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30 王の谷と戦況

 早朝、バイランダー山脈上空を飛翔する影があった。大型翼竜クリオボレアス、カイとオーレイリアが乗るラヴィーニだ。


 二人は山の中にキルシッカの木を探していた。

「あの山の向こうにミュラッカ村があったのね」

「ああ、山に慣れていても老人の足ならこのあたりが限界だと思うが」


 キルシッカは山脈では少ない広葉樹で秋には紅葉する。彼らはそれを目印にした。

「あそこ、木の色が変わってる」

 オーレイリアが指さし、カイは相棒に降下するよう竜笛を吹いた。クリオボレアスはゆっくりと旋回し、徐々に高度を落としていった。


 赤く変わった葉を持つ木は、崖から谷間へと誘うように生えていた。

「これを目印に谷に着陸できそうだな」

 気流に注意しながらカイがラヴィーニを谷の底に降りさせた。

 谷はこれといって特徴のないものだった。地面は崖から剥離した岩と石が無数に転がり、草木はほとんどない。


 カイは相棒の様子がいつもと違うのに気付いた。

「どうした? ラヴィーニ」

 大型翼竜は翼を畳んだ状態で落ち着きなく谷のあちこちを見回している。

「熊か狼でもいるのかしら」

 用心しながらオーレイリアも周囲を警戒した。カイも同様に神経を研ぎ澄ませたが危険は察知できない。


 ふと足元を見た辺境伯の令嬢が青年の腕を掴んだ。

「見て、ここ」

 視線を下に向けたカイは彼女が示すものを理解した。地面の岩石が不自然に少ない箇所がある。それは崖に沿って生えるキルシッカの木から細く続いていた。

「道……のようだな」

「定期的に移動しなければできないわ」

 まるで儀式のように山に入っていく老人たちの逸話が嫌でも浮かぶ。二人はそれを辿って歩いた。


 頼りない道は突然終わっていた。崖を前にしたカイとオーレイリアは途方に暮れた顔を見合わせた。

「こんな所で止まっているなんて」

「ご老体たちがこの崖を登ったとは考えられないし…」

 崖に触れてもゴツゴツとした岩の感触があるだけだ。溜め息をつき離れようとしたオーレイリアは、ある箇所に触れた手を思わず引っ込めた。


「どうした?」

「ここだけ何だか手触りが違うの」

 手袋を外し、カイも岩に触った。

「……金属か?」


 何故、誰がこんな所にと触れたり押したりしていると、いきなり岩の表面が滑るように動いた。現れたのは金属板だった。

「何かが彫ってある」

「文字? いえ、これは……」

 オーレイリアは驚きの声を上げた。


「楽譜?」

「何かの儀式なのかな」

 カイの表情は薄ら寒いものに変わっていた。オーレイリアは短い旋律を口ずさんだ。

「この曲調、キジーが歌っていたミュラッカ村の古謡だわ。確か、『バルカの血が甦らせる…』」


 風変わりな歌が流れた時、谷が揺れた。咄嗟にオーレイリアを庇いながら崖から退避したカイは信じられない光景を目にした。

「崖が……!」

 巨大な扉のように崖が横方向に動き始めたのだ。土煙にむせながら、二人はその様子を見守った。


 しかし、開くかと思えた崖は突然動きを止めた。息を呑む見物人の前で起きたのは落石だった。

「下がるんだ!」

 オーレイリアの手を引き、カイは走り出した。

「ラヴィーニ!!」

 相棒を呼び、オーレイリアを押し上げるようにして乗せると続いてその背に登る。竜笛を聞き、クリオボレアスは前傾姿勢から飛び立った。


 苦労しながらもどうにか気流を掴み、大型翼竜は謎の谷から脱出した。せっかくの手がかりが埋もれていくのをオーレイリアは悔しそうに眺めるしかなかった。

 崖上に翼竜は降り立った。相棒の首を軽く叩き、カイはオーレイリアに手を貸した。彼女はこわばった顔で礼を言った。


「ありがとう。まだ足元が揺れてる気がするわ」

「とても自然の物とは思えなかったな。崖も落石も」

 考え込んでいたオーレイリアが顔を上げた。

「あの楽譜、音域がペンダントの竜笛と同じだった。わざわざ音階をつけていたのはあの扉を開けるためだったのかも」

「それじゃ、竜笛で吹いていれば…」


 ユッカに追われた時に落としてしまったのが酷く悔やまれた。彼女の肩に手を置き、カイが慰めた。

「あの谷はまだ目印が残っている」

「キルシッカの木ね」

