七夕の短冊を拒否した男の子 〜新米保育士奮闘する〜
片田舎の認可保育園に就職したのは今年の春だった。一応首都圏だけれど、都心に出るのには二時間以上かかる。電車の時間も長いが、駅まで車で行かないといけないのも不便だ。
最初から志望していたエリアではない。保育園が認定こども園に変わっていく中で、幼稚園教諭のダブル取得をしていなかったため、利便性が高いエリアの就職競争に敗れたのだ。
給与は高くないものの、家賃や物価が安く、親が車を買い替えるタイミングで古い方をくれたから、「まあアリ」という程度の就職先だった。
採用一年目、新米として、二、三歳児クラスの補助職員に任命された。
『かきくら けいこ』
職員紹介に自分の写真と名前があるのがくすぐったい。
少子高齢化のあおりを受けている地域で、子どもの数は多くない。都心ではいまだに待機児童問題がある中、ここでは定員割れしている。
このエリアでは祖父母と同居していることも多く、幼稚園の方が人気なのも理由のひとつだろう。
ニ、三歳児クラス、シマウマ組の定員は十二名のところ、八人でのスタートだった。
担任は大ベテランで、にこにこしているのにテキパキと現実的な対応をこなしていく。指示もわかりやすく、そのおかげか、怒られることがない。
子どもたちも年齢に対して落ちついていて、笑顔が多く、保育実習に行った園よりずっと居心地がいい。
この園に就職できて本当によかった。
と、働き始めてから二ヶ月間は思っていた。
風向きが変わったのは六月一日だった。
みけんに深いシワがきざまれたおじいちゃんに連れられて、一人の男の子がやってきた。
四月生まれで、もう三歳は過ぎていると聞いている。
都心の園からの転園だ。それ自体がとても珍しい。
「おはようございます。はじめまして。シマウマ組の担任の、谷中陽子です。舘津鉄虎くんね。今日からよろしくね」
「柿倉桂子です。陽子先生と一緒にシマウマ組を見せてもらっています」
不機嫌そうにやってきた鉄虎は挨拶をしても不機嫌そうなまま、フンっとそっぽを向いた。
「じゃあよろしく」
祖父が難しい顔のまま横柄な態度でそう言って、鉄虎を預けていく。
(ちょっと態度悪すぎない?!)
ここまでひどい感じは、実習先の園でもなかった。よく怒っていたクレーマー気質の母親ですら、挨拶の時くらいはそれなりに返してくれていた。
初めての場所に置いて行かれた鉄虎が、泣かずに中に入ってくれたのがせめてもの救いだと思った。が、それも甘かった。
シマウマの部屋に入るなり、紹介もできないうちに、他の子が遊んでいたおもちゃを無言で取って床に投げつけた。
取られた方はわけもわからず泣きだす。
「鉄虎くん、ダメ!」
そう言ったら、今度は鉄虎がわんわん泣きだす。
大きな声にびっくりした子たちも泣きだす。
平和だった世界が一転して地獄絵図に変わってしまった。
それから、一事が万事そんな感じになった。笑顔にあふれていたシマウマ組だったのに、泣き声を聞く時間が劇的に長くなって、どんどんストレスが増えていった。
子どもたちが不安定になったことに気づいた親からの質問や、少し話せるようになっている子から様子を聞いた保護者からの問い合わせが後を経たなくなった。
陽子先生は笑顔でさばいていたけれど、自分はだんだん笑うのが辛くなっていった。
(鉄虎くんさえ来なかったら)
子どもにそんなふうに思っちゃいけないと頭ではわかっているのに、気持ちがついていかない。
「こちら、七夕の短冊になります。ご家庭で鉄虎くんのお願いごとを書いてきていただけますか?」
お迎えの時に鉄虎の祖父に伝える。色を選ばせるために、鉄虎の前にかがんで数枚の短冊を見せた。
と、次の瞬間、全部ひったくられて、止める間もなくビリビリにやぶかれる。
「な……」
短冊を用意するのも簡単ではない。子どもたちが寝てくれている間に、連絡ノートを書いた後、少ない時間で必死に作ったのだ。
黒い怒りが込みあげる。
「桂子先生、ここは私が代わるわね。お迎えがまだな子たちを見てくれる?」
「……はい。すみません」
陽子先生の声がしなかったら、手をあげてしまったかもしれない。
それは絶対にいけないことだとわかっている。が、瞬間的に抑制が効かなくなりそうだった。内心で猛省する。
戻りぎわ、ちらりと鉄虎の祖父が目に入った。この状況に対して謝るでもなく、みけんに刻まれたシワをいっそう深くしただけだ。
自省とは別のところで怒りが大きくなる。
(あんな保護者だから鉄虎くんがあんな凶暴に育ったんじゃないの?! だいたい、送り迎えはいつもおじいさんじゃない。親は何をしてるの??!)
