春色ゴーグル
私の“彼氏”のシュウトは、ちょっといかれている。
そう。いかしているんじゃなくて、いかれているのだ。
シュウトと初めて出会ったのは、去年の冬の終わり。
毎年、この時期はしんどい。
花粉症。
私のは相当に重い。春本番は本当に死にたくなるくらいにきつい。
冬の終わりって、ちょうど花粉が飛び始める時期だ。
私の身体はいろんなところが大雑把にできてるくせに、なぜか花粉センサーだけは異常に高性能で、空気中の目に見えないごくわずかな花粉を執拗に見つけ出しては鼻水とか涙を出して大騒ぎする。
だから、大学の友達のケイナに人数が足りないからどうしてもって頼まれて合コンに行くことになったときも、まだ冬だっていうのに世間に先駆けて花粉症の症状がばっちり出ていた。
ほんとは、お酒とか飲んでる場合じゃない。一刻も早く屋内に避難したい。
でもケイナには単位取る時の諸々でお世話になってるから、こういうときに顔を立ててあげないと。
で、やむを得ずでっかい花粉防止ゴーグルをかけて待ち合わせ場所に現れた私を見て、他の男の子はみんな「今日はきつい子が一人いるな」って顔したけど、一人だけ「うわぁ…」って言ったっきり真っ赤な顔で私を見て固まっちゃった子がいた。
ちょっとごつめのガテン系の身体の上に、神様が間違えて可愛い童顔をのっけちゃったって感じの、何だかいろいろとアンバランスな男の子。
それが、シュウトだった。
後で聞いたら、ゴーグルをかけた私がシュウトの大好きなアニメに出てくる何とかって女の子にそっくりだったんだって。
その子は美少女マッドサイエンティストって設定で、いつもゴーグルしてるらしい。
いや、知らんし。私はマッドサイエンティストどころか、科学には高一でさっさと見切りをつけた単なる私立文系大学生だ。
ね。いかれてるでしょ。
当然、こんな重装備ゴーグル女に他の男子が寄ってくるはずもなく、合コンの間中、私のところにはもっぱらシュウトがべったり。
そういうことには疎い私でも、こいつ私に気があるんだろうなって分かるくらいのべったりさ加減。
その日の帰りは友達に散々冷やかされて、幹事のケイナには、いよいよサオリにも春が来たかー、なんて言われたっけ。
春なんて来なくていいよ。
さっきも言ったけど、私、花粉のせいで春って大嫌いなんだから。
それに、私はこの年になるまで誰かを好きになったことが一度もない。
かっこいいなって思う子はいたけど、でもその子と付き合いたいとかいつも一緒にいたいとかキスしたいとかそんな気持ちは一切なくて。
ただ、客観的に見てこの子はかっこいいなって、それだけ。
だからさっそくシュウトから猛アプローチが始まったときも、付き合うつもりなんてさらさらなかった。
通う大学は結構離れていたはずなのに、シュウトはちょくちょく私の大学に顔を出した。それはもう、こっちが心配になるほどに。
「私なんかのどこがいいのよ」
ある日、呆れてそう言ったら、シュウトは「えー。だってサオリちゃんめちゃくちゃ可愛いじゃん」という頭の悪い答え。
「私があの子に似てるからでしょ、なんだっけ。アニメの」
「あー、いや。別に」
シュウトは言葉を濁す。
あの合コンの日以来、シュウトはそのアニメキャラの名前を口にしなくなった。
桜が咲いて、それから散って、新年度が始まったけど、もちろん私はゴーグルをつけっぱなしだ。
シュウトが好きなのはゴーグルをつけた私のはずなので、あと少しして花粉症が終われば自然と離れていくだろう。
そう思っていた。
花粉の春を何とか生き延びて、ゴールデンウィークが終わり、私はやっとゴーグルとおさらばした。
でも、シュウトのアプローチは相変わらずだった。
「もうゴーグルつけてないし、私、シュウトの好きな何とかちゃんじゃないよ」
そう言ってみたけど、シュウトは微妙な顔で首を振ってばかり。
それで、夏になる前くらいだったと思う。
相変わらず懲りずに私を追いかけてくるシュウトを見て、どうせ私はこれからも恋なんてしないし、これだけ追いかけてくれるのなら付き合ってみようかな、という気になった。
根負けしたと言ってもいい。
