19 冷たい北風
「逃げて! キジー!!」
オーレイリアが叫んだ。銃を構えるが、突進する熊と少女が近すぎて撃てない。
キジーはあまりのことに竦んでしまった。急速に接近する熊の恐ろしい爪と牙が迫るのに、目を固く閉じる。
その瞬間、熊の背後に黒い影が落下した。空気を鋭く切り裂く音が続く。少女に襲いかかろうとした巨大な灰色熊が絶叫した。
恐る恐る目を開けたキジーは、熊の喉から槍の先が飛び出ているのに仰天した。灰色熊は口から血を吹き出し、ぐらりと揺れた。巨体が地響きを立てて倒れる。動かなくなった熊の側を辺境伯の令嬢が走った。
「大丈夫?」
駆け寄ったオーレイリアに抱きしめられても呆然としたままの少女の前に、更に大きな生き物が舞い降りた。それは翼長5サーク(約10m)を超える大型翼竜、『冷たい北風』だった。
その背から若い男性が飛び降りキジーに尋ねた。
「怪我はないか?」
メイドの少女は既視感に混乱していた。以前もこんなことがあった。小さな自分がうずくまり動けずにいたところに降りてきた大きな翼。
「……北風の王……」
無意識に口を突いて出た言葉に驚愕したのはオーレイリアと謎の青年だった。
「何故それを知っている?」
キジーの肩をつかみかけた手をオーレイリアが払いのけた。
「そっとしておいて」
困惑する青年が何かを言いかけた時、ヨーセフが叫びながら駆け寄った。
「サウル様! ご無事でしたか!」
その名に辺境領の令嬢が反応した。
「サウル……」
戦死したマティアスの異母弟の名だ。辺境伯の末息子が生きていたと知り、輸送部隊の人々は口々に聖光輪十字に感謝した。
感涙するヨーセフたちに心配かけたことを詫びたサウルは、改めてオーレイリアの顔を見つめ目を瞠った。
「トゥーリア様? ……いや…、オーレイリア?」
飛行帽を脱いだ彼は相棒の翼竜の首を軽く叩きながら笑った。
「ここで会えるとは思わなかったよ、再従妹殿」
軽く頷くと、気掛かりそうにオーレイリアはキジーの様子を確認した。
「もう大丈夫よ」
あやすように語りかけると、頭を抱え震えていた少女は次第に落ち着きを取り戻した。こわごわと倒れた灰色熊を見て、自分を救ってくれたサウルに視線を移す。
青年は明るい金髪と青灰色の目をしていた。オーレイリアと同じ色だ。助かったのだとようやく実感でき、キジーは息を吐き出した。
癖のある黒っぽい髪と濃い灰色の瞳の少女を興味深そうに眺め、辺境伯の息子は軽薄な口調で話しかけた。
「脅かせてしまったね、お嬢さん。こいつは相棒のカーモス」
彼の側でおとなしく翼を畳んでいた大型翼竜が、挨拶するように頭を振った。
無言で頭を下げるのが精一杯のキジーに、サウルは片手をひらひらさせた。
「この熊はラウダ峡谷で死んだ戦友たちを食い散らかして人の味を覚えた。仕留めなければ麓の町に被害が及ぶから追ってたんだ」
少女たちは人食い熊と大きな翼竜を見比べた。翼竜には見慣れない物が装着されていた。長い筒状の物が鞍の両側にあるのだ。
怪訝そうな視線に気付いたサウルが説明した。
「こいつは槍の発射装置。火薬を使って上空から攻撃するんだ」
「でも、下に向けて撃つには…」
「急降下はカーモスの得意技だからね」
誇らしげにサウルは翼竜の大きな頭を撫でた。クリオボレアスは心地よさげに鳴き声を上げる。
オーレイリアが気遣わしげに彼に尋ねた。
「サウル様は単独で行動されていたのですか? ラウダ峡谷に向かった部隊で生存者は?」
彼は顔を曇らせた。
「極少数だろうし、生き残りがいても戻れないだろう。ラウダ峡谷に出撃する前に、お館様に厳命された。何があろうと任務達成しなければ帰還は許さないと」