鉄虎くんを見送って戻ってきた陽子先生から、少し話せるかと言われた。直感的に、怒られると思った。
残り少しの子どもたちは他の年代との合同保育に任せ、陽子先生と面談用の小部屋に入った。
「職務外で得た個人情報だから、話してはいけないと思って黙っていたのだけど。あなたには話しておいた方がいいと思うから、話すわね」
意外な言葉だった。
「口外無用よ? 特に園の子や保護者には」
「わかりました」
うなずくしかない。
「鉄虎くんね、ご両親を事故で亡くして、唯一の親戚のおじいさんに引き取られてこっちに来たらしいのよ」
鈍器で殴られたかと思うくらい衝撃だった。親は何をしてるの??! と思った少し前の自分を取り消したい。
「家族葬だったから、このあたりでも昔から親交がある家しか知らないのだけど。うちの娘が鉄虎くんのお母さんと同い年で仲がよかったから、おじいさんに事情を聞いたのを教えてくれて。
飲酒運転の車に正面衝突されて。後部座席でチャイルドシートに座っていた鉄虎くんだけが助かったのですって」
職場で泣いてはいけないとわかっているのに、涙があふれる。
「ごめんなさい……」
「それは、何に対して?」
「冷静でいないといけないのに、いられないのと……、鉄虎くんやご家族にも事情があるって考えられなくて、困った子、困った保護者だと思っていたのと……」
「前者は別にかまわないわ。人間だし、血が通った涙だと思うから。後者は、いい学びになった?」
「……はい。ありがとうございます」
「困った子、困った保護者は、困ってる子、困ってる保護者だって、学校で習わなかった?」
「聞いたような気もしますが、今言われるまで忘れていました」
「なら、今日からはそう思えるわね」
「はい」
事情を知ってから思い返すと、陽子先生は折々で、言える範囲で鉄虎の様子についての見方を教えてくれていた。
最初の日は「あのおもちゃに何か思い入れがあったのかもしれないわね」と言っていたし、友だちとトラブルを起こした時も「うらやましいのかもしれないわね」と言っていた。
なんでこんな子に味方するのか、された子の方がかわいそうじゃないか。そう思って拒否していたのは自分だ。
「七夕飾り……、これはただの想像なのだけど。鉄虎くん、自分の願い事は絶対に叶わないって思ったんじゃないかしら」
「あ……」
あの歳の子が、どのくらい生死を理解しているかはわからない。わからないけれど、二度と両親に会えないのはわかっている可能性が高い。願い事と言われたのと同時に、最悪、事故の記憶がよみがえった可能性すらある。
「……どうすればいいんでしょうか」
「どうって?」
「七夕祭り。やるだけでも、鉄虎くんは傷つくっていう話ですよね」
「そうね。みんなが楽しみにしている行事で一人で傷ついているかもしれないし、毎日、ご両親がいる他の子たちに会うだけでも傷ついているかもしれない。
私たちにできるのは、そんな気持ちを想像しながら、あたたかい居場所を提供し続けることだけだと思うわ」
「あたたかい居場所を提供し続ける……」
「ええ。今は安全で安心な場所に居るって、あの子が思えるようになるまで、ね。
一番甘えたい時期に一番甘えたいお母さんに甘えられないのだから、保育園でくらい、甘えさせてもいいと思わない?」
「甘えさせる……」
「ええ。甘やかすのとは違うから、そこは気をつけてちょうだいね」
「違うんですか?」
「甘えさせるのは、子どもの気持ちを大事にするということ。甘やかすのは、現実の枠を超えてしまうこと。
