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13 峡湾への出発

 某貴族家の醜聞は朝日がさすよりも早く王都に広まり、貴族階級から平民層まで等しく笑いをもたらしていた。

 しかし、笑い事ですまないのがメリルオト侯爵家だった。


「まったく、とんだ恥さらしなことを…」

 当主ウリヤスは苦々しげに夫人レータを見た。ぐったりと長椅子に横たわる彼女は、幾分弱々しく言い返した。

「どうしてもあの娘をこちらの手駒にしたかったのよ」


 ついでに自分たちを馬鹿にした報いを与えてやるつもりだった。最も屈辱的な方法で。それがこの有様だ。

 侯爵は苛々と室内を歩き回った。

「今この時にも王都じゅうに我が家の噂が面白可笑しく駆け巡っているのだぞ!」

 まったく忌々しい!」


 椅子を蹴り飛ばしかねない勢いで、侯爵は怒鳴った。頭痛を堪える表情で夫人は額を押さえた。そこに、手紙を乗せたトレーを持った従僕がおどおどと入室してきた。

「旦那様、お手紙です」

 不機嫌そうに手を伸ばした侯爵は差出人を見て驚愕の表情を作った。


「メッツァ修道院だと? ……まさか」

 開封した手紙の文面を読み進めるうち、彼の口元が歪んでいった。

「レータ、母上からの便りだ。どうやら実家のクルキネン伯爵家が代替わりしたことで監視が緩んだらしい」

「まあ、お義母様から」


 上体を起こし、夫人も手紙を読んだ。彼女の唇がにやりと口角を上げる。

「素晴らしいわ。あの方のお力添えがあるなんて」

「ああ、見ていろよ。ロイヴァスを空洞化させて必ず実権を手に入れてやる」

 侯爵夫妻は起死回生の一手が転がり込んできたことに驚喜した。




 ソルノクート王国北方、ロイヴァス辺境伯領。西方大陸の列強の一角をなすザハリアス帝国との国境がここにある。


 ポラリス半島の付け根にあるソルノクートは百年以上にわたって北の大帝国の圧迫を受けてきた。帝国が伸張し周囲の小国を踏み潰すように拡大する中、南西部のロウィニア王国と並んで屈しなかった数少ない国だ。


 ソルノクートもロウィニアも国境地帯に最強の軍隊を駐屯させていた。いずれも山岳地帯に特化した屈強の兵士で構成された防衛軍だ。

 大陸の凍海に近いソルノクートは敵軍の上に雪と峻厳な山脈との戦いも加わる。それでも辺境領軍は果敢に戦い帝国の侵攻を幾度もはね除けてきた。


 今、武勇の誉れ高い一族を率いるロイヴァス辺境伯家の当主、ヨハンネスは吹きさらしの見張り台に立っていた。

「お館様、そろそろ中に……」

 忠実な家令が声をかけるが、彼は微動だにしなかった。鋭い灰色の目は帝国に接する北東ではなく、南の空に向けられていた。


 曇天の中、何もないように見える一角を指さし、ヨハンネスはにやりと笑った。

「来たぞ」

 小さな点が雲の下にあった。それは見る見るうちに大きくなり、中型の鳥の形となった。長距離伝令に用いられる風ツバメだ。ヨハンネスが差し出す腕に鳥は留まった。餌をやり、足に取り付けられた伝文管から彼は小さな紙を取り出した。


