17 上陸の町
真っ先に桟橋に飛び降りたのは悪戯な妖精のようなソニヤだった。船を迎えるパルボラの人々の中に見知った者を探し出し、手を振る。
「メーリ姉さん!」
「ソニヤ! よく来たわね!」
彼女と似た白っぽい金髪の女性が駆け寄り抱擁し合う。しばらくしてメーリは船から下りてきた人に気付いた。
「……あの方が?」
「そうよ、オーレイリア様よ。私たちのロイヴァスに戻ってこられたのよ!」
興奮する乳姉妹にオーレイリアは声をかけた。
「そちらはどなたなの、ソニヤ」
「又従姉妹のメーリです」
「メーリと申します、オーレイリア様。よくぞここまで……」
ソニヤより頭半分背の高い女性は感激に涙ぐんだ。忠実だった乳母に連なる血筋の人なら信頼できる。彼女はそう判断して笑いかけた。
「乳母やはメリルオト侯爵家に解雇されて追い出されるまで、それは勇敢に抵抗してくれたのよ。あの家の門には今でも乳母やの破壊の痕があるわ」
ソニヤとメーリは揃って乾いた笑い声をたてた。オーレイリアは懐かしげな顔をした。
「出て行く時に、もし私に何かあれば一族郎党を引きつれてロイヴァスから駆けつける、絶対に容赦しないと侯爵たちに宣言したのよ。おかげで、命に関わる嫌がらせはなかったわ」
「それ以外はあったのですね」
メーリの声と周囲の気温が急激に低くなった。苦笑しながらオーレイリアは受け流した。
「詳しいことはソニヤとキジーから聞いてちょうだい」
小柄な黒っぽい髪の少女が彼女の後ろからおずおずと顔を出した。メーリが視線で問うのにソニヤが応える。
「あの侯爵邸でお嬢様の味方をしてくれた子よ。お嬢様と一緒にここまで来たの」
「まあ、こんなに小さいのに」
メーリは少女の健気さに目を潤ませた。そして、立ち話が長すぎることに気付き、慌てて辺境伯の令嬢たちを家に招いた。
「宿屋もこれでは一杯でしょう。ぜひ我が家にお泊まりを」
「ありがとう、厚意に甘えさせてもらうわ」
オーレイリアはメーリに案内されて桟橋を離れた。ちらりと『オタヴァ』号を振り返り、荷下ろしが行われる様子を確認し、彼女は小さく頷いた。
ソニヤの又従姉妹メーリが嫁いだのは森林監督官代行の家だった。パルボラで最も大きな住居を持ち、王家直轄地の森林を守っている。
ロイヴァス辺境領の人々は彼の地位に納得できた。山岳地帯の住人にとって山は畏怖と信仰の対象である。食料や木材、野生動物などの恵みをもたらし、同時に容赦ない猛吹雪や雪崩などで簡単に人の命を奪う。
ソニヤやキジーと一緒の部屋でオーレイリアはくつろいだ。
「家で寝るのが久しぶりに感じるわ」
「あれも良い船でしたけど、やっぱり落ち着きますね」
ソニヤの言葉にキジーも同意した。窓からは桟橋がよく見える。荷下ろしは夜中でも続行されていた。
銃器類や火薬などは全て樽の中に収められ、越冬に必要な品々に偽装されている。
「どのくらい誤魔化せるかしら」
国内のメリルオト侯爵家だけでなく、辺境伯の継嗣を襲った者たちもこの輸送部隊に注目しているだろう。
そう考えていると、メーリに呼ばれたソニヤが通信文を持ってきた。
「風ツバメからの報告文です」
小さく畳まれた紙を広げ、オーレイリアは内容に目を通した。そして意外そうな声を出した。
「ハルキン伯爵領の領軍が北に移動?」
聞いたことのない家の名に、キジーは首をかしげた。
「どこの伯爵ですか?」
オーレイリアは皮肉げに口角を引き上げた。
「現メリルオト侯爵の実母の実家。お母様の件でお祖父様に離縁されて修道院に送られたと聞いたけど」
彼女にとっては祖母に当たる女性の出身地と言うことになる。オーレイリアの反応からして父親以上に嫌悪感があるようだが。
ソニヤが別の情報を持ち出した。
「確か、あの伯爵家は当主が亡くなって相続で揉めているようです」
「それにつけ込んで領軍を動かした者がいるのね。ソニヤ、アンニカ・ハルキンの居場所を確認するよう伝えて」
「はい、お嬢様」
すぐさまソニヤは部屋を出て行った。溜め息をつくオーレイリアに、キジーが不安そうに尋ねた。
「オーリー様、その人は敵なのですか?」
