29 休息と混乱
たっぷり撫でてもらって満足した大型翼竜は革具を外してもらい、餌を取るために谷川へと飛んでいった。
オーレイリアとカイは岩に広げた地図を挟んで向かい合い、今後の計画を話し合った。
「今はこの山にいるのね。さっきワゴンを放棄したのがここで…、結構離れてしまったわ」
「ラヴィーニで移動するの簡単だが、問題は襲撃してきた連中の潜伏場所だな」
カイは顔を上げ、辺境伯の令嬢に質問した。
「ワゴンの仕掛けは一時的に混乱させる程度の効果だろう? それなのに二重底に銃器類を隠していたのか?」
オーレイリアは含みのある笑顔を作った。
「ユッカは今頃、混乱しているでしょうね。頭のいい人だからあれこれ考えすぎてしまうはずよ」
彼女が仕掛けたのは子供じみた嫌がらせだが、クレーモラでのはしけのすり替えの可能性に気付いたなら真意を読み取ろうとするはずだ。
「それが目的か」
「半分はね」
カイは呆れ半分の溜め息をついた。
「よく考えたな。準備も相当かかったろう」
「考える時間はたっぷりあったわ。準備はみんなが手伝ってくれた」
侯爵邸で一人捨て置かれた日々は、鍛錬と作戦立案に明け暮れた。まだ見ぬバイランダー山脈と国境地帯を思い、会いたい人への思慕を募らせては原動力にした。
少し躊躇した後にカイが尋ねた。
「輸送部隊は全員信用できるのか?」
ヨーセフやイエレナ、頼もしい輸送部隊の面々を思い浮かべ、オーレイリアは答えた。
「ロイヴァス出身の者で固めているけど、中には急遽かき集めた者もいる。怪しい者は監視させてきたわ」
「排除じゃなく監視か」
「裏切りには代価を支払わせる。分水嶺の掟でしょう?」
カイは苦笑した。密通者が生かされているのは慈悲などでないことを察したためだ。
「君は誰よりもロイヴァスの人間だよ」
つられて笑った後、オーレイリアは母の形見をなくしてしまったことを思いだした。貴重な手帳は上着の内ポケットにしっかりと収めていたが、思い出が詰まるペンダントがないのは寂しかった。
「竜笛のついたペンダントを落としてしまったの。鉄柘植で作ったものだから簡単には壊れたり腐ったりはしないだろうけど…」
母の形見は西方大陸で最も固いと言われる木を材料とする物だった。いつか探しに行けるだろうかとオーレイリアは考えた。そして、翼竜に取り付けられた鞄からはみ出ている物に気づいた。動物の毛皮だ。
「それは、ウサギ?」
「ああ、この近くで仕留めた」
よく見ると毛皮には特徴があった。この山脈の最も奥に生息する種類のものだ。
「この斑点、トビウサギ?」
「よく分かったな」
見たことがないはずの動物を言い当てたことにカイは驚いていた。オーレイリアは記憶を総動員させた。キジーが、ミュラッカ村の生き残りが何と言っていただろうか。
「……トビウサギとキルシッカの実」
「何だって?」
「あの子が言っていたの。ミュラッカ村の老人が定期的に山に入って、お土産を貰ったと」
「『北風の王』を守ってきた村か?」
オーレイリアは暗くなってきた周囲を見回した。
「キルシッカは? 近くにあるはずよ」
今すぐ探索を始めたそうな彼女を、カイは冷静に宥めた。
「ラヴィーニはサウルのカーモスほど夜間捜索は得意じゃないんだ。夜が明けてからにしよう」
夜露をしのげる岩棚へと移動し奥の窪みに彼女を座らせると、ロイヴァスに連なる青年は言った。
「明日のためにとにかく休もう。君のことを聞かせてくれないか」
「ええ、話したいことなら沢山あるわ」
寄り添って座り、彼らは会えずにいた時間を埋めるように語り合った。
ソルノクート王国、王都アームンク。貴族街に建つ大きな屋敷は極度の緊張の中にあった。
「合同部隊が全滅? 同士討ち? 何てことなの!」