 どうにか気分を浮上させて、オーレイリアは次の行動を考えた。

「竜笛は同じ物がロイヴァスの館にあると、お母様はおっしゃっていたわ」

「なら、次の機会に必ず見つけよう、『北風の王』を」

 カイの言葉に辺境伯の令嬢は頷いた。


 「北風の王」に関しては、母の手帳を見ても情報は少ない。

「全てのクリオボレアスの頂点に立つ翼竜。百年の封印からの目覚めを待つ眠れる王」

 暗記した記述をオーレイリアは呟いた。緊急避難した谷の方にカイは顔を向けた。

「それが事実なら強力な戦力になるのは間違いない」

 彼の声には苦い感慨があった。ラウダ峡谷で失った戦友のことだろうとオーレイリアは推測し、カイの手に触れた。


「今は私たちが持つ戦力で敵を駆逐するだけよ」

 太陽の高さを確かめ、彼女は言った。

「集合場所に行きましょう」

 襲撃の際の散開と再結集はあらかじめ打ち合わせていた。そこにカイとラヴィーニを連れていけるのをオーレイリアは心から嬉しく思った。

「そうだな。行こう、ラヴィーニ。カーモスに会えるぞ」

 クリオボレアスは頭を高く上げ、期待に満ちた鳴き声を上げた。




 非正規の銃撃隊が持ち帰った戦利品の山に、ザハリアス帝国陸軍少佐ニキアス・ゼファーは皮肉げに笑った。

「樽は偽装で、追い払った後にこれを取り戻す算段だったか」

「銃も弾薬もたっぷりありますぜ」

 報酬を計算してか、非正規部隊は上機嫌だった。


「それでも、あのはしけに積み込んだ量と釣り合わない」

 ただ一人辛気くさい空気を漂わせているソロン――クレーモラで『ユッカ』と呼ばれていた男――が疑わしげに言った。

 右腕に包帯を巻く彼を部下たちが嘲笑った。

「負け惜しみかよ」

「あんな小娘の仕掛けにまんまと騙されやがって」


 常の飄々とした表情を作れず、ソロンは中途半端な歪んだ笑顔になってしまった。非正規部隊とは傭兵同然の者が利益だけで繋がっている組織だ。隊長格でも実力を疑われればすぐに引きずり下ろされるのが常だった。

 ソロン自身が前の隊長を蹴落としてのし上がったのだ。自分の地位の危うさは熟知している。彼はすぐに頭を切り替えた。

「で、マヌケな侯爵様と伯爵様の軍隊ごっこはどうするんだ?」


 問われたニキアスは事も無げに答えた。

「万が一にでも辺境伯と組まれると厄介だ。さっさと本隊も全滅してもらう。その後でロイヴァスが失策の証拠隠滅にやったとでも喧伝しておけばいい」

 噂に国境はない。悪評ならば尚更だ。

「お貴族様も中々えげつねえな」


 にやにやと笑うソロンにも動ぜず、ニキアスは本隊を動かす計画を説明した。

「ここ数日の天候から、近いうちにかなり深い山霧が発生する可能性が高い。山脈の国境線が確認しづらい状況を利用して奴らに越境させる。こちらに踏み入ると同時に攻撃だ」

 対ザハリアスの国境守備の要であるロイヴァス辺境領軍が壊滅すれば、即休戦と和平をちらつかせた交渉に入れる。帝国は戦線を南西に一本化できるのだ。


 そこに伝令が姿を見せた。ニキアスに敬礼し、届いたばかりの伝文を渡す。

「首都の煌宮から?」

 何かあったのだろうかと本文を読み下し、若い陸軍少佐は青ざめた。

「どうした?」

 副官は手渡された紙に目を通し、しばし絶句した。

「……まさか、モルゾ平原の会戦で大敗し、国境付近のアスピーダまで撤退、再集結?」

「世界最強と言われた帝国陸軍が……、何があったのだ」


 次々と続報が届き、彼らは状況を理解した。

「我が軍が誇る騎兵部隊はロウィニアの機関銃でほぼ全滅、更に28(サンチ)榴弾砲でタラクシア港を砲撃され、駐留艦隊は航行不能……」

「何故、奴らにそんな装備が…」

 爪を噛みかけたニキアスは不意に低く笑った。

「ローディンか。あの三枚舌どもが手を回してロウィニアに共用したか」

 彼は決意した。

「次の霧の日に作戦を決行する。この半島だけでも有利に終局させねば帝国の威信が揺らぐぞ。将校たちを集めろ」


 ばたばたと作戦用の天幕に集まる帝国の軍人たちを眺め、ソロンは愉快そうに呟いた。

「せいぜい揺らいでろ。こっちは面子を潰してくれた奴に礼をするだけだ」

 風もなく、帝国陸軍の軍旗が垂れ下がる様子は半旗を連想させた。

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