「そんな……」
あまりの厳しさに辺境領の令嬢とメイドは顔を見合わせた。サウルは彼女たちに言った。
「詳しいことは話せない。だが、ロイヴァスの運命を左右することなんだ」
オーレイリアはその言葉に頷いた。周囲を気にしながら小声で尋ねる。
「サウル様、さきほどのキジーの言葉が関係しているのでしょうか?」
軽薄そうな領主の息子は、一瞬鋭い視線を再従妹に向けた。しかし、彼はへらへらと笑うだけだった。
「ああ、その子はキジーと言うのか。可愛い名前だ」
その態度にオーレイリアは硬い声で応えた。
「そうです。混乱しているようですし、向こうで休ませます」
彼の助けを一切拒絶し、辺境領の令嬢は小柄なメイドを伴って彼から離れた。
はらはらしながら二人を見ていたソニヤが、すぐさまキジーを座らせて温かなスープを飲ませた。
「まだ手が冷たい」
眉をひそめる乳姉妹の側で、オーレイリアが静かに問いかけた。
「さっき、あの翼竜を見て言ったことを覚えている?」
顔を上げ、キジーは何だったろうと考えた。オーレイリアは小声で言った。
「『北風の王』。そう言ったのよ」
灰色の瞳を見開き、キジーは古い記憶を懸命に探った。年寄りたちが集まると唄っていた古い民謡。彼らしか知らないところに定期的に赴いていた奇妙な風習。
「……バルカの血が甦らせる、北風の王が分水嶺に戻る」
囁くような声で口ずさまれた歌は、ソニヤの顔色も変えさせた。
「……お嬢様、この歌…」
「ミュラッカ村が受け継ぎ守ってきたのがこれなら、根絶やしにされたのも分かるわ」
彼女たちの反応にキジーは困惑した。
「ただの古い歌です。爺ちゃんたちくらいしか知らない」
戸惑うキジーにオーレイリアが説明した。
「バルカ一族は最初の辺境伯と呼ばれた人よ。分水嶺から先の湖沼地帯までが彼らの領地だった」
辺境領はロイヴァス家がずっと守ってきたものだと思っていたキジーにとって、驚きの事実だった。母の手帳に目をやり、オーレイリアは語った。
「約百年前、ザハリアスの帝位継承戦争に巻き込まれて分水嶺まで押し込められ、以来ずっと帝国との国境紛争に晒されてきたわ。領地失陥の責任を取らさせる形で表舞台から消えた彼らの後を継いだのが女婿の家系、ロイヴァス家なの。だから領主だけはバルカ=ロイヴァスと名乗ってる」
オーレイリアはキジーの黒っぽい髪に触れた。
「バルカ一族は黒髪と灰色の瞳が特徴だったから、あなたの村は彼らの血縁者が拓いたのかも知れないわね」
キジーは何度も瞬きした。貧しく質素な暮らしの村とそんな強大な一族と関係があるなどと言われても、全く実感が湧かない。
そして、村の老人たちはどこの山に行っていたのだろうかと必死で思い出そうとした。彼らの足で行ける範囲で、何か特別な物はなかったかと思考を巡らすうち、あることが記憶の淵に浮かんだ。
「……トビウサギとキルシッカの実」
突然の言葉にオーレイリアとソニヤは驚いた。
「この地方の物なの?」
「村の付近にはなくて、爺ちゃんたちがしばらく村を開けて戻ってきた時に土産にしてくれて……」
「それが採れる場所なのね」
「トビウサギは氷の谷付近に生息してます。キルシッカは山脈では珍しいからかなり限定できますよ」
興奮気味に話し合った後、二人はメイドの少女に感謝した。
「ありがとう、キジー。つらいこともあるのに思い出してくれて」
「今日はゆっくり休んでて。あの翼竜がいるから警戒はずっと楽だし」
崖の上をソニヤが指さした。そこには翼を休めながらも周囲の異変を探るようなクリオボレアスの姿があった。
結局『北風の王』が何なのか聞きそびれてしまったが、キジーは疲労感と眠気に勝てず目を閉じた。




