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第8話:新たな関係

 私とナターリエ嬢の婚約の話が表に出てから、学園の空気は目に見えて変わった。


 視線が増え、噂が走り、誰もが言葉を選ぶようになる。もっとも、選んでいるつもりで選べていないのが人間というもの。特にどこぞの腰巾着どもが、悪意ある噂を流しているようだった。その矛先のほとんどはナターリエ嬢に向かっている。


 私は、いつもより少し早く授業を終え、人気の少ない旧棟へ足を向けていた。理由は単純だ。人に囲まれるのが、少しだけ億劫だった。今までそれだけオリヴィエが矢面に立っていたのか、実感させられた。オリヴィエとの関係はあまり変わり映えはないとはいえ。1人になる時間が増えた。オリヴィエは今何をしているのだろうか、とふと気が逸れた。


 廊下の奥、窓際の小部屋。


 そこに、ナターリエ嬢はいた。


 本を閉じ、窓の外を眺めている横顔は、学園で見る「侯爵令嬢」のそれではなく、ひとりの学生のものに近い。気配を察したのか、彼女は振り返り、わずかに目を見開いた。


「……アーサー殿下」


「やあ。突然、申し訳ないね」


 逃げられるかと思ったが、彼女はそうしなかった。ただ一瞬、考えるように視線を伏せ、それから静かに頷いた。


「いいえ。お待ちしておりました」


 部屋には椅子が二脚だけ。使われていない机は、後方へ積み重ねられていた。


 私は彼女の向かいに腰を下ろす。ギシリと椅子が小さな悲鳴を上げた。


 しばしの沈黙。


 不思議と気まずさはなかった。お互い、言うべきことがはっきりしているからだろう。


「改めて言うのも妙だけど……先日は、よく受け止めてくれた」


「あの場では、受け止める以外、選択肢がありませんでしたから」


 淡々とした返答。だが、その声に混じる疲労を、私は聞き逃さなかった。


「怒っているか?」


「いいえ」


 即答だった。


「……今は、それよりも――目前の事に忙しいので」


「うん、確かに」


 政治的判断としては正解だ。だが、正解であることと、本心であることは別だ。


「この婚約は、完全に政略だ。私に対する責任も、感情も、愛も、君に求めるつもりはないから安心して欲しい」


 自分でも驚くほど、事務的な声だった。


「ええ。ありがとうございます」


 ナターリエ嬢は、私を真っ直ぐに見た。


「わたくしも、同じ覚悟でおります。殿下に恋を求めることも、愛を強いることも致しません」


 少しだけ驚いた。ただ、それは失望ではなく、むしろ――安心に近い。同じ舞台の上に立っているということの確認が出来たことへの。


「ただし」


 彼女は続けた。私に向ける視線には、何の感情も乗っていない。ただ強い意志が読み取れた。


「以前も申し上げました通り、わたくしは殿下の隣に立つつもりです。飾りでも、盾でもありません。必要であれば、意見も述べますし、反対もいたします」


「ああ。もちろんそれでいい」


 むしろ、その方が助かる。


 沈黙が落ちる。


 窓から差し込む光が、彼女の髪を淡く照らしていた。その色を見て、ふと、思う。


「……心に、想う人がいるんだろう」


 探るつもりはなかった。ただ、その視線の先がどこか遠くを見ているようで、好奇心が湧いた。


 ナターリエ嬢は、少しだけ目を伏せ、微笑んだ。


「……ええ」


 それ以上は語らない。


 名前も、身分も、過去も。すべて伏せたまま。


「君は……真実の愛、というものを知っているかい?」


「……どうでしょうか。何を持って真実と呼ぶのか。愛していたとしても、それが真実かどうかなんて、誰がわかるというのでしょうか。わからないということは、知らないと同意なのかもしれません。真実と執着の違いもよくわかりませんから」


「そうか……私は、恋とか愛とか、よくわからない。求められたこともないし、求めたこともない。だから……その、君とは、共同経営者のようなものだと思っても、いいかな」


 ナターリエ嬢は、キョトンとした顔をして、私を見つめ、その後で微笑んだ。


「同意しますわ、殿下」


 そういった彼女の顔には、諦めの色と覚悟の色が混じり合って、少し寂しげにも、怒っているようにも見えた。二つ年下の少女に、馬鹿なことを聞いたような気がして、咳払いをする。


 犠牲にしてはいけない。これは対等な政略であり、国のために決めたことだ。

 

「この婚約は、君の人生を縛るためのものじゃない」


 私は立ち上がり、軽く肩をすくめる。


「国を建て直すための、共同作業だ。結果を出せば、後はそれぞれ自由になればいい。だから、周りが何を言おうと、君の対応は誇りを持っていいし、気丈にしていればいい。なんなら私を矢面に立たせても構わない」


 ナターリエ嬢は一瞬、驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。


「……殿下は、お強いのですね」


「私が?はは。私は、立場ばかりが大きい、甘ったれた平凡な男だよ」


 廊下へ出る前、私は一度だけ振り返った。


 彼女はもう本を開いていた。その背中は、決して弱くはない。


 ――これでいい。


 恋ではない。愛でもない。だが、対等な立場にある彼女には誠実であろう。そう心を決めて、その場を後にした。



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