第6話:ナターリエの矜持
帝国からの正式な婚約打診。筆跡は整い、封蝋も厚く、帝国の威厳がそのまま伝わってくる。
私は深く息をつき、目前に座る愛する娘、ナターリエに視線を向けた。
生まれてすぐ、大公妃になることを強いられ苦労をかけてきた娘。泣き言ひとつ言わず、ボンクラのエドワードの尻拭いに奔走し続けていた。何度解消を願い、亡命しようと思ったことか。娘のこれまでの苦労を捨てるのかと妻に罵られ、息子にも逃げる前にすべきことがあるだろうと怒られた。
そして何より、ナターリエが言ったのだ。
「貴族として生まれたからには、責任を持ちます。それだけの力が私にはあるのですから」と。
私以上に貴族然とした娘。まだほんの15歳になったばかりだというのに。
だが、そんな苦労をいともあっさりと、あの男は切り捨ててきた。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで考えなしとは、建国の剣聖を祖とする大公家とはとても思えない。長い歴史の中でその血は絶え、どこかですり替えられたのに違いない。そう思いたくなるほどだった。
学園で起こった婚約破棄と冤罪は瞬く間に貴族間で広がり、緊急に主要貴族家の当主のみで会議が開かれた。誰もが大公家を切り捨てるということに同意した。だが、ただ切り捨てるだけでは、こんな小さな国はすぐに崩壊するのが目に見えている。時間をかけて政策を変えていく予定が3年近く早まってしまった。
そこへ届いたナターリエからの手紙。その後すぐに魔道通信で受け取った帝国からの打診。驚く間もなく、夜明けと同時に届いた手紙。
一体、どれだけ用意周到に動いていたのか。様子見をしながら、何もしなかった我が国の貴族がどれだけ日和っていたのか、今更ながらはじいる気持ちだ。
残念ながら、問題は国内だけに収まらなくなってしまった。実力主義の帝国の介入に、我が国の終わりを意識した。
「……帝国の第3皇子との婚約、か」
侯爵邸に急ぎ戻ってきた娘の声は冷静だった。だが父親である私には、眉のわずかな動きが見て取れた。
「実はエドワード殿下から婚約を破棄される前に、帝国から留学中のオリヴィエ・キーヴァ伯爵様からお話をいただいていたのです」
「魔道士団を率いる天才であり、第3皇子殿下の婚約者だという…あの才女か?」
「はい。エドワード殿下の入学からの態度を観察されて、あの方に国を任せるのは隣国でもある帝国として思わしくないと、決断されたようです」
「……そうか。留学というのは建前で偵察にいらしていたのだな」
「もしエドワード殿下があのような醜態を晒さなければ、何事もなく留学を終えていたとのことですが、わたくしの心配をしていただきました」
「……つまりキーヴァ伯爵も了承の上ということか」
書斎に静寂が落ちる。私は考え込むように指を組み、深く息をついた。あの才女を蹴ってまで我が娘に気を置いたのかと思いきや、彼女の方からの提案だったとは。
「ナターリエ、お前は受け入れるつもりか?」
「はい」
迷いなく、しかし柔らかく。覚悟を決めた娘の声だった。
「ただし、受け身ではありません。わたくし自身の立場を守り、対等な政略としての婚約であることを条件とします」
「対等な政略、とな?」
娘の確固とした表情に、驚きと興味が入り混じる。
「はい。わたくしの意思を尊重していただくこと、卒業までの学園での学びを続ける自由を確保すること、そして今後の政策にわたくしも関与できること――これが条件です」
私は椅子に深く腰掛け、しばらく黙って窓の外の庭を見つめた。娘の成長した姿に、誇りと悲しみが滲み出る。どれほど急いで大人にならねばならなかったのか。ああ、それとも15歳というのはすでに大人なのか。ぐっと眉間の皺を伸ばし、歯を食いしばる。娘が、覚悟を決めたのだ。私がウジウジしてどうする。国の存亡の危機なのだ。
そして、静かに口を開く。
「なるほど……父としては、もちろん慎重に考えねばならぬ。しかし、お前が自ら条件を示すとは……お前の成長ぶりは侮れぬな」
その言葉に、娘の顔にふわりと微笑みが浮かぶ。ああ、妻にそっくりだなどと気付き、わずかに温かいものが広がる。
「ねえ、お父様」
言葉尻を変えて、娘が、娘らしく父親に語りかける。
「わたくしね。本当はあのお二人の間に入り込むことを嫌だと思ったの」
憂いを含んだ瞳が私を見つめる。
「愛し合うお二人を割かなければならないほどの状況を、よりによってこのわたくしが作り出してしまった事を、本当にとても悔いているの。……だからね」
ああ。子供だと思っていた娘は、どこかで恋をしたのか。瞳の奥に、好いた相手と共になれない想いを秘めているのだと気がついた。だが、それに対して言及はしない。娘の決意を鈍らせてはいけない。
「だから、何としてでもこの国を立て直さなければならないと思ったわ。あのお二方の犠牲を、無駄にはできないもの」
そう行って、ナターリエは美しい笑みを浮かべた。
私は認めなければならぬな――犠牲となる婚約ではなく、政略としての力を持った婚約として、娘を大公妃にさせることを。
「分かった、お前の条件と共に帝国に手紙を認めよう」
私は微かに微笑む。
「ナターリエ、お前の言う通り、対等な政略婚約として進めるよう、我が国の貴族たちにも周知させるぞ」
――父としての娘への願いを捨てたとしても、国と娘自身の意志は、守られる。
夕陽が書斎の机を赤く染め、娘の決意を照らす。
これから始まる政略の舞台は、ナターリエ自身の手で歩む覚悟の場所となるだろう。




