19話 狩猟
オレは、チャンと共に森へと狩猟に出た。
空はまだ深い藍色に染まり、日の出前の冷えた空気が肌を刺す。薄明かりの中、チャンは確かな足取りで草木をかき分け、迷いなく森の奥へと進んでいく。
その背中を追いながら、オレはぽつりと尋ねた。
「チャンさんは、いつからクルワン師匠と一緒にいるのでしょうか?」
チャンは歩を緩めず、低い声で答える。
「もう、10年以上だな……。良い人だから、お前も主人に感謝しろ!」
確かに、クルワン師匠は良い人だ。
オレのような、記憶もない流れ者を弟子として迎えてくれた。
おそらく、記憶を無くしたオレを哀れんで助けてくれたのだろう。
少し考えてから、オレは再び口を開く。
「ところで、この国は何と言うのですか?」
チャンが振り向いて、あきれたような顔を見せた。
「お前、そんなことも忘れたのか! ノルトリア王国だ!」
「なるほど……」
王制の国か。なんとなく、それっぽいとは思っていたが、やっと確信できた。
「チャンさん、すみません。他には国や……魔王領なんかもあるのですか?」
「もちろんだろ。オレたちは魔王国と戦争中だ。南には帝国もあるが、遠くてオレもよくは知らん!」
そう言ったあと、チャンの声が少し低くなる。
「……それより、そろそろ罠を仕掛けた場所だ」
チャンは草を慎重にかき分け、身を低くして進む。
そこには、大きなイノシシが罠にかかっていた。片足にロープが絡まり、必死にもがいているが逃げられない。
チャンは冷静に弓を構え、息を殺して狙いを定める。
そして、矢を放つ。
──矢は風を切って飛び、イノシシの眉間に深々と突き刺さった。
イノシシは呻きもせず、その場に崩れ落ちる。
「……見事だ」
チャンは無言でイノシシの足にロープを括り、持ち運びやすくする準備を始めた。だが、次の瞬間──
彼の動きが止まった。
何かを察知したように、チャンはゆっくりと弓に手をかけ、オレに向かって“黙れ”という仕草をする。
オレはすぐに呼吸を整え、辺りに意識を集中させる。
チャンが森の奥を指差す。
その先に、かすかに動く影──数体のゴブリンが、こちらへ向かって歩いてきていた。
チャンは音も立てずに、まるで森の精のように素早く木に登る。
オレは魔法の杖を握り締め、身構えた。
ゴブリンたちは警戒する様子もなく近づいてくる。
そして、先頭の一体が視界に入った瞬間、チャンが矢を放った。
矢は音を立てずに飛び、ゴブリンの胸に正確に突き刺さる。
オレもすぐに呪文を詠唱する。
「ファイアボール!」
魔法の火球が発射され、次のゴブリンに直撃。火と煙に包まれたその体は、霧散する。
だが、残りのゴブリンたちは恐怖に駆られ、慌てて逃げ出す。
(前にも逃げたゴブリンに逆襲された……!)
オレは迷わず追いかける。
一番後ろのゴブリンに照準を合わせて──
「ファイアボール!」
命中。爆発と共に敵の姿がかき消える。
残り2体。
さらに追いかけながら、続けて魔法を放つ。
「ファイアボール!」
今度も命中。もう1体が消えた。だが、最後の1体は既に射程圏外へと逃げ去っていた。
「クソッ……!」
その時──
“シュン”という風切り音とともに、どこからか飛来した矢が、最後の1匹の背に突き刺さる。
ゴブリンは絶命し、地に倒れた。
オレは振り返る。
木の上から降りてきたチャンが、無言で矢を放った直後の姿勢をとっていた。
(……なんて弓の腕前なんだ!)
