22 思惑
王都から慣れない翼竜に乗せられ、強行軍で合流した侯爵ウリヤス・メリルオトは幾分ふらついていた。気の毒そうに彼を見て、領軍を率いて移動してきた青年――オリヴェル・ハルキンが言った。
「無事に到着されてよかった。我が領軍は順調に進軍しています」
「…まったく、あんな物に乗って飛び回る奴の気がしれん」
侯爵は不機嫌さを隠そうともしなかった。針葉樹林の隙間からバイランダー山脈の険しい峰が遠くに見える。革の騎乗服を着ていても冷涼な空気は皮膚に痛いほどだ。まだ冬季にさしかかった時期なのに。
彼の領軍とハルキン伯爵家の領軍をロイヴァスに遠征させ、辺境伯軍とザハリアス軍との戦闘に介入させて両車が疲弊したところで決定的な戦果を上げる。そうすれば彼は救国の英雄の地位を手にできる。
母アンニカにそう告げられた時は栄光の夢に酔いしれる気分だったが、実際に国境地帯の山脈に来た瞬間に現実が押し寄せてきた。若い伯爵子息はともかく、彼に付き従う者には既に疲労の色が見えた。侯爵は自分の領軍の様子が今更気に掛かってきた。
「ザハリアスの軍はどこまで侵攻しているのだ、オリヴェル卿」
「既に国境地帯に陣を敷いています。辺境領軍の出方をうかがっているかと」
「そうか。ロイヴァス側の動きは?」
「静観しているようです」
それを聞き、侯爵は顔をしかめた。
「余裕なのか、打つ手がないのか……」
「ラウダ峡谷での損害はかなり大きかったのでは」
ハルキン伯爵家の次男の言葉に、メリルオト侯爵はにやりと笑った。
「母上が褒めるとおり優秀だな。これが上手くいけば君は次期辺境伯だ。私の上の娘との結婚が条件になるが、ロイヴァスを手中に収めればどうにでもなる。危険な田舎の国境防衛など現地の奴にやらせて、王都で優雅な暮らしができるのだぞ」
侯爵の熱弁に、オリヴェルも狡猾そうな笑みを浮かべた。成功報酬を夢見る二人に、護衛役が移動を促した。
「オリヴェル様、侯爵閣下、そろそろご出発を」
彼らは山脈移動用の大山羊に跨がった。馬と勝手が違うのに侯爵は苦労して手綱を握った。乗ったら乗ったでやたらと揺れる鞍の上で、彼は終始不満たらたらだった。
辺境伯令嬢が率いる輸送部隊は山脈を進んだ。ロイヴァス領まで徐々に高度に身体を慣らしていくルートで、今のところ行程は順調だった。
途中から参加した辺境伯の息子サウルが翼竜カーモスと共に詳しく偵察し、山脈の情報をもたらしてくれることが大きかった。
「この輸送はロイヴァスの命綱同然だからね、協力するのは当然さ」
軽い口調で言いながらも、彼は輸送部隊の安全に油断なく目を光らせた。気さくな辺境伯の息子は部隊の人々ともすぐに良好な関係を築いた。特に若い女性たちからの支持は絶大だった。
メイドの少女キジーは主であるオーレイリアの手伝いや大山羊の世話を担当していた。今日も一日の終わりに偵察の報告をするサウルと受けるオーレイリアの姿が見られた。
大山羊に水と塩を与えながら、キジーは他の者が二人について噂するのを耳にした。
「若様とお嬢様はお似合いじゃないか」
「サウル様の血筋の問題も、オーレイリア様との婚姻で解決するんだし」
「お館様はどうお考えなのか…」
キジーは手を止めた。大山羊たちが塩を求めて手を舐めるまで、彼女は立ち尽くしていた。
そっとサウルとオーレイリアを様子見る。二人は何かを話し合っていた。サウルはいつになく真剣な様子で再従妹を見つめている。キジーは無意識に服の胸元を掴んだ。
彼女の脳裏にクレーモラを航行する「オタヴァ」号でのことが浮かんだ。ロイヴァスに会いたい人がいるというオーレイリアの言葉を。死んだなんて信じないと言った時の涙を堪える表情を。
――あれはきっと、サウル様のことだ……。
それなら彼らを祝福するべきなのに、キジーは胸が塞がれたような感覚に囚われた。それが何なのか分からないまま少女は頭を振って思考を止め、大山羊の世話に戻った。
