18 山脈へ
パルボラの町では、『オタヴァ』号が曳いてきたはしけから順調に積み荷が荷車に移されていた。
「この調子なら、昼までに出発できそうね」
満足げにオーレイリアが呟いた。隣で聞いていたキジーはワゴンに繋がれた大山羊に目を奪われていた。
「あんな大型種、初めて見ました」
険しい山道を進むのに適している偶蹄目は山脈地帯の輸送に使役される。「大山羊」とひとくくりにされているが、大きさも性質も多種多様な生き物だ。オーレイリアの輸送部隊に用意されたのはバイランダー種。この山脈を踏破するために作り出された種である。飾り毛の着いた太い足は無骨で速度は遅いが、頑丈で耐久性に優れている。
「短期間によく揃えてくれたわ」
輸送部隊を指揮するヨーセフに辺境伯の令嬢は微笑んだ。彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「いや、みんなトゥーリア様の忘れ形見が戻ってくると知って協力者が後から後から湧いてくる状態で…」
「お母様はロイヴァスの人々に愛されていたのね」
オーレイリアは自身に言い聞かせるように彼らの言葉を受け止めた。今は母の評判に助けられていても、これからは自分自身で辺境領に必要な人材であることを証明し、彼らの信頼と尊敬を勝ち取らなければならない。
クレーモラに浮かぶ『オタヴァ』号を見れば、こちらもせっせとはしけに代わりの荷物を積んでいた。
「空で帰る訳にはいきませんからね。この地方の特産物を王都に運びますよ」
水先案内人のユッカがよく通る陽気な声で説明した。彼は私物を詰めた袋を肩に掛けていた。
「船に戻らないの?」
「少しこっちでゆっくりしてから別の船で王都に行きます。代わりの奴もいるし」
見れば二本マストの帆船では別の水先案内人が水深を測っていた。オーレイリアは頷いた。
「そうなの、お疲れ様」
帽子をひょいと上げて、ユッカは人混みの中に消えていった。その間にも荷車には続々と大山羊が繋がれていく。オーレイリアは乳姉妹とメイドを振り向いた。
「用意はできた?」
「はい、お嬢様」
彼女らはオーレイリア同様に動きやすいズボンと長靴、皮の上着を着ている。辺境伯の令嬢は服の胸元を握りしめた。
――ここまで来ました、お母様。必ず、あなたのロイヴァスに到達して見せます。
やがて出発準備の完了報告が届けられた。ヨーセフがオーレイリアを見る。彼女が頷くと、輸送部隊指揮官はクレーモラの水面を揺るがすような声で命令した。
「出発だ!」
パルボラの人々が去って行く部隊に手を振る。ソニヤの又従姉妹メーリは涙ぐみながら叫んでいた。
「ロイヴァスの分水嶺の栄光を!」
地元の毛深い小柄な馬に乗る者、大山羊を引く者、銃を持ちワゴンの前後で警戒する者。細長い車列となった輸送部隊は山脈へと続く道を登り始めた。
パルボラの町を見下ろす崖に這うようにして彼らを観察する者がいた。
彼は双眼鏡を見ながら輸送部隊の大まかな構成を書きとめた。背後から茂みをかき分ける音がし、観察者は身構えた。しかし、彼はすぐに苦笑じみた表情になった。
「お前か。そっちの仕事は済んだほのか」
「ああ、連中の装備から何から把握してる。あの黒馬に乗ってる赤毛が例の姫君だ」
双眼鏡で確認し、観察者は頷いた。
「あれは目立つな。間違えようがない」
その言葉を聞きながら、茂みから現れた男は担いでいた袋から取り出した衣類に着替えた。一見、ごく普通の山岳民のような服装になった男に、観察者が懐から取り出した物を手渡した。
「そら、これを装備しておけ」
布にくるまれていたのは拳銃だった。慣れた様子で装弾数を確認し、男は上着の内側に収めた。
輸送部隊の行き先を見届けた観察者は彼を振り向いた。
