10 『亡霊』の解放
後方に控えていたキジーは、オーレイリアの毅然とした態度に誇らしい気持ちで一杯になった。
――お嬢様は、どれだけ長い間この日のために準備してきたんだろう。
簡単でなかったことはメイドの彼女にも分かる。母と祖父を相次いで亡くし、味方のいない侯爵家で生き抜き、更に自由を得て母の故郷に行くための計画を遂行してきたのだ。クロニエミという協力者がいたとしても、不安に襲われ心が揺らぐ時もあったはずだ。
――でも今、お嬢様は誰よりも輝いて見える。
憎悪を隠そうともしない侯爵夫人や、ずっと下に見ていた姉に物の価値も分からないと思い知らされて憤るファンニ。これまで雲上の人に見えた貴族家の人たちが何故だか卑しく思えた。
予想外の成り行きにうろたえるサロモン公子が救いを求めるように母親に声をかけた。
「母上、これは……」
「あなたも苦労するわね。あの娘を伴侶に選ぶなんて」
公爵夫人は人ごとのように笑った。彼女の娘たちは、弟に向けて容赦なく事実を突きつけた。
「公爵家にも匹敵する辺境伯の血を受け継ぐご令嬢よりも、見目が良いだけの没落貴族の娘を伴侶に選んだのはあなたよ」
「あの子が公爵夫人になって、あなたが没落しないと良いわね」
顔を引きつらせる若き公子に母が追い打ちをかけた。
「社交の場で恥を掻かない程度の教育は必要ね。まずは母親から引き離すことかしら」
その言葉に侯爵夫人レータがぴくりと反応した。ファンニも大きく目を見開き、母と公爵夫人を交互に見た。優雅な笑顔で公爵夫人スイーリスは彼女に告げた。
「今のままで公爵夫人になれるとでも?」
それは優しい恫喝だった。婚約を反古にすることなどいつでもできると宣言したも同然の。
しばらく固まった後、ファンニは令嬢たちに頭を下げた。
「よろしくお願いします、お義姉様方」
公爵家の姉妹は視線を交わして微笑んだ。
「歓迎するわ、ファンニ嬢」
「大丈夫、ニーロラ夫人に教われば完璧な公爵夫人になれてよ」
その様子を見た公爵夫人はくすりと笑った。
「利に聡い子は嫌いではないわ」
溺愛していた次女があっという間に実の親から義家族に乗り換えるのを見て、メリルオト侯爵は長女を睨みつけた。
「……これがお前の復讐か」
「何のことでしょう、全てはあなた方が選択した結果ですが」
それだけ言うと、オーレイリアは時間が惜しいとばかりに公爵夫人に言った。
「すぐにお屋敷に届けさせます」
華やかな公爵夫人は満足げに頷いた。
「王宮の方々に妬まれてしまいそうね。アロネン商会は必ず約束を果たします」
「……ありがとうございます」
深々と礼をするオーレイリアに、スイーリスは優しく語りかけた。
「まだ道に立ったばかりですよ。正々堂々と帰還されるといいわ、ロイヴァスのお嬢様」
母に倣い、娘たちも礼を取った。
「どうかご無事で」
「妹君のことはご心配なく」
ファンニの隣で複雑そうな表情を浮かべていたサロモンですら頭を下げた。
その前でオーレイリア・ロイヴァスは誇らかに立っていた。
やがて彼女は感涙を堪えていたキジーに手を差し伸べた。
「ようやく出発できるわ。一緒に来てくれるわね?」
「はい、お嬢様」
手を取り合う少女たちを眺め、商人クロニエミは大きく息を吐き出した。
「ご覧になっていますか、先代様。トゥーリアお嬢様。辺境領の後継が王都の檻から飛び立ちますよ」
荷を下ろしたような顔で、彼は旅立ちの支度に取りかかる少女たちを眺めた。
空は青く、秋の風が庭園を駆け抜けていった。
その夜、離れに訪ねてきた者がいた。
「お久しぶりです、お嬢様」
旅装で挨拶をしたのはオーレイリアやキジーと同じ年頃の少女だった。最初戸惑っていたオーレイリアは、相手の中に見知った顔を見つけたようだった。
「……もしかして、ソニヤ? 乳母やの…」
白っぽい金髪の少女は嬉しそうに笑った。
「そうです! 乳姉妹のソニヤです!」
「わざわざ王都まで来てくれたの? 乳母やは元気?」
