1 『亡霊』侯爵令嬢
久しぶりの連載です。2話目は今夜投稿予定です。
陽気な楽の音に笑い声が重なる。
西方大陸ポラリス半島に位置するソルノクート王国の首都アームンク。王宮を取り巻く貴族街の中心部、メリルオト侯爵家は宴もたけなわだった。
侯爵ウリヤスが溺愛する次女ファンニと、大貴族カルヴォネン公爵家の嫡男サロモンとの婚約祝が催されていたためだ。侯爵家に集った人々は、飽くことなくクリマ酒のグラスを主役二人に捧げた。
金髪の妖精のようなファンニは、祝宴が日付をまたいでも疲れすら見せずに婚約者のサロモンにしなだれかかっていた。貴公子たちは美しい婚約者を得た公子を冷やかし、令嬢たちは侯爵令嬢の素晴らしい衣装や嫁入り道具となる家具類を褒めそやした。
「見とれるようなドレスばかりで羨ましいわ」
「あのチェストの繊細な彫刻の見事なこと」
「あれほど豪華な雪貂のケープ、初めて目にしました」
輝くような笑顔でファンニは彼女たちに答えた。
「お母様が何年も掛けて用意してくださったのよ」
令嬢たちはやっぱりと頷き合った。
「今は貴重な毛皮や木材ばかりですものね」
「あの銀シラカバのチェストはお母様も気に入っていたのをおねだりしたの」
いたずらっぽくファンニが打ち明けると、令嬢たちは華やかな笑い声をたてた。
少し離れた場所で集まる年長の夫人たちには別の見解があるようだった。
「お気づきになりまして? あの雪貂と銀シラカバ」
「ええ、どれもロイヴァス辺境領にしかない物ばかり」
「辺境伯のご令嬢だったトゥーリア様ならともかく、ロイヴァスに縁もゆかりもないはずの方がどうやって手に入れたのやら」
「それは……ねえ」
扇で語尾をぼかし、彼女たちは辛辣な視線を侯爵の後妻とその連れ子に向けた。没落した男爵家出身のレータ夫人は侯爵とは長い間愛人関係だった女性で、ファンニはその間に作った婚外子だったことは周知の事実だ。
「前の侯爵夫人トゥーリア様のご令嬢は姿を見ませんけど」
「母親を亡くしてから気の病で外に出られないとか」
「私は病気で顔に醜い痕ができて伏せっていると聞きました」
「どちらにしろ、表に出す気はないようね」
彼女たちはある人物を見やった。そこには今夜の主役の片割れ、カルヴォネン公子の母親がいた。優雅な公爵夫人スイーリスは二人の娘と共に他の来客と談笑している。
夫人たちは不思議そうにその光景を眺めた。
「良識のある方ですのに、この婚約に異議を唱えなかったのは意外でしたわ」
「元々は異母姉の令嬢の方との婚約だったはずなのに」
メリルオトの先代侯爵が死ぬのを待ちかねたように現侯爵はレータと再婚しファンニを正式な侯爵令嬢とした。その上でカルヴォネン公爵家との婚約相手を妹にすげ替えたことは、ソルノクート王国の社交界で大きな話題となった。多くはあからさますぎると批判的だったが、旧世代への反抗だと持ち上げる若者もいた。
先代同士が懇意な間柄だったロイヴァス辺境伯は沈黙を貫き、メリルオト侯爵家に一切干渉しなかった。先代侯爵より先に辺境伯の一人娘トゥーリアは娘を残して病死しており、その時点で侯爵家との縁は終わったと判断したのだろうと人々は囁き合った。
そしてこの宴が示すように、今のメリルオト侯爵家を支配するのは現侯爵ウリヤスと後妻レータ、その連れ子(実子)ファンニだ。三人への追従者は列をなす勢いだった。
カルヴォネン公子サロモンの友人である若い貴公子たちは酒が回り、いささか下品な会話を笑いながら交わしていた。
「ファンニ嬢の祝いの席だってのに、どうして姉は顔を出さないんだ?」
一人が侯爵家の長女について言及した。サロモンは面倒くさそうに言った。
「ずっと母親と暮らしていた離れに閉じこもっているそうだ。たまに夜になるとふらふらと庭園をさまよい歩くので侯爵家では『亡霊』と呼ばれていると聞いたな」
婚約者の胸にもたれかかりながらファンニがくすくすと笑った。
「可哀想に、お母様もお祖父様も亡くなって居場所が無いものだから、いつも離れの家具を必死で手入れしているのよ。ガラクタしかないのに」
