9 『亡霊』と父
メリルオト侯爵夫人レータは蒼白になった。彼女に追い打ちを掛けるようにカルヴォネン公爵家の令嬢たちが囁き合った。
「あらあら、私たちの義妹は手癖が悪いようですわ」
「大変、早急に躾け直さなくては」
義姉たちの不穏な言葉にファンニはぎょっとしたような顔をした。婚約者のサロモンに縋るような目を向けるが、彼の姉妹が釘を刺す方が早かった。
「異論は無いわよね、サロモン」
「あなたも安物を褒め称えていたのですもの」
ファンニの嫁入り道具を一緒になって自慢してきた公子はうなだれるしかなかった。レータは娘の窮地に顔を引きつらせてその場を収めようとした。
「奥様、お嬢様たちのご冗談を娘が真に受けていますわ。躾け直しなど、我が娘は侯爵家の令嬢としてふさわしい教育を」
「そうね、それで大勢のお客様の前で審美眼のなさを披露してしまったのね」
婚約祝いの席でファンニが友人たちに散々自慢していたことが嫌でも思い出された。レータは憎悪を込めて義理の娘を睨んだ。
「私たちに何の恨みがあって、恥を掻かせような真似をするの! そんな性根だから父親にも見放されるのよ!」
完全な八つ当たりにもオーレイリアは薄笑いを浮かべるだけだった。はらはらしながら貴婦人たちのやりとりを見ていたキジーは、メリルオト侯爵の様子が変なことに気づいた。食い下がる秘書から何事かを聞くなり、慌てふためいた様子で駆けてきたのだ。
「あなた、この子が私とファンニを侮辱したのよ」
縋る夫人を振り払い、メリルオト侯爵家の現当主は長女の前に立った。
「お前は、知っていたのか?」
「何をでしょう、侯爵様」
静かな声は何の感情もこもっていなかった。侯爵は先ほど秘書から受けとった手紙を握りしめ、彼女に怒鳴った。
「ロイヴァスの異変を隠したな! 現当主の嫡子が死亡しお前に継承権が回ってくることを!」
「マティアス様のご不幸は聞き及んでおります。しかし、弟君サウル様はご生存の可能性があります。滅多なことをおっしゃらないでください」
「庶出の弟などいくらでも排除できる。いいか、いますぐ我が侯爵家配下の者と婚姻を結び、ロイヴァスの継承権を主張するんだ」
「お断りします」
オーレイリアの返答は短くきっぱりとしていた。激昂した侯爵は娘の腕を掴もうとし、傍観しているカルヴォネン公爵家の人々を思い出した。暴力に訴えるのをかろうじて堪え、忌々しそうにしながらも懐柔するような口調に変える。
「あのロイヴァスの、王国最強の軍事力を誇る家の女伯となれるのだぞ」
「それを決めるのはヨハンネス叔父様です」
「お前は父親の言うことに従っていれば」
「いいえ」
真っ向からの否定はその場を沈黙させた。オーレイリアは侍女を振り向いた。
「キジー、あの文書を」
侍女はすぐに書斎から文書箱を運んできた。その中から一通を取り出しオーレイリアは読み上げた。
「私、オーレイリア・ロイヴァス・メリルオトは成人に達したことによりメリルオト侯爵家の籍を抜けることを申請し認められました」
唖然とした侯爵はしばらく荒い呼吸しかできなかった。そこに執事が耳打ちし、彼は余裕を取り戻した。
「なら、父親の権利をもってその申請に抗告する。侯爵家当主の抗告だ。成人したばかりの娘の分際で太刀打ちできるとでも思ったのか」
オーレイリアの冷静さにわずかに亀裂が入った。彼女が最大の警戒をしていたのが侯爵からの即時抗告だったのだ。背後からでも動揺を感じ取ったキジーは救いを求めるようにカルヴォネン公爵夫人に目をやった。しかし夫人は静観の構えを崩さない。
メイドが祈るような気持ちでいると、離れに新たな人物が加わった。出入りの商人のようだった。
「間に合ったようですな、お嬢様」
「クロニエミ」
こわばっていたオーレイリアの表情がぱっと明るくなった。クロニエミは息を切らしながら彼女に一通の書状を手渡した。
「これを」
ざっと中身を確認し、オーレイリアは父親に向き直った。
「残念ですわ、侯爵様の抗告より先に現ロイヴァス当主ヨハンネス様の帰属許可が下りました。これで私はメリルオト侯爵家を離れ、ロイヴァスの一員として迎えられることになります」
