に血を流すのは、いつだって人間同士だ。


「……焦る必要はないわ」


 200年生き延びた。あと数年など、誤差にすぎない。


 ミラは静かに笑った。


 自分がすでに“詰み”の盤上にいることにまだ気づかない男を、愛おしげに眺めながら。

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