その言葉を耳にしたレータは愉快そうに目を細めた。継娘にとって最後の砦だった先代侯爵の病没と同時にこの家に入り、先妻の残した豪華な家具や衣装、貴金属類を長年自分たちを虐げてきた賠償だと取り上げた日を思い出したようだった。
婚約者二人の周囲の青年たちがどっと笑った。
「何だよ、それ」
「侯爵令嬢が夜中に何の用でふらついてるって?」
「決まってるだろ、男漁りさ」
一人が言うと、下卑た笑い声が続いた。そして、酒の勢いで一人が立ち上がった。
「そんなに寂しいならご挨拶してやろうぜ、亡霊お嬢様に」
「ファンニ嬢の姉君だ、ご尊顔くらい拝まないと」
「よし、行くぞ!」
友人たちに向けて、サロモンは呆れた声を出した。
「おいおい、ほどほどにしておけよ」
一応止める素振りをするものの、面白がっていることは明らかな顔だった。彼に縋り付くファンニもけらけらと笑うばかりだ。
「お姉様、きっと驚くわよ」
彼らの騒ぎをレータは聞かなかった振りをした。現侯爵夫人は小さく呟いた。
「いっそ、あの不埒者どもに傷物にでもされればいいわ」
毒を含んだ声は祝宴の賑わいの中に消えていった。
華やかな祝いの席の舞台裏では、侯爵家の使用人が休む暇も無く駆け回っていた。
「ほら、追加のクリマ酒だ! こっちは発泡酒、間違えるなよ!」
「焼き菓子はどこ? 奥様の機嫌が悪くなるから早く!」
「西翼の客用寝室の準備はできてるの? 追加の泊まり客がいるのよ」
最も忙しい台所は戦場のようだった。料理人たちが怒鳴り合いながら働く中をリスのようにすり抜けながら駆けずり回る小さな姿があった。台所女中の一人が目ざとく見つけ、大声で叱りつける。
「キジー! どこ行ってたのさ、この役立たず!」
「あ、客間に花瓶を届けろって言われて……」
「それよりあんた、離れに食事持ってけって言ったはずだよ!」
キジーと呼ばれた少女はびくりとしてテーブルに置かれたトレーを見た。布が掛けられたそれは、侯爵家の一員に給仕されるはずの物だった。台所女中はキジーの細い腕をねじ上げて怒鳴った。
「さっさと行きな! 『亡霊』でも一応お嬢様なんだから、食事もさせないなんて噂がたったら承知しないよ!」
乱暴に突き飛ばされ、キジーはとにかくトレーを掴んで台所を飛び出した。飲まず食わずで働きづめのところに大声で叱責されて頭がぼーっとする。それでも少女は離れへと歩き出した。
「お客様の食べ残し、ありつけるかな……」
運ぶだけだったご馳走を思うと腹が鳴りそうだ。空腹を堪えながらキジーは歩き続けた。
離れは庭園を挟んで本邸の反対側にあった。簡素だがそれなりの建物のはずなのに、何とも陰惨な印象が拭えない。病弱だった前侯爵夫人がここで無くなったからだろうかとキジーは身震いした。黒ずんだもつれ毛を覆う頭巾を直し、離れの前に立つ。
建物は人が住んでいると思えないほど暗く、わずかに一室だけ照明がついていた。キジーは呼び鈴を鳴らした。三度鳴らしても答えがなければ玄関横の小窓の中に入れておく。それが先輩たちに教えられた離れの規則だ。だが、二度目を鳴らす前に開錠する音がした。続いて扉が細く開けられる。
予想しなかった展開に、キジーは焦った。侯爵令嬢に呼びかけよえうとしても、使用人たちは『亡霊』としかよばなかったため名前が浮かんでこない。
一言も話せないでいると、扉の内側から細い声がした。
「見ない顔ね」
「…あ、台所の下働きです。今夜はお客様が多くて……」
「ああ、ファンニの婚約祝いだったわね」
離れの住人はあっさりと納得した。気が抜ける思いで突っ立っていたキジーは目的を思い出した。
「あの、お食事です。遅くなってすみま…、申し訳ありません」
「……そう。忘れていたわ」
お嬢様はお腹がすかないのだろうかとキジーは瞬きした。同時に彼女が『亡霊』と呼ばれていることを思い出しまった。疲れた思考で目の前の令嬢が人ならざる者のように思えてしまい、少女は逃げたくなってしまった。
「入りなさい」
実行に移す前に扉が開けられ、離れの住人は使用人を招き入れた。おずおずとキジーは噂の離れに初めて足を踏み入れたのだった。