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24 脱出と始動

「こちらへ」

 侍女頭は主の孫に対していささかぞんざいな態度で案内をした。勝手知ったる自分の家なのにと考えていたファンニはすぐに異常に気付いた。


「待って、お母様の部屋はこちらの…」

「奥様が部屋替えを命じました。レータ夫人は気鬱の病ですので刺激の少ない場所にというご配慮です」

「お母様が、病?」


 仰天するファンニの背後で公爵家の侍女たちは俯きつつも表情を険しくした。

 現侯爵夫人がいる部屋は北向きの奥にあった。扉を開けるとこもった臭いが廊下にまで漂ってきた。血相を変えてファンニは中に入った。


「お母様?」

 薄暗い室内で、一人の女性が床に座り込んでいた。侯爵令嬢には、それが誰だかすぐには分からなかった。座っていた彼女がゆっくりと振り向きファンニを視界に入れる。


「……ファンニ?」

 それが母親だと分かるとファンニは駆け寄った。

「お母様、どうなさったの?」

「……ファンニ、ああ、ファンニ……」


 レータ夫人の顔に表情が戻った。彼女は娘を抱きしめて泣き始めた。

「どうしてもっと早く来てくれなかったの!」

 八つ当たりをする彼女に公爵家の侍女たちが近寄り、素早く脈や熱を確認した。泣くばかりの現侯爵夫人の様子を見ていた侍女頭は蔑むような視線を向けた後に立ち去った。侍女たちは迅速に行動した。

