31話 乗馬
オレが、城に隣接する広々とした馬場へ足を踏み入れると、夕日を浴びて白く輝く厩舎から、一頭の白馬を引いた姫様が姿を現した。金色の髪が風に揺れ、その瞳には迷いのない光が宿っている。
「カズーは、どの馬が良い?」
姫様は柔らかな声で問いかけてくる。
オレは少し戸惑いながら答えた。
「姫様、私は馬に乗れません……」
すると、姫様は一瞬困ったように眉を寄せたが、すぐに厩舎に控えていた年老いた馬丁に声をかけた。
「一番扱いやすい馬を出しなさい」
「はい」と答えた馬丁が引いてきたのは、大きな栗毛の老馬だった。その瞳は穏やかで、動きも落ち着いている。
「姫様、こいつは乗っているだけで、どこでも行ってくれますだ」
馬丁が微笑みながら言う。
姫様はオレの方を向き、毅然と言った。
「カズー、この馬に乗りなさい」
少しだけ乗馬に興味があったオレは、思いきってやってみることにした。馬丁の手助けを受けながら、慎重に鞍へと身を乗せる。革の鞍が軋む音がして、オレの心臓も同じように高鳴っていた。
「カズー、では行きましょう。移動しながら私が乗馬を教えて差し上げるわ」
そのとき、姫君付きの騎士、レオックが慌てて駆け寄ってきた。
「姫様、無茶です!初心者がいきなり姫様について行けるわけがありません!」
しかし姫様は凛とした声で返す。
「レオックは黙ってなさい。行くわよ。カズー、ついてきなさい」
とは言われても、どうやってついていけばいいのかわからない。オレは戸惑い、鞍の上で固まっていた。
レオックはさらに言葉を強める。
「姫様、わがままも大概になさってください!そんな振る舞いだから縁談が上手くいかなかったのです!」
その言葉に、姫様の顔が一瞬で紅潮する。
「レオック、貴方はついてこなくていいです!カズーと二人で行きます――!」
そう言い放つと、姫様は白馬に軽やかにまたがり、城門へと駆け出していった。風を切る白馬の蹄音が、馬場に響き渡る。
慌てたオレは馬丁に助けを求める。すると、馬丁は何も言わずオレの馬の尻を軽く叩いた。
次の瞬間、栗毛の馬は静かに動き出し、まるで姫様の白馬を見失わぬよう、軽やかにその後を追いかけていった。
城門に着くと、姫様はちゃんとオレを待ってくれていた。
「カズー、馬の腹を両足で軽く押すと前に進むわ。手綱は少し緩めて。左右に引けば方向を変えられるし、両手で引けば止まるの。簡単でしょ」
微笑みながら、姫様は手綱を軽く弾いて馬を前へと進める。その姿はまるで童話の中の騎士のように、気高く、美しかった。
オレは教えられた通りにやってみると、驚くほど馬は素直に動いてくれた。どうやら、馬丁の言った通り、とても賢くて従順な馬のようだ。
やがて、オレは馬の動きにも慣れてきた。馬の背は思っていたより高く、地面が遠い。普段の視界とは全く違い、広がる景色に心が開放されていくのがわかる。遠くの森、丘の稜線、そして空の広さまでもが、今はすぐそこにあるように感じられる。
馬の歩みに合わせて吹き抜ける風が、頬を撫でていく。その風には草の匂いと、遠くの川の冷たさが混じっていた。
オレの下で、馬もどこか楽しそうに歩いている。リズムを刻む蹄の音が心地よく、まるでオレと馬の鼓動が一つになっているかのようだった。これが「人馬一体」というものなのだろうか――そんな言葉が、自然と胸に浮かんだ。
◆ ◆ ◆
1時間以上、馬を走らせただろうか。
すでに城塞都市の尖塔は遠く、視界の彼方に消えていた。今、我々は森の手前にある小高い丘の上にいた。澄んだ空気の中、虫の声すらない静けさが辺りを包んでいる。
そんな中、姫様がゆっくりと馬を降りる。
「カズー、ここで昼食にしましょう」
手慣れた様子で姫様は折りたたみ式の椅子を取り出し、優雅に腰を下ろす。
……どうやら、昼食の準備はオレの役目のようだ。
苦笑いを浮かべつつ、折りたたみ式のテーブルを展開し、昼食の食材を並べていく。木のカップに赤ワインを注ぎ、姫様の前に差し出す。
「姫様、こちらでよろしいでしょうか?」
「えぇ、いいわ。では、食べましょう」
風が心地よい。しばしの静寂の中、パンと干し肉を口に運びながら、ふと姫様がつぶやく。
「レオックは……悪い人ではないのよ」
その声には、どこか寂しさが滲んでいた。
「この国では、婚姻の破談は好ましく思われないの……彼は、私のことをずっと見守ってくれているの。心配してくれているだけ……」
オレはただ、黙って頷くことしかできなかった。言葉が、見つからない。
沈黙が続いた後、姫様がこちらを見つめて尋ねる。
「カズーは、好きな人はいるの?」
唐突な問いに、動揺を隠せない。が、素直に答える。
「いえ、おりません」
すると姫様は、ほんの少しだけ落胆したような顔を見せた。
「そうなの……男爵の息子には、たくさんいたわ。もちろん、私が正妃だったけど、大勢の妾がいて……どうしてもそれが許せなかった。だから、破談にしたの……」
苦い記憶を語る姫様の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
オレは何も言えず、空を仰ぐ。さっきまで晴れていた空に、灰色の雲がじわじわと広がってきていた。風が止み、森の木々がざわめき始める。
と、その沈黙を打ち破るように、森の奥から低い唸り声が響いた。
「うオーー! うオーー!」
獣の咆哮とも、怒りの声ともつかぬ叫びが複数聞こえてくる。
振り返ると、木々の間から異形の影が現れた。
姫様とオレは咄嗟に後ずさる。
オレは姫様の前に立ち、敵の姿を確認する。
現れたのは、大きな体をした人形のような魔物たち。今まで見たことのない姿だった。
慌ててゲームシステムのメニューを開くと、敵の名前が表示される。
『トロール』
その名に、背筋が凍る。
くくりつけていた馬たちが、トロールの姿を見て怯え、「ヒヒヒーン……!」と甲高い声を上げる。数体のトロールが馬へと突進し、棍棒のような太い木の棒を振り上げる。
「くそっ……!」
オレは、まず目の前の脅威に集中し、魔法を発動する。
「ファイアボール!」
火球が先頭のトロールに命中。だが、奴は倒れない。
焦りを押し殺し、再度詠唱する。
「ファイアボール!」
今度は直撃で霧散した。どうやら防御力が高く、一発では倒れないようだ。
ならば――
「ファイアレイン!」
空から無数の火の粉が降り注ぎ、敵の群れを包む。
が、奴らはまるで意に介していない。
「キャーッ!」
姫様の悲鳴に振り返ると、馬たちが次々と倒れていく。棍棒で頭を叩き潰されていた。
(くそっ、間に合わない……!)