翌早朝、人々から離れて話し込む辺境伯の子息と姪孫は甘やかさとは無縁な会話をしていた。
「……それでよくここまで…」
「一人で考える時間だけは充分あったわ」
呆れた様子のサウルに、オーレイリアは当然と応えた。
「これを知っている者は?」
「少数よ。ヨーセフ、イエレナ、ソニヤくらいね」
名前の羅列を聞き、サウルは大山羊に餌やりをする少女の方を見た。オーレイリアもキジーに顔を向け、小さく付け加えた。
「あの子には話していないわ」
「それは、信用できないということかな」
「知らない方が安全だと判断したからよ」
むきになってオーレイリアは言い返した。サウルはにやりと笑った。
「芯は強い子に見えるけど」
「よく分かるのね、こんな短い時間で」
辺境伯の令嬢の声ははっきりと棘があった。恐ろしげな顔をする軽薄な仕草に言い募ろうとした時、女性陣を統率するイエレナがやってきた。
「お嬢様、若様、出発の時間です」
二人は頷き、移動用の騾馬に乗るオーレイリアと翼竜で斥候役をするサウルは別れた。
ワゴンの車輪や車軸に異常がないかを見ていたソニヤを見つけ、キジーが尋ねた。
「大丈夫そうですか?」
「うん、異常なし」
ワゴンの下から出てきたソニヤに手を貸し、キジーは荷台の下に取り付けられた配線を確認した。
「それ、何なの?」
不思議そうなソニヤにメイドの少女は答えた。
「お嬢様に言われたんです、この荷物が奪われそうになったら、この線をこの板で挟んで地面に伏せろって」
「……何だか危ない仕掛けな気がするけど、非常用よね」
「何となく、離れに押し入ろうとした連中を撃退した仕掛けに近いかも」
「そんなことがあったの?」
驚くソニヤにキジーは侯爵邸で初めてオーレイリアに会った時のことを説明した。ソニヤは白っぽい金髪を揺らした。
「お嬢様はちょっとした事件があったとしか言わなかったけど、そんなものを作らなきゃならない生活だったなんて」
「ソニヤさんに心配させたくなかったんじゃ…」
宥めるキジーをよそに、ソニヤは鼻にシワを寄せた。
「あのクソ侯爵家、母さん見習って潰しとくんだった」
ソニヤの母、オーレイリアの乳母が侯爵家に解雇され主と引き離された時の暴れ具合はキジーも耳にしたことがある。いつもキジーを罵る下働きの女たちでさえ、生きた心地がしなかったとひそひそ言い合っていたこともあった。
「みんな、ソニヤさんのお母さんのこと灰色熊みたいに怖がってました。お嬢様を直接傷つける人がいなかったのはそのおかげかも」
「確かに、母さん怒らせると熊並みに手が付けられないけど…」
ブツブツ言いながらもソニヤは平常心を取り戻したようだった。顔を上げた彼女は、キジーがある方向を見ているのに気付いた。
それは輸送部隊の上空だった。空に飛ぶ影がある。羽根ではない皮膜の翼が音もなく滑空していた。
「サウル様とカーモスね」
ソニヤは彼らに手を振った。気付いたらしいサウルが相棒を大きく旋回させた。その様子に見とれていたキジーは、ソニヤに肩を叩かれて我に返った。
「クリオボレアスは編隊を組んで飛んでるとすごく勇壮なのよ」
そう言われてメイドの少女は驚きの声を上げた。
「そんなに沢山いるんですか?」
「ロイヴァスの竜騎兵は最強で有名なの」
通常、銃を装備した騎兵を竜騎兵と呼ぶが、この国境地帯では違う。翼竜に騎乗し空から偵察、攻撃を行う部隊をそう呼ぶのだ。
「クリオボレアスは大型翼竜だから、テラノでも装着できない強力な装備を背負って飛べるの」
ソニヤの説明にキジーは思い出した。サウルが自分を灰色熊から救ってくれた時の雷槍砲を。彼が優れた竜騎兵なのは知識の少ない彼女にも分かった。
「サウル様は、次の辺境伯になられるのですか?」
キジーの素朴な質問に、ソニヤは表情を変えた。




