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5 『亡霊』と商人

 走る一歩ごとに白い息が浮かんでは消える。

 朝まだ薄暗い中、メリルオト侯爵家の広大な庭園を二人の少女、侯爵家の長女オーレイリアと彼女付きのメイドのキジーは朝食前の運動をしていた。


 やがて目的地の裏門が見えてきた。先導するオーレイリアは速度を落とし、やがて歩行に移った。背後を振り返り息を切らしているキジーに語りかける。

「上達が早いわね。最初の日は半分も走れなかったのに」

「……毎日、続けてるから…」


 走破直後でも平然としているオーレイリアの域に達するには、まだまだ時間が必要だとメイドの少女は実感していた。

「さあ、人が出てくる前に戻りましょう」

 すでに呼吸も落ち着いた侯爵令嬢は上機嫌で冷たい空気の中を離れへと歩いた。汗を拭いながら、キジーは今日の朝食に思いをはせた。




 メリルオト侯爵家の離れで長女オーレイリア付きメイドとしての日々が始まった。キジーにとっては毎日が驚きの連続だった。

 侯爵令嬢という深窓の姫君の印象は初対面で消えていたが、彼女の日常は元下働きの少女の理解を超えていた。


「ここは?」

 オーレイリアの寝室の続き間を見せられた時、そこに並ぶ物を見てキジーは仰天した。見たことのない器具が並んでいたのだ。小柄な彼女には背伸びしても届かない高さに渡された鉄の棒に、オーレイリアは苦も無く飛びついて見せた。


「こうやって腕の筋肉を鍛えるのよ」

 腕力だけで身体を持ち上げる懸垂運動に、キジーは口を開きっぱなしだった。数回繰り返すと侯爵令嬢は身軽に降り立ち、他の運動器具を説明した。

「そっちは腹筋と背筋を鍛える物で、そこのマットは柔軟運動。走るのはさすがに外だけど、階段昇降は欠かさないわ」


 それを聞き、思いついたことをキジーは質問した。

「あの、もしかしてオーリー様が『亡霊』扱いされているのって……」

「外で訓練しているのを見られてしまったようね。でも、おかげでここに近寄る者がほとんどいなくなったから噂はそのままにしているの。冬期の野営訓練をしていても気味悪がられるだけで邪魔されないし、快適よ」


「何でそんなことを」

 問われた令嬢は窓の外に目をやった。

「帰る時のためよ。ロイヴァス辺境領に」

 北の要塞と言われる辺境領は大帝国ザハリアスとの国境線に位置しており、実質的な国境守備隊駐屯地だった。


 オーレイリアの母親は辺境伯の一人娘なのだから話に聞いたかもしれない。だが、あの土地の厳しさを思うと貴族令嬢が憧れるものだろうかという疑問がつきまとう。キジーの戸惑いを気にすること無く侯爵令嬢は続けた。


「可笑しいでしょう? 見たことも無い土地に帰りたいだなんて。でもね、物心ついた時からお母様に聞かされていたのよ。北の辺境領のこと、厳しい自然と屈強な辺境領軍。繰り返されたザハリアスからの侵攻軍との戦い。ろくに顔も会わせない家族よりずっと身近に感じてきたわ」

「でも、どうやって」


「言ったでしょう、やっと十六歳になったって。選べるのよ、自分が生きる場所を」

 両手を握りしめ、オーレイリアは高らかに宣言した。圧倒されながらキジーは考えた。あの日、家族と故郷を失ってから自分は何かを選べたことがあっただろうか。


 戸惑う新米メイドは離れに慣れるうちに気づいた。ホールの荒廃した様子とは違い、設備は充実していることに。

 食料庫には粗末な食事を生まれ変わらせる多くの食材が整然と保管されていた。

「保存食が多いですね」

「そうよ、北の出身なら馴染みがある物も多いでしょう?」


 言われてキジーは頷いた。村人総出で収穫し瓶詰めを作って冬期の命綱にしていた根菜や葉物などが並んでいる。だが、屋敷から出ることのない令嬢がどうやってこれらを蓄えたのかが謎だった。