「隊に合流するぞ、ソロン」
ザハリアス名で呼ばれた男は薄水色の目を細め、荷袋を担ぎ直した。
風ツバメがもたらした伝文を読み、ザハリアス帝国陸軍少佐ニキアス・ゼファーは軽く頷いた。
「ソロンは無事合流できたようだな」
満足げな彼に、副官が気掛かりな情報をもたらした。
「斥候から連絡が入った。西方から移動してくる部隊があるらしい」
「西方?」
帝国の陸軍で国境地帯に進んだのは彼らの遊撃隊だけだ。王都からの報告ではソルノクート王国の正規軍に動きはない。
「貴族領軍か? どこの者かは分かるか?」
「紋章入りの軍装だとか。資料によるとハルキン伯爵家のものだ」
「ハルキン……」
ロイヴァスとも帝国とも関わりがなかった家だ。ニキアスは怪訝そうな顔になった。
「わざわざ正体を晒す理由は何だ? 狙いが分からないうちは迂闊に動けんな」
上官の言葉に副官も賛同した。
「偵察は付けておく。敵対行動の気配があれば」
「即叩き潰せばいい」
陸軍将校の言葉にためらいはなかった。
ロイヴァスの輸送部隊は交替で大山羊の手綱を引き、次第に険しくなっていく道を進んだ。ワゴンの側には銃を持った者が周囲に目を光らせている。
この時期、警戒するのは敵対者だけではない。冬眠に入る前の餌を探す動物も脅威になるのだ。
「冬前に山に入る人は必ず大きな鈴を付けてました」
キジーが幼い頃の生活を回想した。この地は初めてとなるオーレイリアはメイドの少女に質問した。
「やっぱり熊や狼が危険だから?」
「冬眠前は餌の取り合いだから、小さい奴も油断できないんです。こっちの食べ物を横取りしようとするし」
「それは確かに厄介ね」
辺境伯の令嬢は納得し、側で聞いていたソニヤは笑った。
「雪貂も結構凶暴ですよ。王都の人は毛皮しか知らないだろうけど」
「そうね、私もお母様のケープでしか見たことないわ」
日が落ちて暗くなると輸送部隊は焚き火の周囲に集結する。動物よけの薬草を周辺の木に塗りつけ、大型肉食獣の痕跡がないかを観察したキジーはヨーセフに報告した。
「足跡や爪痕はありません」
「分かった。大山羊の世話の手伝いを頼むよ」
「はいっ」
干し草を食べる大山羊のために、キジーは沢に水を汲みに行った。
「あまり離れないでね」
オーレイリアの忠告に片手を上げて返事をすると、彼女は用心深く水音を辿った。幸い宿営地の近くに綺麗な水を汲める場所があった。
不意に何かの気配を感じ、キジーは空を見上げた。木々の合間に夕焼け空が覗く中、木から木へと小動物の群れが移動していた。
「赤リス? 何で……」
上の方で異変があるのでは。その思いに駆られ、キジーは急いで宿営地に戻った。
「どうしたの?」
息せき切って駆けてきたメイドの少女にオーレイリアが尋ねた。
「赤リスが上から群れで木を渡ってて。もっと暗くなってから活動するのに」
オーレイリアはすぐにヨーセフの元に行った。
「動物が妙な行動をしているみたい」
「どっかで小競り合いですかね。物音や火薬の臭いがすればあいつらが気付きそうなもんだが」
彼が視線を向けた大山羊たちはいたってのんびりと草を食んでいる。それを安心材料にして人々は笑おうとしたが、不発に終わった。
突然大山羊が首を大きく振り、蹄で地面を掻きだしたのだ。
「どうした?」
一人が宥めようとしたが、大きな二本角を持つ生き物は暴れ始めた。輸送部隊の側を小動物が麓に向けて駆け抜ける。
「気をつけろ!」
銃を構える彼らの前に、恐ろしく大きな影が出現した。体長1サーク(約2m)を超える灰色熊だった。鼻息荒く大山羊の群れを見た熊は、ロイヴァスの人々への顔を向けた。巨体に似合わず敏捷に走り出す先にはメイドの少女がいた。




