32 辺境伯と元侯爵夫人
「侯爵様!」
カリサルミが背後からメリルオト侯爵を羽交い締めして引き離した。彼を守るというよりも、この場をこれ以上混乱座ないための措置だった。ハルキン家のオリヴェルもまた領軍の指揮官に拘束されるように引き剥がされた。
両軍の実行部隊責任者は互いに視線を交わし、それぞれの主を安全地帯まで撤退させようとした。
更に追い打ちを掛けるような砲弾の飛来音が彼らを凍らせた。それが飛んできたのが侯爵家でも伯爵家でもないと察したからだ。
「どこから……」
侯爵を庇って身を伏せたカリサルミは必死で敵の居場所を探ろうとした。彼を振り払うようにしてメリルオト侯爵は立ち上がり、自軍に向けて走った。
「侯爵様、危ない!」
止めようとした軍団長の目前で爆発が起きた。侯爵は頭を抱えてうずくまった。
「……血が…、血が!」
破片が掠めたのか、彼の頭部から血が流れ落ちている。カリサルミはすぐさま医師を呼んだ。
「誰か、侯爵様を天幕に! 医者を早く!」
そして老将はハルキン側に大声で問いかけた。
「オリヴェル卿はご無事か!?」
土煙が収まってから周囲を見れば、伯爵家の貴公子は座り込んでいた。一見負傷した様子はなく、腰を抜かしただけと思われた。付き添う指揮官もあまり気に掛けていない。
カリサルミが質問した。
「これは何者の攻撃だと思う?」
「我々でないことは確かだ」
「なら残る可能性は一つだな」
二人の実行指揮官は短時間で意思統一した。
「総員迎撃態勢!」
「銃兵部隊、前へ!」
会談用のテーブルなどを盾にして、侯爵領と伯爵領の両軍は不意打ちを仕掛けた敵に対応した。
指揮官の冷静な指示に領兵も落ち着きを取り戻し、迫る敵に銃弾を浴びせた。銃撃戦は拮抗し、やがて侯爵家・伯爵家連合部隊が優勢になりかけた。
「もうひと息だ、手を緩めるな!」
カリサルミが檄を入れた時、思わぬ方向から彼らに銃弾が襲ってきた。その一発が彼の腕を掠め、老将は呻いた。
「軍団長!」
血相を変えて叫ぶ副官を、カリサルミは制した。
「かすり傷だ、うろたえるな」
「しかし……」
加勢を得た敵側の銃撃は明らかに厚みを増している。このままではじりじりと追い込まれるだけだと思い、軍団長は撤退も覚悟した。
だが戦況は再度劇的変化を遂げた。上空から砲撃音が響いたかと思うと、彼らの周囲で連続して爆発が起きた。爆音に続いた土煙が視界を奪う。それらが収まった時に銃声はやんでいた。
「……何が」
周囲を見回すカリサルミの前に、巨大な翼が舞い降りた。彼は飛び退くように後ずさった後にそれを凝視した。遙か昔に見覚えがあるものだった。
「クリオボレアス!」
ポラリス半島に生息する西方大陸最大の翼竜が目の前にいたのだ。その背には彼と同年代の男性が騎乗していた。飛行帽と風防眼鏡を外し、竜騎兵は彼に声をかけた。
「久しいな、カリサルミ」
老将は瞠目した。若き日にこの山脈で帝国からの侵攻軍を迎撃した戦闘を思い出す。
「ヨハンネス殿……、いや、辺境伯閣下」
慌てて礼をとる軍団長に、ロイヴァス辺境伯ヨハンネス・バルカ=ロイヴァスは豪快に笑った。
「そう畏まるな。亡き兄上や先代侯爵と共に泥にまみれて戦った仲ではないか」
「我が人生最大の栄誉でした」
老将の目には涙が浮かんでいた。厳しく苦しい闘いだったが、国境を巡る攻防戦にはソルノクート王国の未来がかかっており、見事帝国の侵攻を凌ぎきった時の感動と誇らしさは筆舌に尽くしがたい。
今の、ロイヴァスの苦境につけ込むような軍事行動に思い至り、カリサルミは現辺境伯の顔をまともに見られなかった。
「このたびの礼を失した行動については申し開きのしようもございません。いかような叱責処罰も覚悟しております」
頭を下げる侯爵領軍団長の隣に、ハルキン家の領軍指揮官が並び立った。