「息災ですよ。一緒に来るんだって聞かなくて。膝が悪いのに。さっさと置いてきましたけど」
大仰に溜め息をついたソニヤに、オーレイリアは抱きついた。
「ここで会えるなんて思わなかった、嬉しいわ」
再会の喜びが一段落した後、元侯爵令嬢はメイドを紹介した。
「この子はキジー、私の世話をしてくれているの。ロイヴァスに同行してくれるわ」
ソニヤはメイドの少女を意外そうに眺めた。
「キジー…、『キザイア』の愛称ですか? 北部に多い名ですね」
「出身はミュラッカ村よ」
短い返答にソニヤは顔色を変え、無言で頷いた。そしてそばかすの浮いた顔に人好きのする笑みを浮かべた。
「あたしはソニヤ。母はお嬢様の乳母をしていたの。よろしくね、キジー」
「…あ、はい。よろしくお願いします」
挨拶が終わるとソニヤは離れのホールを見渡した。
「家具は搬出済みですね。お嬢様たちの荷物は?」
「身の回りの物ならすぐに鞄に詰めるわ。キジーは?」
問われてメイドの少女は答えた。
「あたしも、荷物なんて元々ほとんど無かったし」
令嬢の乳姉妹は二人に計画を打ち明けた。
「それでは、すぐにご用意を。伯爵様のお屋敷に皆集まっています」
真剣な声に急を要する事態だとオーレイリアは察した。すぐにキジーに告げる。
「荷造りをしましょう。最低限のものでいいわ」
「はいっ」
すぐに鞄を取り出すキジーを見て、ソニヤは納得顔だった。
「働き者のようですね。余計な質問をしないのも良いし」
「良い子よ。ただ、あの村のことはまだ教えていないけど」
「知らない方が安全なこともありますよ」
そう言ってソニヤもオーレイリアの荷造りを手伝った。
夜が更け、メリルオト侯爵邸が常夜灯のみになると、密かに離れに接近する人影があった。二人連れだが、一人は明らかに腰が引けた様子だった。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
「静かに」
連れの青年を黙らせたのは侯爵夫人レータだった。青年に離れの一部屋を指さしてみせる。
「ほら、あの灯りが点いているのがあの娘の部屋よ」
「二階か。窓に登れそうなのは…」
考え込む青年の前にレータは鍵を取り出した。
「これが裏口の鍵。さっさと行って首尾を遂げなさい。あそこには男手もないのだから簡単でしょう」
「そうは言っても、バレたら大事なんじゃ…」
「このまま名ばかりの男爵家で終わるつもりなの? あの娘をものにすればロイヴァス辺境伯になれるのよ」
王国随一の武力を持ち『北の守護者』と称えられるロイヴァスの当主という未来は、青年を力づけたようだ。
「そうだよな、バレたってあっちが誘ったって言えばいいだけだし」
楽観論を口にしながら青年はゆっくりと離れの裏口を解錠した。暗い室内を小さなランプを頼りに足音を忍ばせて進んでいく。
甥の姿が屋内に消え、レータはその後に起こる光景を想像して昏く笑った。
「笑えるじゃない。母娘で同じ目に遇うなんて」
だが、期待していた物音と悲鳴はいつまで経っても起きなかった。レータは怪訝そうに裏口から中を覗いた。奥の方からくぐもった声が微かに聞こえる。
「クスター? 何があったの?」
呼びかけると切れ切れに救いを求める声がした。レータは廊下を進んだ。ホールに出たところで足裏に何かを踏んだ感触があった。ほぼ同時に彼女は足を取られ倒れかけた。だが、次に襲ってきたのは転倒の苦痛ではなく浮遊感だった。
「何? 何なの?」
レータを捕らえたのは網だった。暴れるほど絡まり身動きできなくなっていく。焦る彼女の耳に情けない声が届いた
「こんなの聞いてないよ、叔母さん」
同じように網に捕まり宙づりになっているクスターを見てレータは激怒した。
「オーレイリア! 何の真似なの!?」
それに応えたのは嘲笑だった。二人は声がした方を同時に見た。ホールの階段手すりに誰かが座っている。