実は、その頃バイト先に言い寄ってくる人がいて、ちょっとめんどくさかったから、彼氏がいるって言えば諦めるでしょ、といういやらしい計算もあった。
「私の彼氏って名乗っていいよ」
私が言うと、シュウトは「えっ」と顔を輝かせた。
「それって」
「私もシュウトの彼女って名乗るから」
「まじで。やった」
「でもキスとかエッチとかは無しね」
「無しって、どういうこと」
「だって私、シュウトのこと別に好きじゃないし」
「そんなあ」
シュウトはまだ高校生くらいに見える顔をしょんぼりさせたけど、すぐに立ち直った。
「でも、付き合ってくれるっていうのは本当なんだよね」
「うん、まあそれは」
「よっしゃ」
ガッツポーズしたシュウトは、「じゃあサオリちゃんからオーケーが出るまで、そういうのは我慢するよ」と言った。
「うん。まあオーケーは出ないと思いますが」
そうは言ったけど。
我慢するなんて言っても、二人きりになったらすぐに鼻息を荒くして迫ってくるんでしょ。そしたら、そんなつもりじゃないって言ってすぐ別れてやろう、と思ってた。
でもシュウトは意外に紳士だった。
バイト先の言い寄ってきてた人は、私に彼氏ができたことを知るとあっさり離れていったし、もうシュウトの役目は終わったんだけど。
二人きりになっても、シュウトは手すら握ってこない。
あれー。こいつこんなに奥手だったの。じゃああの恥も外聞もない猛アプローチは何だったの。
正直、当てが外れたというか。
シュウトが最初の約束通りに頑張るものだから、なかなか別れる口実がない。
そうするうちに夏は終わって秋になって、面倒になった私から手を繋いだ。
シュウトはめちゃくちゃ嬉しそうに、
「え。え。いいの」
と言ってきたので、
「手だけね」
と返しておいた。シュウトのがっかりした顔を見て、ちょっとかわいそうな気もしたけど、好きじゃないし。ごめんね。
冬になる頃から、シュウトの動きが怪しくなった。
あいつのバイトは週三回のはずだったのに、それ以外の曜日に連絡しても繋がらない。後で聞くといつも、バイトしてた、と答える。
そんなにいつもバイトしてたら、週五、週六のペースじゃん。おーい、学生の本分は勤労ではなく学業ですよー。
でもそんなに働いているにしては、いつもお金がなさそうだった。
「どうしたの、ご両親が事業に失敗して学費が払えなくなっちゃったの。それともおっきいギャンブルにでも負けたの」
そう尋ねてみたけど、シュウトはいつものへらへらした笑みを浮かべて、いや別に、と答えるばかり。
「教えてよ。私たち彼氏と彼女でしょ」
私が言うと、シュウトは一瞬切なそうな顔をしてから、
「最近寒いよなあ。外のバイト、きつくなってきたわ」
と話をそらした。
「早くあったかくならないかなあ」
「私は寒いままでいいよ」
暖かくなったら、花粉が飛び始める。
春は来なくてもいい。
本格的に冬になると、シュウトはいよいよバイト漬けになって、私ともあまり会わなくなった。
さすがにそのバイト量は異常だ。
私はふと思い付いて、ここ最近シュウトが「バイトがある」と言った曜日をチェックしてみた。
そしたら、週七で働いてた。週末の二日は掛け持ちまでしている。
いかれてる。
さすがにこれは嘘だろう。
とても全部働いているとは思えない。
そこまで考えて、気付く。
さては私のほかに、本当のちゃんとした彼女ができたな。
もっとちゃんと、キスしたりエッチしたりする関係の彼女が。
まあ仕方ない。シュウトだって健全な若者だ。何か月も付き合って手を繋ぐだけなんていう中学生みたいな彼女とはさっさと別れた方がシュウトのためだろう。
私としても、別れることはやぶさかではない。
そう思ったんだけど、その日から私の胸にはずっともやもやしたものが溜まっていた。
他に好きな子できたんでしょ、別れよう。
そう言うだけでいいはずだったのに。
どうしてもそれができなかった。
ある日、とうとうシュウトは体調を崩して寝込んでしまった。
働き過ぎだそうだ。
何を生意気な。大学生のくせに。
一応はまだ私はシュウトの彼女なので、お見舞いに行った。
