41 分水嶺の栄光
「……誰がこのような…」
「誰と言っても、激しい砲撃戦で地形が変わるなどよくあることではないか。ああ、前線に出ない者には難しいか」
最期の言葉にはっきりと侮蔑を込め、辺境伯は言い放った。国境軍監がそれに追い打ちをかける。
「戦況はこの翼竜から観戦させてもらいましたよ。最初は霧で国境の木を見間違い、不様な撤退で混乱して多数の死者を出しながら撤退し、再度の攻防戦で国境侵犯し、挙げ句に勇猛な翼竜の攻撃で壊滅状態になっていましたな」
「その攻撃は帝国領内に向けたものだ、どう弁明するつもりだ?」
サマラスは最後の切り札に頼ろうとした。だがヨハンネスは肩をすくめるのみだった。
「迎撃が一発逸れたくらい誤差の範囲内だ。帝国はこれまで何度我が領内に誤爆と言い訳しながら砲撃をしてきたと思っている」
もはや攻撃材料が尽きた様子の帝国軍法務将校に、国境軍監が告げた。
「我々は帝国ともソルノクートとも利害関係のない第三者として今回の戦闘を見届けた。その上で軍事法廷に上げるべき点がないと判断した。これは両国に公式文書で通達する」
サマラスは無言できびすを返した。これ以上この場にいると言ってはならない罵声でも飛び出すと判断したのだろう。
「やれやれ、とんだ礼儀知らずだ」
辺境伯が大げさに嘆くと、国境軍監――南方大陸バルジス共和国の人々が笑った。
「物見遊山のつもりでしたが、意外なものが拝めて有益でしたよ、辺境伯閣下。しかし大した武力だ」
軍監は翼竜たちを値踏みするように眺めた。その頭の中で、これからの西方大陸諸国との友好関係を色々と計算しているようだった。ヨハンネスは一つ忠告をした。
「ザハリアスと付き合うなら覚えておくといい。あの国は他国との正式な条約でも自分の都合次第で平気で反故にするのがお家芸だ」
「身近にいると厄介ですな」
国境軍監は笑いながら辺境伯と握手を交わし、彼らは別れた。
憤然とした様子で戻ってきたサマラス法務少佐にニキアスは驚いたが、彼からもたらされた上方は更なる驚愕を伴った。
「国境線を誤認?」
「いいように手玉に取られたものだな。おかげでいらぬ恥をかいた」
「災難だったな」
彼から言われた言葉をニキアスはそのまま返した。サマラスは足音も荒く医療天幕を出て行った。
その後、どうにか移動に耐えられると軍医の許可を得たニキアス・ゼファーはポラリス半島から帝国西部の基地に移送された。
ザハリアス帝国とソルノクート王国。国境を接した二つの国の、宿命的な紛争は帝国軍の思わぬ大敗で一旦終結した。
国境侵犯問題が解決したことは、すぐさま旧輸送部隊の面々に知らされた。
歓声が起こり、人々は抱き合ってこれまでの苦労が報われたことを喜んだ。
サウルなどはキジーを抱え上げてぐるぐると回って見せた。周囲の者から冷やかしの口笛を吹かれても、辺境伯の末息子はどこ吹く風で小柄な少女の手を離さなかった。
分家筋ユーティライネン家のカイは派手な行動は起こさなかった。その代わり、オーレイリアに心からの感謝を述べた。
「君のおかげだ。武器弾薬の補給、鉄管爆弾の工夫、国境線を錯覚させる方法」
「実行してくれたみんなのおかげよ。紙の上の作戦を現実に合わせて修正してくれたのも」
彼女の言葉にソニヤを始めとした旧輸送部隊の面々は口々に抗議した。
「あんなこと、誰も考えつかなかったですよ」
「峠の松の偽装も、爆発で尾根を移動させることも」
「地面に仕掛けた爆弾を金属線と電池で爆発させるなんてことも」
「ありがとう」
辺境伯の令嬢の感謝に嘘はなかったが、その表情はどこか複雑なものがあった。カイがこっそりと尋ねた。
「気になることでも?」
「いいえ……ただ、ここの人たちの目印だった松を切断したり、峠を吹き飛ばしたり。私がよそ者だから考えられたことなのかも、と思って」
彼女は傷跡の残るカイの頬に触れた。
「鉄管爆弾も威力を上げることだけ考えて、それがもたらす結果から目をそらしてきたわ。帝国もあれを使うようになったら、ロイヴァスの人たちが傷つくのに」