 ちらりと見上げると、オーレイリアは悪戯っぽく笑った。

「来月になったら種明かしをしてあげる。さあ、家具の手入れを始めましょう」

 そして侯爵令嬢は新しい住人との生活を続けた。




「お姉様が専属のメイドを?」

 メリルオト侯爵家本邸。きらびやかな家具調度品に囲まれた部屋で侯爵令嬢ファンニは怪訝そうに侍女に尋ねた。


「はい、元々は台所の下働きの者たったそうで」

 もしかしてどこかの貴族令嬢だろうかと身構えていたファンニは呆気にとられた。

「台所女中を専属に? お姉様ったら」

 侯爵家の次女は声を立てて笑った。次女やメイドも追従するように笑い、賑やかな空気の中を公爵夫人が娘を訪れた。


「楽しそうね、愉快なことでもあったの?」

「聞いて、お母様。『亡霊』ったら、台所の下働きなんかを専属メイドにしたのよ。どうかしてるわ」

「メイド長がのろまな田舎者が役に立たないと言っていたけど、それかしら」


 現侯爵夫人レータは優越感を滲ませながら微笑を浮かべた。

「気の毒に、そんな者しか側に置けないなんて」

 同情に見せかけながらも、彼女の口元は綻んでいた。母の機嫌の良さを感じ取ったファンニは更に情報を流した。


「二人して朝から晩まで離れのガラクタを手入れしているそうよ。本当に何を考えてるのかしら、あんな物ゴミにしかならないのに」

 そう言いながら、彼女は銀シラカバのチェストをうっとりと眺めた。レータはその隣に掛けられた雪貂の見事なケープに満足げだ。


 これらは前侯爵が亡くなり晴れてメリルオト侯爵家に迎えられた時、夫である現侯爵が離れから好きな物を運び出して良いと言われて本邸に運び込んだものだった。

 元は前夫人トゥーリアの持参金代わりの道具類だが、彼女にとって二重の意味があった。

「あの女さえいなければ、私と娘は十年以上も日陰の身にならずにすんだのよ。これはほんの慰謝料代わりだわ」


 呟くレータは、あの女の娘がみすぼらしい離れで不自由な暮らしをしていることを思い歪んだ笑みを浮かべた。

「いいこと、ファンニ。あなたは公爵夫人になるのよ。そしてこの家はあなたの子供が継ぐの。あの女の娘はどこかの耄碌爺の後妻にでもすればいいわ」


 母の言葉に娘は軽薄な笑い声をたてた。

「『亡霊』なんか、嫁げるだけでも奇跡だわ。私の婚約式にケチをつけた罰は与えないと」

 煽るような言葉にレータは頷いた。

「お父様がふさわしい家を見繕ってくださるわ。さぞ見物でしょうね」

 母と娘は揃って笑った。



 

 本邸で嘲笑われている侯爵家の長女は、楽しげに客人を迎えていた。

 離れに突然現れた年輩の男性に、キジーは警戒気味に応対した。彼はメイドの態度に気を悪くすることも無く、抜け目のない目つきで観察した。


「ほう、専属メイドを」

 目を細める男性にオーレイリアは紹介した

「北部出身の子よ。キジー、この人は母が生きていた時から付き合いのあるクロニエミ商会の代表者よ」

「はじめまして、お嬢さん」


 礼儀正しく挨拶され、キジーは慌てて礼を取った。

「初めまして、オーレイリア様付きとなりましたキジーと申します」

 侯爵令嬢に叩きこれまた口上を述べると、商人は目尻に皺を寄せた。

「物覚えの早そうなお嬢さんだ。良いメイドを選ばれましたな、オーレイリア様」


 そして彼は素早く窓の外に視線を走らせた。怪訝そうなオーレイリアに小声で告げる。

「ロイヴァスから緊急連絡がありました。どうか落ち着いて聞いてください」

「国境で何かあったの?」

「正体不明の部隊が国境を込え、迎撃したマティアス殿が戦死されました」


 侯爵令嬢の顔から血の気が引いた。ただならない様子に壁際に控えていたキジーも息を呑んだ。

「……私の従兄弟が……。叔父様は?」

「ヨハンネス様は別働隊でしたのでご無事です。ただ、マティアス殿の弟君、サウル殿が消息不明です」


「そんな、兄弟二人共だなんて……」

「まだ、サウル殿は死亡が確認された訳ではありません。お側にいたカイも同様ですので、あの部隊が簡単に全滅するとは思えませんので」

「……カイが…」


 膝の上に乗せた自分の手をしばらく見つめた後、オーレイリアは顔を上げた。

「すぐに始めるわ」

 侯爵令嬢の声に迷いは無かった。

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[一言] 「ザハリアス」と国名があり、作者様の世界地図の中のお話と気付きました!
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