例えば、他の子が遊んでいるおもちゃをいきなり取った場合、それをよしとして何も言わないのは甘やかし。
それはしてはいけないと諭して、より社会的な方法を教えながらも、あの子がそうせざるをえなかった気持ちをくんだり、本当に求めていることを探って叶える方法を一緒に考えたりするのが、甘えさせることよ」
「……頭ごなしに怒ってすみませんでした」
「私もなかなかうまくあなたに教えられなくてごめんなさいね。どう対応するのが鉄虎くんにとっていいのか、これからも一緒に考えてくれるかしら?」
「はい。……ありがとうございます」
「あ、もうひとつだけ、いいかしら」
「なんですか?」
「鉄虎くんのおじいさん、昔、お笑い芸人をしてたのよ」
「え」
「テレビに出たこともあってね、地元はみんなで応援してたの。ふだんから明るくて楽しい人だったわ」
「明るくて楽しい人……」
今の送り迎えの様子からはまったく想像できない。本当に同一人物なのだろうか。
「ふさぎこむようになったのは、二、三年前に奥さんを病気で亡くして一人暮らしになってから。年に数回、娘さん夫婦と孫が遊びにくるのだけを楽しみにしてて。
娘さんのこと、奥さんと同じくらい大事にしてたから、まだ気持ちの整理がつかないんじゃないかしら」
目から鱗が落ちた気がした。
初めて会った時からまったく愛想がなかったから、そういう人だと思っていた。
(おじいさんも、辛いんだ……)
困った人は、困っている人。改めてその言葉が腑に落ちた。
見え方が変わったところで、翌日からも日常の混乱はそれほど変わらない。けれど、少しだけ気持ちに余裕ができた気がする。
(役に立つかわからないけど……)
自己満足だろうと思いつつ、陽子先生の許可を得て、鉄虎くんに見せたいと思った絵本を持ちこんで読ませてもらった。
『おほしさまになったネコ』
生まれた時から一緒だった飼いネコが、ある日突然、動かなくなった話だ。
ネコの体はここにあるけれど、ネコの心はどこに行ってしまったのか。主人公の女の子がいろいろな大人に聞いていく。
大人たちはいろいろと教えてくれるけれど、どれもしっくりこない。
そんなある日、女の子はネコの夢を見た。一緒に夜空に昇って、キラキラの星空で遊ぶ夢だった。
「ニャーはおそらのおほしさまになったんだね。ニャーはずっと、わたしのなかでいきてるんだね」
お墓の前でそう言って、お供えをしたところで終わる話だ。
「けいこせんせ」
読み終わったのと同時に、初めて鉄虎から名を呼ばれた。自分の名前を覚えてくれているとは思っていなかったから驚いた。
服のすそを引かれて、廊下に連れ出される。
前ならそれも困った行動だと思ったかもしれないけれど、今はむしろ嬉しい。陽子先生と目くばせだけして、連れられて行った。
かがんで視線の高さを合わせると、鉄虎は内緒話をするように口元に手を当てて言った。
「ぱぱとまま、おそらにいるのかな」
「そうだね。きっと、ずっと鉄虎くんを見守ってるよ。今もきっと、元気にしてるか心配しながら見てるんじゃないかな」
「ぼくがげんきだとうれしいのかな」
「それはもちろん。パパとママの一番嬉しいことだと思うよ」
「たなばたって、おそらのおほしさまにおねがいするんだよね」
「そうだね」
「あのかみ、くれる?」
「短冊? もちろん」
その日鉄虎が持って帰った短冊には、達筆でこう代筆されて戻ってきた。
『ぱぱ、まま、ぼくはげんきにしています。しんぱいしないでね。てとら』
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