3 『亡霊』の愛称
「やっと静かになったわ」
カーテンの隙間から外の動向をうかがっていたオーレイリアは、玄関ホールを振り返った。ずっと傍観するしかなかったキジーは夢でも見ているような顔で侯爵家の長女を見ていた。
「驚かせたわね。大丈夫よ、あなたに咎がいくことはないから」
「……あの、この箱は…」
キジーは令嬢が金属線を接続させた箱をこわごわと覗いた。オーレイリアはこともなげに説明した。
「蓄電池よ。本で見て作ってみたの。いたずら程度の威力しかないけど」
「いたずら? あの人たち、のたうち回ってましたよ」
「あの連中の行状に比べれば可愛いものでしょう?」
笑うオーレイリアは年相応の少女に見えた。仕事を忘れてキジーは問い詰めようとしたが、それより先に奇妙な音が響いた。彼女の腹が鳴る音だった。オーレイリアは吹き出した。
「ごめんなさい、もしかして宴の準備で食事も取れなかったの?」
真っ赤になった顔でキジーは頷いた。オーレイリアは彼女を伴い自室に戻るとテーブルのサモバール下部に乾燥した松ぼっくりを入れ、暖炉の火をおこした。
「私の誕生日祝いと怖い思いをされたお詫びよ、一緒に食事をしましょう」
食事という言葉が空腹感を刺激し、キジーが断るより先に腹が返事をしてしまった。侯爵令嬢は笑いながら遅い晩餐の用意をした。
「スープの皿をサモバールの上に置いて。…ああ、いつもどおりね」
トレーの蓋を取ると、オーレイリアは皮肉げに呟いた。貴族令嬢の食事だというのに、用意されたのは薄いスープと黒パンだけだった。
「これで虐待でもしているつもりなのかしらね。嫌がらせにもならないわ」
乏しい料理を鼻で笑い、侯爵令嬢は保管庫になっている小部屋に向かった。戻ってきた彼女は食材を満載した籠を抱えていた。
「スープにこれを入れて、こっちを暖炉で炙って」
渡されたのは燻製肉と乾燥野菜、そしてチーズだった。驚くキジーの前で、侯爵令嬢は慣れた手つきでスープにミルクとバターを投入し二人分の分量にした。そして追加素材で粗末な食事を生まれ変わらせた。
「さあ、そこに座って」
テーブルセッティングまで終えると、オーレイリアはキジーと向かい合って祈りを捧げた。
「聖光輪よ、今日の糧を感謝します」
キジーが唱和し、祈りを終えると少女たちは遅い食事を始めた。肉と野菜が追加された熱いスープを口に入れ、下働きの少女は思わず呟いた。
「……美味しい!」
オーレイリアはその反応に満足そうに笑った。
「ゆっくり食べて。はい、こっちのチーズをパンに乗せて」
暖炉の熱で溶けかけたチーズは、ぱさぱさした黒パンを劇的に変化させた。キジーは一口ごとに感謝の祈りを捧げたい衝動を抑えなければならなかった。
食後にオーレイリアは茶葉の固まりを削り、温めたミルクに入れた。たちまち甘い芳香が漂うのにキジーはうっとりとなった。
渡されたカップの温もりを手のひらで楽しんでいると、侯爵令嬢が彼女に尋ねた。
「落ち着いた? さっき酔漢相手に激昂していたのは空腹のせいだったの?」
思わずキジーは顔を上げた。オーレイリアの青灰色の瞳が自分を見つめている。
心の奥、忘れたつもりだった記憶が甦り、下働きの少女の表情を険しくさせた。ぽつぽつとキジーは語り始めた。
「……よくあることで……、国境近くの田舎で、タチの悪い傭兵崩れが暴れて、村は家族ごと無くなって……」
「そうだったの。故郷は北部国境地帯?」
「はい……」
どうして分かるのだろうかとキジーが目を丸くすると、オーレイリアは微笑んだ。
「北部のアクセントが残っていたから」
その言葉に少女は戸惑った。幼い頃に故郷を離れて街の孤児院から王都に来て何年も経つ。生まれた村の記憶は年ごとに薄れていった。あの日を除いては。
