2話 異世界へ
小鳥のさえずりが聞こえる。虫の鳴き声も混じっているが、うるさくはない。むしろ耳に心地良い音の重なりだ。
新緑の香りが風に乗って届く。今まで新緑に香りがあるなんて意識したこともなかったが、今ははっきりとわかる。これは、たしかに新緑の匂いだ。
柔らかな風が、オレのまわりを優しく包み込んでは通り過ぎていく。強すぎず、弱すぎず、どこか早春の風を思わせる優しい流れ。
(……オレは異世界に送られたのだろうか?)
神様に呼ばれて異世界に行くと決意した――だが、ここが本当に異世界かは、まだわからない。
目の前に広がるのは森。木々が立ち並び、植物が茂る様子は、オレのいた世界と大差ないように見える。
神様のもとからここまでの移動の記憶もない。気がつけば、いつの間にかこの場所にいた。
だが、なぜか心のどこかが、ここが異世界だと確信している。
胸の奥が開放感で満たされていく。間違いない、ここはオレのいた世界とは違う場所だ。
元の世界で感じていた柵や、嫌な記憶が、まるで異世界の空気に洗い流されていくようだ。
代わりに、ここの空気、光、匂いがオレの中に入り込み、オレを満たしていく。
こんな感覚は初めてだった。心の底から、リラックスできている。
空を見上げ、思いきり深呼吸をする。自然を、全身で感じる。
(オレは新たな人生を得たんだ! オレは自由だ! 何ものにも縛られない!)
(オレは、自分のために生きる。自分の時間を、自分の意志で使う! これからの行動は、すべてオレが決めていく!)
新たな決意を胸に刻む。心の奥底から湧き上がる意志の力を、頭の中心に据える――。
少し落ち着いたところで、自分の状況を確認することにした。
今まで気づかなかったが、服の上から何か装備をしている。
鎧、ブーツ、手袋、そしてヘルム。おそらく全部革製だ。そして腰には剣が一本、鞘に収まっている。
それ以外の持ち物はない。食べ物すらない。
(え、食べ物はどうすればいいんだ!? まさか魔物の肉とか食べるんじゃ……? いや、飢え死にとかシャレにならないって!)
とはいえ、今のところ空腹感はない。まずは装備の確認だ。
革の防具一式に、鉄の剣。剣を鞘から引き抜いてみると、それは両刃の新品だった。
剣なんて一度も使ったことはないが、試しに軽く素振りをしてみる。
そのとき、ふと気づいた。オレの身体は、元の世界のままだ。
若くてイケメンの男子でもなければ、人外の力を持っているわけでもない。元の世界のままのオレだった。
どうやら神様は、オレを「転生」させたのではなく、「転移」させたらしい――。
オレは装備を確認したあと、周囲の様子を探るために歩き出した。ここは森の中だが、普通に歩ける程度には道が開けている。まるで木々がまばらに立ち並ぶ公園のような場所だ。警戒しつつ、ゆっくりと前に進んでいく。
(そういえば、神様は「死んだら終わりだ」と言っていた。でも、それは以前の世界でも同じだった。結局、何も変わらないのかもしれない。)
しばらく歩くと、開けた場所に出た。そこに透明な丸い物体がゆっくりと動いている。大きさは1メートルほどか。おそらく“スライム”だ。オレの知識では、最弱のモンスターに分類される存在。
魔王を倒すのがオレの使命なら、その眷属である魔物たちはすべて敵ということになる。とはいえ、スライム相手なら余裕だろう。この異世界での戦闘に慣れるにはちょうどいい。
(神様はオレを“神様の下僕”って言ってたな。結構酷いことを言う神様だ)
オレが警戒しながら近づくと、スライムもこちらに気づいた。オレは剣を抜き、構える。するとスライムが変形し、尖った手のようなものを二本、ぬるりと伸ばしてきた。そのうち一本が、いきなりオレに向かって突き出される。
慌てて避けつつ後退したが、足がもつれて転倒してしまう。スライムは追い打ちをかけるように、もう一本の尖った手でオレに攻撃を仕掛けてきた。とっさに腕で受け止めたものの、革の手袋を貫通して鋭い痛みが走る。
(嘘だろ……? スライムが、こんなに強いなんて!)
