7話 再び
新しい朝が、静かに、しかし確かに訪れた。
空は淡く色づき、川のせせらぎが耳に優しく響く。木々の間から差し込む陽の光が、濡れた葉を煌めかせ、風が草の香りを運んでくる。
(……こんな朝を、前は知らなかったな)
かつてのオレは、夜になると不安や焦燥に押し潰されていた。嫌なことばかりが頭をよぎって眠れず、朝が来れば重たい体を引きずって、行きたくもない会社へ向かう日々。
息をするだけで疲れていた。生きている実感なんて、どこにもなかった⋯⋯⋯。
でも、今は違う。
異世界に来て、生きていると感じる。朝を迎えるのが少し楽しみになった。
異世界に来て、本当に良かった。
そう、心の底から思える。
食事は相変わらず質素だ。いつもの携帯食を噛みしめながらテントをたたみ、【エバキュエーションキット(使いかけ)】をアイテムボックスにしまう。
ふと川原に目をやると、見慣れない紫色の小石がいくつか落ちていることに気がついた。
拾い上げ、メニューを開く。
【小魔石】
魔物のドロップアイテム
(魔石?……ジャイアントバットをかなり倒したけど、それでも100個近くか)
ジャイアントバットとの戦いを思い出す。小魔石99個をアイテムボックスに、残りの数個はポケットへ入れる。
(何かに使えると良いな)
オレは携帯食を見ながら思う。いつもの食事だけでは味気ない。ふとした物足りなさに突き動かされ、オレは川原を離れて森へ足を踏み入れた。
湿った土の匂い、鳥のさえずり、虫の羽音。命の気配に満ちた原生の森の中、オレは慎重にキノコや草を拾い、メニューで確認していく。
【毒キノコ】食用不可
【小キノコ】食用可
(食用かどうかは教えてくれるのに、美味しいかどうかはわからないのか……)
判断ができない。フルーツでもないかと木の枝を見上げた、そのときだった。
──気配。
鋭く、重たい視線が背後から突き刺さる。
「グルルルルーーー」
低く唸る声に振り向くと、崖の上で、かつて死闘を繰り広げたジャイアントベアーがいた。
巨大な体。二メートルを優に超えるその巨体が、じっとこちらを睨んでいる。
まるで、獲物を見つけた捕食者のように。
「…やばい!」
反射的に後ずさりし、そのまま川原へ向かって駆け出す。木の枝が顔をかすめ、足元の草を踏みしめて全力で走る。
(どうする!? あいつにはファイアボールが効かなかったはずだ……)
前に戦ったとき、ファイアボールはあいつの爪で弾かれたように思うが、全ての魔法が効かないわけではないだろう。
サバイバルナイフを抜き、震える手でしっかりと握る。
(逃げられないなら……やるしかない!)
川原にたどり着くと同時に、新しく得た魔法を唱えた。
「ファイアウォール!」
オレはジャイアントベアーを足止めするため新しい魔法を放つ。
「ファイアウォール!」
ゴォッという音と共に、地面に沿って火の壁が立ち上がる。炎は激しくうねりながら、目の前を遮った。
「ファイアウォール! ファイアウォール!」
二度、三度と叫ぶが、現れる火の壁は一つだけ。
(やっぱり……同時に複数は出せないか!)
ジャイアントベアーが姿を現す。火の壁の前で立ち止まり、警戒するように唸り声を上げる。しかし、恐れる気配はない。
「グルルルル⋯⋯⋯⋯」
すぐに、火の壁の横幅が五メートル程度しかないと気づいたのか、ゆっくりと回り込み始めた。
(くっ……!)
「ファイアウォール消えろ!」
オレは火の壁を即座に解除し、間を置かずに唱える。
「ファイアウォール!」
再び、燃え上がる火の壁がジャイアントベアーの進路を塞ぐ。巨体は再び立ち止まり、唸り声を上げる。
「グルルルル⋯⋯⋯⋯⋯」
後ろを見ると、川の奥に滝壺があり、その向こうに洞窟が口を開けているのが見えた。
(あそこに逃げ込むしかない……!)
ジャイアントベアーが再び火の壁を迂回して近づいてくる。
「ファイアウォール消えろ!」
「ファイアウォール!」
ジャイアントベアーの前に火の壁を再展開。その隙に、オレは川を越えて滝の裏へと走り出す。霧のような水しぶきが顔にかかる。洞窟の中がどうなっているかわからないが、迷っている暇はない。
洞窟に飛び込むと、すぐに振り返って叫ぶ。
「ファイアウォール消えろ!」
「ファイアウォール!」
炎の壁が洞窟の入口を塞ぐ。ジャイアントベアーはその手前で立ち止まり、燃える壁の向こうからオレを睨んでいる。
胸が上下に激しく揺れ、汗が額から滴り落ちた。全身が緊張と恐怖にこわばっている。
でも、今は生きている。この世界で、確かに生きていると──そう思えた。
(これでジャイアントベアーは入ってこれない……!)
しばらくして、火の壁の向こうにジャイアントベアーの気配を感じる。
奴は炎を前に、低く唸りながら彷徨いている。
(……やはり、防御魔法の効果が切れるのを待っているのか?)
