14話【温度】
魔力不足により瞼が上がらなくなってから数日経ち――ようやく景色を目に映せるようになった翌日の朝、冷たいものが肌を伝う感覚がして、目が覚める。
嫌な予感がして起き上がって布団を捲ってみれば、そこには真っ赤に染まったシーツがあった。
「…最悪だ……」
完全に失念していた。異世界に来たからと言っても、体の構造まで変わってしまったわけではないのだから、月経が来てしまうのも道理だろう。
時計を確認すれば、朝の七時を少し過ぎたあたりで、魔力不足が治ったばかりのため暫く授業はお休みしなさいと陛下が仰ってくれたため、あと一週間程は休みのはずだ。
それに関しては大変嬉しいのだが…リディアが部屋に来て、私を起こしてくれる時間まで、あと一時間はあるため、この状況をどうするか思考を巡らせる。
「とりあえず、部屋の前にいる騎士の方にリディアを呼んできて貰うことが一番無難かな…?」
兎にも角にも、この鮮血による冷たさと気持ち悪さをどうにかしたいので、部屋の前で待機をしている騎士の方にリディアを呼んで来て貰うべく、床に血が落ちてしまわないように既に汚れてしまったシーツを寝巻きの上から巻き付けながら、扉へ向かう。
キィ…と音を立てて扉を開けて顔を出せば『ユリナ様?』と聞き馴染みのある声のする方を見れば、朝早いからなのか、いつもよりラフな格好をしたブライアン様と騎士の方が居た。
何やらお話しをしていたようだったが『俺は朝の鍛錬を終えたあとに城の見回りも兼ねて、騎士たちに挨拶をしていただけです』そう言って、こちらに一歩近付いて来た。
「なにか、ありましたか?」
「…リディアを呼んで欲しいの」
「承知しました、頼めるか?」
「は、はい!リディア様を呼んで参ります!」
ブライアンにリディアを呼んで来るように頼まれた彼は、私よりも幼いように見えた。
「ユリナ様、もしや体調が優れませんか…?」
「え…?」
「少し、顔色が良くないように思います」
「……なんで…?」
何でこうも容易く、ブライアンは私の心の柔らかくて弱い部分を的確に触ってくるのだろうか?
他人の顔色を窺って、体調が悪くても表情に出ないのを利用して、私は熱が出ない限りは家族であっても体調不良を隠し通せていたから、こんな風に面と向かって顔色が良くないと言われたのは初めてだった。
「なんで、わかるの…?」
「ユリナ様を毎日見ているから、でしょうか」
「……っ!」
涙が溢れそうになって、扉をゆっくり閉めようとしたら、グッと強い力で止められ、そっとドアノブから手を離す。
静かな、優しい琥珀色の瞳が私を捉えて、声をかけてくれる『どうか、俺に心配させてください』そう言われても、このみっともない姿をリディア以外に見られるのは恥ずかしいことだ、きっと。
「……月のものが始まってしまって…だから…」
心配してくれている彼に涙声で答えれば、扉が開け放たれて、ブライアンはベッドから布団を剥ぎ取ったかと思えば、私の肩にかけてくれたあと、浴室へと直行した。
彼が何をしているのかは分からないが、少し寒さを感じるため布団を抱き締めながら、その場に蹲れば『ユリナ様!?』というリディアの声が聞こえる。
「リディア…」
「どうされたんですか?」
「月のものが始まって、起きたらシーツも汚してしまっていて…ごめんなさい、リディア」
謝る私に『気にしないで下さい、血は直ぐに洗えば取れますよ』安心させるように笑顔で言ってくれた。
リディアは辺りを見渡して『水の音?』と言っていたのでブライアンが浴室の方から帰ってきていない事を伝えれば『なるほど』と何故か納得していた。
「なにが、なるほどなの?」
「ブライアン様が扱う火は聖なる蒼火と呼ばれてます」
「聖なる…?」
「ブライアン様自身は浄化の力を持っていないのですが、彼が扱う火には瘴気などの穢れを払う力が宿っているらしいですよ」
ブライアン自身に聖なる力が宿っている訳ではないが、ブライアンが扱う火の魔法にだけは聖なる力が宿るのだという、何とも不思議な話だった。
なぜ、火の魔法にだけ…?彼が使う火の魔法は、他の人たちと違って赤色ではなく青色だ、それと何か関係があるのだろうか?
