第7話:帝国にて
帝都の朝は早い。皇城の執務室に差し込む光は、まだ白く冷たかった。
机の上に並べられた書簡の中で、一通だけが異様な存在感を放っている。バッハルト公国、ファーガソン侯爵家より届いた正式な返書。
皇帝はそれを手に取り、ゆっくりと封を切った。
「……ふふっ、そうきたか」
短く、低い声。条件は明確で、曖昧さがない。学園での学びの継続、政治への関与、そして対等な政略婚約としての立場の保証。
「十五か」
年齢を思い、ほんの一瞬だけ眉を寄せる。だが次の瞬間、その表情は消えた。
「この胆力。血筋ではなく、育てられた女だな」
皇帝は椅子に深く腰を掛け、思案する。
元々、バッハルト公国など目にもかけていなかった。育たなかった葡萄の粒のように小枝の端にぶら下がる役に立たない小国と思っていたからだ。鉱山があるわけでもなく、海もない。特産物も何もない、ないない尽くしの国だった。あるのは魔素が湧き出す原始の森だけだ。
だが、12年前。オリヴィエがその認識を改めた。
わずか5歳の少女が、バッハルトの歴史は危険視すべきだと皇帝に直談判に来たのである。その日はアーサーの誕生日で近隣国の年の近い令嬢を招待してのパーティだった。妻に面白い令嬢が来た、と言われ対面と同時にそう言われた。顔に合わぬサイズのメガネをかけ、分厚い歴史書を胸に抱えての登場だ。その歴史書は古代語で書かれており、まさか読めるのかと思って質問をしてみれば、スラスラと古語まで使って説明をされた。
帝王学で学ぶまでワシも知らなかった言葉を、5歳の娘が流暢に話す。面白い。すぐさま特使を呼び、エリン王国へアーサーの婚約者にと打診した。
そうしてやってきたオリヴィエと、周りの空気ばかりを気にする気性の穏やかなアーサーも、オリヴィエに釣られて歴史書や神話を貪るように読み明かすようになった。
そんな理由からバッハルトには一応監視を置いていたのだが、かの土地はいろいろ隠された歴史があったようだ。一般に知られているのは、そこが密林地帯で魔獣が湧いて出てくる穢れた場所であったこと、剣聖がその地の魔を払い、国が出来たことだ。
オリヴィエがいうには、実際には表に出せない歴史もあったようである。勇者が召喚された土地であり、魔族が住んでいた土地でもあったらしい。言うなれば負の歴史の始まりの場所であり、また、人間が繁栄する礎になった土地でもある。
そして最近の公国の堕落に注視したのがアーサーで、留学という名目で公国入りを促したのがオリヴィエだった。
かの森は未だに魔素を生み出しており、放置すれば大気のバランスが崩れ、負の感情を増幅し内乱が起き、瘴気がそれに反応して溢れる。瘴気に飲まれて、ダンジョンが復活する可能性もあり、そうなれば闇の一族が現れ、再び魔に呑まれる可能性がある。それをオリヴィエが危険視していた。取り込むには早すぎるが、見逃すには危険すぎる。
まるで神話のようだが、歴史を掘り返すと、事実問題として浮かび上がってきた。彼の地に潜んだ闇。剣聖率いる光の騎士に敗れた吸血族の生き残りがいるという可能性。魔獣の闊歩する密林地帯の暗黒期の時代の空白。時空の歪みの観測に、瘴気の発生地の観測。
それらがこの時代になって浮き彫りになってきた。
「……ふむ。アーサーの目に間違いはなかったか」
そう独りごちた時、部屋の扉がノックされた。
「入れ」
現れたのは、第二皇子シルヴァンだった。長身で、無駄のない体躯。軍装ではないが、立ち姿だけで武の気配を纏っている。無駄にワシに似てイカつい顔で損をしているせいか、23歳にもなって浮いた話の一つもない。母に似たのは、銀の髪色だけか。兄と弟は母に似て女好きのする顔だというのに、無体なことだ。とはいえ、本人は全く意に関していないから、嘆くほどのことでも無いが。
「呼ばれましたか、父上」
「来い。これを見ろ」
公国から来た書簡を差し出すと、シルヴァンは一読して口角をわずかに上げた。
「……面白い令嬢ですね」
「ほう?」
「受け身ではない。自分が“駒”であることを理解した上で、盤面に立つ女です。弱冠15歳でここまで肝の座った女性は、帝国でもそうそう見ませんね」
皇帝はふっと鼻で笑った。シルヴァンが女性を褒めるとは、世も末か。
「アーサーには過ぎた女だと思うか?」
シルヴァンは即答しなかった。
少しだけ視線を伏せ、そして真っ直ぐに返す。
「アーサーの婚約者として、ですか?オリヴィエはどう見ているのでしょうね。ああ、いえ。あの子のことだ。これも恐らくオリヴィエの発案でしょう。全くあの二人は成長がなくて困るな。まあ、奴らがそう決めたのなら大丈夫なのではないでしょうか。無理であれば、俺が出ましょう」
「ほう。お前がオリヴィエを娶るか」
皇帝はしばらく黙り込み、やがて決断を下す。
「条件は呑もう」
短く、だが重い言葉。
「帝国の名において正式に保障する。公国は生かし、この令嬢を“使い捨て”にはしない」
シルヴァンが目を細める。
「お前もそろそろ落ち着く日がきたか」
皇帝は視線を上げ、息子を見る。
「まあ、後はお前に任せる」
「……承知しました」
それ以上の説明はいらない。バッハルト公国に何かが起きている。そして、アーサーとオリヴィエが“留学”の範疇を越えて動いていることも。
「弟とオリヴィエの背中は、私が守ります」
その言葉に、皇帝は初めて小さく笑った。
「そうだな。それでいい。――兄弟とは、そういうものだ」
窓の外、帝都の空に陽が昇る。帝国はすでに、次の一手を打っていた。
それが小国の終焉になるのか、新たな秩序の始まりになるのか――まだ、誰にも分からない。
だが、運命の輪はすでに動き出していた。