カイは首を振った。
「君が参考にした物があるなら、遅かれ早かれ作られていたものだよ。銃に大砲も最初はそうだ。生まれてしまったものはなかったことにできない」
「…そうね」
崖の方からクリオボレアスたちの声がするのに気づき、オーレイリアは呟いた。
「ラヴィーニは元気になったかしら」
「腹一杯食べてご機嫌だよ」
彼女に腕を貸し、ロイヴァスの竜騎兵は相棒のいる場所へと案内した。
様々な人々が赤毛の令嬢と竜騎兵を見て礼をとる。輸送部隊、ロイヴァス領兵、メリルオト領兵、ハルキン領兵。そしてオーレイリアはソルノクート王国旗を見つけ驚いた。
「正規軍が?」
「ああ、重い腰を上げて後詰め役を果たしてくれた。帝国が表面上だけでもあっさりと引いたのは、全面戦争を避けるためだろう。対ロウィニア戦役はモルゾ平原の大会戦で敗退し、国内に撤退したそうだ」
「あの国も帝国を退けたのね」
ザハリアスと国境を接する小国全てにとっての勝利だ。オーレイリアは頭をもたげ、宣言した。
「私たちは、何も奪わせない」
彼女の隣でカイも頷く。
「ああ。…いつか『北風の王』を探索しよう」
隠された翼竜の王と失われた母の形見。必ず取り戻すと辺境伯の令嬢は決意した。
二人が崖近くの待機所に着くとラヴィーニが甲高く鳴き、甘えるようにして大きな頭をすり寄せてきた。
ソルノクート王国、王都アームンク。
貴族街で最も壮麗なカルヴォネン公爵邸では家族の語らいがあった。
「辺境伯は帝国を押し返したのね。よかったこと」
美しく威厳のある公爵夫人スイーリスは数度頷いた。
「オーレイリア様はとてもご活躍だったそうよ」
その名を聞き、メリルオト侯爵令嬢ファンニはびくりと身を震わせた。身を固くする彼女の肩をサロモン公子が優しく抱いた。
公爵夫人は息子の婚約者に質問した。
「お母様のご様子は?」
ファンニは弱々しく首を振った。
「ずっととりとめにないことをぶつぶつと言っていたかと思うと、いきなり前の侯爵夫人――トゥーリア様のことを酷く罵り始めて……」
侯爵邸にいた頃、病弱だった前侯爵夫人のことを何かにつけて母レータは馬鹿にしてきた。だが、カルヴォネン家で見る彼女の姿は明らかに異常だった。母の尻馬に乗って異母姉の悪口を言っていた時の自分もあんな風に見えていたのだろうかと思うとぞっとした。
考え込んでいた公爵夫人は決断した。
「レータ夫人は南海岸の療養所に移しましょう。ここでは気をつけていても余計な事が耳に入るでしょうし」
「……はい……」
ファンニはそう答えるのが精一杯だった。これまで、公爵家を選んだと言ってもメリルオトは両親のいる自分の家だという甘えた考えがあった。
しかし、公爵夫人の提案は母親を捨てるのに等しい。罪悪感と母との思い出がファンニの肩を震わせた。堪えきれない涙が浮かんでくる。
かつての両親は少しでもファンニが悲しめば無条件に慰めてくれた。今は自分で涙を拭かなければならない。
「…失礼しました」
横を向き涙を拭おうとした時、公爵夫人の侍女サイラがすっとハンカチを差し出した。思わずスイーリス夫人を見れば頷いてくれた。
「ありがとうございます」
ファンニはハンカチで涙を拭った。ここの人たちは甘やかしてはくれない。それでも彼女が自分で涙を拭おうとすればハンカチを差し出すことをためらわない。だから自分はカルヴォネンの一員となる。サロモンの力づけるような手の温もりを感じながらファンニは決意した。
婚約者たちをサロンに二人残して、公爵夫人は自分の執務室に移動した。続いて入ってきた娘たちに声をかける。
「シェルヴィア、サネルマ。アンニカ・ハルキンの移送は済んだの?」
よく似た姉妹は楽しげに答えた。
「はい、お母様」
「修道院で手厚い看護を受けられますわ」
元メリルオト侯爵夫人アンニカは強制捜査で倒れてから廃人となっていた。不運にも混乱した屋敷で放置されたことが手遅れになったのだ。