侯爵令嬢は下働きの少女から壁へと視線を移した。そこには小さな肖像画が掛けられていた。彼女の視線を追ったキジーは、描かれた貴婦人の美しさに驚いた。淡い銀のヴェールで覆われたような金髪と青灰色の瞳。それは目の前の令嬢と共通するものだった。
きょときょとと令嬢と肖像画を見比べるキジーに、オーレイリアは語った。
「私の母よ。トゥーリア・マイラ・ロイヴァス。北方国境地帯のロイヴァス辺境伯の一人娘だったわ。病弱な方で、南方の王都に静養にいらしてたの」
それで北部のことに詳しいのかとキジーは納得した。侯爵令嬢の目の色は母親譲りだが、赤褐色の髪の色合いは侯爵から受け継いだようだ。
「使用人たちが噂していたでしょう、母と侯爵が結婚した理由を」
言われてキジーは言葉に詰まった。独身時代は放蕩者で悪名高かった現侯爵は辺境伯の令嬢に手を出して妊娠させてしまったため、先代侯爵の命令で結婚させられたことは屋敷中の者が知っていた。
当然夫婦仲は冷め切っており、出産後に体調を崩した侯爵夫人は娘と共に離れに引きこもり、夫と顔を合わせることすらほとんど無かったらしい。彼女が早く亡くなり、残されたオーレイリアの後見人だった先代侯爵も他界すると息子はすぐさま愛人と庶子を侯爵家に引き入れたのだ。
答えに悩むキジーにオーレイリアは片手をひらひらさせた。
「いいのよ、私はもうじきここの人間ではなくなるから」
突然の宣言に下働きの少女は戸惑った。
「あの……、それは……」
「メリルオトの名を捨てるの。オーレイリア・ロイヴァスとして母の実家、辺境領に行くわ」
王都の侯爵家を出て紛争の絶えない辺境領へ。それはうら若い貴族令嬢の夢にしては奇妙に思えた。
困惑するキジーにオーレイリアが尋ねた。
「あなたの故郷を教えてもらえるかしら」
「あ、ミュラッカ村です」
「ミュラッカ……」
考え込んでいた侯爵令嬢は弾かれたように顔を上げた。そして、真剣な声で質問した。
「この屋敷で誰かに村の名を言ったことは?」
「いえ……」
使用人仲間ですら、下働きの少女の故郷などに興味を示したことはなかった。正直にキジーが答えると、オーレイリアはほっとした顔をした。そして真顔で警告した。
「そう。これからは、もし誰かに出身地を聞かれても適当に誤魔化すのよ、いいわね?」
「はい」
気圧されたようにキジーは頷いた。本邸の様子をうかがい、侯爵令嬢が提案した。
「まだ馬鹿騒ぎをしているのね。今夜はここに泊まりなさい。さっきの連中が仕返しを企むかも知れないから」
身を固くする少女に頷き、オーレイリアは使える部屋を教えた。
「この廊下の端の小部屋が空いてるわ。乳母やの部屋だったの」
「分かりました」
下がろうとしたキジーを、侯爵令嬢がためらいがちに引き留めた。
「ねえ、『オーリー』と呼んでくれる?」
「オーリー……様…?」
「もう一度」
「オーリー様」
「もう一度」
数回同じやりとりをした後で、侯爵家の長女は目を閉じた。その後の呟きは、辛うじて聞き取れるほど小さかった。
「……何年ぶりかしら……」
オーレイリアは背を向け、退出の合図だと悟ったキジーは廊下に出た。そして歩くうちに気付いた。おそらく先代が亡くなった後は誰一人としてお嬢様を愛称で呼ぶ者がいなかったのだと。
乳母が使っていたという部屋は広くはなかったが、これまで一部屋に五人も詰め込まれていた少女にとっては充分だった。寝具は古くても調えられており、かび臭くもない。下着姿で寝台に潜り込んだキジーは目まぐるしかった今夜のことを思い出した。
華やかな宴のために朝からこき使われて夜になって離れに初めて来て、顔を見たことも無かった『亡霊』令嬢と出会い、悪夢を思い出させるゴロツキどもを痛快に撃退し、お嬢様の誕生日を祝い……。
最後に頭に浮かんだのは、請われて『オーリー』と呼んだ時の泣きそうな侯爵令嬢の表情だった。