「ソニヤからだな。我が姪孫(てっそん)は無事に侯爵家から脱出したようだ」

「オーレイリア様が…」

「トゥーリアの持参金をことごとく武器に変えて手土産に帰参するとある」


 家令は目を丸くした。先代の一人娘の忘れ形見が侯爵家で冷遇されていることは聞き及んでいたが、これほど早くロイヴァスに必要なものを調達するとは予想外だったのだ。

 彼の顔を見て辺境伯は豪快に笑った。


「あの強欲な連中から遺産を守り抜いた手腕といい、国境の異変を察知するなり武器を買い付ける思い切りの良さといい、姪は面白いものを残してくれたようだな」

 主の笑う声を家令は久しぶりに聞いた気がした。彼の息子たちの部隊がラウダ峡谷で全滅して以来だ。


「歓迎の用意をしますか?」

 それにはヨハンネスは首を振った。

「全てはあれが無事にここに辿り着いてからだ。儂が手を貸しては口さがない者がうるさかろう」


 ロイヴァス辺境伯は直系の血統を最も重んじる。その理由を知る家令は最後の質問をした。

「もし、マティアス様の部隊の生存者がいたらどうされますか」

 ヨハンネスは振り返らなかった。白いものが増えた髪が強風になびく。

「知れたこと。作戦を完遂させるまでだ」

 強い決意に満ちた声は風にもかき消されることはなかった。

 既に冬空となっているロイヴァス辺境領は新たな風を待ちわびているようだった。




 王都アームンク、ロイヴァス辺境伯邸。


 書斎で地図を広げ、オーレイリアは北部からの応援部隊に旅程を説明した。

「山脈の南端までは、クレーモラ湾を遡上するわ」


 クレーモラは峡湾、峡江とも呼ばれるポラリス半島特有の湾だ。山脈の氷河が地面を削りながら北洋まで達した後に海水が流れ込み、約5ハロンの崖に挟まれた幅5ハロンの湾が遙か内陸まで続いている。ソルノクート王国にとっては流通の要とも言える大水路だ。


 輸送部隊のリーダー、ヨーセフも同意した。

「最善策と思います、お嬢様。今は風も北洋から吹き上げる季節ですし」

「湾の突き当たりに荷揚げできる浜があるから、そこからは大山羊に曳かせた橇を使うつもりよ」

「では、ロイヴァスのお館様に連絡を」

「頼みます」


 いよいよだという気分が人々を昂揚させた。オーレイリア付きのメイドのキジーも、初めてクレーモラ湾を見られることに興奮していた。

「話に聞いてたんだけど、全然想像付かなくて」

「私も見るのは初めてよ。海と違って波がないから船酔いはしないと聞いたけど」


 辺境伯令嬢の言葉にキジーは考え込んだが、やはり実感できなかった。

 彼女たちにオーレイリアの乳姉妹ソニヤが声をかけた。

「荷吊りをお手伝いします、お嬢様」

「ありがとう」


 さりげなく近寄るソニヤに、オーレイリアが小声で尋ねた。

「紛れ込んでいるかしら」

「多分」


 辺境伯邸は荷運びをする者がひっきりなしに出入りする状況だ。おそらく、メリルオト侯爵の息のかかった監視者もいるだろう。

「どうせこれだけの量では隠れて運び出すことなどできないし、見たければ見せてやるわ。他の貴族では許可が下りない大量の武器移送も辺境伯なら無条件でできるのだから」


 主の言葉にソニヤは頷き、キジーはこれまでとは違った緊張感に囚われた。

 ――ここからは敵がどこにいるか分からないんだ。

 メリルオト侯爵家では自分達二人以外全てがオーレイリアに悪意を持って接していた。彼女と親しくなるにつれ、キジーは家族とも思えない仕打ちに義憤を抱いたものだ。


 今、檻のような侯爵家から脱出したことと引き換えに誰が敵なのか判然としない油断できない状況になっている。

 キジーは庭の人々を見渡した。疑いを持てば誰もかも怪しく見えてしまう。メイドの少女は首を振った。


 忠実なメイドの様子にオーレイリアは笑いを堪えた。

「キジーったら、毛を逆立てた子猫みたいね」

 そして他に聞かれないように乳姉妹に囁いた。

「あなたたちが来てくれなかったら傭兵を雇うしかなかったわ。そうしていたらあの子をミュラッカ村の記憶で追い詰めて暴発させてしまったかも」


 ソニヤは神妙な顔で同意した。

「あんな経験をした子にそんな思いさせるなんて、考えたくないです」

 真顔で不審者を見つけようと窓を睨んでいるメイドを二人は見守った。


 やがてニーメラ港のアロネン商会支部から連絡が入った。

「船が契約できたわ。みんな、出発の準備をして」

 オーレイリアが弾んだ声で伝えると辺境伯邸に歓声が上がった。


「さあ、明日までに片付けるぞ!」

「やっと帰れるんだ!」

「ロイヴァスの分水嶺の栄光を!」


 驚くキジーにソニヤが説明してくれた。

「国境のバイランダー山脈を『分水嶺』と呼ぶのよ。あそこを突破されたらこの国は帝国に隷属するしかないから」


 そこまでぎりぎりの状態で国境を守ってきたのかとキジーは感歎する思いだった。ソニヤの声に悲惨さはなかった。

「あたしたちの誇りなの。これからはあなたの誇りになるのよ」

 メイドの少女の手を握り、ソニヤは屋敷の廊下を急いだ。

「さあ、荷造りしなきゃ」

 少女たちは慌ただしく活気に満ちた空気の中を歩き出した。

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