「それは我が領軍も同罪。カリサルミ殿だけの責ではありません」
うなだれる彼らを凝視した辺境伯は大きく息をつき、呆れたような声を出した。
「さて、何のことだ? メリルオト候は我が辺境領の異変を聞いて援軍に駆けつけ、姻戚筋のハルキン家も協力してくれたのであろうが」
カリサルミははっと目を見開いた。初めてまっすぐに辺境伯ヨハンネスと視線を合わせ、しばらくして小さく頷く。
「我が領軍は閣下に従います。いかようにもお申し付けください」
「我らも異存はありません」
ヨハンネスは彼らの背後で痛いとわめいている侯爵と伯爵子息に目を向けた。
「あれはいいのか?」
ためらうことなく侯爵領軍団長は医師に命令した。
「侯爵閣下は負傷された。ゆっくりと療養していただくように」
「了解しました」
彼の命令を正確に理解した医師が侯爵を天幕に下がらせた。そして小声でカリサルミに囁く。
「療養にたっぷりと睡眠を取ってもらいます。…事が済むまで」
「頼んだぞ」
ハルキン家の方も侯爵家に倣った措置をとった。邪魔者を排除した両家の領軍は辺境伯の元に集結した。
「どうやら言葉巧みにメリルオト、ハルキン両家と辺境領を衝突させようとした不逞の輩がいるようだな」
ヨハンネスの言葉に両軍の指揮官は身体をこわばらせて俯いた。だが、続く辺境伯の言葉は意外なものだった。
「しかし、幸いなことに計画は露呈した。我が軍は謎の襲撃者の急襲で損害を被った両家の領軍を救援し、おそらくは帝国の手の者である武装集団を迎撃する。そうだな?」
彼らの命綱に等しい提案に二つの家の指揮官は頭を下げた。
「委細、相違ございません」
「ならば我らのすることは一つ」
長年の相棒である翼竜に騎乗し、辺境伯は周囲に轟くような声で命令した。
「帝国の犬どもを蹴散らし、追い払え!」
「御意!」
さっきまでの混乱ぶりが嘘のように、メリオルトとハルキンの両軍は辺境伯の指揮下で行軍を始めた。
空を見上げ、ヨハンネスは呟いた。
「こちらで打てる手は打った。仕上げは頼むぞ、サウル、カイ、……オーレイリア」
彼の乗るクリオボレアスは前傾姿勢から地を蹴り、空へと翼をはためかせた。
ソルノクート王国、王都アームンク。貴族街。
メリルオト侯爵家は恐慌状態にあった。
現侯爵の夫人レータは監禁状態だったはずが杳として行方が知れず、元侯爵夫人アンニカの怒りは留まるところを知らなかった。
「まだ見つからないの、あの女は!」
「…申し訳ございません」
執事も侍女頭も詫びることしかできなかった。赤毛の元侯爵夫人は苛々と部屋を歩き回った。
「あんな状態の人間が煙のように消えるはずがない。誰かが手引きをしたに決まっている! 最近いきなり辞めた者はいないの!?」
怒鳴られた使用人は顔を見合わせた。
「それが、近頃は下働きの者の入れ替わりが激しく、急に来なくなってしまう者も珍しくない有様で……」
執事の弁解はアンニカの怒気に火をつけるだけだった。
「お黙り! お前たちが無能だからこの有様なのに!」
どさりとソファに腰を下ろし、元侯爵夫人は忌々しげに最近のことを思い出した。
バイランダー山脈に送り出した息子は一向にロイヴァスを殲滅する様子もないまま無為に時を過ごしている。しかもハルキンの両軍といざこざまで起こしたようだ。
「……私のウリヤスがしくじるはずがない。アールトの不出来な息子が悪いのよ」
彼女らしい他罰主義な責任転嫁をしていると、突然青ざめた従僕が駆け込んできた。
「奥様! 今、正門に……」
「これ、今は大事な…」
これ以上女主人の機嫌を損ねてはと、執事が慌てて注意した。だが、従僕は叫ぶように伝えた。
「官憲の者が踏み込んできました! お屋敷を捜索すると一方的に……」