メリルオト侯爵家、ハルキン伯爵家は国境での領軍の不審な行動を辺境伯への増援と見なされ不問とされた。両家が全てをアンニカ・ハルキンの責として彼女を切り捨てることと引き換えに。
メリルオト侯爵ウリヤスは負傷により長期の入院を余儀なくされた。ハルキン家の次男オリヴェルは伯爵家で厳しい監視を受けながら細々と暮らしている。アンニカが再起不能となったことから弟のアールトが人が変わったように積極的に責務を果たすようになり、伯爵家当主の地位から『暫定』を取り去る日も近そうだ。
「我が家は両家に大きな貸しを作れたわ」
満足げに公爵夫人は室内の一角に目を向けた。そこには見事な木目の銀シラカバのライティングビューローが置かれていた。亡き友人の思い出に浸り、スイーリスは独りごちた。
「これは祝いの品にふさわしいわね。例えば、辺境伯継承式の」
シェルヴィアとサネルマはくすくす笑いながら母の言葉に頷いた。
ザハリアス帝国西部、デュシス駐屯基地。
談話室の片隅で、陸軍少佐ニキアス・ゼファーは読んでいた新聞をテーブルに置いた。紙面には大見出しが踊っていた。
『ローディン王国でロウィニアとの講和会議決定』
南西部戦線に出征した将軍たちは敗戦の責任に関して睨み合いの状態らしい。ニキアスは皮肉げに口元を歪めた。
「敗北が話題にもならないのは幸運なのか……」
彼の左目は極度の視力低下で眼帯が掛けられていた。だが、その目にもはっきりと映るものがある。
ソルノクートとの国境、バイランダー山脈。分水嶺とを呼ばれる尾根が吹き飛ぶ光景。空を飛ぶ翼竜と、その騎乗者。
歴戦の傭兵を翻弄し、帝国軍を欺き、彼の軍歴も家の誇りも地に落とした者。
「……赤毛の魔女め」
いつか、必ずポラリス半島を帝国の支配下に置いてみせる。昏くくすぶる胸の中で彼は誓った。
ロイヴァス辺境伯領。領主の館があるスオメンリンナの町は沸き立っていた。
町の人は広場や館の前に集い、分水嶺の兵士を称える歌を捧げた。
幾分緊張しながら、オーレイリアとキジーは初めて訪れる領主の館を歩いた。それぞれ彼女たちを案内するカイとサウルの翼竜で庭に降り立ち、辺境伯との謁見が待つ広間に行くはずだった。
だが、既にロイヴァス辺境伯ヨハンネス・バルカ=ロイヴァスは庭園まで出迎えに来ていた。
「悪運強く生き残ったようだな」
開口一番の言葉に彼の息子サウルは苦笑するしかなかった。
「戻りました、父上。カイも無事です。そして紹介します。再従妹オーレイリア・ロイヴァスと彼女の忠実なキジー嬢を」
皺深い目に光るものを宿らせ、辺境伯は館に集う一族に向けて言った。
「ロイヴァスとバルカの血に新たな者が加わる」
人々にクリマ酒入りのゴブレットが配られた。オーレイリアはそれを手にして大叔父の前に進み出た。キジーは主の堂々とした姿を誇らしげに見守った。
「辺境伯にご挨拶します」
軽く膝を折り、旅装のままの令嬢は一族を見回した。誰もが母を連想させ、誰もが彼女の帰還を喜んでいた。ゴブレットを掲げ、オーレイリアは誓いの言葉を述べた。
「我が血はロイヴァスとバルカの父祖が眠るこの地のために。分水嶺の栄光を!」
歓声が空気を震わせた。一族からしばし離れていた血脈が戻ってきたことを祝う声がこだました。
「分水嶺の栄光を!」
* *
「彼」は眠りの中にあった。一時、覚醒の音が聞こえたような気がしたが、システムは拒否した。再度深い眠りにつく前に、ここに収められた時の月の竜の最後の言葉が甦った。
『面倒ごとに巻き込んですまねえな。パチモンの部品のつなぎ合わせじゃ使い捨てのコールドスリープ機能くらいしかねえが、細胞の再生には充分だろう。お前を覚醒させるのは坊主の子孫の敵対勢力になるかもしれんが、それはそれでアリか。歴史なんてそんなもんだしな。まあ、気にせず眠っとけ』
山脈の深い谷に隠された装置の中、『北風の王』は眠り続けた。復活の合図の音が彼を呼び覚ますまで。
次回のエピローグで完結です。