だが、オレには《オート・リカバー》のスキルがある。
この魔法が切れることはない。
しかし、オレの方こそ洞窟に閉じ込められている。
もし奥に出口がなければ、長期戦の末に餓死すらありえる。
(……確認しよう)
オレは【エバキュエーションキット】から懐中電灯を取り出し、洞窟の奥へと慎重に進んだ。
薄暗い洞窟の中を進むと、やがて広い空間へと出た。
以前、ジャイアントバットと戦った場所だ。
(もう、奴らの姿はない……)
天井を照らしても、動く影はない。討伐は完了しているようだ。
その先へ進むと、洞窟は次第に狭くなり、やがて完全な行き止まりに辿り着いた。
(……やはり閉じ込められている)
オレは拳を握りしめた。
(やるしかない!)
再び洞窟の入り口へ戻る。やはり奴はまだいた。
「ガルルルルーー!」
炎の向こうでジャイアントベアーが牙を剥いて唸っている。
オレは意を決し、近づいた。ファイアウォールを挟み、至近距離まで詰める。オレは手を上げて攻撃魔法を放つ。
「ファイアボール!」
オレの手のひらから炎の球が迸るように飛び出し、火の壁の上を越えて一直線に奴の右肩を打ち抜いた。
ジャイアントベアーが咆哮を上げながら後ずさる。
(効いてる……!)
それに、ファイアウォールは維持されたままだ。
(魔法の系統が違えば、同時に使えるのか……!)
オレはこの新しい発見に歓喜した!
(これで奴を倒す可能性が出てきた!)
オレはファイアウォールの前で手を上げて攻撃魔法を唱える。
「ファイアボール!」
最初の一発は不意をついて当たったが、今度はジャイアントベアーが警戒していた。
ファイアボールに反応し、鋭い爪で火球を叩き落とす。
オレはもう一度攻撃魔法を放つ。
「ファイアボール!」
ジャイアントベアーはこの火球を寸前で避ける。
(なんて奴だ……!)
どうやら、奴はファイアボールの軌道を読んで防御しているらしい。
オレは考える⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
(この場所はオレには不利だ⋯⋯⋯)
ジャイアントベアーはオレの攻撃魔法を防御できるし避けることも可能だ。オレは奴を追い詰める必要がある。ファイアボールは放った火球が消えるまで次弾が撃てない。
オレは奥へと退き、もう一度火の壁を解除した。
「ファイアウォール消えろ!」
火の壁が消え、再びオレとジャイアントベアーの間に何もなくなる。
巨体が唸りながら迫ってくる。
その一歩ごとに地面が震える。
オレは奥へと走り、振り向きざまに叫ぶ。
「ファイアボール!」
だが、走りながらでもジャイアントベアーはその爪で炎の玉を叩き落とす。
(マジかよ……!)
もう一発!
「ファイアボール!」
またしても落とされる。
オレは行き止まりまで走りきった。もう、逃げ場はない。
背後に迫る巨大な気配。
(ここで……やるしかない!)
「ファイアボール!」
火球を放つ。爪で防がれる。ジャイアントベアーは一定距離を保ち、こちらを睨む。
オレは覚悟を決めて、ジャイアントベアーに向かって走った。
ジャイアントベアーはオレの動きを見ている。
オレはジャイアントベアーの眼前まで詰め寄り、右にステップ。奴の脇を抜けようとした――
ガッ!
「ぐあっ!」
ジャイアントベアーの爪がオレを捉えた。
右肩に凄まじい衝撃と激痛。革の鎧が裂け、肩から血が噴き出す。
(痛い……でも、ここで止まったら終わりだ!)
オレは走り抜け、奴の背後へと回り込んだ。
すぐさま叫ぶ。
「ファイアウォール!」
火の壁がジャイアントベアーの進行を塞ぐ。
奴は後ずさり、洞窟の奥へ追いやられる。
「ファイアウォール消えろ!」
炎が消え、すぐにジャイアントベアーの前に再展開。
「ファイアウォール!」
火の壁が奴の逃げ道を完全に塞ぐ。
(よし……追い詰めた!)
今や、ジャイアントベアーの背後は行き止まり。左右にも逃げ場はない。至近距離からの魔法攻撃が出来る!
オレは手を上げ、叫ぶ。
「ファイアボール!」
オレが叫ぶとほぼ同時に火球が奴の胸に直撃。呻き声が響く。
「ファイアボール!」 「ファイアボール!」 「ファイアボール!」
何発も何発も、息を切らしながら放ち続ける。
洞窟内が炎と煙に包まれ、熱気が肌を焼く。
20発目のファイアボールを放ったとき――
ジャイアントベアーの巨体が淡く光り、霧のように崩れていった。
「……やった……倒した!」
オレはその場に膝をつき、しばらく動けなかった。
炎の壁が静かに揺らめく中、オレは確かに生き延びたのだった⋯⋯⋯⋯⋯。
(やったぞ!)
歓喜に打ち震える。
そして、オレは学んだ。
〈諦めずやれば、道は開ける〉
と言うことを。