一人暮らしの汚い部屋で、シュウトは一人で湿っぽい布団に横になっていた。
訪ねてきた私を見て、シュウトは本当に嬉しそうに笑った。
「ただの風邪なんだ。この前のバイトの日、雨で濡れたのにそのまま寝ちゃったから」
「本当にそんなにバイトしてるの」
一つひとつ確認してみると、本当に週七でバイトしていた。私の他に彼女はいなかった。
いかれてる。
「どうしてそんなに働くの」
改めて訊くと、シュウトは観念したみたいに言った。
「もうすぐ、俺たちが初めて出会った日でしょ」
「ああ、あの合コンの」
ゴーグルをつけて現れた私にシュウトが一目ぼれした日。
「私が似てたんだよね、なんとかっていうキャラに」
シュウトは答えない。
「ねえ。前から気になってたんだけど、どうしてそのキャラの名前教えてくれないの。あの日はすごく嬉しそうに話してくれたじゃん」
うぐ、というような唸り声をあげた後で、シュウトは言った。
「サオリちゃんに失礼だと思ったからだよ。確かにあの日はセイミヤに似てると思ったけど、俺が好きになったのはサオリちゃんであってレオナの代用品とかそういうわけではないから。もうその名前は俺の中で封印したんだ」
すっごい早口。どうした。
そのキャラ、セイミヤレオナっていうんだ。了解。
「だから、俺たちの会った記念日に、指輪をプレゼントしようと思ってバイトしてます……」
「えっ、指輪?」
予想外の言葉に、びっくりした。
「どうして?」
指輪が欲しいなんて、一度も言ったことないけど。
「どうしてって」
シュウトは子供みたいに口を尖らせた。
「彼氏が彼女にプレゼントするのに、理由は要らないでしょ」
「それは」
そうかもしれないけど。
「でも、サイズとか」
そう言いかけて、私と手を繋ぐ時にシュウトがやけに指の付け根あたりをべたべた触っていたことを思い出す。
「まさか、手を繋いだときに測ってたの?」
「うん。指をこういう形にして」
シュウトは親指と中指で何かを挟む仕草をする。
「すぐにスマホ出して、スマホの角からここまでの長さって覚えて」
それは、ご苦労を……
何だろう。
鼓動が早い。
こんなぼさぼさ髪で無精ひげのシュウトにどきどきしている。
これって。
よく分かんないけど。これって、もしかして。
「あと少しで目標額だから」
話してしまって楽になったのか、シュウトはさっぱりした顔で笑った。
「風邪が治ったら、またがんがんバイトするよ」
そう言っていたくせに、その日からシュウトの体調はどんどん悪化していった。
バイトなんてとてもできる元気もないくらい、やせ細っていった。
ただの風邪のはずなのに。おかしいなあ。頬のこけたシュウトはそう言って笑った。
……などというドラマチックなことも、もちろんなく。
めちゃくちゃフラグっぽいことを言っていたくせに、シュウトは私がお見舞いに行った次の日にはあっさり元気になって、またバイト漬けの日々に戻った。若いってすごい。
そして、私たちが初めて出会ったあの日が来た。
デートの待ち合わせ場所は、いつもの駅前。
私はゴーグルをかけている。
去年がすごかったせいなのか、今年の花粉はまだそこまでじゃない。
もちろん花粉症は始まってるんだけど、ゴーグルをかけるほどでもない。
でも今日は特別だ。
あれから、私も準備した。
聖宮玲緒奈がどんなアニメの登場人物で、どんな服を着ているのか。名前さえ分かれば調べるのは簡単だった。
私はコスプレ好きの友人と服飾の専門学校に通ってる友人の助けを借りて、その服を完全に再現した。
それから美容院にも行った。この髪型にしてくださいって言うのは結構勇気が要ったけど、美容師さんは出来る限り再現してくれた。
向こうからシュウトが走ってくる。
いつも肩からかけてるカバンのほかに、大事そうに小さな紙袋を持っている。
遠目にも、私を見て目を丸くしているのが分かる。
シュウトは何て言うんだろう。
俺が好きになったのはサオリちゃんであって、レオナじゃないんだ、なんてまたかっこつけるかもしれない。
そしたら言ってやるんだ。
「彼女が彼氏を喜ばせるのに、理由が要るの?」って。
今日は、私たちが出会った日。私の初恋が始まった日だ。