起きたばかりの頭では思考が上手く回らず、体温が下がっていく感覚が自分自身でも分かるくらいには、寒さを感じている。
「ユリナ様、まずは入浴して体を温めましょう」
「うん…ありがとうリディア」
蹲っていた私の体を支えて一緒に立ち上がってくれたリディアに感謝していれば、フワリと足が地面から離れた。
「えっ?」
「このまま浴室まで行きます」
私が困惑しているうちにリディアは歩を進めていく。
あまり身長の変わらない女性にお姫様抱っこされているなんて、貴重な体験…!と思いながらも、この腕に抱えられて運ばれる感覚は未だに慣れない。
きっと、これからも何度か運ばれるのかもしれないけれど、慣れることはないように思う。
誰かに抱えられ、その人が歩く度にダイレクトに伝わってくる振動や鼓動、息遣いなどが分かってしまうのだから、相手が誰であれ、余程の緊急事態などで運ばれている場合を除いてはドキドキしてしまうのだろうなと想像できてしまった。
「ブライアン様」
「リディアか、ユリナ様も」
「ありがとうございます、お湯を張ってくださっていたのですよね?」
「ああ……これぐらいしか出来ることがないのが、悔しいな」
そう言ったブライアンの表情は、眉間に皺が寄ってしまっていて、私の心も締め付けられてしまう。
「ありますよ」
「なにがだ?」
「出来ること」
「それは…本当か?」
「ユリナ様がお風呂に入られている間にお伝えします」
そう言って、ブライアンを脱衣所から退室させたリディアは『ユリナ様、お着替えはお持ちしておきます。ゆっくり体を温めていらしてください』そう言って一礼して退室した。
「……迷惑、かけちゃった」
ぽつり…と小さく呟きながら、服を脱いで、ブライアンが温めてくれた湯船に浸かる。
温まった事により、軽めにだが痛みつつあったお腹の圧迫感のようなものも少し取れているのを感じて、いくらか気分が楽になっているような気がしていたのだが一一吐き気まで催してしまったので、ずぅんと気持ちは明るくなるどころが暗くなってしまう。
髪は洗わずに全身を洗い終えて、湯船から上がるとリディアが用意してくれたラフな格好の服が視界に入った。
ゆったりしたお腹を締め付けないボトムス、上半身も同様に締め付けの無いチュニックブラウスを選んでくれており『さすがリディア!』とあとで感謝を沢山伝えなければならないなと思いながら、着替えを終えた私は脱衣所の扉を開けた。
♢♢
「それで…出来ること、というのは?」
「ユリナ様の傍に居て上げること、ですね」
「…?それだけか?」
「はい、それだけです」
テキパキとベッドのシーツを剥ぎながら、リディアはブライアンからの質問に答える。
本当にそれだけでいいのか?と顎に手を当て考え込んでいるブライアンの横を通り抜けながらリディアは、ユリナの着替えを準備していく。
「ユリナ様、あまり体調が良くないみたいだし」
「ああ、それは顔色を見れば分かった、だが…」
「…言ってみてください」
「あぁ、いや…俺の気遣いは、ユリナ様を傷付けていないだろうか、と思ってな」
ブライアンの脳内に浮かぶのは、先程『どうか、俺に心配させてください』と言った時に見えたユリナの表情だった。
今にも泣き出しそうで、不安な表情をしていたことをブライアンはリディアに伝える。
「たぶん、ですけど」
「なんだ?」
「ユリナ様は、誰かを良く観察されて、良く気遣われています。だけど…その気遣いと優しさが自分に返って来ることは無い、と思ってるんじゃないかと…」
リディアの言葉がすぐには理解出来ずに、ブライアンは眉をひそめた。
この国を、この異世界に蔓延る瘴気を浄化するために、魔法や国の成り立ちと歴史を学び、社交の場での礼儀作法や踊りまで覚えるため、この1ヶ月の間は毎日休まず学び、時には瘴気の浄化の仕事をこなしていた姿を、護衛の騎士として付き添っていたブライアンは知っていたからこそ、難しい表情をしてしまっているようだ。
「元の世界で頼れる人はいなかったのだろうか?」
「そういえば、ユリナ様に元の世界での事をお聞きしたことなかったですね」
二人は顔を見合わせ、再びブライアンは険しい表情になり、リディアも困ったような表情を浮かべながら、ユリナが着用する洋服を置くために脱衣所へ向かった。