オレはただ、感嘆の思いでチャンを見つめた。
チャンが叫ぶ。
「カズー、急いで戻るぞ!」
オレたちはイノシシを引きずるように持ち上げ、急ぎ足で家へと帰還する。
家に着くと、チャンはすぐに師匠・クルワンに状況を報告する。
「ご主人、恐らく、ゴブリンが多数迫っていると思います。これを見て下さい」
チャンが差し出したのは、淡く青く光る【聖印石】。
しかしその光は、ほとんど消えかけていた。
それを見たクルワンが、眉をひそめてつぶやく。
「……なるほど。聖印石の力が弱まっておったか」
オレはどうしても気になって尋ねる。
「聖印石とは、何ですか?」
「魔物を避けるための結界のような石じゃ。だが、効果はせいぜい1、2年……」
クルワンは決断の色を帯びた目でチャンを見る。
「このままでは、この場所もじきに魔物に襲われよう。街へ避難するぞ! チャン、準備を急げ!」
チャンがうなずき、荷物の準備を始める。
クルワンも黙々と、必要な道具を袋に詰めていく。
オレは呆然と立ち尽くしていたが、チャンが声をかけてくる。
「お前の背負い袋は、ずいぶん入りそうだな。ちょっと入れさせろ」
オレは一瞬、考える。
(……オレのアイテムボックスは、神様から授かった特殊な能力。今はこの力を隠しておくべきだ。人に知られれば、悪用されたり、実験材料にされかねない)
慎重に言葉を選びながら答える。
「はい。かなり入ると思います」
チャンは満足げに、革の水袋、干し肉、パンを渡してくる。
オレは黙ってそれらをバックパック──いや、アイテムボックスにしまい込んだ。
「お前、テントや毛布は持ってるのか?」
「はい、大丈夫です」
(【エバキュエーションキット】があるからな)
チャンがため息交じりに言う。
「今朝、せっかく獲った大物の猪を捨てるのはもったいないな……」
彼の目が、オレの背負い袋に向けられる。
「お前の背負い袋、ずいぶん入るな……まさか、“魔法のバック”じゃないよな?」
オレは少し焦りながら問い返す。
「魔法のバックって何ですか?」
「あぁ……お前は記憶が無かったな。魔法のバックは、たくさんの物が入れられる特別な袋だ。小さいのに、何倍もの荷物が入る。かなり便利な代物だが……貴重品だ。ご主人ですら、持っていないくらいだ」
チャンの言葉に、オレの心がざわめく。
(魔法のバック……それなら、オレの《《アイテムボックス》》の存在を隠す口実になる!)
胸の奥に小さな希望の火が灯る。
(いずれは本物も手に入れておこう……そうすれば、より自然に偽装できる)
笑みを押し殺しつつ、オレは肩をすくめて答える。
「いえいえ、私のはそんな大層なものではありませんよ」
チャンは特に疑う様子もなくうなずき、最後の荷物をオレに手渡す。
革の水袋、干し肉、そして硬く乾いたパン。
オレは無言で受け取り、背負い袋――実際には《《アイテムボックス》》――へ、すべてをしまい込む。
そのときだった。
チャンの表情が急に引き締まった。
音もなく立ち上がり、窓へと歩み寄る。そして、わずかに開けた隙間から外をうかがう。
次の瞬間、緊張に満ちた声が室内を貫いた。
「ゴブリンが……襲って来たぞ!」
その一言が、空気を一変させた。
師匠のクルワンが立ち上がり、窓の外を確認する。
木立の影に、複数の小さな影が素早く動いている。獣のように、地を這い、牙を剥きながら、こちらへとじわじわ迫ってくる。
オレは思わず喉を鳴らした。
胸の奥が、冷たい手で握られたように凍りつく。
(まさか、もう来たのか……!? まだ準備も……!)
しかし同時に、ひとつの理解が脳裏を貫いた。
――敵は、待ってはくれない。
――敵は、時も場所も選ばず、牙を剥いてくる。
という、当たり前でありながら、身をもって実感した現実。
窓の外でゴブリンたちの影が、森の薄闇の中からじわじわと姿を現し始めていた。
咆哮の代わりに、静かに、確実に、死が近づいてくるようだった。
オレは、杖を握りしめる。
(準備が整っていようがいまいが──もう戦うしかない)
クルワンが短く命じる。
「全員、戦闘準備!」
チャンは無言で矢筒を背負い直し、クルワンは古びた杖を強く握る。
オレもまた、覚悟を決めて戦闘態勢を取った。
夕闇が、再び静けさを飲み込む。
しかしその静けさは、嵐の前のそれだった。
そしてオレは学ぶ。
〈敵はところ構わず襲ってくる〉
と言うことを。