オレはすぐに立ち上がり、剣を構え直す。スライムの横へ回り込む、どうやら移動速度は遅いようだ。オレは剣で側面を斬りつける――が、手応えはほとんどない。考えあぐねているうちに、スライムのもう一撃が肩を襲った。革の鎧越しに鋭い痛みが走る。
(痛い⋯⋯⋯)
耐えられない程ではないが痛い。鎧が無ければ貫かれていたのだろうか。スライムは粘体なのでこんな攻撃ができるとは思わなかった。身体の一部を硬質化できるようだ。オレは剣を構え直す。スライムの急所を探す。真ん中だろうか。オレは剣でスライムの中心に向かって突き刺した。だが、全く効いてないようだ。お返しとばかりスライムが攻撃してくる。
(駄目だ……勝てない!)
オレはすぐさま剣を鞘に収め、スライムから目を離さぬように後退しながら走り出した。
(異世界って、こんなにもハードな場所なのか……)
悔しさと恐怖を抱えながら、オレはただ走る。
――最弱と呼ばれるモンスター、スライムに敗北して。
オレは最弱モンスターから逃げながら、安全そうな場所を探していた。
……魔王を倒すはずのオレが、最弱の魔物から情けなくも逃げている。
神様は「力を得るには努力が必要だ」と言っていたけど、正直、死ぬかと思った。
スライムにやられた腕と肩がズキズキと痛む。革の防具なんて、スライムの攻撃すら防げないのか……。
あの時、《幸運》なんてスキルより、“最強クラスの防具”でもお願いしておけばよかった。
オレは神様にもらった“ゲームシステム”のことを思い出す。
「オレのよく知るゲームをベースにしてある」と言っていたが──。
そうだ、ロールプレイングゲーム。
(メニューを開いたり、ステータスやアイテムを確認したりしてたっけ……)
思い切って、大声で叫んでみる。
「メニュー!」
すると、目の前にお馴染みのゲームのようなメニュー画面が現れた。
まるでAR(拡張現実)のように、半透明の画面が空中に浮かんでいる。
(おお……これがゲームシステムか!)
オレは表示された画面を確認する。
名前:カズー
種族:ヒューマン
HP:70 / 100
MP:100 / 100
ジョブ:[戦士]
レベル:1
クラス:無し
ステータス:
・物理攻撃:10
・物理防御:10
・魔法攻撃:10
・魔法防御:10
・敏捷:10
・運:99
装備:
・武器:アイアンソード
・防具:頭/レザーヘルム
腕/レザーアーム
体/レザーアーマー
足/レザーブーツ
・アクセサリー:
首/無し
腕(2枠)/無し
指(10枠)/無し
スキル:
・《幸運》
・《エマージェンシー・リカバー》
アイテムボックス:
・【エバキュエーションキット】 ×99
・【ファーストエイドキット】 ×99
これがオレのステータスか。
やっぱりレベル1だけあって、全部最弱だ。運だけは幸運のおかげでカンストしている。とにかく、まずはこの傷を何とかしよう。
メニューの中の【ファーストエイドキット】に指を伸ばし、タップする。
すると、『使用しますか?』というポップアップが表示された。
『YES』を押すと、目の前に救急箱がふわりと現れる。
(おおお……これは便利だ!)
救急箱を開け、傷薬を取り出して傷口に塗る。かなり痛い。
さらに中から“痛み止めの薬”を取り出して飲むと、しばらくして痛みが引いていく。
アイテム欄の【ファーストエイドキット】の残りが『98』に減っている。
救急箱を閉じて持ち上げると、「救急箱(使いかけ)をアイテムボックスに入れますか?」というポップアップが表示された。
『YES』を選ぶと、“救急箱”は目の前から消え、メニューのアイテム欄に【救急箱(使いかけ】 ×1と表示される。
ゲームシステム……かなり便利だな、これ。
そしてオレは学ぶ。
〈環境が人を変える〉
と言うことを。