「さあ、手伝ってください、お嬢様」

 頷いた侯爵令嬢は彼女たちの指示に従った。




 母娘が再会する間、アンニカは優雅にお茶を楽しんでいた。

「愚かそうな娘ね、母親に似て。あれでよく公爵家の子息を射止めたものだわ」


 自身の血を引く孫を見下す発言に、侍女頭が頷いた。

「元々は上のオーレイリア様との縁談でした。それをあの欲深な女が横取りしたのです」

「貧乏男爵の娘らしいわ」


 見下げ果てたように吐き捨てると、アンニカはふと興味を移したように尋ねた。

「ロイヴァスの娘の方はどんな子なの?」

「ずっと離れで育てられたのであまり面識はないのですが、髪は奥様の色を受け継いでおられます」

「そう」


 満足げに元侯爵夫人は微笑んだ。

「今は父親に反抗していても、いずれ自分に流れるハルキン家の血の尊さに気付くでしょうよ」


 その時、廊下から何やら慌ただしい物音が聞こえてきた。アンニカは柳眉を跳ね上げた。

「騒々しい」

「お待ちを」


 急いで侍女頭が扉を開けると、青ざめ半泣きのファンニがなだれ込むように入ってきた。

「申し訳ございません、母が錯乱して侍女に怪我を負わせてしまいました。このお詫びは後ほど」

 それだけを言うと、金髪の令嬢は出て行った。侍女たちもそれに続く。


 一人が頭から流れる血を布で押さえ、一人はそれを支えて何とか歩かせていた。アンニカは不快そうに言い捨てた。

「まったく、男漁りしか取り柄のない野良猫はこれだから」


 ファンニは侍女を連れて公爵家の馬車に乗り込んだ。メリルオト侯爵邸の門から出ると無事な方の侍女が周囲を確認する。

「もう大丈夫です、お嬢様。侯爵夫人」


 怪我をしたはずの侍女は虚ろな顔を上げた。それはレータ夫人だった。ファンニは母親の手を握り、力づけるように話しかけた。

「よかったわ、お母様。公爵夫人が何とかしてくださるわ、きっと」

 遠ざかる侯爵邸が、ファンニには得体の知れない他人の屋敷のように映った。




 カルヴォネン公爵邸。公爵夫人スイーリスはファンニと侍女の双方からメリルオト邸での出来事を聞いた。


「それで、侯爵夫人のご容態は?」

「侍医の話では極度の精神的緊張と栄養失調だそうです。何日も放置され腐った食事が室内にありました。毒殺を恐れていたようです。


 侯爵夫人は眉間にシワを寄せて記憶を探った。

「アンニカ・ハルキン。以前から使用人には過酷だと噂だったけど、修道院でも矯正できなかったようね」

 侍女は次いでレータと入れ替わってメリルオト邸の情報を探っている同僚の事を報告した。


「サイラは無事に潜入しました。彼女なら侯爵夫人と下働きの一人二役を難なくこなし情報を得ることでしょう」

「そうね。今現在得たものはあるの?」

「メリルオト侯爵は首都を離れたようです。少なくともここしばらく侯爵邸で見かけた者はおりません」

「領地に行ったというの? でも、それなら人目を避けるような真似は必要ないはず」


 公爵夫人は傍らの文箱から数枚の紙を取り出した。王国内外の異変を伝えるものだ。中の一枚に彼女は目を留めた。

「ハルキン伯爵家の次男が姿を見せない。社交の誘いを全て断っている。あの遊び人が」


 彼女の中で伯爵子息の資質はメリルオト侯爵に重なるものが大きかった。

「メリルオト侯爵とは親戚関係だったわね。アンニカ・ハルキンの末弟の孫だったかしら」

「伯爵家は嫡男と次弟の死亡で末弟が暫定的に当主の座に就いたものの、不満分子が反対して係争中ですが、それですら名が上がらないようです」

「中身は推して知るべきね」


 辛辣な口調で切り捨てた公爵夫人は、執務室に入ってきた娘たちに尋ねた。

「シェルヴィア、サネルマ。ファンニ嬢の様子はどう?」

 華やかな姉妹は母親に笑顔で答えた。

「侯爵夫人の様子に動揺していましたけど、サロモンが慰めていますわ」

「侯爵家を支配する祖母になびくかと思ったけど、よく踏みとどまったわね」


 二人の回答に公爵夫人は軽く頷いた。

「あの親子は今でこそ侯爵家の令夫人とご令嬢でも、妾と隠し子でいた時間の方が長いのよ。アンニカ・ハルキンが牛耳る侯爵邸が楽園とは思えないし」


 姉妹は大げさに身震いした。

「レータ様は正式に侯爵夫人になられたのに、どこか余裕がない印象でしたわ」

「ファンニ様はそんな母君の顔色をうかがって行動していましたわね」


 彼女たちは弟の婚約者について正確に把握していた。

「それでもオーレイリア様と半分血が繋がった方だわ」

「意外に大胆なことでもこなしそうね」


 娘たちの見解も含めてこの先の方針を考えていた公爵夫人は秘書役の侍女を呼んだ。

「公爵領及び近隣の領地全てに通達を。メリルオトとハルキンの領軍の所在を明らかにさせます」

「畏まりました」


 侍女は礼を取り、執事に相談に行った。公爵夫人スイーリスはゆっくりと立ち上がり、娘たちを従えて部屋を出た。



 

 ソルノクート王国北方。『分水嶺』と呼ばれる峻厳なバイランダー山脈。

 その中腹で密かに連絡役を探す者がいた。特定の鳥の声が出せる鳴き笛を吹き、耳をすませては反応を探る。


 やがて、同じ鳥の声が聞こえた。ほっとしたように男はその方角へと急いだ。だが、針葉樹の森に人影はなかった。男は不安げにもう一度鳴き笛を吹いた。

「そう焦りなさんな」


 突然の呼びかけに、男は硬直した。周囲を見回すが誰もいない。

 次第に焦り始める男の背後に草が擦れる音がした。振り向くと、さっきまで誰もいなかったそこに一人の男が立っていた。


「悪い、脅かしたか」

 突然現れた男は淡い水色の目を細めた。待っていた男は何でもないと虚勢を張り、詰問する。


「用件は何だ、こんな所に呼び出すとは」

「他に見聞きされちゃまずいことだからさ」

 事も無げに彼――クレーモラでは『ユッカ』と呼ばれザハリアス陸軍では『ソロン』と呼ばれる男――は答えた。苛立つ相手を面白そうに眺めながら言葉を続ける。

「ロイヴァスへの輸送体は山脈を進んでいる。あれだけの荷物を抱えてればルートは限られるから追跡は簡単だ」


 その説明に待機していた男は頷いた。ソロンは畳みかけるように提案した。

「そっちの『協力』について、うちの大将は懐疑的だ。敵地でいきなり寝返られて全滅なんて恥さらしな真似はできないってな」

「我々を信用できないと?」


 むっとした相手の様子をソロンは内心嘲笑った。そもそもの行動が信頼を裏切る真似なのに、今更傷つく名誉などあるものか。

「いやいや、あんたたちが本気だと分からせてくれればいいんだよ。ちょっとばかし輸送部隊の邪魔をするとか」


 ソロンの提案に男は考え込んだ。そして彼は返答した。

「それはここで答えられるものではない」

 予想内の回答にザハリアスの斥候は鷹揚に笑った。

「だろうな。じゃ、返事は今夜、光信号で頼むよ」

 言うなり彼は森の中に消えた。取り残された連絡係は困惑気味に自分の隊に引き返した。


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