「少なくとも母にとってはね。母が侯爵邸で静養したのは侯爵と夫人が別居同然で息子は母親についてほとんど戻ってこなかったからよ。それを侯爵の留守中に忍び込むような真似をして母を襲ったのは侯爵夫人の入れ知恵だったの」
「どうしてそんなこと…」
「母が侯爵邸に持ち込んだ衣装や家具、王都での滞在費としての支度金に目がくらんだようね。息子にあてがえば自由にできるとでも思ったのかしら」
あの侯爵と後妻以上にたちの悪い者がいたのかと、キジーは怒りで目眩を覚えた。オーレイリアは遠くを見るような表情で続けた。
「先代侯爵、お祖父様の怒りの激しさは計算外だったようね。事が露見すると同時に離縁されるなんて思わなかったでしょうから。でも、侯爵家も代変わりして息子が実権を握り、修道院に放逐した実家の監視が緩めば何をするか分からないわ」
「気をつけなくてはいけないんですね」
キジーは大きく頷いた。少女の肩に手を置き、オーレイリアは別の事を語った。
「ミュラッカ村を襲撃した者の正体も調査しているわ。判明したらあなたの好きにすればいい。私は全力で協力する」
家族の、無残に殺された村の人々の恨みを晴らせる。身震いする思いでキジーはオーレイリアの瞳を見つめた。
ソルノクート王国南部。首都アームンク。貴族街の中でも豪壮なメリルオト侯爵邸は奇妙な空気の中にあった。華やかな次女ファンニは婚約者の家であるカルヴォネン公爵邸に連れて行かれたきり戻ってこない。
『亡霊』と呼ばれるほど存在感が薄かった長女オーレイリアは母の実家ロイヴァス辺境領へと旅立ってしまった。
妙齢の令嬢たちがいない屋敷は空虚さが漂っていた。つい最近までは。
「まったく、ベルを鳴らしてから何分経ったと思っているの? おまえの足は飾り? ああ、なら、なくても構わないわね」
カップを投げつけられたメイドは、蒼白な顔で平伏した。
「申し訳ございません、大奥様」
それに目もくれず、元侯爵夫人アンニカは従僕に命じた。
「この役立たずを庭に連れて行って、足を50回鞭打ちなさい」
「しかし、それでは……」
「骨が折れて使いものにならなくなれば、放り出せば良いわ」
へたり込んでしまったメイドを、従僕は部屋から引きずり出した。
「お許しください、大奥様! 二度と粗相はいたしません! お願いです! 誰か助けて!」
泣き叫ぶ声を煩わしそうに追い払い、元侯爵夫人は入れ直させたお茶の香りを楽しんだ。
「……あの、お義母様」
震える声で呼びかける息子の嫁レータに、彼女は冷たく答えた。
「侯爵夫人と呼びなさい。まったく、没落した男爵家の娘が侯爵夫人面だなんて、いい笑いものだわ。あの娘、トゥーリアは血筋だけはよかったのに」
最も憎んだ女と比較され、レータの頬に赤みが差した。さっきから一言も口を挟めずにいた現侯爵ウリヤスが必死に母を宥めようとする。
「母上、こうしている間にも恩知らずなオーレイリアはロイヴァスに向かっているのですが…」
元侯爵夫人はさも馬鹿にしたようにせせら笑った。
「その程度のことに手も打てないとは情けない。あの家は跡継ぎが戦死してたがが緩んでいるのよ。無力な小娘の手土産に縋るほどにね」
「では、主力が壊滅という噂は」
「少なくとも長男の部隊はラウダ峡谷で壊滅させられたようね。ことあるごとに王国の守護神を気取ってきた田舎者が、分不相応な真似をするからよ」
王国の防衛の要となってきた辺境伯に対して感謝のかけらもない言葉だった。幾分腰が引けた様子で、それでもウリヤスは母に質問した。
「しかし、あの領軍の強さは抜きん出ています」
「傭兵崩れが相手なら誰でも勝てるわ。でも、正規軍なら? それも西方大陸屈指の列強国の」
侯爵は息を呑んだ。
「それは、まさかザハリアスの?」
「言葉を慎みなさい」
ぴしりと息子の口を塞ぎ、アンニカは楽しげに笑った。
「ハルキン伯爵家の領軍は既に移動しているわ。ロイヴァスでも勝てなかった敵を打ち払うのはあなたよ。私の可愛い息子」
骨張った指で頬を撫でられ、侯爵は全身を震わせた。それが戦慄なのか興奮なのか、彼自身にも不明だった。
傍観者の立場に追いやられたレータは夫と義母を言葉もなく見つめた。暖炉の火に赤い光沢をまとう元侯爵夫人の髪がひどく不吉なものに思えた。