かつての侯爵夫人、アンニカ・ハルキンの怒りに満ちた声が部屋の空気を震わせた。古参の侍女頭が必死で宥める。
「奥様、お体に触ります」
花瓶とランプを破壊した跡、ようやくアンニカは気を静めようとした。怯えきったメイドが破片を片付ける中、元侯爵夫人は苛々と実家の者たちを罵った。
「そもそもアールトの息子など、期待するだけ無駄だわ。本当に父親に似て出来の悪いこと」
家族で唯一生き残っている末の弟をこき下ろし、彼女は忌々しげに口元を歪めた。
「誰のおかげで一応当主の座にいられるのか、もう一度思い出させた方がいいわね。運良く兄たちの後釜になれたのが誰のおかげかも」
アンニカは侍女に紙とペンを持ってくるよう言いつけた。遅れたりすれば容赦なく厳しい罰があることを知っている使用人たちは必死の形相で用意した。
怒りの言葉を書き綴るとアンニカはそれを風ツバメでハルキン伯爵家に届けるよう命じた。
「一番速い鳥を使うのよ」
言外に遅達したら責任を取らせると脅しを込めれば、青い顔で使用人は部屋から姿を消した。
他の者を下がらせて、元侯爵夫人は現在の実家に思いを馳せた。
「愚鈍なアールトは間違っても私に逆らうことなど考えないだろうけど…」
幼児期から自分の支配下に置き続けた弟は、今でも彼女の前に出ると言葉が出てこない。自分の顔色をびくびくと伺う不様な様子を思い出し、アンニカは満足げに微笑んだ。
不快な時は、より惨めな者を眺めて気晴らしするのが一番だ。彼女は呼び鈴を鳴らして侍女を呼んだ。
「あの女はどうしているの?」
それが誰を指すかを正確に察して侍女は答えた。
「レータ夫人でしたら自室に籠ったまま一歩も出てきません」
「そう、たまには見舞いでもしてやらないとね」
薄く笑うと元侯爵夫人は立ち上がった。侍女を連れて息子の妻が軟禁状態になっている部屋に赴こうとすると、書斎前をウロウロするメイドがいた。
「何をしているの」
厳しく問いかけると、メイドは飛び上がるようにしてアンニカを振り向き蒼白になった。
「お、奥様……、その、これを交換するように言われて、でもどの辺か分からなくなって……」
手にしたランプを示しながら、物慣れない様子でメイドは必死で言い訳しようとした。その様子に苛々しながら、アンニカは折檻を指示しようとした。だが、廊下の端の方から慌ただしい足音と怒鳴り声が聞こえてきた。ただならない空気に彼女は意識を向けた。
「何なの、騒々しい」
眉をひそめると、すぐさま侍女が右往左往するメイドを捕まえ詰問した。
「どうしたのです、奥様の前ですよ、みっともない」
「そ、それが…、若奥様がいなくなったんです!」
しばらく呆然とした後、アンニカは顔を歪めて怒鳴った。
「いなくなった? どこにも出すなと言ったはず、何をしていたの!」
「確かにいたはずなのに、いつのまにか消えてしまって……、本当です!」
メイドも従僕も、屋敷の使用人は混乱の極致にあった。レータの身を心配すると言うよりは、格好の憂さ晴らし対象をなくしたアンニカの怒りの矛先が向くのを恐れてのようだった。
「お黙り! 案内しなさい!」
埒があかないとばかりに、元侯爵夫人は使用人の一団を引きつれて歩き出した。
嵐が去ったような廊下は静まりかえった。最初に叱られたメイドがそっとアンニカの私室に忍び込んだ。書き物机の引き出しをヘアピンで開錠し、慎重に隠された手紙類を探し出し、他の物とすり替えてポケットに入れる。
短い捜索の後、彼女はランプを手に台所へと急いだ。この騒動を屋敷じゅうに広めて混乱を拡大させるためだ。
「そろそろ潮時ね」
小さく呟き、メイド――カルヴォネン公爵夫人の命を受けて潜入していた侍女サイラは脱出計画を頭の中で立案した。