急いで防御魔法を展開。
「ファイアウォール!」
炎の壁が地面から立ち上がり、オレと姫様の前に立ちはだかる。だが、トロールたちは火をものともせず突っ込んでくる。火傷の痕を残しながら、感情も痛みも感じていないように。
オレは剣と盾を構え、応戦しながら再度魔法を放つ。
「ファイアボール!」
ようやく1体が霧散。しかし次のトロールがすぐさま襲いかかってくる。
「姫様! 早く逃げてください!」
叫んでも、姫様は腰を抜かして動けない。仕方ない――
オレは再度魔法を放つ。
「ファイアボール!」
そのとき、トロールの棍棒が振り下ろされた。木の盾で受けるが、重さに弾かれ、地面に叩きつけられる。
(まずい、このままでは……!)
――その時だった。
後方から、一筋の光がトロールの体を貫いた。
「ハアッ!!」
剣戟の音と共に、トロールが霧散する。
振り返ると、馬に乗ったレオックが剣を掲げていた。
「カズー、助太刀する!」
彼はそのままトロールの群れに突っ込み、次々と斬り倒していく。
その姿はまさに騎士の鑑だった。
オレも、負けじと魔法を連発する。
「ファイアボール!」
「ファイアボール!」
「ファイアボール!」
レオックの剣が敵を翻弄し、オレの魔法が確実に仕留めていく。
やがて、最後のトロールが地面に崩れ落ち、霧散する。
その瞬間、システムメッセージが表示される。
戦士ジョブ:レベル35
スキル:戦士 獲得
息を切らしながら、辺りを見渡す。
静寂が戻ってきていた。
だが、我々の馬は――トロールに撲殺されていた。
「姫様、こちらへ」
レオックが姫様を馬の背に乗せ、彼女を後ろに乗せて駆け出す。
オレは剣と盾をアイテムボックスにしまい、徒歩で城塞都市へと戻った。
師匠の家に戻り、今日の出来事を報告すると、疲労がどっと押し寄せ、倒れ込むように眠りについた。
翌朝、城からの使者が師匠の家に現れた。
「公爵様より、『城へ来るように』との仰せです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
(……やはり、昨日のことか)
姫様を魔物の脅威に晒してしまった。それがどんな理由であれ、許されることではない。
罰を受けるのかもしれない——そんな不安を抱えながら、急いで城へと向かった。
城門をくぐり、磨き抜かれた大理石の床を歩く。
重厚な扉の向こう、大広間に通されたオレは、目の前の光景に一瞬息を呑んだ。
前方には公爵が立っていた。その隣には、昨日命を救った姫様の姿。
彼女は淡く微笑み、まっすぐこちらを見つめている。
公爵が一歩、前に出る。
「カズー、良くぞわが娘を魔物から救ってくれた! 礼を言うぞ、ありがとう!」
……叱責ではない。
その言葉に、肩の力が一気に抜ける。
(良かった。怒られるのではなく、お礼だったか)
「いえ……姫様にお怪我がなかったことが、何よりです」
そう返すと、公爵はうなずき、次の言葉を紡いだ。
「今回のお主の働きに報いるため、子爵の地位を与える」
思わず、息を飲んだ。
(し、子爵……!?)
あまりに突然で、あまりに過大な褒美。言葉が出ない。
だが、公爵は落ち着いた口調で続けた。
「今回の報奨もさることながら——お主の使命は魔王の討伐であろう。
魔王国は、我ら王国にとっての脅威。ゆえに、お主の力を正当に認め、地位を授ける。
子爵となれば行動の自由も広がろう。儂の直轄地である島が近くにある。そこを、お主の領地とせよ」
そう言って、公爵は懐から銀色の身分証を取り出し、オレの手に握らせた。
冷たい金属の重みが、現実を突きつける。
貴族、それも子爵——もう平民ではない。
断れば、公爵の顔を潰す。否、王国の秩序を乱すことにもなりかねない。
だが、公爵の眼差しには打算や偽善の色はなかった。
ただ、娘を救ってくれた者への感謝と、未来への信頼があった。
公爵は公明正大で、娘を深く愛している。
この異世界で、生き抜くための力と地位を持つことは、決して悪くない。
(——受けよう)
そう、オレは心の中で静かに決断した。
そしてオレは学ぶ。
〈父親の娘への愛〉
と言うことを。