「何だと?」
侯爵は執事を振り返ったが、彼は万策尽きた様子で囁いた。
「これは恐らく国王陛下に訴えたとしても覆すことは難しいかと。お嬢様はよほど前から綿密に計画されていたとしか」
拳を握り、侯爵は唸るような声を出した。
「……これがお前の報復か」
オーレイリアは不思議そうに首をかしげた。
「報復? 私は先代侯爵様がご存命であれば許されたことをしているだけです。元々、お母様が体調を回復されれば速やかに離縁し、一緒にロイヴァスに戻る予定だったのですから」
侯爵令嬢という立場に全く未練の無い言葉に顔を歪めたのは現夫人レータだった。
「そんなに価値がなかったというの、メリルオト侯爵家の正妻の座は」
「少なくとも、お母様は望まれたことなど一度もありませんでした。現侯爵が強引に関係を持った結果私を身ごもってしまい、私生児にさせないために先代侯爵様の命で結婚した。それだけです」
侯爵家の先妻トゥーリアは病弱で、療養のために南部の首都に来ていた。息子の愚行を知った先代侯爵は、自分を信頼して愛娘を預けてくれた友人に会わせる顔がないと嘆き激怒した。強制的に息子の愛人たちと縁を切らせてトゥーリアと婚姻させ、彼を唆した妻を即刻離縁し実家に叩き返した。妻の実家は侯爵の怒りに恐れをなし、家に迎えることもなく療養所経由で修道院へと送り込んでしまった。
それもまた息子の恨みを買い、生涯に渡って溝が埋まることはなかったが。
淡々とした説明をキジーは息を呑んで聞いていた。オーレイリアとファンニの扱いの違いは、単に継子という理由だけでは無かったのだ。
一方、レータは更に憎悪をたぎらせ叫んだ。
「そのせいで、私は家族にすら祝福されずにファンニを産んで、先代の目を恐れて息を殺すように生きてきたのよ! お前の母親さえいなければ、娘は侯爵令嬢として生まれていたはずなのに!」
怒り狂う母親を見てファンニは涙ぐんでいた。オーレイリアは冷静に反論した。
「日陰の身に置かれたことは気の毒だと思いますが、その原因は母ではなく現侯爵様です。お間違えの無いように」
毅然とした指摘に拍手をしたのは公爵夫人だった。
「お見事。亡きトゥーリア様もお喜びでしょうね」
今ではほとんど見られない樹齢百年越えの銀シラカバの家具類を悔しそうに見回したファンニが、あることに気付いた。
「なーんだ、あるのは家具だけで雪貂のコートもマフもないのね。あのケープは私の物よ」
先代が亡くなると同時に母親と一緒に離れに踏み、めぼしい物をごっそりと掠っていった中に件のケープも含まれていた。勝ち誇る妹にオーレイリアは可笑しそうに答えた。
「あれは南部で保管する際は専用の防虫剤が必要なのだけど、きちんとしているのかしら」
ファンニとレータの顔色が変わった。すぐさまメイドを確認にやらせると、蒼白になった一人が何かを手に戻ってきた。
それが無残な毛皮の一部と知り、ファンニは卒倒しかけた。公爵家の姉妹はさもありなんという顔で囁き合った。
「あら、大変」
「夏場から見せびらかしていましたものねえ」
彼女らの母親は感慨深げに呟いた。
「残念だこと。あれをまとったトゥーリア様は本当の雪の女王のようでしたのに」
その時、言葉もなく拳を振るわせていた侯爵が吠えるように娘を恫喝した。
「……この恩知らずが! 誰が育ててやったと」
「この離れに捨て置かれて使用人も食べないような残飯同様の食事でも健康に成長できたのは、あなたのおかげではありませんわ、侯爵。先代が遺産として用意してくれたクロニエミとの契約と母の持参金のおかげです。侯爵夫人と妹はほとんど価値のない物ばかりを強奪してくれましたから」
「……どこまでも馬鹿にしおって……、いいか、お前がどれだけ辺境伯の一員面しても、その中に流れる血の半分は私の、メリルオトのものだ。あの偏屈者たちに認められるなどと思うなよ」
「それを決めるのはあなたではなくロイヴァスの人々です」
オーレイリアの言葉に迷いはなかった。